6.電波

 気付くと教室の前に立っていた。ぼうっと考え事をしている本体を、俺の足は知らぬ間にここまで運び届けてくれたらしい。
 俺の席には悠木が、その横の席にはいつものように田上さんが座っている。二人とも手に持った携帯を黙々と操作していた。
「あっ、カズ! おかえり~!」
 悠木は動物的素早さで俺に気付き、片手を上げて大きく振った。軽く手を上げてそれに応える。悠木が前の席に移ったので、俺は自分の席に腰を下ろした。
「どうだった?」
 いつものように後ろ向きに座って俺を見る悠木の顔は、希望と期待とエネルギーとに満ち溢れていて、まるで人懐っこい子犬のようだった。
「何が」
「何がって。何がって。俺のこと流星に売り込んどいて、って頼んでたじゃん!」
「ああ……悪い、忘れてた」
「わっ……忘れてただぁ!? 酷ぇカズ! 人でなし! 俺の心を弄んだんだな!」
 田上さんは携帯から顔を上げて『相棒が帰ってくるなりこれか』という目で悠木を一瞥し、また携帯の方に目を戻した。
「ああーカズはいいよなー! 幼馴染ってポジションは揺るぎようがないもんなー。俺も今度流星と一緒に飯……飯を……カズ? どした?」
 悠木は急に声色を変え、俺の目をじっと覗き込んだ。
「……なに」
「うーん、何かさぁ……もしかして元気ない? いつもそうだけど、いつもより」
「いや別に。普通」
「お腹痛い? 流星とケンカした? お菓子食べる? 俺キャラメル持ってるよ。美味しいキャラメル」
「いや、いい。……だからいいって。おい」
 悠木は食べるかと聞いた瞬間から自身のポケットをがさごそと漁り初め、俺の返答と呼び掛けを完全に無視し、スラックスのポケットからついに見つけ出した小箱を俺に差し出した。
「はいどーぞー」
 コンビニやスーパーで見掛ける有名メーカーの物ではなく、洋菓子店にでも置いていそうな洒落た小箱。その中に三、四個のキャラメルが収まっている。大方、バイト先の常連客にでも貰ったものだろう。
「……ポケットに入れてたんだよな?」
「大丈夫大丈夫! 生キャラメルじゃないし。多分」
「…………」
 心なしか溶け気味のキャラメルを受け取って口に入れた。……甘い。
「田上さんも食べる?」
「絶対いらない」
「えー? 美味しいのになぁ」
 悠木は不思議そうに言いながらキャラメルを上に高く投げ、自分の口でキャッチした。
「うんうん、美味い。だろー、カズ?」
 俺は「そうだな」と頷いて窓の外に目をやった。下を見ればぽつりぽつりと校舎に戻っていく人々の姿。少し視線を上げれば第一集会所の屋根が見えた。
 屋根の上で羽を休めるカラスを見つめ、舌の上の甘さを感じながら、俺はまた流星のことを考え始めた。俺を抱き締め、泣き出しそうな顔で俺に会いたかったと、会いにきたんだと告げた後、体を離して何でもなかったかのような顔で笑った流星のことを。

『ごめん。ちょっと勢い余った』
『こんなこと言うつもりじゃなかったんだ』
『会いにきたっていうのは……父さんの転勤先、長野と愛媛と広島とこっちから選べたから、どうせならこっちがいいって我が儘言ったんだ。それだけ』
『俺もう行かないと。じゃあカズくん、また』

「――カズ。聞いてる? なぁ、カズってば」
 体には流星に抱き締められた感触がまだ残っている。これが流星の気持ちの強さなのだろうか。抱き返してやれば良かった――そう悔やみながらも、俺は自分の中に迷いがあることを自覚していた。
 流星がもし俺のことをまだ特別な意味で好きなのだとしたら。まだ好きでいてくれたらと期待を抱いていた癖に、いざその可能性が現実的になると、俺は自分がどうしたらいいのか――どうしたいのかすら分からなくなった。
「カズ。おーい。カズ。カズ! カズ、カズ、カズカズカズカズカズカズ!」
 呪文のように俺の名前が繰り返され始めたかと思うと、机がガタガタと揺れ始めた。俺の意識は否応なしに現実へと戻される。
「……おい、揺らすな」
「だって。だってカズが俺のこと無視するから!」
「考え事してたんだよ」
「考え事ぉ? 俺のことも考えろよ~!」
 悠木はまたガタガタと俺の机を揺らし始めた。
「だから揺らすなって……分かった。分かったから。話聞くって」
 ぴた、と悠木の動きが止まる。悠木は俺を見つめ、それからまた机を掴んだ手を動かす素振りをした。
「こら」
 手首を掴んで強制的に動きを止める。悠木は『構ってもらえて嬉しい』とマジックで書いたような顔で「強引だなぁカズ」と呟いた。俺は足で机の下部を固定し、注意深く悠木の様子を窺いながら手首を解放した。
「……それで?」
「ん? ああ、あのさぁ、カズと流星のことなんだけど」
 予鈴が鳴った。一瞬それに意識を取られた俺と違い、悠木は俺をじっと見つめたままだった。
「カズとアストレアも、再会した後は色々あったんだよ。前世では長いこと心が通じ合ってたけど、生まれ変わったカズには前世の記憶が無かったし、他にも障害がたくさんあっただろ? でも最後にはちゃんとまた通じ合って幸せになれたから、カズと流星も大丈夫だってことを俺は言いたかったわけ」
「…………」
 上手く意味を呑み込めなかったが――特徴的な単語があったので、『アストレア』関連の妄想なのだということはすぐに分かった。
 そして『アストレア』の主人公の名前が『菅原和彦』――通称『カズ』であることを、俺は十秒ほどかけて思い出した。
「カズって……俺じゃなくて、アストレアの主人公の方のことか? 何で流星が出てくるんだよ」
「え? 流星がアストレアそっくりだからに決まってんじゃん」
「……アストレアって、女じゃなかったか?」
「そうだけど、男か女かなんて些細な違いだろ。髪と瞳の色なんかアストレアそのものだし、名前とか雰囲気もアストレアを思わせるし。俺、一目見た瞬間から流星はアストレアだって思ってたよ」
「本気で言ってんのか?」
「うん。でさ、つまりカズと流星は運命の二人なんだから、最終的にはハッピーエンドなんだって。OK?」
「いや……、OKじゃねぇよ」
「何で?」
 何で? は俺の台詞だ。不思議そうに首を傾げる悠木はおそらく、今自分が日本語を喋っていないことを全く自覚していない。
「うーん、だからさぁ。カズはカズで流星はアストレアだなんだって」
「…………百歩譲ってアストレアが流星なのはまだ分かる。けど俺が主人公とイコールってのは……つうか、お前は主人公目線でアストレアが好きなんだろ?」
「シュジンコウメセンデアストレアガスキ?」
「いや、だから……主人公に感情移入してたんじゃねぇの?」
「俺が? いや、俺はずっと主人公の親友目線で見てるけど?」
 主人公の親友――どんな男だっただろう。いや、女だったかもしれない。思い出せなかったが、悠木と同じ髪の色をしたキャラクターがいたような気がする。中学の頃、悠木が唐突に黒髪から派手に髪色を変えたとき――光沢のある明るい茶色に薄くピンクとオレンジを混ぜたような今の色にしたとき、悠木はそいつの真似をしたのだと言っていた。
「て、ことで。分かった、カズ? 心配する必要ないんだって。今どんな状態でも、カズとアストレアは上手く行く運命なんだからさ! ……あ、長谷川くん」
 悠木は自分の肩をぽんと叩いた少年――悠木が腰掛けている席の本来の持ち主を見上げ、「ごめんごめん、もう予鈴鳴ってた?」と言いながら立ち上がった。長谷川は昼休みを部室で過ごすことが多く、悠木にいつも快く席を貸してくれているが、当然それには予鈴が鳴ったら返却するという条件があった。
「悠木、お前また中西くんに電波送信してたの?」
 長谷川は椅子に座り、教科書を机に出しながら呆れ顔で言う。悠木は自分の本来の席――廊下側から数えて二番目の列の、後ろから二番目の席に移動しながら頭を横に振った。
「だからー、電波じゃなくてアストレアの話だって!」
「だからアストレアって何だよ」
「女神だよ。正義の女神アストレア、善の心を持った美しき女王、鉄の時代においては魂の欠片が流星として零れ落ちて、奇跡の力を持った人間の女の子として生を受けた……」
「ほら電波じゃん」
「何で!?」
 悠木は席に着いて十秒ほど長谷川の答えを待っていたが、自分に見向きもしない長谷川の姿を見て無駄だと悟ったらしく、どろりと溶けたスライムのような格好で携帯を弄り始めた。
 本鈴が鳴った後、遅刻癖のある教師の到着を待つ間。長谷川は唐突に「なぁ」と言いながら振り返った。
「あいつ、前からあんな感じだったっけ? 中二で同じクラスになった時はまだ普通だった気がするんだよな」
 長谷川は俺たちと同じ中学の出身だった。悠木と長谷川が友人と言えるほどの付き合いをしたことがあるかは知らなかったが、悠木はその頃から目立つ存在だった。
「……さぁ。アニメにハマったのは中二の終わり頃だったと思うけど」
「あー、やっぱ例のアストレアが原因かぁ。アニメ怖ぇー」
 長谷川はそう言いながら前を向き、参考書を読み始めた。
 携帯がポケットの中で震える。まだ教室の扉は開きそうにない――携帯を開いた。

『大丈夫、心配ないって。俺に任せて』

 差出人の方を見ると目が合った。悠木はVサインを出し、ニッと笑ってから前を向いた。
 授業が始まるまで、俺は流星のこと、悠木のことを考えていた。
 そして思う――もし悠木が、俺が五年前流星に対して言い放った言葉を聞いたなら。あるいは、中二の頃の悠木なら。
 同じように、心配ないと言って笑っただろうか?
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