23.運命

 翌日から二週間、悠木は学校を休んだ。家を訪ねて行っても全く反応がなく、毎夜ランニングの途中に外から確認してみても照明すら点いていなかった。
 風の噂で、サッカー部の顧問の溝口と三年のマネージャーの一人が不倫をしていたと聞いた。しかもそのマネージャーは不自然にお腹が膨らんでいて、ある日突然学校に来なくなったという。もう一人の当事者である溝口は噂が立ち始めた頃、急に別の学校に移ることになったと発表があり、本当にすぐに姿を消した。奥さんとはどうやら離婚が成立したらしいと、また噂が流れた。
 二週間後、悠木は学校へ顔を出した。痩せたように見えた。そして担任が言っていた通り、インフルエンザで寝込んでいたのだと周りに説明した。
「辞めたばっかでサッカー部の奴と顔合わすの、勇気出なかったからさ」
 悠木は俺にだけそう話した。確かに元チームメイトたちと話すとき、悠木は酷く緊張しているように見えた。しかし悠木をあからさまに無視したり罵倒したりする人間は一人もおらず、むしろ「いつでも戻って来いよ」「新しい監督もお前が戻ってきたら即スタメンに戻すって言ってたから」と好意的な反応を示していた。
 だが悠木はサッカー部には戻らなかった。新しい部活に入り直すことも、生徒会活動に加わることもなかった。成績は以前と同じトップクラスの順位を保ち、周りの人間とはそれまで通りに付き合い、前と同じ頻度で俺とも遊びに出掛けていた。表面上は何も起こっていないように見えた。
 そう、表面上は。
「あのさ、悠木ってサッカー辞めたじゃん? 増えたフリーの時間って何してんの?」
 ある日、俺の友人でもあり悠木の友人でもあった一人が、そんな事を悠木に尋ねた。
「え? 遊んでる」
「毎日?」
「うん、毎日」
「誰と何して?」
「普通の友達と色々」
「えっ、何か言い方やらしー。もしかして彼女?」
「彼女じゃねーって。前、同じ団地に住んでた人だから」
「女だろ。最近髪型変えたし、何か色気づいてるし」
「カットモデルしてるって言ったじゃん」
「中学生でカットモデルってどういう世界?」
 そいつが俺を見たので、「さぁ」と素っ気なく答えた。悠木の代わりに答えるほど悠木の放課後事情について詳しくなかった。下手に答えれば恋愛話を引き延ばす結果にもなりかねない――俺は悠木が嫌がっていないか、漢字の書き取りをする振りをしながら観察していた。
「分かった。美容室のおねーさんが昔同じ団地に住んでた人で、悠木は毎日その美人とあんな事やこんな事……」
「いや男子大学生ですから」
「あ、彼氏?」
「だから友達だっつーの。すげーいっぱい漫画とか小説とか持ってる人だから、部屋の掃除する代わりに読ませてもらったり、面白い本とか紹介してもらったりしてんの」
「掃除? お前彼女じゃん」
「ちげーしお前しつこい。つかその人以外とも遊んでるから」
「へぇー、悠木ってモテるくせに固いよな~って思ってたらやっぱとっかえひっかえだったのか~、へぇー」
「一也の前で誤解を招くような言い方はやめてもらえませんか」
「あっ、やっぱ本命は一也だよな。ごめんな」
 悠木にしては珍しくそいつの肩をはたいた。はたくというより触れる、といった方が正しいような勢いだったので、そいつは「乙女の腕力! かよわい! 可愛い!」とげらげら笑った。

 悠木の交友関係について、俺がとやかく言う権利はない。だから悠木が俺以外の誰かといるときの事を根掘り葉掘り尋ねることはしなかったし、悠木もあまり喋ろうとしなかった。前と同じ頻度で俺と悠木が遊んでいなければ、あの日何か不味いことをしてしまったのではないかと思うところだったが、二週間の欠席の後も俺と悠木は普通に会って、それまで通りのやり方で遊んでいたのだ。

 秋になり、冬になって、新年度が近付いてきた頃。春休みに入って数日経ったある日の夜、悠木は俺を見知らぬ番号から呼び出した。
『カズ、今から会える?』
 カズ、と呼ばれたのはその時が初めてだった。既に夜の九時を回っていた事と、呼び名の変化に驚いたが、電話口にいるのは確かに悠木だった。
「どこで?」
『駅前の広場。それか、俺がカズの家の近くに行く。都合悪い?』
 俺が行く、と答えた。ちょうど走りに行こうと思っていたところだったからだ。
『やった! あー、早くカズに会いたい。俺、待ってるから。信号と車に気を付けてゆっくり急いで来いよ! 待ってるから!』
 物凄い勢いだった。しかも電話は勝手に切れた。切れる間際、電話の向こうから悠木以外の男の笑い声が聞こえたような気がした。

 急いで向かった駅前の広場に、悠木は一人で立っていた。
「カズ!」
 悠木は電話口と同じ名前で俺を読んだ。その声は弾んでいて、いかにも機嫌が良さそうだった。
 俺はというと――絶句していた。悠木のあまりの変貌ぶりに、わが目を疑うしかなかった。
「ごめんな、急に呼び出して。でもどーしても会って話したかったから」
 ほんの数日前に顔を合わせた時までは真っ黒だった髪は、光沢のある明るい茶色の髪に変わっていた。それも薄らとピンクとオレンジが混ざった、派手な色だ。
 髪だけじゃない。服装も様変わりしていた。薄い水色のストライプが入った洒落たシャツに、ワンポイントで犬の柄が入ったネクタイ。ツイードのパンツ。靴だけがいつものスニーカーだったが、Tシャツにジーパンが標準装備だった悠木の装いとしては、明らかに異常事態といってよかった。
「髪……どうしたんだよ、それ」
「ん? 似合う? これ、カットモデルした所でやってもらったんだ」
「似合うっつーか……学校は?」
「んー、とりあえず先生説得して、出来なかったら黒染め? あんまりやりたくないけど。で、似合う? どんな感じ?」
 悠木は小首を傾げて俺に尋ねた。
 その時俺の目の前に立っていた悠木は、駅前にたむろしている大学生の間に混じっていても違和感がなさそうな、爽やかで、どこか都会的な空気を纏っていた。派手な髪色が浮いて見えないのは、元々容姿がかなり整っていたからだろう。
「……似合う」
「まじ? やった!!」
 悠木は比喩でなく飛び跳ねた。
「今は金もないし長さも足りないから無理だけど、高校入ったらパーマもかけるんだ。あっ、服は? 古着屋めちゃくちゃ回って見つけたんだけどさ! いいだろ?」
 俺は頷いた。悠木はにこにこと笑い、辺りを跳ねるように歩いた。まるで飼い主の足元でじゃれつく上機嫌の仔犬のようだった。
「カズに認められたのすげー嬉しい。頑張った甲斐あったー」
「……つーか、そのカズって?」
「一也のことだけど?」
「いや、いきなり変わったから」
「ん? うん。駄目?」
「……別に。お前がそう呼びたいなら」
「じゃあカズな。これからはカズ! 俺の大親友のカズ!」
 大親友――そう言われて少しだけ心が浮き立った。悠木が俺の知らない誰かと遊びまわって、俺の知らないうちに髪型や服装を変えても、俺はなおも悠木の『特別』なのだと。
「あのさ、カズには言っとかなくちゃいけないと思うから言うけど、俺、やっと自分の人生を見つけたんだ。それで、俺の人生を捧げられる人を見つけた。俺の運命を見つけたんだよ! ついにやっと!」
 ――浮き立った心が、一気に急降下した。
 人生を捧げられる人。運命。
 恋人、あるいは好きな人が出来たという事だ。恋愛なんて一生無理、そう言っていた悠木が恋を見つけた事を、俺は喜ぶべきだった。だが俺はショックを受けていた。頭をがつんと殴られたような強い衝撃だった。何でだよ、と思った――どうして俺の知らないところで、そんなものを見つけるんだよ。
「原作はラノベなんだけど、俺はアニメで凄い来てさ、さっきも電話貸してもらってた友達の所で見せてもらってて、これが俺の生きる道なんだって思った」
「……は? ……ラノベ? アニメって……」
「『アストレア』っていうんだよ。俺の運命。星の導き。俺を生かしてくれる女神と主人公がいるところ」
 悠木は鞄から一冊の本を取り出した。長い金髪を編み込み、後ろで束ねた白のドレス姿の少女のイラスト――そう、イラストだ。
「この子がアストレア。キレーだろ。女神の生まれ変わりで、高潔で、強い人なんだよ」
 うっとりとイラストを見つめる悠木は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「この髪型と服装も登場人物の真似してんの。俺の人生だから。あ、あと俺たちは高校でも親友同士っていう設定があるから、一緒の高校に行こうな」
 悠木は俺を見てニッと笑った。まるで意味の分からない事を言っておきながら、俺がそれで納得すると思ったらしい。
「設定って……」
「アストレアの! 俺、絶対カズと同じ学校行って、高校でも親友でいたい。そうじゃないと駄目なんだよ。俺、そうじゃないと……なぁカズ、お願い、お願いだから、いいよって言って。俺、何でもするから……」
 急に不安げな目をして、悠木は俺の目を見つめた。そして本を片手に持ったまま、もう一方の手で俺の手を縋るように取った。悠木が俺の手を自ら握ったのは、それが最初で最後だった。
「……いいよ」
 何が何だが分かんねーけど、と胸の内で続けた。
「ありがとう!」
 ぱっと花開くように、悠木の顔に笑みが浮かぶ。そして喜びを噛みしめるように一度しっかりと閉じられた瞼が、次に開かれたとき。現れたのは熱に浮かされたような、ここではないどこかを見ているような目だった。
「俺の運命」
 俺の手を握るその手は、異様な熱を持っていた。
「俺の運命……」
 悠木は確信に満ちた声でそう繰り返した。
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