7.別れの日/肩の温もり

『ちゃんとお別れをしておきなさい。あと少しでもう二度と会うこともなくなるんだから』

 母さんにそう言われたのは、俺が小学六年生だった年の初夏のことだった。
 そう言われる一か月前には、近々遠い場所に引っ越すことになったと告げられていた。友達に会いに戻るには遠過ぎる場所に、母さんと俺と奈央の三人で引っ越すことにしたのだと。
 別れの挨拶を済ませるようにと母さんが促したのは、俺たちが引っ越すことを知っている人間が極端に少なかったからだ。
 母さんはその頃近所の人間とは付き合いを殆ど断っていて、奈央の方はそもそもまだ何も知らされておらず、学校の方は母さんとの話し合いの結果、クラスメイトには直前まで引っ越しについて話をしないことになっていた。
 そして母さんに別れの挨拶を促された時点の俺は、友人に別れを告げるどころか、引っ越しのことやその原因である両親の離婚について完全に口を閉ざしていたのだ。
 だが俺たちの間に漂っている空気や、家に帰る車が二台から一台に減ったことから、きっと周りには薄々勘付かれていたのだろうと思う。
 俺たち家族と一番親しかった流星たち一家なら尚更のことだった。
「多分そうじゃないかって……おもってた」
 『秘密基地』で二人寄り添っていたとき、ついに引っ越しのことを告げると、流星は静かにそう返した。
 その日はよく晴れていて、日差しが強かった。俺たち二人は汗ばんだ体を日陰に置き、天井から薄く漏れ入る光が木の床を照らすのを見つめていた。
「いつ行くの?」
「夏休みが始まる前」
「……そんなに早く?」
「前から決まってた」
 俺の声は冷たかった。一か月もの間、胸に抱え続けていた秘密を打ち明けたばかりだったというのに、心はどこか麻痺したように何も感じなかった。
「そう、じゃあ、しかたないんだね……」
「そうだよ。しかたないんだ。どうしようもない」
「うん。分かってる」
 流星は悲しげに頷いた。
「電話、するから。それにぼく……カズくんに、毎日手紙を書くよ」
「は? 毎日?」
 俺の口から出てきたのは、それまで自分でも聞いたことがないような、ひどく悪意に満ちた声だった。流星は驚いたのかびくりと体を震わせ、見開いた目を一瞬俺に向け、また元の場所へと視線を戻した。
「うん、毎日……。でも切手代から足りなくなるから、一週間分をふうとうに入れて、まとめて出そうとおもってる」
「毎日なんて、そんなに書くことあるわけねぇし。ウソだろ」
 流星は「あるよ」と小さな声で反論し、自分のスニーカーの靴ひもを弄り出した。
「カズくんは……たまにでもいいよ。一か月に一回とかでも。パソコンかケータイ借りられるなら、メールでもいい。ぼく、待ってるから」
 俺は答えなかった。
 母さんの言葉が頭の中で響いていた。『もう二度と会うこともなくなる』
 そう、流星とはもう二度と会えないのだ。母さんはここに――父さんのいるこの場所に戻る気はないと言っていた。そして俺と父さんにはもう二度と会って欲しくないのだ、とも。その為にここにある全てとの関わりを完全に断つつもりでいる、というメッセージを、俺は母さんの今までの言動から読み取っていた。
「……ねぇ、どこに行くの? 電車で会いに行けるかな? ……ぼく、お金ためてカズくんに会いに行くよ。ぜったいに」
 流星は片手に抱えた両膝を時折すり合わせながら靴ひもを弄り続けていた。何も答えない俺をちらりと見たが、俺は無視した。流星が下唇を噛み、自身の手の平に爪を立てるのが見えた。
「カズくん……」
 流星は口の中で「カズくん」と小さく繰り返した。不安げな声だった。
 こういうとき俺はいつも流星の手を取って拳を開き、自分の手で握って安心させるような言葉を掛けた。場合によっては抱き締めることもあった。そうした方がいいと知っていたし、そうしたかったからだ。
 だがその時の俺はそうする代わりに、もう話は終わりだと言わんばかりに立ち上がって小屋から出ようとした。
「カズくん……どこ行くの」
 泣き出しそうな声。
「家に帰る。もう用は済んだから。流星も――」
 帰れよ、と続けようとした俺のシャツの裾を、流星がきつく掴んだ。
「……行かないで、カズくん」
 流星は膝立ちになって俺を見上げていた。そして俺が何か言葉を返す前に勢いよく立ち上がり、俺を強く抱き締めた。息苦しさを感じる程の強さだった。
「行かないで」
 流星の家のシャンプーの匂い。つんと鼻を刺激する汗の臭いも微かに混ざっていた。それを嗅いだ途端、冷たく麻痺していた俺の心が動き出してしまった。
「おれだって――」
 俺は自らの胸の奥深くに押し込めていた感情がみるみる内に体積を増していくのを感じた。制御出来なくなる。爆発する。言ってはいけない言葉を口にしてしまう。そう思った瞬間、俺は流星の体を抱き返そうとしていた手で、流星の体を俺から引き剥がした。
「カズ……くん」
 俺は棚の方へと歩いて行った。例の木箱を手に取り、頭上に掲げる。
 そして――思い切り、それを床へと叩きつけた。
「…………」
 流星は言葉を失っていた。
 木箱は蓋が外れ、中身が飛び出し、その中身のいくつかは砕けていた。俺は木箱の本体を拾い上げて壁に投げつけた。それでも無事なままだったので、俺はそれを箱としての形を失うまで拾い上げては床や壁に叩きつけた。
 木箱が板きれと木くずに変わると、俺は中身の方を破壊し尽くすことにした。二人で撮った写真、二人で懸賞にハガキを送って当てたロボットのフィギュア、昔二人で遊ぶのに使っていたレゴブロックのピース、家出したときの非常食と称して仕舞い込んだカップラーメン、二人で作っていた拙い冒険物語の設定表、俺が小学校を卒業するときに埋めて十八になったら掘り返すことにしていた缶。木箱の蓋で殴り、足で踏みつけて徹底的に破壊した。
 俺は最後に、缶の中に入れていた互い宛ての手紙を破り捨て、光の中に散らばる残骸の上に降らせた。ひらひらと落ちていく紙切れが床か残骸の上に落ち着くのを見届けてから、俺はやっと動きを止めた。いつの間にか息が上がり切っていた。
「……カズ、カズく……」
 流星の目からは大粒の涙が流れていた。いつから泣いていたのだろう。俺は流星を抱き締め、キスをしてその涙を止めてやりたいと強く思った。そして他の誰にもその役割を――恋人として流星に触れる権利を渡したくないと思った。
 幼いながらに、俺は流星のことを愛していたのだ。
「もう二度と」
 流星は泣きながら俺の顔を見つめていた。流星を睨み、突き放すような声で話す俺の顔を。
「もう二度と、流星とは会わない。連絡もしない。もう二度と話もしない。流星の方からもして欲しくない。これで終わりなんだよ。もう俺は流星のことを好きじゃない。もう俺たちは恋人でも友だちでもない。赤の他人だ。おれはもう流星の恋人でもオウジサマでもない。だから自分のことは自分でカタをつけろよ、分かったな。俺とはこれでさよならなんだ」
 返事は無かった。返事を求めていたわけではなかったから、それでよかった。
 俺は流星を置いて外へと出ると、何歩か歩いてから全速力で走り出した。途中何度か転んで膝を酷く傷付けたが、すぐに立ち上がって走りを再開し一度も振り返らずに自宅へと戻った。
 その日以降、俺は流星を心から締め出し、徹底的に無視し続け、引っ越しの当日も俺を見送る流星の顔に一瞥すら与えずに車へと乗り込んだ。
 ――これが、俺と流星の別れだった。





 午後の授業の間ずっと、俺は昼休みに起こった出来事の余波の中にあった。手や目は動いていたが、授業の内容もノートに書いた字も全く頭に入ってはいなかった。
 帰りのホームルームを前にした時間、俺は流星にメールを打った。
『放課後会いたい』
 返事はホームルームの間に入った。
『分かった。どこで?』
 教室まで迎えに行く、と返して携帯をポケットに入れた。
 ホームルームは長引かずに数分で終わった。だが最後の挨拶が済むやいなや、悠木が俺の席に突撃してきた。
「カズにゃんカズにゃん!! 帰ろーぜ! 俺今日はバイト休み! だからカズのバイト先でお菓子買って帰る!!!」
「あー……いいけど、先にちょっと流星のところに寄っていきたい」
「マジ!? 一緒に帰る?」
 期待の眼差し。
「いや、話するだけ」
「ええー……まあいいや、分かった。じゃあ俺、田上さんと話しながらイイ子で待ってる」
 田上さんは露骨に「は?」という顔をしたが、悠木は俺の机に座って無理矢理に話を始めた。さすがに他人を犠牲にするわけには、と思い田上さんの顔を見る。田上さんは既に諦め顔だった。
「早くね」
 そう言って田上さんは俺に教室の外へと出るよう視線で促した。
 流星を待たせるわけにはいかなかったので、俺は「悪い」とだけ言って教室を後にした。

 一年の教室で流星を見つけるのは簡単だった。ホームルームを終えて廊下を歩いたり走ったり立ち止まったりする人々の中、とび抜けて高い位置に綺麗な金色の頭があれば、それが一目で流星の物だと分からない方が難しい。
 俺が気付いた瞬間に流星も俺に気付いた。俺が手を上げると流星も上げ、俺の元へと歩み寄って来た。
「……なぁ。どっか二人で話せるところに連れてっていいか?」
「うん」
 一年の教室が並ぶ廊下から少し歩いて違う棟に移り、階段を上がって、授業以外で使われることのない実験室や資料室がある階まで流星を導いて行った。幸いなことに、教師の姿も他の生徒の姿もなかった。俺は窓と窓の間にある壁の前に立って深呼吸を一つし、流星の手を取ってそっと引き寄せてから、その背中に手を回して抱き締めた。
「ごめんな」
「……うん」
「あの時やったこと、ずっと後悔してた。それに……あの時、最後に流星に言ったことは全部嘘だから」
「分かってる」
 体を離すと、流星は複雑な感情が揺れ動く目で俺を見つめ、それから気まずげに微笑んだ。
「本当は内緒にしてるつもりだったんだ。カズくんの為にここまで会いに来たなんて……ストーカーみたいだから。それに」
「それに?」
「おじさんに聞いたんだ。カズくんの住んでる場所のこと」
「親父に……」
「うん。ごめん」
「いや、流星が謝ることじゃない。……ただ驚いただけで。親父が俺たちの居場所を知ってるとは思ってなかったから」
 親父と母さんは俺の知っている範囲では全く連絡を取っていなかった。母さんの中で親父は元々存在しなかったかのように扱われ、そのせいで俺と奈央の間でも親父に関わることは殆ど禁句のようになっていた。
 最初から知らされていたのか、あるいはどこかで連絡を取り合ったのか。
「……親父、何か言ってた? その、母さんとか……俺のことについて」
「『カズと奈央によろしく』って」
「……何か、普通だな」
「そうだね」
「それだけかよ、って返したい」
 冗談めかした声で言ったが、流星は笑わなかった。
「連絡先、変わってないって言ってたよ。もし番号が分からないなら、教えようか?」
「……いや、いい」
 流星はそれ以上踏み込まず、「そっか」とだけ返した。
「……なあ、今日途中まで一緒に帰るか? 悠木もいるけど」
 流星は首を横に振り、静かに微笑んだ。
「今日は道場の見学を入れてるから、父さんが車で迎えに来てくれるんだ」
「そっか」
「来週の日曜、楽しみにしてる」
「ああ……俺も」
 俺たちは階段を降りたところで別れた。別れ際に流星が見せた笑顔は、無理して浮かべた作りモノではなく、どこかすっきりとした、含みのない自然な笑顔に見えた。



 教室に戻ると意外な光景が俺を待っていた。悠木と田上さんが顔を突き合わせて真剣に話し込んでいるところだったのだ。
「あ、カズ!」
 真剣に話し込んでいても鼻は利いたらしく、教室に一歩足を踏み入れた瞬間に声を掛けられた。近付いていくと田上さんは悠木から何かを受け取って鞄に入れ、立ち上がった。
「じゃあ私、帰るね」
「えっ、もう帰るの!? うーん、じゃあまた月曜に! バイバイ! 月曜にまた会おう!」
「はいはい、バイバイ。中西くんも、じゃあね」
「ああ、……ありがとう」
 悠木の相手をしてくれて、とは口にせずとも伝わったらしく、田上さんは軽く頷いて教室を去って行った。
 駅まで話しながら聞いたところによると、悠木はどうやらあの短時間で田上さんに『アストレア』DVD第一巻を貸すところまでこぎつけたらしい。それにも驚いたが、それ以上に驚いたことがあった。
「しえりちゃんにさー、SNSのアカウントとか教えてもらったのはいいんだけど」
 しえりちゃん。いつの間にか下の名前で呼ぶようになっていたのだ。それもきっちり本人に了承を得た上でのことらしい。
「……だけど?」
「速攻で全部ブロックされた。悲しい」
「いつものことだろ」
「まぁそうだけど今回は本当に一瞬だったからね!」
 俺の携帯は中学時代から使い続けている、本当に最低限の機能だけの機種なので詳しくは知らないが、悠木は基本的に女子と連絡先を交換してもすぐに無視されるようになるか、SNSであればブロックされてしまう。悠木のことをかなり気に入っている奈央でさえ『オンライン上ではちょっと無理』と言うくらいなので、相当鬱陶しいのだろう。
 ちなみに俺とのメールではこちらが短文で送っても絵文字付きの長文で返してくる上に、俺がやめなければやり取りは延々と続き、俺がやり取りをやめても大抵の場合はその日の内にまたメールが送られてくる。
「でもメールはしていいって」
「へぇ」
「俺のアドレスは一日に三通までは受け取る設定にしてて、四通目からは闇に葬られるらしい」
「…………」
「そういや流星とはどーだった?」
「ああ……うん」
「ああうんって何だよ。どんな状況?」
「多分……悪くはなってない」
「ふーん? それくらいなら俺の出番はまだあるってことかな?」
 悠木はニヤニヤしながら電子掲示板を見上げた。電車はもう間もなくホームに入ってくる頃だった。
「……何企んでんだよ。つか来週の日曜のこと、勝手に決めて勝手に流星に話しただろ」
「話したよ。だって三人で遊びたかったんだもん」
「……もんってお前…………で、どうすんの」
 当日合流した後の予定は既に決まっているのか、あるいはこれから決めるのか。
「ん~、それは後のお楽しみってことで。日にちあるしさ。あえて言うならヒントは冒険……かな!」
「は?」
「ほらほら、電車来たぜ~」
 促されるまま乗り込んだ電車の中で詳細を尋ねてみたが、はぐらかされるばかりで何も聞き出せなかった。
 俺が尋ねるのをやめて一駅か二駅過ぎた頃、悠木は急に欠伸をし始めた。それまでは全く眠そうな素振りは見せていなかったし今日は体育も無かったが、不思議には思わなかった。悠木は夕方以降に電車に乗ると魔法にかけられたように眠たくなる体質なのだ。
「寝れば?」
「んー」
 隣に座る悠木の顔を横目で見る。既に目を閉じていた。そしてその頭は反対側に座った大学生くらいの女性に傾きつつあったので、俺は自分の方に悠木の頭を引き寄せ、肩に凭れさせた。
「着いたら起こすから、寝ろよ」
 いつものようにそう声を掛けたが、悠木は既に夢の中だった。
 悠木の髪からは髪を最初に染めた頃から使い始めた香水の香りがした。嗅ぎ慣れた香りだった。
 混む朝は二人並んで座ることはあまりないが、悠木がバイトの為にバスに乗る日以外の夕方は大抵いつもこんな風だ。凭れ掛かった頭から漂う香水の香りの中、肩と腕に重みを感じ、電車の動く音と悠木の小さな寝息を聞きながら、目的地にたどり着くのを待っている。
 誰にも言ったことは無いが――俺はこの時間が好きだった。これがもし数十分ではなく数時間続いたとしても、きっと文句を言うことはないだろう。
 それなのに、何故か今の俺の胸には途方もない罪悪感があった。深く沈み込んで息苦しさを感じさせるような罪悪感が。

 俺の横で眠っている悠木は、普段の様子が嘘のように静かだ。
 触れた部分から伝わってくる温もりが俺に何かを気付かせようとする。
 あと少しで鮮明に形を現す筈だったぼやけた像を、俺はポケットから取り出した暗記表の単語を声に出さず読むことで掻き消し、頭の中から追い出した。
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