シーソー・ゲーム 4

 高岡の口からは肯定の言葉も否定の言葉も聞くことは出来なかった。もはや首を横に振ることすら出来ないのか、焦点の合わない目を瀬川の方に向けるだけだ。
 じっとりと汗で濡れて重い体が急に鬱陶しくなり、瀬川は高岡をソファに横たえて寝室に戻った。火を点けた煙草を持ってニコチンを補充しながらリビングに帰ってくると、高岡はソファの近くの床に倒れて嘔吐しているところだった。腕一本先にあるごみ箱まで持たなかったらしい。胃液とウィスキーとアイスクリームの混合物が高岡の口から垂れてフローリングに水溜りを作っていく。
「汚ねーなぁ」
 これが自宅なら半殺しにしているところだ。
 嘔吐物の上に顔を埋めようとしている高岡を足で転がして上を向かせた。意識はあるのか無いのか、瀬川を見上げる目には全く力がない。
 煙をゆっくりと吐き出しながら屈み込み、高岡を観察する――汗まみれの体、嘔吐物で濡れた口元、ウィスキーが零れた服。
「シャワー浴びた意味、完全に無くなってんじゃん」
 そう呟いた後、瀬川はふとソファに掛けられたままの上着に目をやった。ポケットには携帯を入れていた筈だ。抵抗出来ない今のうちに裸に剥き卑猥なポーズを取らせて写真でも撮っておこうか? 直腸に残りのウィスキーを注ぎながら犯し、その様を動画に収めるのもいいかもしれない。
 ――ふいに、高岡の胸と首周辺が奇妙な動きをする。また吐き気を催したのだろう。瀬川は舌打ちをして高岡から離れ、それが起こるのを待った。
 数分後、二度目はどうやら暫くは無いようだと分かると、瀬川は少し考えて気を変えた。ここで死なれでもしたら全てが水の泡だ。
 嘔吐物に煙草を投げ込んだ。じゅっと音を立てて火が消える。
「絶対吐くなよ」
 高岡の上半身を裸にし、脱がした服で汚れた口元を拭く。力が抜けているせいかずしりと重い体を両腕に抱えてソファに下ろし、冷蔵庫からミネラルウォーターを、寝室から毛布を取って戻った。高岡の体を毛布で覆い、口に少量ずつ水を運んで根気よく飲ませた。それから嘔吐物を喉に詰まらせないよう横向きに寝かせると、瀬川は高岡が座っていた椅子に腰を下ろし、煙草に火を点けた。
 一息ついて、上着から携帯を取った。不在着信は十三件。非通知が一件、姉からが二件、残りは昨夜の女からだ。ちょうど着信履歴を閉じた瞬間に十一回目の着信が入ったので、無言で震える携帯を上着のポケットに戻した。姉には後で連絡を入れればいい。
 何度か続いたバイブレーターの音が聞こえなくなり、コロナの瓶に沈めた煙草の吸殻が三本になった頃、高岡は咳き込みながら体を起こした。
「…………」
 何か言おうとしたのだろうか、高岡は口を小さく開けて瀬川の方を見たものの、言葉を発する気力はまだ戻っていなかったらしく、額に手をやって目を閉じた。頭痛か眩暈にでも襲われたのだろう。酷い顔色だった。
「水」
 顎をしゃくってテーブルのミネラルウォーターを飲むように促す。高岡は緩慢な動作でボトルを取り、一口だけ飲んでまた横になった。それから暫くの間は目を閉じて苦しげに息を吐くだけだったが、やがて目を開けて瀬川を見た。
「……今晩」
 泊まっていきますよね、と同意を求めるような声音だった。瀬川はコロナの瓶に持っていた煙草を沈めた。
「着替えは?」
「浴室の……、前の棚に」
 瀬川は高岡を置いて浴室に向かった。棚にはタオル、着替え、携帯用歯磨きセット、髭剃りが置かれていた。サイズと状態を見るにどうやら全て瀬川の為だけに用意されたもののようだった。
「用意周到」
 瀬川は鼻を鳴らし、浴室を覗いて十分に清潔であることを確認した後でシャツのボタンに手を掛けた。



 シャワーを浴びてリビングに戻ると、辺りは訪ねたときよりも綺麗に片付いた状態になっていた。家主の姿はなく、代わりにルームフレグランスの香りがソファ周辺を漂っている。
 洒落たポールハンガーに掛けられた上着から携帯を取り出して姉に掛けたが、繋がらなかった。高岡の姿を探して寝室に行くと、ベッドで一人、上掛けの下で横になっていた。眠ってはいなかったのか、高岡は瀬川が点けた照明の下ではっきりと目を開いた。
「……もう寝ますか?」
 あの短時間で高岡は部屋の片付けだけでなく着替えも済ませてしまったらしい。タオルか何かで汗や嘔吐物を拭き取ったのか肌はさっぱりとしている。
「ここで、お前と一緒に?」
「もう吐きませんよ。歯も磨きましたし」
 高岡はその顔に冗談めかした笑みを浮かべた。
「俺は眠くない」
「僕もです」
 瀬川は照明を常夜灯に切り替えてベッドに近付いた。高岡の顔の横に手を突き、至近距離で見下ろす。まだ明らかに本調子ではないと分かる顔色。
「大和さんは……人と一緒に寝るのは好きじゃないタイプですよね」
 経験に基づく分析だろうか。間違ってはいなかったが、言い当てられるのは癪だった。
「それが分かるなら俺がどうするかも分かるだろ。寝るならソファで寝る」
「なら、またしませんか?」
 揺さぶれば気を失ってしまいそうな顔をして高岡は言う。瀬川は答えなかった。
「……じゃあ、話の続きでも?」
 高岡の方から蒸し返すのは意外だった。瀬川は高岡からやや離れたベッドの端に腰掛け、いつの間にか綺麗にされていた灰皿を取って煙草に火を点けた。
「先生とは結構長く続いたんですよ」
「へぇ?」
「中学を卒業するまで……、卒業して僕が県外にある寮付きの高校に行くようになっても、帰省するたびに会ってました」
「あいつ、そんなに良かった?」
「それなりには」
「金は?」
「会うたびに貰いました。使いませんでしたが」
「情でも湧いたって?」
「そうですね……多分、少しは。僕にとっては初めての相手でしたから」
 高岡は天井をじっと見つめながら言う。
「……大和さんがそうだったら良かったのに」
 吐き出した煙は一瞬視界を白く染めた後、霧散する。
 大昔。瀬川は二つ下の少年の体を確かに弄んだ。幼い体をまさぐり、いきり立ったペニスに触れさせ、それを少年の柔らかな太腿の間で擦ったこともあった。だが少年の体の中に入ったことは一度もなかったのだ。そうしようとしたこともあったが、高岡が――他でもない高岡本人が拒んだことで未遂に終わった。
 『そう』はならなかった過去は高岡にとって悲哀に満ちた思い出だとでも言うのだろうか。
「誰が相手でも一緒だっただろ?」
 犯されても喜ぶ体なら、と言外に匂わせる。
「そうなんでしょうか」
「俺が相手なら何か変わってたって?」
 高岡はゆっくりと横向きになって体を丸め、その口から吐息を漏らして瀬川を見つめた。
「……多分、もっと良かった」
 瀬川は目を細めて高岡を見つめ返す。高岡はぐったりと力の入っていない体で、血の気が戻り切っていない顔で――確かに、誘いを掛けているような目をしていた。
「……お前、マゾだろ」
 高岡はわざとらしく目を瞬いた。何故そんなことを、とでも言うように。
「でなきゃそもそも俺を家に上げてないし、寝てもない」
「大和さん、優しかったですよ。僕を抱いたときも、酔わせた後も」
「けどそうすると最初から分かってたわけじゃない。だろ?」
 瀬川は煙草の火を消し、灰皿をナイトテーブルに置いて高岡の傍に座り直した。肩を押し、仰向けにさせた顔に手を伸ばす。口元を覆うように触れ、頬を指の腹を使って撫で、顎を軽く擦り、ゆっくりと首にまで下りる。
 高岡は瀬川を見つめ、空気を求めるように小さく口を開いて瞬きをした。だがまだ力は入っていない――そう、まだ今は。
「大和、さん……」
 指を曲げてしっかりと首を掴む。それでも苦痛を感じるだろう程の力は入れずに、高岡の表情を観察する。何が見えるだろうか。輪郭を浮き上がらせる為に少しずつ力を込めていく。
 一秒、二秒、三秒……二十秒。高岡の鼻と口から緊張した息が漏れ、首を覆う滑らかな皮膚が薄らと湿り始める。まだ呼吸は出来る筈だ。そう出来なくなる前に高岡が瀬川の手を振り払うことも。
 だが高岡は無抵抗のままだった。三十秒……ふいに瀬川は、盛り上がった喉仏を圧迫する親指と人差し指の間から生まれた何か途方もないものに飲み込まれた。それは圧倒的な程の力の感覚だった。高岡の命を、生殺与奪の権を自らの手に掴んでいるのだという感覚。それが波のように頭から瀬川を飲み込み、脳を痺れさせ、支配し――力を与えた。
 いつの間にか殆ど高岡に圧し掛かる体勢になっていた瀬川が、首を絞める手に体重を掛ける寸前にその『力』の感覚から脱することが出来たのは、衝動の先にあるものに本能が警鐘を鳴らし、ほんの一瞬瀬川の体を硬直させたからだ。
 全てが静止したその刹那に瀬川が見たのは高岡の瞳だった。見下ろした瞳の中に現れていたのは恐怖でも苦痛でもなかった。
「――――」
 手を離してから一拍置いて、高岡は胸を上げ目を見開いて息を大きく吸い込んだ。喉を圧迫されていたせいかすぐに咳き込み始め、その合間に合間に胸や喉から妙な音を立てながら必死に呼吸する。その息が整い切らない内に瀬川は高岡の体から上掛けを剥ぎ取り、腕を掴んで無理矢理俯せにして馬乗りになった。
 掴んだままの腕をシーツに押し付け、もう一方の手で部屋着の襟元を掴み引き下ろして、露わにしたうなじにきつく噛み付いた。息苦しさと痛みに呻いた高岡のズボンと自身のそれを引き下ろし、尻を割り開いて――勃起したペニスを一気に根元まで挿入した。
「うっ、ああ……!」
 潤滑油も無しに貫かれた高岡の弱った体はがたがたと震え、流れ落ちた涙と唾液が枕を濡らした。瀬川は痙攣する高岡の腕や肩を押さえつけ、逃げようとする腰に爪を立てて己の方へと引き寄せた。ローションのぬるつきなど残っていない直腸を容赦なく抉り、引き攣る肛門括約筋の強い締め付けを味わう。
 慣れ親しんだ――とまでは行かないが、覚えのある感覚だった。瀬川は自身を破滅に導こうとしていた行為を上書きするように高岡を犯した。見下ろした背中がそう年の変わらない男のものであることや、喘ぎ呻く声の低さといった些末な違いは然程気にならなかった。肝心なのは今ここで全てを支配しているのは瀬川であり、高岡や高岡以外の誰かや何かではないのだと感じることだった。
 うねる熱い肉壁の感触と汗ばんだうなじから放たれる匂いは好ましく、震える背中は支配欲を満たしていくのに十分だった。瀬川の額とこめかみに汗が浮き始めた頃、瀬川は浅い呼吸を繰り返す高岡を激しく揺さぶり、最後は押し潰すような形で深く挿入して直腸内に射精した。
「…………」
 達成感と満足感が体の芯まで染み渡る。瀬川は目を閉じて息を吐き、高岡の体からゆっくりとペニスを引き抜いた。そのまま体を離そうとしたが思い直し、高岡の肩を掴んで顔を上に向かせた。
 汗や唾液や涙でどろどろに濡れた頬や顎。焦点の合わない目。ううう、あああ、と言葉にならない声を漏らす口。瀬川は見るも無残なその顔を冷たい目で見つめる。
「おい」
 声を掛けても返事はなく、視線を向ける、手を動かすといった反応もない。仕方なく頬を叩くと、高岡はようやく瀬川と目を合わせた。
「あ……あ……」
 意識はまだはっきりしないらしい。ゆっくりと瞬く様を観察するのに飽きた瀬川は高岡の足を掴み、体全体を仰向けにさせた。
「は、お前……」
 一瞬失禁したのかと思う程高岡の股間は濡れていたが、それらしい臭いも色もしない。萎えたままのペニスから粘つく液体が線になって垂れているのを見て瀬川は笑う。
「変態じゃねーの? なぁ」
 高岡の足の間に入ってぬるつく液体を人差し指と中指で掬い取り、散々嬲ったせいか薄く腫れてひくついている肛門に押し付けた。すぐに中に入った指を動かすと、高岡はううう、と声を漏らしながら身を捩った。のけぞった首に見えたのは――手形だ。
「吐くほど飲まされて、首絞められて、無理矢理突っ込まれて――」
 親指で会陰部を刺激しながら直腸に挿入した指で内壁を擦り、もう一方の手で高岡の腕を掴んで逃げられないようにする。
「――『良い』んだ?」
「あ、あっ、いあっ、ひっ……」
 嬲れば嬲るほど反応が返ってくるのが愉快だった。生きた玩具だ。
 瀬川は舌なめずりしながら高岡の体から指を引き抜き、遊んでいる内に硬くなっていた自身のペニスを挿入した。感電でもしたかのように震えた体からTシャツを剥ぎ取り、どろどろに濡れた顔を拭いた。幾らか見られるようになった顔を見下ろし、赤い頬に舌を這わせながらペニスを深くまで捻じ込んでいく。
「あ、や、やま、大和さ……大和、さん」
「なに」
「う……死ぬ、死んじゃ、死んじゃう、死ぬ……」
「あ? なら死ねよ」
 うわ言を漏らす高岡に腰を打ちつけ、肩や顎や手に歯を立て、髪を掴んで乱暴に口付ける。高岡は啜り泣き、呻き、叫び、喘いで、やがて狂乱の中で泣き喚くようにこう言った――もっと。
「そんなに死にたいなら死ねよ、充。俺が殺してやるから」
 瀬川は冷たく笑いながら高岡を揺さぶった。流れる汗が高岡に滴り落ち、どこからか血の臭いが漂い始めても構わずに犯し続けた。息苦しげに喘ぐ高岡を見つめ、時折愛の言葉のように殺してやると囁きながら。
 やがて高岡はかろうじて保っていた意識を何度目かの絶頂の後に手放し、うわ言すら一切口にしなくなったが、瀬川の腰の動きが止まったのはそれよりもずっと後の事だった。





 そして長い夜の後に迎えた朝は――強烈に明るかった。
「……ああ?」
「もうすぐお昼ですよ」
 瞼の下まで不躾に潜り込んできた光は目を開けると更に明るく、起き抜けの瀬川の機嫌を急降下させた。
「二日酔いですか?」
 カーテンを端に寄せていた高岡は、ソファに寝転ぶ瀬川に背中を向けたまま尋ねた。タートルネックのグレーのセーターに、シンプルな黒のボトム姿。
「……あれぐらいで酔わねーよ」
「強いんですね」
 高岡の声は掠れ気味で昨夜よりも小さかったが、振り返った顔からは再会した日と同じ清潔感とそつのなさを感じた。一体どこまでが現実でどこからが夢だったのか――瀬川は体を起こし、何気なく手を伸ばした先にあったミネラルウォーターのボトルから水を補給しながら考える。ふとテーブルの上に目をやって、洗濯とアイロン掛けが終わったシャツと下着が置かれていたのに気付いた。部屋のポールハンガーにはスーツが掛けられている。
「ちょっと買い物に行ってきたんですが……朝御飯、どうします?」
「お前は?」
「すみません。お腹が空いてたので先に頂きました」
 顔を洗って着替えを済ませ、高岡が用意した食料を腹に入れていく。有名チェーン店ではなく地元の店で買ってきたらしいハンバーガーと淹れたてのコーヒーは瀬川の口に合い、食後にニコチンを補給したところで低空飛行していた機嫌が幾らか上昇した。
「それでよく外に出られたな」
 カーテンの近くに立ってマグカップからコーヒーを飲んでいる高岡の手には、くっきりと瀬川の歯形が残っていた。
「手袋、してましたから」
 高岡は瀬川の視線を追い、苦笑して答えた。
「他は見えない場所……ですよね?」
 瀬川は煙草を持つ手を軽く横に動かした。
「すぐ消えるだろ、全部」
 瀬川の言葉に、高岡は少し首を傾げて曖昧に微笑んだ。
「なに、まだ痛むって?」
「……少し」
 噛み跡だけでなく体中が痛んでいるだろうことは分かっていた。かなり無理な体勢にもさせたし、力の加減は殆どしなかった。ローションもろくに使わなかったから内部も傷付いているだろう。あれだけのことをやった後で普通に立っているのが不思議なくらいだった。
「見せてみろよ。どこが痛む?」
 高岡は瀬川の意図を探るように目を見つめた後、ゆっくりとタートルネックの襟に指を掛けて引き下ろし、首を露わにした。
 ――薄らと残った跡。
 瀬川は煙草を灰皿に置いて立ち上がり、高岡の目の前に立った。至近距離から見下ろした顔は目覚めた直後の印象とは少しズレがあり、よく観察すれば昨晩の狂乱の痕跡をあちこちに見ることが出来た。肌はやや荒れていて下瞼には薄い隈がある。顔色は決して良いとは言えず、見つめ返してくる充血気味の目はどこか危うげに見えた。
「これで外に?」
 顔に手を伸ばし、頬を撫でる。
「……徒歩三分のところだったから」
 高岡がしていたようにタートルネックの襟に指を掛けて首を見る。
「……喉が」
「潰れてはない」
「でも、変な声でしょう?」
 確かに、風邪を引いたのだと言われれば納得しそうな声だ。元が爽やかに澄んだ聞き取りやすい声質だけに違いは顕著だった。
「すぐ治るだろ。それに」
「……それに?」
 優しく首を撫で、襟を戻した。
「いや」
 その体に残った跡が消えるまでは他の男を誘うわけにはいかない筈だ、とは口にしなかった。だが高岡は瀬川が何を言わんとしたのか表情と間から悟ったらしい目をして、
「……もう暫く泊まっていきませんか?」
 そんな誘いを掛けてきた。
 瀬川は何も言わずに高岡から離れ、ソファに戻って煙草を取った。
「何の為に?」
 高岡はコーヒーを一口飲み、纏めたカーテンに軽く寄り掛かった。
「僕の為に……いて欲しいんです。変な意味じゃないですよ」
「ならどんな意味だよ」
「もうすぐ日本を離れることになってるんです。新しい生活を始める前に、心残りを片付けて置きたくて……」
「……『片付ける』?」
 何となく妙な言い回しに聞こえて聞き返すと、高岡は苦笑した。
「大和さんは僕のことをすっかり忘れてたけど、僕は違う。貴方は僕の原点なんですよ。いつかは決着を付けなきゃいけなかったんです」
 そう言って、高岡はふいに真顔になった。
「彼女のこと、まだ思い出せませんか?」
 瀬川は答えなかった。唐突に雰囲気を変えた高岡をただじっと見つめるだけだった。
「そうですね。やっぱり貴方にとって彼女は重要な存在じゃなかったんです。多分初めてでも最後でも無かったし、彼女でなければいけない理由も無かった……彼女はただそこにいただけ、なんですよね」
 煙草の灰が灰皿の傍に落ちる。小さな熱い塊は砕けてテーブルをゆっくりと焦がしていく。
「彼女は短い間、大和さんが任されていた店で働いてたんです。貴方は初めのうちはとても優しくて……彼女はまだ大学生だった。凄く簡単だったでしょう。酔わせる必要すら無かったのかも。だけど貴方は彼女に飲ませて、自分自身も飲んだ。そして酷い事が起こった……本当に酷い事が」
 高岡は両手に持ったマグカップに視線を落とし、残りを確かめるように軽く揺らした。
「大和さんが彼女の事を思い出せなかったのは、彼女がその頃の自分を消したからですよ。髪型も化粧も服装も変えて……別人になった」
 視線は瀬川の方へと戻り、それからダイニングテーブルに移った。高岡はマグカップを静かにテーブルへと置き、瀬川にゆっくりと歩み寄ってきた。
「……そいつの復讐でも?」
 高岡は答えず、瀬川の隣に膝を突いた。ソファが沈み込むその数秒の間に瀬川はスーツの内ポケットに手を差し込み、忍ばせていたナイフを取り出そうとしたが――指先が触れた瞬間、異変に気付いた。
「栓抜きですよ。まさか本当に気付かないなんて」
 あるべき場所から姿を消していたナイフは、背凭れと下のクッションの間にある窪みの中から高岡の手によって取り出された。高岡は折り畳まれた小さな銀色のナイフを開き、曇り一つない刃を露出させた。
「綺麗ですね」
 高岡は言葉とは裏腹にそれほど感動した様子もなく呟いた。
「小さくて軽くて……切れ味も良さそうだ。いつも持ち歩いてるんですか?」
「…………」
「そんな顔しないでください。復讐なんて考えてませんから」
 全身の毛を逆立てる瀬川に高岡は苦笑しながら言い、あっさりとナイフを閉じて瀬川に差し出した。気を抜いたところで攻撃するつもりなのかもしれない――警戒を解かぬまま受け取ったが、どうやら今のところは本当に瀬川への加害の意思は持っていないようだった。
「彼女じゃなくて、僕の問題なんです。一体どうして僕が彼女と出会えたんだと思うんです? 偶然だとでも?」
「知るかよ」
 そう吐き捨て、指の間で燃え続けていた煙草を灰皿に押し付けたとき、瀬川はあることに気付いた。
「……お前、俺のことを調べたって言ったよな」
「はい。正確には僕じゃなく雇った探偵が、ですが」
「いつだよ。いつ調べた? ……いつから調べてた?」
 高岡は瀬川の左手に握られたままのナイフを見つめながら答えた。
「五年前からです。五年前から……僕は、貴方と関わったことがある人の内の何人に会いに行くようになりました。かつて貴方と結婚していた三人の女性や、長く付き合った何人かの女性と男性、経営されている店の従業員にも。ああ、でも彼らに僕のことを聞いても覚えていないかもしれません。大和さんの名前で呼び出して一対一で話を聞いた、というわけじゃないし、一言二言の短いやり取りで終わったこともありますから。……書類上では薄い接点しかなかった彼女と会ったのはただの勘で、最初は親しくなるつもりなんて無かったんです。それに、大和さんのことを尋ねるつもりも無かった」
「……けどそいつが俺との事をベラベラ喋った?」
 攻撃的な声だったが、高岡は気圧されることもなく静かに首を横に振った。
「大和さんの名前が彼女の口から出たことは一度も無いですよ。僕も同じです。貴方の名前を出したことは一度も無い。彼女からは何が起こったのか少しだけ話して貰ったことはありますが……僕以外の誰かが聞いても、相手が貴方だとは分からなかったでしょうね」
 高岡が一言口に出す度に苛立ちが募っていく。五年間もこそこそと調べ回っていたこと、無断でナイフを取り出して隠していたことだけでなく、妙に回りくどく核心を逸れがちな話の運び方も気に入らなかった。
「それで?」
「『それで』?」
「言いたいことがあるならさっさと言えよ。復讐じゃないならどうせ謝罪か慰謝料でも寄越してやれって話だろ? お前の大事な女を傷付けたことを俺が申し訳なく思って、そいつに頭下げて、許しを請う姿でも見たいって? お前の自己満足の為に」
「まさか。僕が何をやって何を言ったところで、大和さんが彼女に申し訳ないなんて思うわけがない」
 ――瀬川はナイフを開き、高岡の腕を掴んで引き寄せた。顎の下に軽く刃が触れる。
「なら何だって聞いてんだよ。お前、この期に及んでまだ誤魔化すつもりなわけじゃねーよな?」
 あれだけのことをやられた後でこのナイフが脅しに見えるのだろうか。それとも、これだけ小さく軽い刃なら大事にはならないと踏んでのことだろうか?
「……大和さんだって、昔話をしたくて僕の所に来たわけじゃない」
「……あ?」
「何が貴方を追い詰めているのか……僕は知ってる。だから――」
 高岡はナイフの刃が自身を傷付けようとしているのにも構わず瀬川に顔を近付けた。
「――僕と一緒に日本を出ませんか?」
 触れた刃が皮膚に食い込み、血が滲み始める。
「は……何で俺が、お前と」
 突き放すような声を出しても、高岡は一瞬たりとも視線を逸らしたり、痛みに怯んだりする素振りを見せようとはなかった。瞬きもせずに瀬川を見つめ返し――微笑んで、穏やかにこう返した。
「力になりたいんです。僕なら大和さんが想像している以上に力になれる……多分きっと、あの大人しくて綺麗なお姉さん以上にね」
←前の話へ 次の話へ→ topページに戻る