シーソー・ゲーム 6

「皆が仕事をしてる時間に……するのって、いい気分ですね」
 ジムから帰ってきた高岡を寝室に引き摺り込んでベッドに押し倒し、シャツのボタンを外しているときだった。
「会社では?」
 同僚の一人や二人、誑し込んだことくらいある筈だ。高岡は気まずげに微笑んだ。
「ずっと昔に一人だけ」
「へぇ。いつ?」
「新卒で入った会社で……残業続きだったんです」
 一人で懲りたのは相手が高岡に入れ込んだせいか、それとも逆か。どちらにしろ相手が哀れだと思った。勿論、本心からではなかったが。
 シャワーで汗を洗い流して間もない肌は清潔だが、その下の熱はまだ醒めていない。露わにした胸に舌を這わせ乳首に噛み付くと、高岡は震える吐息を漏らし、その体は軽く波打つように動いた。痛めつけられるのが大好きなこの男の体は痛みを快楽に変換する術を身に着けていて、それを相手の興奮を煽る形で見せるのが得意だった。
 瀬川はしっとりと汗ばみ始めた肌を辿って腹筋に触れた。十数分前まで高岡自身によって痛めつけられていたに違いないそこは微かに震えて敏感に反応を示したが、瀬川が痛めつけたいのはそれよりもずっと奥深くにある湿った場所だった。
「…………」
 高岡は己を見つめる瀬川の目を、次に自身の腹を見て口を軽く開き、発情した目でもう一度瀬川を見て瀬川の手に自身の手を重ねようとした。そうする寸前に瀬川は高岡の手首を掴み、ベルトに導いた。
「自分で出来るだろ?」
 高岡がベルトを外すと瀬川はボトムを下着ごと太腿の中ばまでずり下げ、高岡を俯せに転がした。ローションをだらりと過剰に垂らし、ぬらぬらと光る尻の間に指を差し込む。わざと下品な音がするように指を動かして中にローションを塗り込みながら、瀬川は自身のペニスを取り出して挿入しやすいように扱き、コンドームを嵌めた。
「……こんなに毎日……、セックスしてたら」
「してたら?」
「大和さんの形に、なりそう……」
 瀬川は鼻で笑い、高岡が暗に人並み以上だと言うそれを高岡の中に差し込んだ。
「これぐらいで俺の形になってたら今頃垂れ流しじゃねーの、お前」
 両手首を掴んでベッドに押し付け、自由を奪った上で腰を使い始めた。高岡の家に上がり込んで数日、他にやることも無く猿のように交わっているが、太腿で止まった服で強制的に足が閉じているせいか中は普段よりも狭く感じた。きつく締め上げられるのは悪くない感覚で、呻き声から判断するに高岡の方もこの体勢でより強い快感を得ているようだった。
 瀬川は高岡の手首に体重を掛けながら強く握り締め、乾いていた高岡の髪と脱げかけのシャツが汗で湿り気を帯びるまで腰を動かし続ける。被虐趣味の男は殆ど強姦のような恰好で抱かれるのが良いのか瀬川が射精するまでに二度達し、瀬川が高岡の中で精液を吐き出す頃には口から漏れた唾液でシーツをべとべとに濡らしていた。
「う、あ……」
 びくびくと震える体からペニスを抜き取り、コンドームを始末して適当にその辺りを拭いた。煙草に火を点けたところで高岡はゆっくりと体を起こし、濡れたままの自身の股間を清め始めた。
「さっきの……誇張じゃないですよ」
 高岡は後始末が終わると下着一枚だけ上げてボトムを脱ぎ捨て、胡坐をかいて座る瀬川の隣に横向きで寝転んだ。
「大和さんが入ってないときでも、入れられた感触が残ってる」
 余韻にでも浸っているのか、高岡は目を閉じて独り言のように呟いた。
 だが瀬川の頭は醒めていて、射精の前なら幾らか興奮を煽られたような言葉にも、ただ何度同じ言葉を違う男の前で口にしたのかと思うだけだった。
「大和さん」
「ああ?」
「今日、僕がジムに行ってる間に外出しました?」
「……したけど? お前まさか、俺の事監視してんじゃねーだろうな」
「閉めるとき髪の毛を一本挟んで、僕が出ている間にドアが開いてないかだけ分かるようにしてたんです。侵入者がいないかどうか分かるように。今日は髪の毛が落ちてたので、中に入るときちょっと緊張しましたよ」
「ドラマの観過ぎだろ」
「そうかもしれません。……どこに行ってたんですか?」
「なに。お前に報告する義務とかあるわけ?」
「いえ。ただ聞いてみただけですから」
 昨夜、高岡が風呂に入っている間に充電器を借り、ほんの数分だけ携帯の電源を入れた。履歴に記録されていた何十件かの着信の中に甥の番号があった。それで今日、気紛れに会うことにしたのだ。
 普段は絶対に選ばないデザインのコートを高岡のコート掛けから拝借して身に纏い、髪をわざと乱しマスクまでして、マンションからタクシーで十分ほどの場所にあるカフェに足を運んだ。だが待ち合わせ場所に甥は現れなかった。カフェの店員は瀬川に名前を尋ね、瀬川が渋々答えると預かり物だと言って紙袋を渡してきた。その中には何年も前、気紛れに甥に買い与えた腕時計とゲーム機が入っていた。腕時計は文字盤を覆うガラス部分が完全に外れていた上に針は完全に止まった状態で、ゲーム機の方は液晶が酷く損傷しボタンが一つ欠けていた。そしてその二つのガラクタの下には封筒があった。中に入っていたのは十万円と『利子』とだけ書かれた紙きれが一枚。
 紙袋とテイクアウトしたコーヒーを持って店を出たとき、瀬川は車道を挟んだ向こうの歩道に甥が立っているのに気付いた。その視線はまっすぐ瀬川の方を向いていた。
『さよなら』
 声は聞こえなかった。だが、そう言ったのは分かった。呼び止める暇も無く甥は近くに停まっていたタクシーに乗り込み、どこかに消えて行った。
 瀬川はガラクタとコーヒーを近くのアパートの前に出されていたごみ袋の中に押し込み、マンションに帰った。それから酒を浴びる程飲んで甥を頭から追い出し――自らの行く末について考えた。
「――月末」
「え?」
「月末に出国する」
 体を軽く丸め、静かに目を閉じていた高岡はぱちりと目を開き、瀬川を見上げた。その目には困惑の色が浮かんでいた。
 無理もない。ほとぼりが冷めるまでこの部屋で待ち、半年後に二人で出国することに決めたのは瀬川自身で、高岡にはこの家に戻ったその日に詳細な計画を話していたのだから。
「……年末の出国ラッシュに紛れて、ですか?」
「半年も遅らせるとお前の方に支障が出るだろ?」
 高岡が話していた有給というのは退職時の有給消化のことで、年内にはシンガポールに居住を移す予定だったらしい。それが半年も遅れてしまえば既に決まっているらしい仕事の方に影響が出ないとは言えないだろう。
「でも……僕と大和さんの繋がりに、誰が気付くんですか?」
 高岡は瀬川の意図を正確に読み取って答えた。そう、確かに瀬川は高岡を気遣ったわけではなく、高岡の不審な動きと自身を結び付けられたときのことを憂慮していたのだ。
「誰かは気付くだろ。俺をつけ回してた奴のせいで」
「……そんなに大っぴらにはしてないですよ。ずっと雇っていたわけでもないし……僕だって、探っていることを相手に気付かれないようにしてましたから」
「どうだか。お前が気付かれてないと思ってるだけだったら、一体どうやって責任取ってくれるわけ?」
「…………」
 高岡はふっと瀬川から目を逸らし、「飲み物を取っておきます」とだけ言って寝室を出て行った。
 瀬川は舌打ちをし、二本目の煙草に火を点けた。
 この家から出なければならない理由はもう一つあった――この家に閉じ籠っていると息が詰まるのだ。高岡と暮らすことは表面的には快適で文句のつけようもなかったが、ほんの数日まともに外出せずに居ただけで牢獄に閉じ込められているような気がしてきた。それは遥か昔、父親の手によって放り込まれた山奥の矯正施設を思い出させる感覚だった。例えようのない閉塞感、他人によって自らの権利を不当に侵害されているという屈辱と怒り、そしてその感覚や感情が徐々に麻痺していくような繰り返しの動作。高岡が瀬川に繰り返し抱かれて自身の体が変えられていく感覚を味わうように、瀬川も高岡を繰り返し抱きながら自身が何かに――あの不快な脅迫者たちと高岡に、じわじわと変えられていく感覚に襲われていた。
 ここに留まっていなければ得られた筈の金や女や機会、別の場所で別の事をして過ごしていたかもしれない時間のことを瀬川は考える。それは穴が開いた袋のように己の中から少しずつ零れ落ち、やがて自分は全てを失って、骨と皮ばかりの痩せた犬のように虚しく辺りを彷徨う羽目になるのだと思う。
 だからこの家を、日本を一刻も早く脱出しなければならないのだ。
「――ワイン。飲みますか?」
 寝室のドアが開いて、高岡が中に入ってくる。
「飲まないって分かってんなら聞く意味ないだろ」
 高岡は数分前の会話を忘れたような顔で笑い、瀬川によく冷えた缶ビールを差し出した。反対の手には赤ワインのボトルとグラスが一つ。
「貰い物なんです。赤はあまり好みじゃなくてずっと置いてたんですが……」
「飲まなきゃいい」
「でも、年内に出るなら早めに片付けておかないと」
 高岡はナイトテーブルの横、クローゼット前の空間に置かれた椅子に腰掛けながら言った。
 どうやら説得を試みるのは早々に諦め瀬川の意見に合わせることにしたらしい。高岡が反対しようがしまいがどのみち実行に移す予定だったのだが。
「移動手段のことなんですが」
 瀬川はビールを呷った後、缶を持つ手を軽く振って続きを促した。
「時期を早めるならいきなり空路で行くより、足取りを追い難くする為に一旦車で移動した方が良いと思うんです」
「どこに?」
「下関に。下関から韓国行きのフェリーが出てるんです。韓国から飛行機に乗って、シンガポールに行くまでにいくつかの空港を経由する、っていうのはどうですか?」
「さぁ。いいんじゃねーの」
「シンガポールに着いてからのことは……」
「それは変える必要ないだろ」
 高岡は別れた妻の親戚――その中で今も親交を持っている内の一人に、現地でいくつか会社を経営している男がいるのだと話していた。そしてビザや当面の生活についてはその男が面倒を見てくれる筈だと。
「でも大和さんは……本当は、僕とずっと一緒にいるつもりなんてないんでしょう?」
 瀬川はビールを飲みながら横目で高岡を見遣った。高岡はワインの瓶を軽く持ち上げ、ラベルの文字を読んでいる。グラスはまだ空だ。
「いつ俺がそんなこと言った?」
「気が済むまで利用して、邪魔になったら捨てる。貴方がいつもやってきたことを考えたら、当然そうなるんじゃないかと思って……でも、別にそれでもいいんです。見返りが欲しいわけじゃないし、僕も同じだから」
「同じ?」
「関係を長続きさせられない人種ってことですよ」
 瀬川は鼻を鳴らし、ビールを呷る。
「もし僕達があの時……あのまま付き合い続けていたら、どうなってたんでしょうね? いつまで続いたと思います?」
「俺が十六で矯正所に入れられてる間に、お前が別の相手を見つけて終わりだろ」
「一年くらい待てますよ」
「お前が?」
「結婚だってそれくらいは続きましたよ。それに……大和さんはあの時僕以外にも関係してた人がいたでしょう。浮気なんかしたら、僕なんか真っ先に捨てられるって分かってましたから」
「は? お前の他に? 誰のこと言ってんの?」
「養護教諭の先生に、クラスの女子に……」
 それも調べたのか、という顔をしているのが雰囲気で分かったらしく、高岡はワインをグラスに注ぎながら苦笑した。
「兄から聞いた話ですよ」
「の割に『浮気しないで』の一言も聞かなかったけど?」
「そんなこと言う権利、僕にあったんですか?」
「さぁ。あったんじゃねーの」
 そう答えてビールを飲む。喉が渇いていたせいかその一口で缶は空になってしまった。片手で潰し、ナイトテーブルの灰皿の横に乱暴に投げる。高岡は揺れ動く缶をじっと見つめていた。
「……僕の事、少しは好きでした?」
 短くなってきた煙草を口元に運びながら、瀬川は別れた妻たちのことを思い出していた。彼女達は示し合わせでもしたように今と同じ響きの言葉を口にした。瀬川はいつも答えない――そうだったことはあるのかもしれないし、あるいは一度も無かったのかもしれないからだ。瀬川自身にも分からなかった。
 沈黙を否定と受け取ったのか、高岡は血のように赤いワインを見つめながら静かに呟いた。
「貴方がこの世に存在しなかったら、僕はきっと今とは全く違う人間になっていたんでしょうね」
 瀬川は煙草を口に運ぼうとしていた手を宙に止めた。
 その言葉は、それまでたった一人の人間のものだった。あの時――初めて彼女が瀬川を床に引き込んだその日、事が済んだ後に彼女はそう言ったのだ。そして高岡が浮かべたその表情は彼女が瀬川に向けたそれと全く同一の――怒りでも、憎悪でも、悲しみでもない何かだった。
「……似たようなことを言ってた女がいたよ。表情も今のお前と全く同じで、心底癪に障った」
「僕の知ってる人ですか?」
「知ってるだろうな、お前なら」
「大和さんが想像しているよりは知らないと思いますよ」
「どの口が」
「最初に結婚した女性ですか?」
「違う。どうあがいても俺とは結婚なんか出来ない女」
 煙草を灰皿の上で押し潰した。新しい煙草に火を点けながら、何故姉はあんなことを言ったのだろうと思う。あんな暴力的な言葉を彼女が口にしたのは後にも先もあれきりだった。彼女は何を伝えたかったのだろう――瀬川は彼女に応えてはいけなかったのだろうか? あるいは、あの忌まわしい父親から、彼女や瀬川を蝕んでいたあの家から、彼女を守るべきだったということだろうか?
「俺がこの世にいなかったら、なんて残酷な言い方してくれるよな。どうせお前も俺のせいだって言いたいんだろ?」
 そんなつもりはないのだと弁解する様を見せるかと思ったが、高岡は何も答えなかった。沈黙は瀬川を更に苛立たせた。
「だけどあいつもお前も、俺がいなくても遅かれ早かれ自分の本性に気付いただろうよ」
「本性?」
 瀬川は己の中に酷く残酷な衝動が起こるのを感じた。それと殆ど同時に口元が歪み、笑みの形に変わって、気付けばその言葉を口にしていた。
「――救いようのない淫乱」
 あからさまな侮辱、性的な文脈にない侮蔑的な言葉を掛けられても、高岡は毛ほども感情の動きを見せなかった。落ち着き払った様子でグラスの残りを飲み干し、椅子から降りて、グラスをナイトテーブルに置く。
 近付いてくる高岡が一体何をするつもりでいるのか、瀬川は警戒心を抱きつつ期待もしていた。殴り掛かってくるのならそれでもいい――この手で徹底的に叩き潰して、二度とそんな気を起こさないように躾けるだけのことだ。それに一度奪われたあのナイフは今マットレスの下で、例え高岡がそれを奪っていたとしても、僅かでも躊躇う素振りを見せれば一瞬で取り返す自信が瀬川にはあった。暴力を振るうことに慣れているのは一体どちらなのか、考えるまでもないことなのだから。
 高岡はルームウェアのズボンを軽く履いただけの瀬川の足を跨ぎ、膝立ちで瀬川を見下ろした。瀬川の頬に触れた手が伸びかけの髭を撫でずとも、物欲しげに小さく開いた口を見れば高岡が何を求めているのかは明らかだった。瀬川は警戒を緩め、近付いてくる高岡の唇を受け入れ、主導権を握る為に高岡の中へと舌を差し込んだ。
 口付けながら高岡の腰を引き寄せようとして伸ばした左手を、高岡が捕まえた。動きを遮られたことにやや不快感を覚えて唇を離したが、高岡は怒りの滲んだ視線を向けられることすら快感だとでもいうように体を近付け、瀬川の手を開いたシャツの間、引き締まった腹筋の上に乗せた。そしてその手をゆっくりと胸まで持ち上げ、早く撫でてくれとねだるような目で瀬川を見つめる。
 橙色の照明の中、瀬川に向けられたその眼差しはまさに救いようのない淫乱のそれだった。
 瀬川は確信した。今ここで自分こそが、目の前にいるこの淫乱を、立つことも声を発することも出来ない程に痛めつける権利と、それを行使するだけの力の両方を持つ唯一人の存在なのだと。
「……貴方と」
 首に、肩に噛み付きながら、胸に導かれた手で肌を撫でて乳首に爪を立てる。
「同じことを、僕に言った人がいました。その人は貴方と違って……、僕の事を愛していた」
 肩には血が滲むまで歯を立てた。流れ出したその血を舌でぬるりと舐め取れば、高岡は耐えきれなくなったように呻き声を上げた。そそる声だ――瀬川は笑い声を上げ、高岡の体からシャツを剥ぎ取った。
「けどお前の方は違ったんだろ」
「……彼のことは、好きでしたよ。……だからずっと距離を、置いていました。そうした方がいいと……思ったから」
「ああ、そりゃよかったな」
 他の男の話で嫉妬でも誘っているつもりなのだろうか? 自分は賢いと思い込んでいる頭の足りない女のような真似をしても、やっと乗ってきた気分に水を差すだけだ。
 声で、目で今すぐに黙れと伝えたつもりだったが、高岡は従わなかった。
「僕はいつもそうするんです……セックスをしていた相手と別れたら、もう二度と会わない。だけど」
「おい充、いい加減に――」
 苛立ちが最高潮に達する寸前、瀬川の胸に強い衝撃が走った。
 一瞬息が止まる。一体何が起こったのか分からない――高岡の右手が胸から離れるのが見えた。信じ難い程の力で胸を押したのがその手だということに気付いたその瞬間、ごく至近距離から何かが破裂するような音が連続的に聞こえ、第一撃を遥かに超える強烈な痛みが腹部に走った。
「――――!」
 咆哮。
 瀬川は横向きに倒れて体を折り、悶えながら激痛が走る右脇腹に手をやった。刺された――瀬川はそう思い込んで患部を必死に押さえたが、実際には血は一滴も流れていなかった。
「仕方なかったんです。その人は貴方が怒らせた人と凄く親しかったんですよ……こんな偶然って、あるものなんですね」
 声は聞こえても何を言っているのか理解出来ない――痛み、混乱、何かが破裂するような音、そしてまた衝撃。ベッドの下に転がり落ちる。息が出来ない。太腿が麻痺している。息が出来ない。逃走への欲求、迫りくる死の影を予感させる痛み。だが何が起こっているのか分からない――
「ねぇ大和さん。貴方がこの世に存在しなくなったら、僕は今とは違う人間になれると思いますか?」
 四度目の衝撃は長く続いた。ナイフ、太い針、包丁、いや違う、正体すら分からない『何か』が触れた左腕から衝撃が流れ込む。それは炎のように燃え広がり、腕全体を舐め尽くしても飽き足らず、肩を越えた先にも足を伸ばし、その突き刺さるような痛みによって全身の動きを麻痺させる。
 『何か』が離れていく。瀬川は衝撃の余波の中で打ちのめされていた。意識が朦朧としている。呼吸の仕方が思い出せない。逃走を試みるどころか瞬きすら不可能だった。体が死んでいる。死んでいるのに痛みだけがある。引き裂かれて息絶えた体の中に魂だけが閉じ込められているような感覚。
「――ったので――ください。はい、まったく――――ません。―――ぜつ――――いようです」
 微かに声が聞こえる。すぐ傍で誰かが喋っている。
「――――は……ええ、あさいですがもどりました――いきてますよ」
 頭が働かない。どこからか焦げた臭いがする。頭が働かない。遠くから音が聞こえる。暫くして何かが視界に現れ、頭に何かが触れた。
「――さん。やまとさん。やまとさん――やまとさん。わかりますか? ぼくですよ。みつひでです」
 みつひで――充秀。充。
「大丈夫、頭を撫でただけですよ。こんなところに撃ったら死んじゃいますから」
 また音が聞こえた――玄関チャイムの音だ。高岡が視界から消えた。ドアが開く音。
 瀬川は起き上がろうとした。高岡が寝室を出て行ったこの隙を逃してはならない。何が起こり何が起ころうとしているのか殆ど理解出来てはいなかったが、今すぐに体を起こし、状況を打開する為に素早く行動を起こさなければならないと分かっていた。だが――体が動かなかった。起き上がるところか指を曲げる動作すら叶わない。カーペットが敷かれた床の上に下着一枚の姿で倒れたまま、辺りを見回すことも出来ずに自らの浅い呼吸音と心臓の音を聞いている。
 どこからか声が――話し声がする。足音もだ。誰かが近付いてくる。一人、二人……三人。
「この部屋です。ベッドの向こうに。ああ、台車は中に上げても大丈夫ですから」
「他の荷物は」
「クローゼットの中に」
「あんたは邪魔だから離れといてくれ」
「はい」
「おい、お前は段ボール組み立てろ」
「あの、失禁してるみたいなんですが」
「ああ……何か体を包めるようなものもらえるか。そこの毛布、いいだろ」
「はい」
「それにしてもあんた……、自分の男だってのに随分と手酷くやったな」
「自分の男って言えるほどの関係じゃないですよ」
「あの政治家先生が本命ってわけじゃあないんだろ」
「聞いてどうするんです?」
「ただの世間話さ。あんたに興味があるってわけでもないし」
「それは残念」
「おら、持ち上げるぞ。お前はそっち側だ。いち、にの、さん」
 瀬川は手足を縛られた上で首から下を毛布にくるまれ、口をガムテープで塞がれて、台車の上に置かれた段ボールの中に押し込まれた。百八十センチを超える身長の瀬川を抱え上げたのは例の中年男――木村と、二十代半ばと思しき筋骨隆々とした体躯を持つ無口な青年だった。二人は揃いの作業着姿で、白の軍手と『引っ越しのキムラ』と小さく書かれた帽子を身に着けていた。
 木村はふう、と息を吐き、瀬川の方に屈み込んで頬を軽く叩いた。
「おい、瀬川さん。聞こえてるか? 今日の正午が期日だったって覚えてるな? 残念だけどあんたは約束を破った。だからまぁ……それなりの代償は払ってもらう。仕方ないよな。こっちもやりたきゃないが仕事だからな。で、これから下まで行くが、喋るのも物音を立てるのもやめといてくれ。分かるな? こっちはあんたがもっとしんどい思いをする方法で黙らせてもいいんだ」
 そう言って段ボールの上部を閉じようとした木村の手に、高岡の手が触れた。
「何だ。今更止める気じゃないだろうな」
「いえ。最後に一言、お別れを言いたくて」
 木村はやや考えるような顔をした後、身を引いてクローゼットの方に歩いて行った。
「大和さん」
 高岡は少し屈み込んで瀬川を見下ろした。段ボールの中で窮屈そうに体を丸めた瀬川の体を眺め、それから頬に触れてじっと瀬川の目を見つめた。
「さよなら」
 段ボールが閉じる。ガムテープが貼られる音。横に小さく開いた楕円形の穴から光が漏れ入るだけの暗く窮屈な箱の中で、瀬川は浅い呼吸を繰り返す。
『さよなら』
 甥が口にしたのと同じ、短い言葉。
 その言葉の意味するものが単なる別れではないことを、朦朧とした意識の中でも瀬川は本能的に感じ取った。甥がその言葉と共に瀬川との繋がりを完全に断ち切ろうとしたように――高岡はその一言で瀬川を向こう岸に突き放し、死地へと送り出したのだ。
 だが瀬川の思考を支配していたのは、裏切りに対する怒りや、自分を陥れた人間達への憎悪、選択を間違いこの事態を招いてしまったことへの後悔でもなく――このとてつもない息苦しさと痛みから逃れたいという欲求、ただそれだけだった。
「その段ボールを上に重ねて。そう。で、俺がこっちを持って歩くから、お前は台車を押してけ」
 瀬川が入った段ボールの上に重石のように何かが重ねられ、台車に付いた車輪が動き出した。
「じゃあ、この後は予定通りとして、終わったらあんたの携帯に連絡入れるってことでいいな」
「はい。どれくらいで終わりそうですか?」
「移動含めて……そうさな、四時間は掛かるだろうな」
「そうですか……写真、女性に渡す為に何枚か撮られるんですよね? 良ければ僕も何枚か頂きたいんですか」
「動画は?」
「いえ、写真だけで」
「分かったよ。じゃあまた後で」
「はい。お願いします」
 カタン。後ろの方でドアが閉まった。瀬川は二人の男に運ばれて、死地へと向かおうとしている。
 段ボールの中は狭苦しく空気が薄い。耐え難い程の息苦しさ――度重なる攻撃の後で弱った肺が、鼻から吸い込んで取り込むにはあまりに酸素が少な過ぎた。
 途切れ途切れの意識の中で、遥か彼方に消え去った筈の記憶が走馬灯のように駆け巡る。死ぬまで一度も笑ったところを見せなかった母の横顔――父の美しい愛人――彼女が生んだ瀬川より年上の娘――類いまれな美貌――屋敷の池――手が濡れる感触――呼吸が出来ずに喘ぐ一匹の鯉――手の中で暴れる命の感触――怒号、痛み、顔がそして体が冷たい水に濡れる感触、瀬川を水の中に沈めようとする男の腕、息苦しさ――ブラックアウト。揺り動かされて目覚めた瞬間目に入った姉の泣き出しそうな顔。弟を助けたのは彼女だった。彼女は腹違いの弟を、母を助ける為になら何でもやる子どもだった。そう、何でも。
 だが、彼女はもはや瀬川を救い出す為に池の中へと飛び込みはしない。池の中に沈もうとする弟をじっと所在なさげにただ見つめているだけだ。彼女は死んだのだ。虚ろな肉体だけを残して心はとっくに死んでしまっていた。

 そしてきっと、瀬川の為になら何でも差し出したあの少年の心にあった何か大事なものも、きっと遥か昔にこの手で殺してしまっていたのだ。
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