4.朝

「おはよう」
 どこかから声が聞こえた。平日の早朝、行き交う人々の足音や発着のアナウンスで駅構内は騒がしい。あまり大きくなかったその声は、だがはっきりと俺の耳に入った。女の子の声だ。近くの人に話し掛けたんだろうかと思いつつ携帯の画面から軽く顔を上げる。
「おはよう、中西くん」
「……おはよう、田上さん」
 田上さんは迷いのない歩みで俺に近付き、隣で足を止めて壁に背を凭れかけた。
「悠木は?」
「鏡の前」
 田上さんはすぐ傍の男子トイレを見て頷いた。俺はそこに入った悠木を待っているところだった。
 ――女子トイレは防犯のためか数メートル離れた場所に設置されていて、俺の横に田上さんが立った理由が順番待ちだという可能性は限りなく低い。誰かと待ち合わせにしても男子トイレの前はないだろう。
 というか、田上さんは明らかに俺か悠木に用がある。同年代の、それも昨日初めて会話した女の子と二人、という状況に若干の気まずさを感じながら、俺は携帯をポケットに仕舞う。田上さんは反対に鞄から携帯を取り出して画面を操作し始めた。
「流星くんのことなんだけどね」
 田上さんは画面に目を落としたまま話を始めた。
「別に彼女候補として紹介してって言ったわけじゃないんだ」
「……ああ、そうなんだ」
 唐突過ぎてそれ以外の言葉が見つからなかった。なぜ今そんな報告を?
「私、絵を描くのが趣味で、特に人物画が好きなんだ。だからもし機会があったらモデルを頼みたいなって思っただけ。だから安心して」
「安心して、って何が?」
 田上さんは携帯から顔を上げると、俺の目を訝しげに見返す。そして人目を気にしたように辺りを見回し、そっと口を開いた。
「だって中西くんと流星くんって幼馴染で、昔から付き合ってるんでしょ?」
「ど……」
「カズ、お、ま、た、せ~」
 どこでそんな話を。動揺しながらそう続けようとした俺の声を、トイレから出てきた悠木の陽気な声が掻き消す。
「お、田上さんじゃん、おはよ~! 朝から逆ナン? やるねえ~お二人さん。お邪魔じゃなかったら俺も仲間に入れてよ」
「悠木が昨日メールで言ってたんだけど、もしかしてあれ冗談?」
 田上さんは悠木の挨拶と揶揄を完全に無視して俺に尋ねる。それで大体の見当は付いてしまった。
「おい悠木、何のことか説明しろ」
「何が? 何で怖い顔してるの? カズくんとっても怖いよお~」
「田上さんにどんなメール送ったんだよ」
 あとお前らいつの間に連絡先交換してたんだよ。という疑問は後回しにして詰め寄る。
「え、ショタ流星めちゃくちゃ可愛いんだぜ的なことを……?」
「そのあと『流星とカズは付き合ってる』って送ってきたじゃん」
 小声で付け加えてきた田上さんの言葉に、悠木は本気で困惑した様子だった。そんなの送ったっけ、とぶつぶつ言いながらポケットから携帯を取り出し、送信メールを探る。
「あっ……あー! あ~~~!」
 大声に驚いた通行人の何人かが、俺たちの方を怪訝そうに横目で見やる。朝っぱらから人に迷惑をかけるのも何なので、俺たちは邪魔にならなそうな隅に移動した。正確に言うと悠木を俺が引っ張っていき、田上さんは俺のアイコンタクトに従った形だ。
「マジでごめん、あれ間違い。ナシでお願いします」
「何をどうやったらそんな間違いになるの?」
 田上さんの冷静な突っ込みに悠木は小さくなる。
「いやその……あんだけ可愛い天使が幼馴染だったらもうそりゃ付き合ってたよな! カズも男だから! 流星ホント可愛いマジ天使! みたいなことを書いた筈なんだけど眠くてさ、ホント眠くて……ハイ、反省してます、寝惚けてましたホントにごめんなさい、どうか許してください」
「じゃあ、別に付き合ってないんだ?」
「付き合ってない」
 田上さんに振られて、平静を装いながら即答する。嘘は吐いていない――俺と流星はそんな仲じゃない、今は。
「そっか、分かった。じゃあまた学校で」
「ああ」
 あっさりと去って行った田上さんの背中を見送ってしまうと、俺は悠木に向き直った。顔を合わせた瞬間に口を開いたのは悠木の方だった。
「ゴメン! 許して! 何でもするから! 何ならここで一時間くらい土下座するから!」
「しなくていい。つかショタ流星って何だよ」
「えっ? ショタ流星はアレだよ。過ぎ去りし時代の流星。ていうかコレ。マジ可愛すぎ天使か? 天使だな!」
 悠木は素早く携帯を操作し、俺の顔に画面を押し付ける勢いでそれを見せつける。
 映っていたのは小学生の頃の流星だ。流星の家のリビングにあったソファに腰掛け、カメラに向かって控えめにピースをしている。気恥ずかしげな笑顔は確かに、文句のつけようがないほど天使的で可愛い。
 だが何故この写真を悠木が持っているのか。
「これをどこで……」
「それについては歩きながら説明しようじゃないか」
 得意そうな弾んだ声で言って悠木は歩き出したが、すぐにぴたりと足を止めて俺の方を振り返った。
「そうだ忘れてた」
「何を」
「今日の髪型なんだけど大丈夫かな? 寝癖直った? かっこいい? それとも凄くかっこいい?」
「あー、かっこいい。凄くかっこいい」
「ホントかよ~?」
 悠木はくるくると前髪を指で弄びながら疑わしそうな目つきで俺を見る。
 実のところ本気でかっこいいと思っていたが、毎朝駅トイレの鏡で五分以上もチェックする必要性については、かねがね疑問を抱いていた。家でしっかり整えてきてるんだから弄り回してもそんなに変わらないだろ、と言うと悠木は「カズは男心が分かっていない」「毛先数ミリのカールによって全体としてのバランスや光の反射具合も変わってくる」などと意味不明なことを言い出すので、余計な口は閉じておくことにしている。
「斜め後ろは? まだ跳ねてる気がするんだけど直った?」
 後ろ髪に指を差し込み、くしゃくしゃと適当に混ぜる。
「ほら直った」
「……カズさぁ~~」
「何だよ」
「別に~?」
 怒っているのか呆れているのか、悠木は二段飛ばしで足早に階段を降り、そのままの足取りで進んでいく。追いついたのは駅を出て少し経ったところだった。
「それで、あの写真は?」
「ん? あ、アレか。流星から送ってもらった。いーだろ? けど独り占めしたいからカズには送ってあげない。田上さんにも断ったしー」
「…………」
「そんな顔すんなよ! 分かった、流星に送ってもいいか聞いてみるから」
「そういう意味じゃねーよ。お前らいきなり仲良くなったなって思っただけ」
 まだ出会って二十四時間も経っていない筈だ。それだというのに、写真の入手に加え、昨日は『流星くん』だったのが既に呼び捨てになっているという進展具合。気にならないわけがなかった。
 俺と流星はと言えば、昨晩に短文のメールを二往復しただけだった。それも『今週は休みが取れなさそうだから昼休みでもいいか』『いいよ、いつなら大丈夫?』『明日は?』『分かった』という素っ気ないやり取りだ。写真の話なんて全く出ていない。
「いやぁ、流星には何て言うか他人とは思えない何かを感じてさ。運命的な? これはもう仲良くなるしかないと」
「……どういう意味の『仲良く』なのか聞いてもいいか?」
 天使天使と崇める口振りに引っ掛かるものを感じていたので、そう尋ねてみる。
 小学生の頃の流星は、人々が抱く天使のイメージそっくりの子どもだった。あの頃流星を苛めていた奴らも、おそらくは流星のことが『そういう意味』で気になって仕方なかったのではと今になって思う。現在の流星に華奢な印象は全くないが、あの頃の写真を目にしたことで悠木の中に何かが芽生えたとしても不思議じゃない。
 悠木は明らかに不自然な咳払いをして俺から目を逸らした。
「そりゃあ……お友達として? ていうか流星の成長率凄くね? あの天使があの巨体に進化するんだぜ。髪と目の色が違ったら別人にしか見えないレベルだろ。カズはよく一目で流星だって分かったよなー」
「まあ……幼馴染だし、大きくなるかも、とは聞いてたからな。それに変わったっていうなら流星よりも」
「流星よりも?」
 足みを止めかけた悠木の背中に手を置いて、促すように軽く押す。
「……いや、何でもない」
「ふーん? ま、いいけどさ~。問題は流星をどうデートに誘うかなんだよな」
「は?」
「カズは今週ずっとバイトだし? 流星はまだ部活入ってないって言うし? まあ今が狙い時って感じですよね」
「デートってお前」
「やだなあ、ヘンな意味じゃないって。ちょっとふざけて言ってるだけだから。なになに、嫉妬してるのかなカズくんは?」
「どっちにだよ。……いや、どっちにでもねーよ」
「心配すんなって、俺は愛されるより愛したい方だし、一生カズの親友やってくつもりだから。もしカズが流星とより戻したいっていうんなら俺は……俺は、大人しく身を引いて二人の幸せを願うよ……ううっ……辛いけど耐えなきゃ……うっうっ……あ、おはよーございます! 轟先生~」
 駅から徒歩数分、俺たちの通う高校の校門には、毎朝生徒会のメンバー数人と先生が一人立っている。いきなり泣きながら近付いてくる生徒に怪訝そうな目を向けていた先生が、悠木の顔を見て納得したように溜息を吐く。俺は控えめに挨拶をした。
「おはよう。それにしても悠木、お前は朝から騒がしいな」
「ええ~、そこは元気でいいねって褒めるところじゃ?」
「中西の顔を見ろ」
「先生、カズが生気の感じられない顔をしてるのは元からです。出会ったときからこうでした」
 おい失礼なこと言うな。
 轟先生に『そういえばそうだったような気がしないでもない』という表情で見られて居たたまれない気持ちになり、俺はさっさと校舎の方へ向かい始めた。悠木はすぐに俺の横に並ぶ。
「なあなあ、俺はカズがそのままゾンビになっちゃっても愛してるよ」
「『そのままゾンビに』って何だよ。ならねーよ」
「だってカズさあ、もしバイオハザード起きたらすぐ諦めそうじゃん。それも最初に出会ったゾンビにやられてゾンビ化でしょ。ひでーよ。俺は決死の覚悟でカズに会いに行くのに、家に辿り着いたら最後の言葉を交わすどころか、カズはとっくに正気を失ってるんだぜ。ああやっと会えるんだってドアを開けたら、親友が肉を求めるだけのモンスターになって襲い掛かってくるって、こんな悲しいことある? ないだろ?」
「まずバイオハザードがない」
「いやいや……まあゾンビ化はないにしても、この町に飢えた吸血鬼が一匹迷い込むとか、合体能力のある宇宙人が降り立つとか、そういうことは十分有り得るわけじゃん。アストレアではどっちもあったし」
 悠木はたまにアストレアと現実をごっちゃにするところがある。アストレアに傾倒し過ぎたために二次元と三次元の境が曖昧になってしまったのかもしれない。残念だが手遅れだ。
「とにかく、もし未知の生命体とかモンスターに襲われそうになったら、諦めないでちゃんと抵抗しろよ!? 俺、カズを手に掛けるのとか絶対嫌だからな!??」
「分かった分かった」
 ゾンビになっても愛してるんじゃなかったのか、と突っ込むのは面倒だったのでやめておいた。愛しているからこそ手に掛けるしかないんだと言い返してくるのは目に見ていた。
「カズは料理上手いし、武器は刃物とかが向いてると思うんだよな~。もしゾンビが出てきたら包丁くらいは構えとけよ。うーん、けど包丁じゃ限界があるな。よし、俺がカズの家に行く途中でホームセンター寄って、サバイバルナイフかノコギリを入手してくることにする。その後はそれで俺とおばさんと奈央ちゃんのこと守ってね。ちなみにおばさんが物資管理担当、奈央ちゃんが衛生管理担当、俺は偵察と物資調達とメンタルケアとカズの背中を守る係担当だから」
 ――まあ、突っ込もうが突っ込むまいが、うるさいことには変わりないんだが。
 上靴に履き替え教室まで歩いていく間も、悠木は休むことなく想像力を駆使して喋り続けていた。黙ったのはほんの一瞬、席に着いて携帯をチェックしていた数秒のことだった。
「へ~。カズ、今日の昼休み流星と逢引きか~」
 悠木はニヤニヤしながら振り返る。大方、流星から聞き出したんだろう。
「だからその言い方は……」
「じゃあ俺は田上さんとご飯しようかな。ねー田上さん、昼一緒に飯食おうよ」
「は……?」
 いきなり話を振られた田上さんは眉を顰めて悠木を見る。俺は直観した――答えはノーだ。
「嫌だけど」
「えー何で何で。いいじゃん、今日だけだから、ねっ? 俺一人で飯食うのとか無理なんだよ」
「中西くんがいるでしょ」
「カズはもう売却済み」
「私は一人で食べたい。誰か他の人に声掛けたら?」
「俺人見知りだから無理」
 どの口がそんなことを、という田上さんの心の声が聞こえた。
「うーん、じゃあさ、田上さんが食べてる横で黙々とパンを齧ってるのは? それならいい?」
「喋らない?」
「うん」
「ならいいよ」
 いいのか。というかそれはそれで寂しくないか。と俺は思ったが、どうやら二人はそれで納得したらしい。
「悠木」
「ん?」
「気遣わせて悪い」
「いいってことよ~。あ、でもその代わり流星に俺のいいところ売り込んどいて」
「…………」
「ところで英語の課題やった? 今日カズが当たる日じゃなかったっけ」
「あー……やったけど全く自信ない」
「よしよし、優しいお兄さんが教えてしんぜよう」
 悠木がそう言うのは、俺より二か月と数日早く生まれたから――というだけの話ではなく、県内でも有数の高偏差値を誇るうちの高校において、入学以来テストで学年十位以下に落ちたことはないという学力レベルにあるからだ。それも、週四でバイトをしながら。
 正直俺もそこそこに勉強はできる方だが、悠木が友人ではなかったらこの高校に入ってすらいない。入学前も現在も悠木に世話になりっぱなしだ。
 悠木は俺が渡した課題のプリントをふんふんと頷きながらチェックし始めた。それが終わるのを待っている間、俺は頭の片隅で今日の昼のことを考えていた。
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