シーソー・ゲーム 3
「女好きなのかと思ってました」
事が終わった後、煙草に火を点けた瀬川に向かって高岡は言った。
「それで合ってる」
ベッドを共にした同性の数は片手ではやや余る程度で、それも高岡を除けば少年か、少年と呼べる年を過ぎて間もない二十歳そこそこの男だけだった。
正直なところ瀬川は今の今まで、興奮と欲望が過ぎ去った後に自分とそう変わらない年の男が隣に裸で寝転んでいる姿を見ても、全く不快感を抱かないことがあるとは思っていなかった。
「お前は例外」
高岡は瀬川の目を見つめながら微笑んだ。喜んでいる風だが余裕が見え、誰かの『例外』になることに慣れている顔だと瀬川は思った。随分と回数をこなしただというのにそれほど消耗しているように見えないのも、こういったことに慣れているからだろう。
「なぁ、煙草あるか? あと一本で切れる」
「さっきの引き出しの奥に」
やはり男がいるのだ。いや、躊躇いなく渡すということは『今は』いないということなのかもしれない。
「俺が吸っても大丈夫なわけ?」
瀬川は引き出しから封の開いた煙草のパックを取り出して尋ねた。銘柄は瀬川のものと全く同じだった。
「どういう意味ですか?」
「お前のじゃないなら他の誰かのだろ?」
「いえ、僕のですよ。僕が僕の為に買ってそこに置いてたんです」
「は? 吸うようになった?」
高岡は首を横に振った。
「煙を嗅ぐのが好きだから」
下手な言い訳だと思った。それに無意味だった。あれだけ乱れておいて、家に連れ込む男などいないのだと主張して一体何になる?
顔に出ていたのか、高岡は苦笑した。
「本当ですよ。火を点けて、ただ煙の臭いを嗅ぐだけ」
「へぇ」
「そうしてると初恋の人を思い出すんです」
瀬川は横目で高岡を見る。
「……お前、仕事は?」
「仕事? IT関係です。今はソフトの開発ですね」
「ずっとそれ一本で?」
「そうです。……何が言いたいんですか?」
「愛人やってました、って言われた方がしっくりくると思って」
「媚びてるように見えました?」
「そこらの女より上手い」
「さっきの話、本当に嘘でも冗談でもないんですよ。でも……そうですね。確かに若い頃はそういうことをやってました。ほんの副業程度ですが」
高岡はあっさりと認めた。
「金に困って?」
「いえ、自分に向いてると思ってたんです。でも別に自分から営業を掛けたわけじゃないですよ。向こうが渡してくる分をただ受け取っていただけで……。シャワーを浴びてきますね」
高岡はそう言って体を起こした。身のこなしは軽やかで、ごく自然だった。どうやら話を打ち切る為に部屋を出て行こうとしているわけではないようだった。
「あいつもそうだったな」
ふと思い出して呟くと、下着を履いた後シャツを羽織ろうとしていた高岡が一瞬動きを止めた。
「……ええ。そうでした」
「お前、やっぱり俺のこと恨んでるんだろ?」
「恨んでいませんし、とっくに時効ですよ。それに言ったでしょう。『向いてる』からやってたんです」
そう答えて高岡は部屋を出て行った。
寝室のドアが閉まって十数秒、瀬川は肺の中の煙をゆっくりと吐き出しながら辺りを見回した。
シンプルで落ち着いた色合いの壁紙と絨毯。家具は最小限で、目立つ場所に金目のものはない。情事の残り香と煙草の煙がたちこめる部屋に暖かな空気を送っているエアコンは真新しく、ナイトテーブルに置かれたリモコンには昨年CMでよく見掛けた製品の名前が印字されている。壁を一つ丸々使ったクローゼットには衣類でも収まっているのだろうか。通帳や印鑑を無防備な状態で保管しているタイプには見えない。シャワーを浴びる数分の間で探し出そうとしても無駄だろう――例え十分な時間が得られたとしても瀬川にはそうするつもりなど欠片も無かったが。
とはいっても、高岡から金を引き出す方法を具体的に考えて訪ねたわけではなかった。ただチャンスだと思ったのだ。適当にでっち上げた投資の話でも持ち掛けるか、素直に貸してくれと頼めば高岡から纏まった金を引き出すことが出来るだろうと。
高岡が『初恋の人』に抱いていた好意の全てが、今は単なる思い出へと変わってしまっている可能性のことは初めから頭にあった。それでも構わなかった。漠然と、高岡の中にあるのが例え憎悪や怒りのような感情だったとしても、あの頃のように出来る限り望みに応えようとするだろうと思った。何故かと聞かれても答えられないが――ただ、そうするだろうという殆ど確信に近い何かが瀬川の中にあった。
あとは話を切り出すだけだ。金が必要な理由は何でもいい。納得させる必要などないのだから。
瀬川は短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消した。話をする前に喉を潤し、軽く腹ごしらえを済ませておいた方がいいだろう。
途中で寄ったトイレの方は適当に身に着けた服では凍えるように寒かったが、リビングの方の暖房は入れっぱなしになっていたらしく、続くキッチンの方まで暖かかった。
とりあえず冷蔵庫からコロナを取り出して飲みつつ、目ぼしいものを物色する。高岡が初めに言っていた『つまみ程度ならある』というのは全く控えめな表現ではなく、冷蔵室にはチーズや加工肉のパック、皮を剥けばそのまま食べられる野菜や果物しか見当たらず、冷凍庫には氷と腹の足しにもならなそうなサイズのアイスクリームが一つあるだけだった。
出前を取るには時間が遅過ぎる。瀬川はハムを取って冷蔵庫の扉を閉めた。シンクに軽く凭れながらビネガーの風味がする肉を齧り、コロナで流し込んで腹を満たしていく。食べ終わって残ったコロナを飲みながら何とはなしに辺りを見回していると、冷蔵庫の上から何かが小さくはみ出しているのが見えた。
コロナの瓶をキッチン台の上に置いて手を伸ばした。冷蔵庫の上にあったのは一枚の写真で、はみ出して見えていたのは写真の角だった。
「…………」
ロードバイクに乗ってカメラの方に笑顔を向ける男女のツーショット。一人は明らかに今とそう変わらない年齢の高岡で、もう一人は高岡より幾らか若く、高岡と並んでも不釣り合いだと思われない程度には整った顔立ちをした女だ。よく見れば二人の左手の薬指には結婚指輪らしきものが嵌っている。
冷蔵庫の扉には磁石が一つ留まっていた。上に置かれる前はその磁石で留められていたのだろうか。何故隠すように上に置かれていたのか――もし不自然な点がそれだけなら、瀬川は黙って写真を元の場所に戻しておいただろう。
女の顔に、見覚えがあるような気がした。しかしすぐに思い出すことが出来ない程度には馴染みのない顔。
瀬川がその写真を見つめていた時間はそれ程長くはなかったが、それまでに経過した時間を考えれば高岡が客人の姿を探してキッチンに現れたのは当然のことだった。
「アルバムに挟もうと思ってたんです」
ラフな格好に着替えた高岡は冷凍室の扉を開けながら言った。アイスクリームを取り出し、冷蔵庫に凭れて食器棚から取り出したスプーンで食べ始める。
「美人でしょう?」
「こいつ、誰?」
「別れた妻です」
「中学の同級生?」
「まさか。六つも年下ですよ」
瀬川は高岡の手からアイスとスプーンを取り上げ、もう一方の手で持った写真を高岡の眼前に掲げた。
「誰かって聞いてんだよ」
「……別れた妻で、今は友人の女性ですよ。バーで知り合ったんです。彼女が酔っているところを僕が介抱したのがきっかけで付き合うようになって……」
写真を下ろした。高岡は困惑したような目で瀬川を見上げた。
「もしかして、大和さんの知り合いだったんですか?」
瀬川は軽く舌打ちをして写真とアイスクリームを高岡の手に押し付け、顎をしゃくって高岡を冷蔵庫の前から退かせた。新しいコロナの瓶を取って封を開け、ぐっと呷りながらリビングの方へと移動する。
瀬川がソファに腰掛けて五分も経たない内に高岡はリビングに出てきた。一時間ほど前そうしていたように椅子に座り、静かにアイスクリームを食べ始める。
「充」
声を掛けると、高岡はスプーンを口から出して微笑んだ。
「思い出せないならそれでいいじゃないですか。大和さんが彼女のことを思い出せないのは、彼女が貴方にとって重要な存在じゃないからなのかも」
「……俺にとって何が重要か何が重要でないかは、お前が決めることなのか?」
「いえ、そんな」
「そう聞こえた」
「そんなつもりで言ってません」
「そう聞こえたんだよ、俺にはな」
写真の女を思い出すことが出来ない苛立たしさと、高岡の芝居めいた一連の言動が気に入らなかった。発散した筈の怒りが淀みの中でじわりじわりと形を取り戻し始め、体中に根を伸ばしていくのを感じた。
「充。お前、俺に隠してることがあるだろ?」
「……隠してる? 何をですが?」
「俺が聞いてるんだよ。お前じゃない」
テーブルの上にはグラスとウィスキーの瓶が置かれたままだった。瀬川はまだ随分と中身が残った瓶を見つめると、コロナを一息に飲み干してテーブルに置いた。代わりにウィスキーの瓶を取って高岡に近い方のグラスへと注ぐ。
高岡は半分以上の高さまで注がれた琥珀色の液体を見つめ、それから瀬川を見つめて口を開いた。一瞬何か言い掛けて口を噤み、またグラスに視線を落としてアイスクリームのカップとスプーンを置き、静かにグラスを手に取った。
「全部飲めよ」
高岡は命じられるがままにウィスキーを飲み干し、グラスをテーブルに置いた。グラスが空の状態だったのはほんの数秒の間だけで、すぐに瀬川の手からウィスキーが注がれて元の状態に戻ってしまう。
今度は何も言われなかったが、高岡は一杯目と同じように全て飲み干した。その視線はグラスに向けられたままで、その目は明らかに三杯目が注がれることを予期していた。
「大和さ――」
「全部だって言っただろ?」
三杯目が空になるのには、それまでの二杯が高岡の胃の中に収まるまでに掛かったのと同じくらいの時間が必要だった。
高岡は飲み干したグラスを持ったまま椅子の背に凭れ、ゆっくりと息を吐いた。
「あの時もこんな風に……怒ってたんですか?」
瀬川は何も答えなかったが、高岡は微かに笑って「そうなんですね」と呟き、グラスをテーブルに置いた。瀬川は当然のようにウィスキーを注ぎ、高岡はもはや躊躇う素振りすら見せずにグラスを手に取った。
「それまではずっと大和さんの言う通りにしてたのに、僕は初めて貴方に反抗した。学校で最後までするのは嫌だと喚いて」
高岡は言葉を切るとグラスを口に運んだ。眉間には薄く皺が寄っていた。
「その後何も喋らなくなったから、大和さんが凄く怒っていたのは分かってました。だけど許してくれたと思ってたんです。次の日は普通に接してくれたし、その次の日には初めて家に招いてくれた……本当に嬉しかったですよ、その時は」
瀬川は近くにあったグラスにウィスキーを注ぎ、一息に飲み干した。高岡はグラスの残りを同じように飲み干した。
「実を言うと、アパートの前に立った時点で何かがおかしいって分かってたんです。大和さんはあの山の麓にある村の凄く大きな屋敷に住んでる、って兄から聞いてましたから。そして部屋の前に立ったとき表札に名前がないのに気付いて、部屋の中に入ったとき絶対にここは大和さんの家じゃないと思いました」
昔話は酔いが回るのを待つのにちょうどいい。瀬川は高岡の顔を見つめながら口を開いた。
「気付いてすぐに逃げなかった理由は?」
「貴方のことが好きだったから。それだけですよ。それだけで僕は自分の直観に逆らった」
高岡はふっと笑って答えた後、空のグラスを瀬川に差し出した。瀬川はそれに随分軽くなった瓶の口を傾ける。
「大和さんはまるで本当に自分の家みたいに堂々と中を歩いて、僕を奥の部屋に連れて行きましたね。畳は日に焼けてて、下の方が少し剥げた壁紙から微かに黴の臭いがする、狭い部屋だった。大和さんは隅の方に畳んで置かれていた布団に僕を凭れさせて……僕にキスをした。それから僕の首に鼻を寄せて、『いい匂いがする』って言ったんです。覚えてますか?」
「いや」
嘘だった。遠い昔、ほっそりとした白い首から嗅いだ香りのことを瀬川は覚えていた。石鹸の匂いが鼻を掠めたとき、待ち合わせの前に高岡が自分の為に体を清めてきたのだと気付いたことも。
「僕はまだ覚えてますよ。大和さんの体からはいつもと同じ煙草の臭いがして、息は少しだけお酒臭かった。でも僕のシャツの中に入ってきた手は凄く冷たくて、手の平はかさついてた……」
高岡はグラスのウィスキーを一口だけ飲んだ。頬は既に赤く染まり始めていた。視線はグラスに、それから瀬川に向けられた。
「……どうしてあの先生だったんですか?」
「お前のことをそういう目で見てたから」
「僕は……気付かなかった。優しかったし、頭が良くて、凄くいい先生だったから」
「俺は一目で分かった。ただ気付きたくなかっただけだろ?」
「そうですね……そうかもしれません」
高岡はそう言うと急に背中を丸め、俯いた。深呼吸の後、高岡はゆっくりと姿勢を戻してグラスから二口飲んだ。
「なぁ、充。あの時みたいに俺が飲ませてやろうか」
瀬川は微かに唇の端を上げて言う。その申し出が親切心からではないことは互いに分かっていた。だが高岡は一時間半前と同じ従順さを見せた。
隣に座った高岡の手からグラスを取り、ウィスキーを口に含む。そしてそのまま高岡に口付けた。高岡は流し込まれる酒を一切の抵抗を見せずに受け入れ、飲み込んだ。
『あの時』――期待と不安に潤んだ瞳を向ける少年の体をまさぐった後、瀬川は烏龍茶を口に含んで今と同じようにキスをした。少年は途中で目を開け、瀬川の目を見つめながらごくりと喉を動かした。己の口の中に流し込まれた液体の中に異物が混ざっていることに、きっと彼は飲み込む前に気付いたのだろう。瀬川の気を損ねるのが怖かったのか、あるいは瀬川のことを信じ切っていたのか。瀬川は健気な少年の髪を撫でながら掛けた言葉を朧げに覚えている――『痛みが少なくなる薬だ』。
「安心しろよ。今度は何も混ぜてない」
「……アルコールも、過ぎれば毒ですよ」
残りを全て口に含み、空になったグラスをテーブルに置いて高岡の肩を抱いた。生意気な口を塞いでウィスキーを流し込むと、高岡はあの時と同じように瀬川をじっと見つめて『毒』を飲み込んだ。
「今日はあれしか食べてない」
高岡は瀬川に凭れ掛かりながら呟いた。視線の先にあるアイスクリームは表面が薄い液状に変わり始めていた。
「僕、今も大和さんみたいに強くはなくて……、まだ抜け切ってもいなかったし……シャワーを浴びる前にも一杯飲んでたんです」
だから回るのが早いのだと、高岡は荒い呼吸を吐き出しながら言う。寝室に入る前に飲んでいた量が高岡にとって心地よく飲める限界の量だったのだろう。それを分解し切る前に何杯も追加で摂取すれば、体の自由が効かなくなるのも当然だった。
「大和さん」
「なに」
「あの時みたいに……してください」
瀬川は目を細めて高岡を見つめ、ふっと微笑んだ。
「いいよ」
肩を抱いていた手で高岡を引き寄せた。目を見つめながら髪や腕をゆっくりと撫でた後、そっと唇を合わせた。それまでの口付けのように興奮を煽るような性急さも、支配的で侵入的な気配もない優しいキス。それは相手を慈しみ、愛情を伝え、宥め不安を和らげる為のやり方だった。二十数年前、腕に抱いた少年が感じていた恐怖心はそれで跡形もなく溶けてしまっただろう。それから二人の間で起こることが年若いカップルの間でたびたび起こることだったなら、何も問題はなかった筈だ――そう、瀬川がそのやり方を腕に抱いた少年への愛情からではなく、ただ自らの欲望を満たす為の道具として物にしたのでなければ。
次第に高岡の体から力が抜けていった。瀬川はぐったりと体を凭れてくる体を膝に載せ、二十数年前、意識が朦朧としていた少年にそうしていたように優しく背中を撫でた。
「……先生は……他の部屋で、待って、たんですか……?」
「いや」
「じゃあ、僕達は……二人きりだったんですね」
アパートの部屋は二人が通っていた中学で教師をしていた男のものだった。年はどれくらいだっただろう? 今の高岡よりは随分と老けて見えたが、実際の年はそう変わらなかったのかもしれない。
事は段取り通りに進み、男は少年二人が部屋に入って数十分後に自宅へと戻ってきた。
「気付いたらいつの間にか……僕は、裸で布団の上に寝かされてて……先生が僕の体を舐め回してた……大和さんは……大和さんは……僕を、離れたところで僕達を見てた……手に、お金を持って」
高岡は瀬川の肩に顔を埋めている。一向に落ち着かない呼吸から判断するなら、具合は悪化の一途を辿っている。
「先生に犯されてる僕を、大和さんは……ビールを飲みながら、ただ見てるだけだった……助けて欲しかったのに、声が、出なくて……たす、助けて、欲しかったのに」
「『助けて欲しかった』?」
瀬川は高岡の肩を掴み、無理矢理顔を上げさせて視線を合わせた。高岡の目尻と下瞼は涙で濡れていて、長い睫毛が重たげに見えた。
じっとりと汗ばんだ頬に手を当てると、瞬きの拍子に零れ落ちた涙が瀬川の親指を濡らした。
「薬はすぐ切れただろ? うっかり殺しでもしたら困るから五分の一も飲ませてなかった。俺が言ってる意味分かるよな? あの時お前があいつを押し退けようとすらしなかったのは薬のせいじゃない。なぁ、今更嘘なんて吐く必要なんてねーんだから正直に言えよ、充」
瀬川は微笑み、指先で高岡の頬を撫でたが、その冷たい瞳には愛情や同情の色は欠片もなく、それどころか人間としての温かな感情を思わせるようなものは何一つなかった。
「――あいつに抱かれて気持ち良かったから、俺に止めて欲しくなかったんだ、ってさ」
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