8.内緒の話

 週明けの月曜日。
「カズにゃんカズにゃん! 報告です! なんとなんとこの度、長年にわたるアストレア布教活動が!! 実を!!! 結びましたぁっ!!!」
 毎朝の待ち合わせ場所――俺の住むマンションのエントランスで顔を合わせてから、コンマ数秒後。悠木は開口一番にそう報告してきた。
「よかったな」
「えっ……、えっ? 何だよ……反応、薄くねぇ?」
「薄いも何も、もうメールで聞い――」
「はぁ!? 何言ってんだよ! 電子メールと直接の報告じゃ感動の度合いが変わってくるだろ! カズはマジでメールだけで俺の熱く滾るパッションが伝えきれたと思う!?」
「いや……」
「だーろー!?」
 日曜、バイト中に掛かってきていた電話を折り返していたなら、今以上のテンションで彩られた『パッション』に晒される羽目になっていたのだろう。電話の前後に十件ほど送られてきていた長文のメールで内容を事前に知らされていて良かったと思う。
「だってだって、あの! あのしえりちゃんが!! 俺の貸したDVD一巻を丸々見てくれた上に、一期分の残りを店で全部レンタルして見てくれたんだぜ!? 大事件じゃね!? いくら旧作DVDレンタル全品半額セール中だったって言ってもさぁ!」
「……まぁ、確かにな」
 駅に向かって歩き出しながら頷く。
 メールによると、田上さんは金曜に悠木から借りていたDVD一巻を見て思いのほか『アストレア』を気に入り、自らの意思で近くのレンタルショップに続きを借りに行ったらしい。悠木をオタク扱いしていたし、元々アニメ好き、というわけでもなさそうだったのだが。
「あっ、今『何であの田上さんが?』って思っただろ? それがさぁ、どうも作画が好みだったらしい。アストレアは結構ぬるぬる動くからさ。バトルシーンとかすげー迫力あるし」
「ぬるぬる?」
「滑らかで綺麗ってこと。前にも言ったけど」
「ふーん。いや、覚えてない」
「覚えて! あとアストレアって色使いがちょっと独特でさ、特に光の取り入れ方がめちゃくちゃ上手いの。敵軍の襲撃の後、半壊した教会のステンドグラスから差し込む光にアストレアとカズが照らされてるシーンとか、もう見てるだけでマジで死にそうになる。神聖過ぎて。しえりちゃんも多分そういうところがいいって感じたんだと思う」
 何百回と聞かされたシーン、何十回となく見せられたシーンだ。酷く負傷し、椅子に寄り掛かった形で意識を失った主人公にアストレアが近付き、血に濡れた頬に触れ、涙する、ほんの数十秒のシーン。涙が光を抱き色を変えながら零れ落ちる演出が印象的だった。
 だがその前後のシーンは曖昧だ。悠木の口から何度か聞いたことはあるが――そもそも、俺は悠木から携帯端末で短い動画を見せられたり、目の前で小説を朗読されたりといったことはあっても、全編通して見たことは一度もない。小説・漫画・アニメ、いずれの媒体でも、だ。
「……そういえばさ、俺、お前からアストレア関連のものを一日貸してもらったことってねーよな」
「ああ、うん。だってカズ、全然興味ないっしょ」
「は? 全然ってことはねーよ」
 いきなり突き放されたような言い方をされて、少しむっとしながら答える。実際、全然興味がないわけではないし――だいたい、これまで悠木は全く『アストレア』に関心を示していない人間にも布教を試みてきたのだ。
「じゃー殆ど全く」
「いや普通にちょっと興味あるし」
「え~~~~でもカズはさぁ、アストレアの世界を生きてるわけじゃん? 今更見る必要なくない?」
「…………俺が? アストレアの世界を?」
 俺はこの現実世界を生きているつもりだ、というニュアンスで尋ねたのだが、悠木はそれに気付かなかったか、あるいは意識的に無視して頷いた。
「そう。アストレアの世界。カズはカズだし、流星はアストレアだろ? そして俺はカズの親友。完璧にアストレアの世界だよ」
「……最近お前、更に意味不明なこと言うようになったよな」
「言ってません~。ええっ、むしろ何で分かんないの? ってくらい理路整然とした話してます~」
「…………つか、俺がアストレアの世界を生きてるんなら、お前もアストレアの世界を生きてるってことになるわけ?」
「いやならない」
「何で」
「カズは主人公だけど、俺はそうじゃないから」
「……じゃあ流星は?」
「アストレアはヒロインで主人公と同格の存在感だし、カズの運命の相手だから生きてるよ。アストレアの世界に」
 こんなことを、悠木は真顔で言う。
「てかさ! 俺、ブルーレイで買い直そっかな」
「は? アストレアを? プレーヤー持ってないだろ」
「それも買うの!」
「アストレアの為だけに?」
「そう。だって今殆ど商品展開してないから他に貢ぐとこねーし」
 俺は悠木の髪に目をやった。陽の光の下、毛先の方は殆ど金髪に見える。そう見えるように調整しているのだ――毎月のバイト代の三分の一近くを注ぎ込んで。
 これもアストレアの世界に悠木自身を近付ける為の経費だと考えたら……。
「何? セット崩れてる?」
「……いや普通」
「普通って何!?」
「あー、かっこいいかっこいい」
「へへへ、だよな、だよな~? 今日は珍しく完璧にセット出来たと思ってたんだよ」
 普段との違いで俺が認識出来るところといえば、悠木の顔に浮かんだ満足そうな笑顔くらいだったが――余計な口は閉じておくことにした。



 学校に着くと、悠木は何本か早めの電車で先に到着していたらしい田上さんに――正確にいうと田上さんの机に向かって突進していった。
「しえりちゃんしえりちゃん! おはよう! ところでアストレア見てくれたって――」
「ネタバレしたら卒業まで悠木とは口きかないから」
 田上さんは珍しくイヤホンで耳を塞いでいる。音漏れするほどの音量で音楽を聴いているのは、うっかりネタバレを耳にしてしまうような事態を防ぐ為なのだろうか。
「えー、しないって! 大丈夫大丈夫! ネタバレしません!」
「私が二期を見終わるまで私の近くでストーリーの話はしないで。絶対に」
「しないしない。絶対しません」
 悠木は田上さんの目線の位置まで腰を屈めて首を激しく縦に振り、指でOKマークまで作った。二人は見つめ合い、やがて田上さんはゆっくりとイヤホンを外した。
「ていうかさ、しえりちゃんストーリーも気に入ってくれたの? 作画だけって言ってなかった?」
「悪くは無かったと思うよ、まだ途中だけど。どちらにしろ展開が分かってる状態で見るより、殆ど白紙の状態で臨む方が絶対いいでしょ」
「うーん、確かに。あ~でもすげー語りてぇ! しえりちゃん、見終わったら絶対言ってね!」
「分かったから。あとDVD、ありがとう」
「どういたしまして~あっ、そういやさ、しえりちゃんにちょーっとだけお願いがあるんだけど……」
「何?」
 悠木は田上さんの隣に落ち着いた俺の方をちらりと見た後、田上さんから返されたDVDを鞄に仕舞いながら、妙に不自然な動きで俺に背を向けた。
「何だよ」
 あまりにあからさまだったので二人の方に顔を向けると、悠木は何故か鞄を閉めた。
「何でもない~しえりちゃん、ちょっと廊下の端の方でお話したいんですが」
「は?」
「秘密のお話があってさ~本当にちょっとだけだから! すぐ済むから! もちろん変なことは絶対にしないので! お願い!」
 田上さんは不審なものを見る目で悠木を見ていたが、結局悠木の勢いに押されて立ち上がった。
「もうすぐ先生来るんだけど」
「すぐ済むから大丈夫大丈夫」
「中西くんは連れてかないの?」
「カズには内緒の話だから」
 二人はそんな会話をしながら教室を出て行った。
 そして『すぐ済むから』の言葉通り五分ほどで帰ってきたが――俺の隣に腰を下ろした田上さんは「大したことじゃなかったけど、悠木が暫く内緒にしてって言うから、ごめんね」と俺が何か口にしようと考える前に質問をシャットアウトした。
 悠木はというと――俺がちらりと投げた視線を無視し、意味深な笑顔のマークだけのメールを送ってきた後は、まるで何事も無かったかのように振る舞い続けるだけだった。
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