10.昼食

 築十年も経ってなさそうな、洋風の洒落た二階建てアパートの二階。
 階段を上る音か話し声が聞こえたのか、流星がドアノブに手を掛ける前にドアが開き、中から満面の笑顔を浮かべたおじさんがエプロンを外しながら出てきた。やや右肩が傾いた細身の体と優しげな顔立ちは、記憶の中のおじさんと何も変わっていなかった。
「おかえり! いらっしゃい!! 待ってたよ! うわぁ~~~、一也くん本当に大きくなったねぇ! 流星もそうだけど最近の子は発育が良くて羨ましいなぁ! 顔立ちも大人っぽくなって、元気そうで良かった! あっ、僕のことは覚えてないかな!? 流星の父親の正隆おじさんだけど分かるかな!? あぁ良かった、久し振りだねぇ一也くん! どうぞどうぞ中に入って入って! お腹空いてる? ご飯作ったんだよ! 一也くんは洋食が好きだったよね? まだ好きかな? おじさん最近料理に凝っててねぇ~」
 おじさんは俺と流星を中に招き入れながら凄い勢いで喋り続けた。俺は「お久し振りです」「お邪魔します」程度のことをかろうじて口にすることが出来たものの、おじさんの勢いに完全に圧倒されていた。
「流星が一也くんと一緒にここでご飯を食べる予定だって言うからちょっと張り切っちゃったんだけど大丈夫かな? そうそうパンも焼いたんだよ! いやぁホームベーカリーって本当に便利で――」
「父さん」
 焼きたてのパンの匂いが漂う明るいリビングに入り、俺たちをソファに座らせてからも一人延々と話し続けようとするおじさんに、それまで「ただいま」の一言を返したきり黙っていた流星が、穏やかに声を掛けた。
「ん? ……あぁ、ごめん、二人とも。流星と一也くんが一緒にいる姿を久し振りに見られて、凄く嬉しくてねぇ」
「うん。父さん、カズくんがケーキを持ってきてくれたよ」
 俺は右手にぶら下げている袋の存在を流星の言葉で思い出し、おじさんに差し出した。
「ケーキ? そんな、気を遣ってくれなくても良かったのに。うん、でもありがとう。一也くん、どうぞゆっくり寛いでいって」
「ありがとうございます」
 俺が軽く頭を下げて言うと、おじさんはニコニコしながらリビングの端にあるキッチンの方へと歩いて行った。わぁいケーキだ、と嬉しそうに小さく呟くおじさんの声が微かに聞き取れた。
「一也くん、お腹は空いてる? ビーフシチューを作ったんだけど、もうちょっと後の方がいい? もう温めても大丈夫かな」
 おじさんは冷蔵庫にケーキの箱を仕舞いながら尋ねる。俺は流星の顔をちらりと見た。おじさんが俺の為に昼食を用意してくれていることは往路で流星から聞いて知っていたが、いつ食べるかまでは決めていなかったからだ。
「俺はどっちでも。カズくんが食べたい時で」
「じゃあ……いただきます。すみません」
「僕が作りたかっただけだから、気にしなくていいんだよ。じゃあ二人とも、手を洗っておいで」
「はい」
 二人で手を洗ってから戻ると、おじさんはキッチンの向かいにあるダイニングテーブルにサラダを置いているところだった。二人は椅子に座ってていいよとおじさんは言ったが、流星はパンを切り分け、俺は取り皿やスプーンなどを準備するのを手伝った。
「口に合えばいいんだけど。もし合わなかったら残していいからね。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
 テーブルの上には豪華な食事が並んでいる。香ばしい匂いを放つ厚切りの食パンに、ポタージュスープ。シーザードレッシングが掛かったベビーリーフとキノコと温泉卵のサラダ。メインはビーフシチューだ。それも昨夜俺が家で食べたもの――カレーの筈が最後のルーを入れる段階でビーフシチューに変身を遂げたそれ――とは全く違う、洒落たレストランで出されていても全くおかしくない、本格的な雰囲気のある一品だ。
 おじさんと流星がそれを真っ先に選んで食べ始めたので、俺もつられてスプーンを手に取った。具材はブロッコリー、じゃがいも、たまねぎ、人参、マッシュルーム、そして一際存在感のあるごろりと大きな牛肉。掬い上げて口に運んだ肉は驚くほど柔らかく解けて、その中からじわりとしみ出た肉汁は濃厚で奥行きのある味わいのソースと絡み合った。
 ……美味しい。
「味は……どうかな?」
 おじさんはスプーンを宙に止め、俺の目を見つめて尋ねる。
「美味しいです」
「あぁ良かった! 今日は成功だ。いやぁ、デミグラスソースから手作りした甲斐があったよ」
「本格的、ですね」
「うん。向こうにいるときは今よりも忙しかったし、通勤にも時間が掛かってたから、料理を楽しむ暇なんて無くてね。その反動で最近は暇さえあれば凝った料理に手を出してるんだ。まぁこれまで殆ど料理なんてしたことがなかったから、五回に一回は何とも言えないものを作り出してしまうんだが……」
「向こうの家にいるときだったら絶対二人に怒られてただろうね」
 流星の言葉におじさんはうんうんと大きく頷いた。『二人』は向こうに残った三人の内の誰を指しているのだろうと考えていると、それに気付いたらしい流星が俺に微笑みかけた。
「中学に入ってから、詩音が調理師、琴音が管理栄養士になるって言い出したんだ。それ以来キッチンは二人専用の空間になって、母さん以外は二人の許可を取らないとフライパン一つも使わせてもらえなくなったんだよ」
「流星ですらそうだったから、僕なんかとてもじゃないが、あの空間には入れなかったよ。でも料理は美味しかったなぁ。栄養価もしっかり考えてくれて、流星は二人のご飯でこんなに立派に……そうだ一也くん、久し振りに会って驚いたろう? 凄く成長してたから」
「……そう、ですね。でもかなり大きくなるかも、とは聞いてたんで」
「そうかぁ。うん。一也くんも大きくなったね。おじさんもおばさんも身長が高い方だったからなぁ。奈央ちゃんも大きくなったかい?」
「奈央は平均的に……」
「元気にしてる?」
「かなり。……母さんも元気です」
「かなり! 二人とも! それはいいことだ。安心したよ」
 おじさんはうんうんと頷きながらパンにバターを塗り、俺にも使うかとジェスチャーで尋ねた。俺は「大丈夫です」と遠慮した。シンプルな食パンだったが焼きたてなのもあって、そのままで十分美味しかった。
「ビーフシチューとパンはお代わりもあるからね」
「ありがとうございます」
「流星も」
「俺はいいよ」
「あ、そうだったね」
 何か二人の間で了解があったらしい。弁当を一緒に食べたときも体格にしては小食だったなと思っていると、
「少し食べる量を減らしてるんだ」
 流星は俺の思考を読んだように言った。
「何で?」
「向こうにいるときは二人から出された分を全部食べてたんだけど……これ以上大きくなっても困るし、元々食べることに興味がある方じゃないから」
 そう言えば昔からそうだった。秘密基地で食べ物を分け合って口にするときも、流星はその味や食べる事そのものではなく、秘密の場所で二人並んで何かを食べている、という状況の方を楽しんでいるように見えた。
「多分その辺りは母さんに似たんだろうねぇ」
「そうだね」
「母さんも流星と同じで淡白というか、冷静というか……人よりずっと情熱的な部分もあるんだけど、その代わり興味のあること以外はわりと何でもいいっていうタイプだから」
「そうかな?」
「うん、僕の見てる限りではね」
 流星が俺の方を見たので、軽く頷いた。流星の中身が昔のままなら、俺もおじさんと大体同意見だった。
「じゃあそうなんだ」
「うんうん。特に一也くんとかが良い例だね」
「カズくん?」
 おじさんは流星の方を見て頷いた後、俺に悪戯っぽい笑みを向けた。
「他の友達とはこっちが見ててびっくりするくらいあっさり別れてたけど、一也くんのことは結局再会するまで諦めきれなかったみたいだからね。その情熱のお陰で僕は一人寂しく転勤生活を送らずに済んだから、一也くんに感謝してもしきれないくらいで――」
「父さん」
 どうやらあまり掘り下げて欲しくない話題だったらしく、流星は咎めるように言った。おじさんは「はい、ごめんなさい」と叱られた子どものように答えた後、仕切り直しの為かわざとらしい咳払いをした。
「……うん、まぁ、それを抜きにしても、君たちが無事また再会出来て、僕も嬉しいよ。一也くん、いつでも遊びにきてくれていいからね。本当に、好きな時に好きなだけいてくれて構わないから」
「はい。……ありがとうございます」
「いいえ。僕も一也くんの顔が見られて嬉しいからね。……あぁそうそう、流星、一也くんにあのサルの話は?」
「まだしてない」
 おじさんはニヤッと笑い、半年前、流星たちの家に忍び込んできたサルの話をし始めた。
 曰く、付近の山から下りてきたそのサルは、開いていた二階のベランダから山崎家のキッチンに入り込んで、台所に広げられていた誕生日のご馳走の材料を食い荒らしていったのだという。それも双子たちが買い忘れた材料を入手する為に家を出ていた僅かな間に、だ。怒れる双子たちの手からサルは巧妙に逃れ、俺が昔住んでいた家を含む数軒の家々を荒らしまわった挙句、誰にも捕まらずに山へと戻っていったらしい。
 どうやらその話はおじさんの大のお気に入りらしく、随分と語り慣れた口調だった。よどみなく、面白おかしく語られる話に口を挟まず耳を傾けているうちに、俺と流星は食事を食べ終えてしまった。
「そのサル、味を占めたのかその後二度も山から下りてきてねぇ。大変だったんだよ」
「三回とも捕まらなかったんですか?」
「うん。どうも頭の良いサルだったらしくてね。……って、あああっ! しまった、もうこんな時間になってたのか!」
 おじさんは壁の時計を見てハッとしたように言った。時計の針は正午を十五分ほど過ぎた場所を指している。喋るのに夢中だったおじさんの皿には食事がまだ大分残っていたが、それを食べる余裕はもう残っていなかったらしく、おじさんは大急ぎで皿にラップをして冷蔵庫に入れた。そして俺と流星が自分たちの分の皿を流しに移し、冷蔵庫のケーキを食べ始めるまでの間に、おじさんは慌ただしく身支度を済ませてしまった。
「じゃあ、僕はこれから仕事だから。バタバタしてすまないね、ああいや立たなくていいよ、そのままゆっくりケーキを食べてて。いやいや、こちらこそ全部食べてくれてありがとう、腕を振るった甲斐があったよ。ケーキもありがとう。お皿は洗わなくていいからね。じゃあまた! 行ってきます!」
 おじさんは俺たちに向かって右手を上げると、くるりと向きを変えてアパートを出て行った。
 残された俺と流星は少しの間玄関の方を見つめていた。すると足音が消えて間もなく、焦り過ぎて誰かと衝突でもしたのか勢いよく謝るおじさんの声と、大丈夫ですよと返す女性の声がアパートの下の方から聞こえてきた。俺たちは顔を見合わせ、ふっと噴き出して軽く笑い合った。
「父さん、本当に慌ただしかったね」
 俺はケーキの最後の一かけらを口に運びながら頷いた。
「サルの話、人に会うたびにするんだ。俺と一緒にいる時だけでも百回くらいはしてる」
 ――正直なところ、おじさんがその話に熱中し始めるまで俺は密かに構えて待っていた。俺の親父のことや、流星と連絡を絶っていた理由や経緯について、おじさんから何か話があるのではないかと思っていたのだ。
 その予想が裏切られて俺はほっと安堵した。流星はまたかと思っていたのかもしれないが。
「おじさん、変わってないな。中身も、外見も」
「白髪が増えた、筋肉が落ちた、ってよく嘆いてるから、それを聞いたら喜ぶよ」
 流星はそう言いながら立ち上がった。
「ご馳走さま。カズくんの皿も流しに持って行っていい?」
「ああ。皿洗うんなら手伝う」
 俺が立ち上がると流星は首を横に振り、
「それより俺の部屋に行こう。大丈夫、ちゃんと綺麗にしてるから」
 遠い昔、俺を秘密基地に誘うときによく見せていた笑顔を顔に浮かべて言った。
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