3.秘密基地

 よく晴れた日の午後、鮮やかな緑が丘を覆っている。それは遠い日の記憶だった。
 アスファルトで舗装された道の近くでは、道にせり出した草が刈り取られたばかりのようだった。つんとするにおいが鼻を掠める。だが丘を半分も上ってしまうと穏やかに流れる風がそれを吹き飛ばし、丘の向こうにある川のにおいを連れてくる。俺と流星は二人並んで丘を越え、川に架かった橋を渡り、壊れた手押し車を避け、生い茂った蔓草と灌木の間を抜けて、『基地』の前に辿り着いた。『基地』は俺と流星しか知らない、秘密の場所だった。もしかすると俺たちがそう思っていただけで大人たちは存在を把握していたのかもしれないが、少なくとも、そのときの俺たちにとっては二人だけの秘密基地だった。
「この前」
「うん」
「あたまにわっか、付けてただろ」
「付けられてただけだよ。カズくん、見てたんだ」
 俺の唐突な問いに、流星は気恥ずかしげに答える。
 三日前、学校から帰って母親に頼まれた用事を素早く済ませ、はす向かいにある流星の家に行こうとしていたとき。俺は庭で頭に花輪を飾っている流星を見掛けた。シロツメクサで編まれた花輪を流星に被せたのは、状況から推測するに流星の妹の双子たちだった。流星は妹たちに甘いから、きっと断れなかったのだろう。流星の母親の声がし、妹たちがふたり手を繋いで家の中に戻ると、流星は辺りを見回して花輪を取り、それを玄関にあった犬の置物にそっと被せた。
「見てた。何で取ったんだ?」
「だってぼく、女の子じゃないし」
「そっか」
 流星の金色の髪に似合って、すごくきれいだと思ったのに。
 そう言いたかったが、言えなかった。思ったことを素直に口にするのは恥ずかしかったし、そうしない方がいいと分かっていたからだ。俺は何でもない顔をして三段しかない階段を上り、『基地』の扉に手を掛けた。ギギギ、と音がして木製の扉が開く。『基地』は打ち捨てられた小屋だった。
「あっ」
 声を上げたのは流星だ。中に入った俺たちの足元を、丸々と太ったねずみが駆け抜けて外へと飛び出していった。
「かじられたかな?」
「だいじょうぶだろ。ちゃんとハコの中に入れてたし」
 俺は小屋の隅にある殆ど朽ちた棚に手を伸ばし、大きな木箱を取り出した。ずしりと重い木箱は元々ここにあったもので、留め金の部分が錆びているが、まだ十分に使える代物だ。俺たちはこの中に自分たちのものを入れていた。俺がその箱を取り出している間に流星は小屋の中央に座り込み、穴の開いた天井から漏れ入る光の中で俺を待っていた。さらさらとした金髪が天使の輪を作ってきれいに光っている。俺はその頭に、双子たちが作ったあのわっかをのせてやりたいと思った。
「どうだった?」
 流星は軽く首を傾げて尋ねる。俺は小さく頷いた。ねずみがこの箱を開けた形跡はなかった。
 流星と向かい合うようにして腰を落ち着け、二人の真ん中に箱を置いて中を開ける。やはり侵入者の形跡はなかった。流星は中を覆っていた布きれを取り、俺に菓子の袋を差し出した。それは一週間前に訪れたときに仕舞っておいたもので、次に来た時に食べることにしていたものだった。俺は手のひらを服に擦り付けて綺麗にし、それを受け取った。中に入っていたクッキー六枚を半分ずつ分け、三枚を流星に渡す。俺たちは暫くの間ゆっくりとそれを齧り、すっかりなくなってしまうと箱を元の場所に置いて、ごろりと寝転んだ。小屋の床は木で出来ていて、ささくれ立っていたり凹んだり腐食したりしているところがあったが、俺たちのいる場所は比較的きれいで寝心地がよかった。
「あさって、パークに行くことになったんだ」
 寝転んで数分経った頃、流星が天井を見上げながら言った。僅かに空いた穴からは澄んだ空が見える。
 パークというのは、俺たちが住んでいる県の端にある遊園地のことだった。流星たち一家は半年に一回の頻度でそこに出掛けていた。
「お母さんが、カズくんとなおちゃんもよかったらどうかって。ぼくもカズくんがよかったら、いっしょに行ってほしい」
 流星は俺の方へと顔を向けて言った。期待の眼差し。俺は直視できなかった。
「たぶん、ダメだって言われると思う」
「……じゃあ、また今度だね」
 流星の声には微かに失望が滲んでいる。俺が前回の誘いにも同じ言葉を返したことを覚えているからだ。
 だが仕方のないことだった。大抵の土曜日は隣町の祖父母の家に行くことになっていたし、そうでない土曜日は妹の面倒を見なければいけなかった。妹は一年生になったばかりで、学童保育施設が休みの土曜日は一人に出来ない。妹は人一倍好奇心が旺盛で目が離せなかった。母さんは仕事があるし、手の掛かる年頃の妹を流星たち一家に預けることを良しとしなかったから、必然的に俺も出掛けられなくなってしまう。
 とはいっても、妹の奈央は可愛かった。俺は妹を恨んではいなかったし、流星と双子たちも奈央のことを気に入っていた。もう少し大きくなったら、奈央と奈央より一つ年上の双子は一緒に遊ぶことになるだろう。
「カズくん」
「ん?」
「あしたもここに来る?」
「何で?」
 『基地』には一週間に一度か、十日に一度訪れることになっていた。あまり入り浸っていると誰かに気付かれてしまう恐れがあるからだ。他にも遊ぶ場所がないわけではないが、二人きりでゆったり出来るのはここと、俺の家だけだった。流星も俺も他の家の子とは遊びたがらない。金髪に青い目をした流星はよく『ガイジン』『おんな男』と呼ばれてからかわれるし、それに怒りを示す俺は『ガイジンのなかま』『オウジサマ』だったからだ。
「……ヘンだって言わない?」
「言わない」
 そう答えると、流星は顔だけではなく体ごと俺の方へ向けた。
「カズくんがどっか遠くに行っちゃう気がして、こわいんだ」
「何で? 行くわけないだろ」
「でも」
「おれは流星とずっといっしょにいる」
 流星は不安げに唇を噛んだ。
「となりのおばさんたちがきのう話してるの、ぬすみ聞きしたんだ。カズくんのところ、さいきんケンカばっかしてるって。だからもしかしたらリコンするかもしれないって。リコンしたら、お父さんとお母さんがはなればなれになるんでしょ」
 俺は驚いて上体を起こした。
「リコン?」
「うん」
 俺の剣幕に驚いたのか、流星は睫毛の立てる音がぱたぱたと聞こえるような瞬きをした。
「そんなの、おれ聞いてない」
「おばさんたちが話してただけだよ」
 だが、俺の両親がそのころ頻繁に喧嘩をしていたことは確かだった。俺は殆ど毎晩のように怯える奈央を自室に連れていき、奈央と遊んで気を逸らす役目を果たしていた。だから家の中の空気がよくない方向に向かいつつあること、母さんと父さんが憎み合い始めていることは知っていた。
「そんなの、おれ聞いてない……」
 もう一度不安と共に呟いて、俺は流星を見る。流星は自分がもたらしたものに戸惑っているようだった。それでも目を逸らしはしなかった。
「そうならないかもしれないよ。ぼくがこわがってるのも、かんちがいかもしれない」
 慰めの言葉を、俺は沈黙の後に軽く頷いて受け取った。そして自分と流星、両方を安心させるために口を開いた。
「流星が来たいって言うなら、あしたもここに来る」
「よかった!」
 流星はその顔にぱっと笑みを広げた。俺は思わずつられて笑顔になった。流星が笑うときに見せる真っ白な歯や、持ち上がるやわらかな頬、細められた綺麗な目は、俺のお気に入りだった。当時九歳の流星はまるで天使のように中性的で、きらきらと輝いていた。
 俺はもう一度寝転がり、流星の方に体を近付けた。流星も俺に体を近付けた。
「カズくん、もういっかい言って」
「何を?」
「ぼくとずっといっしょにいるって」
「おれは流星とずっといっしょにいる」
 俺は流星の手に自分のものを重ねた。流星はその手を見た。俺の手は流星のものより小さい。
「ぼく、手も足も大きい」
「そうか?」
 流星は華奢だが、そういえば背も俺より少し高かった。
「ひいおじいちゃんに似てるから、あと何年かしたら多分すごく大きくなるだろうって」
 流星と似ているという人物に、俺も流星も会ったことはなかった。俺たちが生まれる前に亡くなっていたからだ。ロシア人の彼は二十代の後半で生まれ育った土地から日本に渡り、日本人の女性と家庭を持って、日本に骨を埋めた。彼の子孫の中で流星が一番彼に似ているという。隔世遺伝、というらしい。
 確かに、流星の髪や目の色は写真の中の彼とそっくりだった。両親はどちらも平均的な日本人の容姿をしているというのに。成長して体格も似るのなら、抜きんでた長身とがっしりとした筋肉が流星にも身につくことになる。
「もしそうなっても、ぼくといっしょにいてくれる?」
「いるよ」
「女の子みたいじゃなくなっても?」
 流星が写真の中の人物のように成長するとはとても信じられなかった。いくら似ているといっても目の前にいる流星の姿は女の子より女の子のようで、他の奴らが平気で侮辱出来ることが理解できないくらいだった――男の子は女の子に優しくするものだと母さんから教えられていたし、流星くんのことはあなたが守ってやりなさいと言われて育ったせいかもしれない。
 想像はできなかったが、俺は頷いた。どんな姿になったとしても、流星は流星だ。
「よかった」
 ほっと溜息を吐いた流星に、俺はひとつ気になったことを尋ねる。
「流星は、ひいおじいちゃんみたいになりたいのか?」
「どうだろ……分からない」
「何で?」
「あんな風になったら、たぶん世界がぜんぜんちがってみえるんだろうなって思うけど……」
「なら、なりたいんだろ」
「けど、カズくんはぼくが女の子みたいな方がいいでしょ」
 え、と俺は驚いて声を上げた。
 『女おとこ』と呼ばれることに、流星が強い怒りを示したことは一度もない。だが歓迎していないことも俺は知っていた。流星のことは守るべき存在だと思っていたが、言葉の上では出来る限り女の子扱いしないように努めていた筈だった。
「何でそんなこと言うんだよ」
 それに、つい今しがたどんな姿になっても構わないという気持ちを伝えたばかりだ。流星が何故そんなことを言うのか分からなかった。
「……ごめん」
「おこってない」
「そうじゃなくて、女の子みたいな方がいいっていうの、本当はぼくの方なんだ」
「流星が? でも……」
「おんな男って言われるの、あんまり好きじゃない。けど、カズくんには女の子みたいに思われたい」
 今度こそ意味が分からなかった。俺は流星の灰色がかった青の目を見つめ、その目に何があるのか探ろうとした。
「だってぼく、カズくんのことが好きだから。恋人になれたらいいなって思う」
 流星ははっきりと、俺をまっすぐに見て言った。だが俺の手の下で流星の手が強く握り締められたのが分かった。緊張しているときいつもそうするように、無意識に手のひらへと爪を立てたに違いなかった。俺は流星に何か答えなければと思いつつもその手が心配になり、そっと指で拳を開いた。流星は力を抜いた。
「カズくんは……ぼくのこと好き?」
 それは自分と同じ意味で好きかという問いに違いなかった。
 正直なところ、俺にはどういう違いがあるのか分からなかった。流星は他の友達とは明らかに違う特別な存在だったし、流星が一つ年下でさえなければ授業中も一緒にいたいくらいだった。だがそれと『恋人』という関係への欲求は結びつかない。
 それに――『好き』という言葉は何となく気まずいもので、馴染みがなかった。俺は物心がついてからただの一度も、誰かに対してそれを口にしたことがなかった。
「おれは……流星のことを……」
 困惑している俺の前で、流星は悲しげに顔を歪ませた。自分が流星にそんな顔をさせてしまったことに俺は強いショックを受けた。傷付けるつもりなどなかった。だが傷付けてしまった。
 何とかしてこの状況を解決出来ないかと、俺は必死に考えた。
「なあ、流星」
「うん」
 流星は殆ど泣きそうな声で答えた。
「たしかめてもいいか?」
「何を……?」
「その……恋人になれるかって」
 流星は意図を測りかねたように目を瞬かせたが、それでもしっかりと頷いた。
 俺は上体を起こし、こちらを見上げる流星の肩をそっと押して倒した。そして顔を近付ける。それはクラスで一番大人びた女の子が年上の彼氏としたと吹聴していた行為で、恋人という関係にある二人がドラマや映画の中でよく行っていることだった。自分でも何故そうしようと思ったのかよく分からないまま、俺は流星の唇に自分のものを重ねた。流星も俺も目を閉じなかった。
 それはほんの一瞬のことだった。ふわりと触れ合っただけで、俺の体には驚くべき変化が起こった。頭をがつんと殴られたような衝撃、心臓は激しく自身を主張し始め、背中には形容しがたい奇妙な感覚が走る。俺はひどく混乱し、戸惑い、逃げ出したい気持ちになり、そして数秒の後にはそれを理解していた。
「おれも……おれも、流星のことが好きだ」
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