9.『デート』

『流星とのデート、楽しんでこいよ!!! 俺はバイトに行ってきま~す』
 流星、という文字の前後に大量のハートマークが散りばめられたメールを受け取ったのが、朝の六時。悠木のバイト先の開店時間は八時だ。悠木の家からバイト先へは一時間も掛からない筈だったが、と疑問に思いつつ、悠木からよく素っ気ないと文句をつけられる一言返信をしてベッドから抜け出した。
「兄貴~、朝ごはんはー?」
 タイミングよくドアの向こうから声が掛かる。奈央の声だった。
「昨日の残りがあるだろ」
 廊下に出ると、奈央はパジャマ姿で滅茶苦茶に絡んだ髪にブラシを入れているところだった。
「朝からビーフシチュー? いやいや、普通フレンチトーストでしょ。何があっても絶対フレンチトースト。間違いないよ」
「……お前、フレンチトースト食いたいの?」
「うん」
「作れば?」
「ううん、奈央はねぇ、兄貴が作ってくれたスペシャルで美味し~いフレンチトーストがどうしてもどうしても食べたいの~」
 頬に両手を添えて二十五センチ下から上目遣いに俺を見上げ、甘え声を出してみても、ブラシが鳥の巣に突き刺さったままの状態では台無しとしか言いようがなかった。
「お前、こんな無理矢理やってると髪ボロボロになるぞ」
 触ってみると見た目よりも酷かった。昔、野ざらしになった人形を林の中で見つけて触ってみたことがあるが、その人形の髪と今の奈央の髪の手触りはほぼ同等の酷さだ。
「そんなこと言ってもさぁ、通らないんだもん」
「何やったらそこまで痛むわけ?」
「最近お風呂めんどくて、全身ボディーソープでまとめて洗ってたらこうなった」
「……母さんのトリートメント剤貸してもらえよ」
「ベタベタするからヤダ。ていうか奈央も持ってるし」
「持ってるならやれよ」
「嫌ですー」
「トリートメントやってきたらフレンチトースト食わせてやってもいいけど」
「え~~~、妹の髪事情をそこまで気に掛ける? 何か怪しいな。兄貴ってヘンタイ? ロリコン?」
 奈央は疑いの眼差しを俺に向けながら後退った。心外もいいところだ。
「お前な……そのまま行くとケアが面倒だからって髪バッサリ切って、その後にやっぱ切らなきゃ良かったって一か月は愚痴言い続けるパターンだろ。俺に」
「そっ……そんなことないし」
「ああそう。ビーフシチューは冷蔵庫の中だから」
「何でー!? フレンチトーストは!!!?」
 喚く奈央を無視して洗面所に向かった。
 顔を洗って鏡に目を向けると、周りの人間が表現するところの『高校生らしい生気に欠けた』顔が俺を見つめ返した。クマが濃いとか、血色が悪過ぎるとか、前髪が目を覆い隠すほど長いというわけでもないのに、何故そう言われるのかよく分からないが――上瞼が少し厚めなせいで瞳に影が入り、目つきが暗く見えるのが原因の一つなのだろうと思う。
 目つきはどうにもならないので少し生えてきていた髭を剃り、いつもより時間を掛けて寝癖を直した。マシになっただろうかと思いつつ鏡を見つめていると、後ろから奈央が顔を出した。
「早くどいてくれませんかー?」
 ふくれっ面だ。着替えとトリートメント剤をいくつか持ってきているところを見ると、風呂で髪をどうにかすることにしたらしい。
 俺は言われた通りに退散し、キッチンでフレンチトーストを仕込み始めた。まだ部屋で寝ているだろう母さんの分も含めて、三人分。パンに卵液が浸み込むのを待つ間にテレビでも見ようかと思って居間に行くと、Tシャツにショートパンツ姿でタオルと濡れた髪を肩に掛けた奈央がやってきた。
「……五分も経ってなくねーか?」
「でもちゃんとトリートメントしてきたから。兄貴、髪乾かして」
 はい、とドライヤーを手渡される。
「何で俺が」
「だって兄貴がやれって言い出したんでしょ? 髪を乾かす義務と責任は兄貴にあるよ」
「はぁ?」
「濡れたままにしてるとまた髪痛むよ!? いいの!?」
 奈央は俺をそう脅しながら俺が座る筈だったソファに腰を下ろし、携帯でゲームをやり始めた。俺は溜息を吐き、小さな脅迫者の命令に従うことにしてドライヤーのコンセントを電源に繋いだ。ソファの後ろに立って髪を乾かしながら見下ろした奈央の横には、ブラシとアウトバストリートメントが置かれていた。それも俺にやらせるつもりなのだろう。
「そういえばさー、兄貴が休みに早起きするのって珍しいよね。今日バイト無いんでしょ? どっか出掛けるの?」
「そうだよ」
「じゃあ奈央も行く」
「今日は友達が来るんじゃねーの?」
「それは来週になったって昨日言いました」
「つか今日は人と一緒だから」
「えー? 慧くん日曜はバイトでしょ?」
「何で悠木って決めつけんだよ」
「だって兄貴の友達って慧くんだけじゃん」
「……いや、他にもいるから」
「他に? 誰? 名前出してよ。言っとくけど連絡先知らない人はカウント出来ないからね」
 俺が同じように問い詰めれば『妹の交友関係にそこまで関心を持つなんて……』とまた変態扱いされるだろうなと思いつつ、
「流星」
 そう答えた。奈央は「えっ?」と困惑したような声を出した。
「流星くん? うーん、もう何年も会ってなくない? カウントするの?」
「いや、今こっちに来てるから」
「…………え? ……え!? は!? こっちに来てる!? 流星くんが!???」
 物凄い勢いで奈央が振り返ったので、俺は反射的に身を引いてドライヤーの電源を切った。
「……ああ、高校からこっちに来たってさ」
「何で黙ってたの!?」
「黙ってたわけじゃ――」
「即報告してよ!!! 何ですぐ言わないの!? 兄貴ってホントそういうとこあるよね!!!」
「……、悪かった」
「『悪かった』ぁ? 思ってないくせに」
「いや、思ってる。悪かったよ。……ほら、髪乾かすから前向けって」
 奈央は俺を恨めしそうに睨んでからソファに座り直した。俺はドライヤーの電源を入れ直した。長い髪は鳥の巣(完成品)から鳥の巣(完成直前)程度に回復していた。
「詩音ちゃんと琴音ちゃんは? 二人も来てるの?」
「来てない。流星とおじさんだけ。おじさんの転勤についてきたって」
「ふーん……じゃあ今日もしかして流星くん、うちに来る?」
「いや。俺が流星の家に遊びに行く」
「いいなぁ、おうちデートじゃん」
「…………」
「あのさ、今度うちにも流星くん連れてきてよ。私も久し振りに会いたい」
 奈央の一人称が名前ではなく『私』のときは、素に戻っているときだ。
 『デート』の言葉に過剰反応していた俺の胸は、流星と再会したその日に奈央へと報告しなかったことへの罪悪感で満たされた。流星は俺だけではなく奈央の友人でもあったのだ。
「……誘っとく」
「お願いしまーす。……ねぇ、流星くんどんな感じになってた? 背伸びてた?」
「俺より高いまま」
「え、冗談だよね?」
「いや。多分体重も俺よりある。筋肉ついてるから」
「ええ~~~本当に? おとぎ話に出てくる王子様みたいにキラキラしてた流星くんが? 想像つかないよ。物凄い大男になってるの? むさくるしい感じ?」
「むさくるしくはない。……何つーか、ハリウッド映画の王子様みたいになってる」
「その例えよく分かんない」
 だよな、と返しつつ、奈央も実際に流星を目にしたら納得するだろうなと思った。

 それから案の定トリートメント剤の塗り付けとブラシ掛けまでやらされた後、奈央念願のフレンチトーストを焼いた。皿に乗せたところで母さんが起きてきたので、奈央が録画していたテレビドラマを観ながら三人でテーブルを囲んだ。
「あっ、お母さん。そういえば流星くんがこっちに来てるんだって。おじさんの転勤で」
「流星くんが? じゃあ怜子さんと……詩音ちゃんと琴音ちゃんもこっちに来てるのね」
「んー、おじさんと流星くんだけだって」
「あら、そうなの」
 二人がそんな会話をしている間、俺は親父が俺たちの住所を知っていた件について母さんに尋ねてみようか迷っていたが、結局口に出せないまま食事を終えた。





 大分余裕を持って家を出て、途中時間を調整しながら待ち合わせの駅に着いたのは、約束の十五分前だった。
 流星は改札を出てすぐの場所にある柱の前に立っていた。上は白と青のボーダーシャツに薄手の黒いパーカーを重ね、下はベージュのカーゴパンツ、靴はシンプルなスニーカー。つばが広い黒のワークキャップを目深に被り、携帯を見る為に俯いていたが、すぐに流星だと分かった。
「カズくん」
 俺が声を掛ける前に流星は携帯から目を上げ、ポケットに携帯を入れて俺の元へと歩み寄って来た。
「悪い、待たせた」
「ううん、ついさっき来たところだから。行こうか?」
「ああ」
 並んで歩き出してすぐ、流星は俺にちらりと視線を向け、何事も無かったかのように前を向いた。
「……何だよ」
 流星は「いや」と首を横に振った。
「何でもないよ。……それ何?」
 流星は俺の右手に下がった荷物を見て言った。
「ケーキ。おじさん甘い物好きだったろ?」
「うん。ありがとう。でも気遣わなくて良かったのに」
「いや、母さんが何か持っていきなさいって金くれたから。家って駅から近いんだよな?」
「徒歩で五分くらいかな」
 なら保冷材は持つな、と心の中で呟いていると、流星はまた例の視線を俺に向けた。
「……流星?」
「あ、ごめん」
「いやいいけど。……もしかして俺の格好、何か変か?」
 上はVネックの白のTシャツにグレーのカーディガン、下はジーンズ、靴は先々週に下ろしたばかりのスニーカーだ。
 流星が首を横に振ったので、じゃあ何かゴミでも付けてきたのだろうかと立ち止まって手足を見ていると、
「何もおかしくないよ。……おかしくないけど」
 そんな歯切れの悪いことを言い出した。
「けど?」
「……向かい合って、じっくり見ていい?」
 俺が頷くと、流星は言葉通りに向かい合わせに立ち、俺の全身を上から下までじっくりと眺めた後、「ありがとう。じゃあ行こうか」と言って歩き出した。
「いや……何だったんだよ」
 並んで歩きながら尋ねる。流星は何か納得したようだが、俺の方は結局何も解決していないままだ。
「……こっちに来てから、カズくんの私服見るの初めてだから。ごめん、我慢出来なかった。やっぱりカズくんってかっこいいね」
「……、別に普通だろ」
「ううん。昔もそうだったけど、今も凄くかっこいいよ。カズくんは本当にかっこいい」
 流星は『かっこいい』と連呼しながら、はにかんだような笑みを俺に向けた。からかっているのでもなく、お世辞で誤魔化しているのでもない――流星の心からの賛辞なのだとその表情を見て理解した瞬間、俺は顔をぶわりと熱風で撫でられたような感覚に襲われた。
「…………流星。そういうのすげー照れるからやめろよ。つかお前の方がかっこいいから」
「俺? 何で?」
「何でって……」
 街行く人に尋ねてみるまでもなく、流星は九十九パーセントの人間が文句なしに美形だと感じるだろう容姿をしている。少女めいた雰囲気は無くなってしまったが、あの時の流星が持っていた他の誰とも違う特別な輝きまでもが失われてしまったわけではなく、むしろ年月と共に増幅して、殆ど完成された肉体と大人びた佇まい、穏やかに澄んだ青い瞳の中で開花していた。
 今もちらちらと周りから視線を投げ掛けられているのは体格の良さからだけではないだろう――実のところ俺も、待ち合わせ場所で流星に声を掛けられるまで流星に見惚れていたのだ。
「何ていうか……ハリウッド映画版の王子様って感じだろ?」
「そんなこと初めて言われた」
 流星は目を瞬き、おかしそうに笑った。
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