シーソー・ゲーム Epilogue

 高岡は書籍を詰めた段ボールにガムテープを貼り、床に座り込んで息を吐いた。暖房を切ったせいで室内温度は下がる一方だったが、朝から通しで動いている体は、Tシャツの上にパーカーを軽く着ただけの姿でも薄らと汗ばんでいた。
 ペットボトルの水を飲みながら腕時計に目を落とす。午後一時を回ったところだ。もうすぐだろうか、と思ったところでインターホンが鳴った。
『××リサイクルショップの者です。出張買い取りサービスでお伺い致しました』
 家具や電化製品の買い取りを依頼していた業者だった。エレベーターで高岡の部屋に上がってきたのは四十代半ばと思しき男性が一人に、三十代前半の女性が一人。二人は部屋に入って五分もしない内に査定を始めた。
 高岡はリビングの隅に置いたスーツケースの上に座り、タブレットで明日のフライトの時間を確認した後、シンガポール・チャンギ国際空港内施設の紹介記事を眺め始めた。何度か訪れたことはあったし、最低でも二年は過ごす予定の国ではしゃぐこともないだろうが、現地で世話をしてくれる別れた妻の叔父との待ち合わせが向こうの都合で一時間程ずれてしまったので、軽く時間を潰せるような場所に目星をつけておきたかった。
「寝室はどうされますか? お電話ではベッドの方も買い取りをご希望とのことでしたが」
 いくつか候補を決めたところで男性の方が声を掛けてきた。高岡は立ち上がって彼を寝室へと案内した。
「持って行ってもらえそうなものは全部お願いします」
「分かりました。ではこちらも査定させていただきます」
 男が中に入っていくのを高岡は入口の方に立って眺めていた。この部屋に高岡以外の男が足を踏み入れるのはこれで七人目だ。そのうち六人は業者で――残る一人だけがベッドの上で裸になった。
 その男がここで最後に火を点けたのは五日も前の話だったが、息を吸い込むとまだ煙草の臭いが鼻を掠めるような気がした。重い煙草を一日に二箱も吸うヘビースモーカーだったことを考慮すれば、あながち気のせいというわけでもないのかもしれない。
 だが、治安が良い地域に建ち徒歩圏内に駅があるこのマンションの部屋なら、きっとそう時間が経たない内に隅々まで清掃され、ここで起こったことを何も知らない新しい住人の色に染まっていく筈だ。
 そして高岡はこの部屋を出て遠く異国へと飛び立ち、新しい土地の空気を胸いっぱいに吸い、新しい生活を始め、いつか新しい恋をする。とうに色褪せてしまった想い出の為に、吸いもしない煙草に火を点けることはもはや有り得ないだろう。
「高岡様」
「はい」
「査定が終了致しましたので――」
 二人から提示された買い取り金額を交渉もせずに受け入れると、すぐに運び出しが始まった。近くで待機していたらしい増援を加えた三人の作業員が手際よく商品を運び出したので、高岡の部屋は一時間もしない内に殆ど片付いてしまった。
 三人が去った後にやってきた宅配業者にいくつかの段ボールを渡し、簡単に掃除を済ませてごみを出すと、あとは手荷物とスーツケース、それに高岡自身だけが残った。
「さよなら」
 別れの言葉は空っぽの部屋にぽつりと落ち、足元から静かに舞い上がって高岡の体を一撫でし、煙のようにふっと消えた。



 退去手続きを済ませた後、高岡はマンションを出てタクシーに乗り込んだ。そして最後の仕事を片付ける為、ある場所へと向かった。
 目的地の近くにタクシーを待たせ、高岡はこぢんまりとした建物の中に入った。入口ドアには訪問者を知らせる小さな鈴が取り付けられていたが出迎えは無く、高岡はオルゴールの落ち着いたBGMが流れる廊下を一人で歩いて行った。
 彼女の姿を見つけたのは突き当りにある比較的広めの展示スペース――この小さなギャラリーの最奥だった。きっと普段はそれなりの物が置かれているのであろう空の台座の前に、彼女は一人静かに立っていた。
「藤崎さん」
 声を掛けると、彼女はゆっくりと振り返った。
 彼女――瀬川のたった一人きりの異母姉は、はっとするほど整った顔立ちをしていた。高岡は異性に対して性的欲求を感じることはないが、このギャラリーに飾られた芸術作品に対して抱くものと似た魅力をいつも彼女から感じた。
 悲惨な人生が作り上げた物憂げで冷たい人形のような顔には、覗き込むだけの価値がある。
「……貴方がお電話をくださった方かしら」
「高岡です。お時間いただいてすみません」
「いいえ、どうせ滅多に人は来ないところだから」
 高岡は彼女の横に立ち、台座を見下ろした。
「昨日売れたばかりなの」
「気に入ってらしたんですか?」
「銀色の鳥たちの像だったの。綺麗だったわ」
 惜しんでいるというのにも喜んでいるというのにも、その顔は無感情過ぎるように見えた。羽ばたいていった鳥たちはきっとここに戻りたいとは思わないだろう。
 高岡は彼女の方に体を向けた。
「大和さんから僕について何か話はありましたか?」
 彼女は台座に向けていた視線を高岡の顔に移した。
「……『タカオカミツヒデ』さん、かしら」
「その名前の男と会ったことはないか、と?」
「ええ。少し前に、貴方のこと、知らないかって聞かれたの。でも、以前に伺ったお名前と違ったから……」
「妻の方の姓だったんです。今は高岡に戻りましたが」
 実のところ高岡が彼女に会いにきたのはこれで三度目だった。三度ともこの場所で、一度目は結婚前にふらりと訪れ美術品のことを少しの間話した。 二度目は離婚の直前、友人の誕生日を口実に一枚の絵を買い、その時に初めて名乗った。二人の間に瀬川の話題が出たのはこれが初めてだった。
「二人は……お知り合いだったのね」
「学生の頃に目を掛けていただいたんです。少しの間でしたが」
「そう……」
「大和さんから藤崎さんの方に、ここ何日かで連絡はありましたか?」
「いいえ」
「……あの人は大丈夫です。それだけ、お伝えしておきたくて」
 高岡を見つめる目は常から感情の動きが極端に少なく、高岡の体をすり抜けてどこか遠い場所を見ているようだった。高岡はその目を見つめ返し、彼女のその目は望むと望まざるとに拘らず、ある種の人間たちを強く惹きつけ欲望を喚起してしまうのだろうと思った。
「もう済んだの? それとも……」
「済みました」
「でも……多分、もう会えないのね」
「どうしてそんなことを?」
「私はどこにも行けないから」
 今ここに高岡がいるのは、瀬川にはそれが叶わなかったからだと彼女は知っていた。
 そして高岡は彼女の人生を知っていた。誰に何にされ、誰に何をし、どうやって生きてきたのか。
「どこにでも行けますよ。貴方が望むなら」
 少しの間沈黙が降りた。
「ずっと祈ってるのよ。皆がいつか真理に辿り着けますようにって」
「真理? 何の話ですか?」
「ずっと祈ってるの。でも……そこには一人でも行けるのかしら」
 彼女はまた台座に目を落とした。鳥たちが飛び立った後の虚ろな座を。
「行けますよ」
 そう答えると、彼女の口元が薄らと微笑みの形に変わったような気がした。だがそれは気のせいでなかったとしてもほんの刹那のことで、高岡が瞬きを一つした後には、美しく冷たい影を帯びた人形のような顔があるだけだった。



 タクシーに戻り、空港近くのビジネスホテルに移動しながら高岡は窓の外に目をやった。クリスマスを間近に控えて、店も人々もどこか浮ついて見える。高岡もつられて肩の力を抜いた。
 瀬川に別れを告げたとき高岡の胸を襲った罪悪感――やくざ紛いの人間たちに加担し、酷い目に遭わされるのだと承知の上で瀬川を送り出したことを、瀬川に、自分自身に、自分に好意を抱いてくれた全ての人間に申し訳なく思った気持ちは、鳥のように軽やかに飛び立って、今はもう跡形も無かった。
 それは高岡にとって幾らか珍しい心の動きだった。高岡は普段合理的に自身の思考や感情を処理するため、罪悪感にも早々に距離を置くが、出来る限り長い時間、邪魔にならない形で自分の中に留めておくことにしていた。だからこんなにも早く消えてしまうことはなかったのだ。
 これは変化だろうか? これまでとは『違う人間』になったのだろうか?
 高岡はこれまで、瀬川という男が象徴する何かに縛られていた。瀬川という男そのものにではなく、過ぎ去った遠い昔の想い出に囚われていたのだ。実際に持っている以上のものを持っているように見えた二つ上の少年、彼に声を掛けられるだけで幸せだった頃の自分、与えられたもの、奪われたもの、想像していた未来、引き裂かれた夢、そういったものを思い出すとき、高岡はいつも自分の中にあった重要な何かをそこに置き去りにして年を取ってしまったような感覚を覚えた。その感覚は意識していない間も高岡の中にあり、思考や感情、選択、態度、そして人生に少しずつ確かに影響を及ぼしていた。
 瀬川に別れを告げた時、高岡は同時に過去の想い出に別れを告げた。そしてもはや瀬川との想い出は高岡にとって特別な意味を持たない、ただの過去の出来事へと変わったのだ。
 それなのに――高岡は落胆していた。
 一連の出来事を計画していたとき、自分の人生観や存在そのものを揺さぶるような何かが起こるかもしれないと思ったことがあった。例えば瀬川に対して行う非道が自分の精神に儀式的に作用し、これまでの人生で知らずに背負ってきた重荷や足に絡みついた汚泥、その全てから解放され人格や世界の見え方まで一瞬にして変わるようなことが起こる、あるいは瀬川へかつて抱いていた情熱が蘇り、十代の時のそれのような感情の激流にのみ込まれることになるかもしれないと。
 実際に高岡の中で起こった変化は、想像よりもずっと地味で、それまでとは全く『違う人間』に造り替えられるようなものではなかった。高岡には積み上げてきた人生があり、それには想い出以上の重みがあったのだ。大きな変化を求めるなら、想い出から解放されたこれからの人生を、未来を少しずつ積み上げていくしかないのだろう。
 移り行く景色を眺めながら、高岡はこれからのことを考え始めた。



 日本最後の夜を過ごす予定のホテルに入り、部屋のドアを開けると、心地良く暖まった空気が高岡を迎えた。壁際に置いた荷物の上にコートを投げ捨て、ベッドに直行する。引っ越し作業で疲れた体を横たえ、少しの間目を閉じてごく短い睡眠を取った後、目を開けた。
「大和さん。ついさっき、お姉さんに挨拶してきましたよ」
 高岡は隣に身を横たえた瀬川の方に体を向けて言った。聞こえているのかいないのか、瀬川は口を開こうとはしなかった。
「昨日は他にも何人かに会ってきました。甥御さんとその彼氏にも。可愛らしい子たちでしたね」
 まだどこか幼い顔をした二人が、出会ったときの瀬川よりも年上だという事実に高岡は不思議な気持ちを抱いた。記憶の中の瀬川はもっと大人びていたからだ。冷たい目をした、いつもどこか不機嫌そうな少年は、高岡が知らないことを何でも知っていて、高岡が経験したことのない全てのことを経験してきたような顔をしていた。
「僕達があの子達みたいになれなかったのは……やっぱり、仕方のないことだったと思うんです。大和さんは僕を気に入ってはいたけど恋をしていたわけではなかったし、僕は貴方を理想化し過ぎていたんじゃないかって」
 それに、と高岡は呟いた。
「僕は被虐趣味のセックス中毒なだけじゃなくて、自らの欲望を満たす為に他人を操らずにはいられない人格破綻者なんです。だからきっと支配欲の強い大和さんとは遅かれ早かれ衝突していたでしょうね」
 高岡はそっと瀬川の頬に触れた。髭はもう何日も剃られていない。高岡の家にいたときはまだ格好を保てていたが、今はただの無精髭にしか見えなかった。他人の目に自分がどう映り、自分の容姿がどう周りに影響を及ぼすかなど、今の瀬川にはどうでもいいことなのだ。
「人の心の中に入り込んで、欲望や、恐怖心や、不安を操るのが、僕にとって自然なあり方なんです。表情で、言葉で、体で誘導して、自分の手の平の上で転がすのがどうしようもなく性にあってるんですよ。被害者の振りをして、奉仕者の顔をして、自分の思うように周りを動かすんです」
 高岡は少しだけ体を起こし、動かない瀬川の顔を見下ろした。
 どれだけ待ってみても瞼は開かなかった。高岡はあの冷たい、共感の欠片も見当たらない目を懐かしく思った。
「大和さんの力になりたい、って言ったのは本当ですよ。でも本当は僕自身の為に大和さんを利用したんです。自分が過去から解放される為に僕は貴方のことを……殺した」
 そう、殺したんです。
 高岡は口の中で繰り返し、それから微笑んで、シャワーを浴びる為にベッドを降りようとした。
「……勝手に殺すなよ」
 重く閉じていた瞼が気だるげに開き、やや充血気味の目が現れた。
「起きてたんですか?」
「気付いてただろ」
「ええ。お腹、空きました? パンを買ってきたんですよ」
 高岡は瀬川の返事を待たずにベッドを降り、持ってきた荷物の中から自宅マンション近くのベーカリーで購入したパンの袋を取り出して、また瀬川の元に戻った。
「何にします? ハンバーガーは二人分買ったんですけど、他はバラバラなんですよ。フランクフルトのパンに、塩パンに、クロワッサンに、エビグラタンのデニッシュに、焼きドーナツ……どれがいいですか?」
 瀬川がチェックインした昨日の夜から何も口にしていないことは、棚に置いていた食べ物が全く減っていないことから明らかだった。普通なら空腹を感じている頃だが、瀬川は何も答えなかった。
「食べないと。体力、落ちちゃいますよ。薬も飲まないといけないんですから」
 高岡は瀬川の体の下に手を入れて抱え、上体を起こした状態で壁に背を凭れさせた。それから包みを開いたハンバーガーを握らせ、自分もハンバーガーを持って瀬川の隣に座った。瀬川は高岡が食べ始めて数分経ってからようやくハンバーガーを口にし始めた。
 活力が欠けた病人のような顔の瀬川がゆっくりと食事をする姿を横目に見て、高岡はやはり自分は殺したのだ、と思った。この男が築き上げた成功者としての自己像、支配をする側の人間であるという幻想を。
「大和さんみたいなタイプの人は、ずっと誰かに証明し続けなければいけなかったんですよね。自分が強くて、タフで、有能で、賢くて、人を支配するのに相応しい能力を持っていて、その辺りの人間よりよっぽど価値のある人間なんだって。でもそういう自分のことを信頼しているわけじゃないし、愛しているわけでもないから、証明したところで信用の積み重ねにはならないんです。ただその瞬間瞬間の自尊心を補強するだけ。だから少しでも誰かが自分を脅かそうとしているのを感じると……いえ、それどころかちょっとした口答えをされただけでも、張りぼての自尊心を暴かれて自分の価値を否定されたように感じてしまうんです」
 高岡は食べかけのハンバーガーを持つ手を膝に置いて、一人話し続ける。
「今の大和さんは、全部崩された状態ですよね。折角上手く行ってた店を手放して、お金も取られて、僕に裏切られて、体もこんな風に打ちのめされて、日本から追い出されることになって。何にも考えられないし、怒る気力すら無くて、もう何もかもどうだっていいって思ってる。だけど」
 瀬川の手から食べかけのハンバーガーが落ちた。高岡は無言でそれを拾い、瀬川の手の中に戻した。
「体が癒える頃には、僕から支配権を取り戻す為にどんなことでもする気になってる筈ですよ。貴方はただ疲れて、感覚が麻痺しているだけで、心の底から絶望してるわけじゃない。僕に打ち負かされたまま、永遠に負け犬のままだなんて、大和さんが堪えられる筈ないですから。そうでしょう?」
 また瀬川の手からハンバーガーが落ちた。高岡は気を害した様子も無く、もう一度瀬川の手に戻そうとした。
「――――」
 高岡は天井を仰ぎ、急に圧し掛かってきた体の重さに、衝撃の大きさに思わず呻き声を上げた。
「充」
 瀬川は高岡の手首を押さえ付けながら顔を上げた。不穏な行動とは裏腹に、酷く疲れた、活力の欠けた目が高岡を見下ろした。
「お前……、お前、俺に何する気なんだよ」
 手首は全く痛まなかった。それもその筈だ。瀬川の両手の爪は、両足の爪と同じように、親指から数えて三本目までが根元から剥がされている。それなりの処置を施してあるので痛みはもう殆ど無いだろうが、まだ力は入らない筈だ。
 それに――高岡が電流を長時間流した左腕の方は、木村曰く、暫くは痺れたまま使い物にならない。
「支配して、導いてあげるんです。大和さんがこれ以上苦しまなくて済むように。今の僕にはそれが出来る。……怖いですか? でもきっと楽になれる。大丈夫ですよ。大和さんが他の皆にやってきたような無責任で暴力的なやり方は好きじゃないですから」
「だけどお前が、お前が俺を……」
「本当は一億を用意しようがしまいが大和さんは殺される筈だったんですよ。それを後遺症も残らないくらいで済ませてくれて、日本を出るだけで許してくれたのは、僕があの人にお願いしたから――」
「違う。全部お前が仕組んだんだろ。お前が……お前が俺を痛めつけるように頼んだんだ」
 瀬川は高岡の言葉を遮って言った。どうやら信じるつもりはないようだった。
「……だったらどうだって言うんです? 僕はもう貴方の可愛い『充』じゃない。貴方の機嫌を損ねない為に弁解する必要なんか無い」
 その瞬間――高岡は、見上げた瞳の中に炎を見た。瀬川の瞳の中に鈍く冷たい色の光が炎のように燃え上がるのが見えた。それは怒りと憎悪が引き起こした強い衝動、殺意の発露だった。
「ねぇ、大和さん」
 高岡の体は俄かに熱を帯び、その声は甘く誘うような響きを持ったものに変わり始めていた。
「僕の名前を呼んでください、充秀って」
「……充秀」
 既に瀬川の瞳からは殺意の火は消えてしまっていた。だがそれは瀬川の中から決して費えることはなく、いつもその魂の奥でひっそりと燃え続けているのだ。いつか人を、瀬川自身をも燃やし尽くそうと企み息を潜めて。
 自分は本当に制御しきれるのだろうか、この男を? あるいはいつか燃え上がったその炎に呑まれて燃やし尽くされてしまうのだろうか? 高岡は瀬川の目を見つめながら自らに問い掛け――そしてふいに、自らの胸の強い高鳴りに気付いた。天啓にも似た予感が体を突き抜ける――自分はもしかしたら、もう一度この男に恋をするのかもしれない。
 だがかつての自分がそうだったように、この破滅的な力を持った獣に身も心も支配され、燃やし尽くされたいと願うようになるのか、あるいはこれから自分が瀬川を導く先にある、この激情を飼い慣らし誰を傷付けることもない、完全に調和の取れた人格と精神に惹かれ愛するようになるのかは――まだ分からなかった。
「大和さん。僕達は今一つのシーソーに乗ってるんです。今は僕が乗っている方が少し上がっていて、大和さんの方は少し下がってる。でも……そこで固定されてるわけじゃないんですよ。分かりますか?」
 高岡は囁くように言いながら瀬川の首の後ろに手を回した。そしてゆっくりと瀬川を引き寄せていく。
「だから弾みをつけて跳ね上がれば、大和さんが僕をまた支配することも出来るんです。僕を大和さんの力で屈服させて、奴隷にすることが出来るんですよ。そうしたいでしょう?」
 吐息が触れ合う距離。微かに唇が触れる。瀬川は暫くのあいだ虚ろで無気力な目を見下ろした顔に向けるだけだったが、やがてその瞳に鈍い光を灯し、獣のように高岡を貪り始めた。
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