22.汚れたパーカー、自転車……

「もしかして、悠木くんのこと考えてる?」
 あの海の日から少し経った、九月の半ばの放課後。学校近くのショッピングセンター内にあるフードコートで、俺と梓は向かい合わせに座っていた。
「……悪い」
「ううん。私も心配だし。最近、ちょっと元気ないよね」
 周囲の騒がしさが耳に入らなくなり、目の前にいる自分の彼女の存在まで一瞬忘れ、深く考え込んでいたのは、梓が指摘した通り悠木の事だった。
「というか、サッカー部が何か……変な感じっていうか。何かあったのかな」
 俺にも分からなかった。あの海の日以来、悠木はぼーっと気の抜けた顔をしたり、反対に思い詰めたような顔をしていたりすることが多くなったが、理由を聞いてもいつもはぐらされてばかりで答えらしい答えを得ることは出来ていなかった。
 そして梓の言う通り、サッカー部全体に漂う雰囲気がどこかそれまでと変わっていた。明確にどこが変わったとは言えないが、同じ部に所属する者同士での気軽なやり取りが少なくなり、放課後、運動場に向かう彼らの間の空気に何か異質なものが混ざっているような感じがした。
「顧問の溝口先生がさ、最近当たりがキツくなったのが原因なのかな。前から厳しい方だったけど、この頃ホントに厳しいよね? 今日なんか、何人かが時間ぎりぎりに体育館に入ったからって、クラス全員にダッシュ三十回させたんだよ。ギリギリに入った子たちも含めて皆ちゃんと授業に間に合うよう来てたのに、整列してなかったからダメだって。しかも凄くイライラしてる感じでさ。前はあそこまでじゃなかったよね」
「……だな」
「噂では、溝口先生って……奥さんと上手くいってないんだって。ホントかどうか分かんないけど、何か悲しいなー……」
 梓は手に持っていた抹茶ラテのカップに目をやり、水で薄まった薄緑色の液体と、それに浮かぶ小さな氷の欠片をカップの中で軽く振った後、「行こっか」と言って立ち上がった。
 ゴミを捨てた後、梓は自然に腕を絡めてきた。制服越しにその体の柔らかさと温かさが伝わってくる。花と石鹸を混ぜたような香り――嗅ぎ慣れた心地よい香り。
「たまに思うんだけど」
 文具店に入り、腕を離して筆記用具のコーナーを見始めたとき、梓はぽつりと言った。
「一也くんは、本当は私が独り占めしていい人じゃないんじゃないかな」
 新製品コーナーのボールペンから梓に視線を移した。梓はボールペンを片手に持ち、試し書き用の紙に描かれた流れ星を眺めていた。
「独り占め?」
「たまにね。私が無理矢理付き合ってもらってなかったら、一也くんが付き合ってたかもしれない子の事とか考える」
「そんなの元々いないだろ、別に……つか、無理矢理って何だよ」
「んー……」
 梓はボールペンを元の場所に戻し、俺の方に顔を向けてニコっと笑った。
「やっぱ何でもない!」
 その笑顔に暗い部分はなかった。だが、『何でもない』わけはないことを俺は知っていた。本当に何でもないことなら、あんな形で表に出てくることはない。だからモールを出て夕焼けに染まる帰り道を歩いているとき、俺は梓に本心からこう言った。
「分かってると思うけど、俺もお前の事、好きだから」
「……本当に?」
 梓が立ち止まってこちらを見たので、頷き、体を寄せてキスをした。唇を離した後、梓は俺に抱き着いて暫くそのまま離れようとしなかった。
「ありがと」
「……何が?」
「分かんない。でも、ありがと。ごめんね」
 そう呟いた梓はきっとその頃から、俺たちが迎える結末のことを考えていたのだろうと思う。



 その日の夜、俺はTシャツとジャージのズボンを着て外に出た。空気は冷たく、空は真っ黒だった。走り出した道を照らすのは街灯の光だけで、時間が遅いせいか帰途に就く人々の姿もあまり見掛けなかった。
 夜中に一人で走るようになったのはいつからだったか――週に二度か三度、気まぐれに家を抜け出すことに母さんは初めのうち苦言を呈していたが、そのうち何も言わなくなった。この辺りは治安が良く、何か厄介ごとに巻き込まれるようなこと――それも当時既に成人男性の平均身長を超えていた俺が事件の当事者になるようなことは、そうそうないと判断したのかもしれない。
 ランニングコースは大体決まっていて、いつもは学校近くにある川まで準備体操がてらに軽く走った後、川沿いに整備されたランニング用コースで少し速度を上げて走ることにしていた。ごく稀にすれ違う人々も同じ目的でそこにいるので、他の道を走るより気が楽だったからだ。
 その日俺は何故か、川が見えると進路を変えた。初めのうちは自分でもどこに行こうとしているのか分かっていなかったが、そのうちに気付いた。悠木の家に向かう道を走っていたのだ。
 少し迷って、そのまま走り続けた。別にインターフォンを鳴らしたり窓を叩いたりするつもりでもないのだから、近所に行っても構わないだろうと思ったのだ。悠木の住む団地が見えてくると、俺は悠木の部屋の照明がまだ点いているか、それだけを遠目に確認して帰ろうと思った。
 そして――予期していなかったものを目にした。
「……悠木?」
 団地に向かう道の途中から垂直に伸びる、寂れた商店街の通り――そこに悠木の姿があった。一瞬見間違いかと思ったが、戻って足を止めてみても確かにそれは悠木だった。
「悠木」
 距離を三メートルに縮めて声を掛けても、悠木は一切こちらに注意を向けてこなかった。
 悠木の視線はシャッターの閉まった店の屋根の上にあり、そこには灰色の猫がいた。猫は俺をちらりと見て一鳴きし、足早に走り去っていった。
「悠木」
 腕を掴む。それでようやく悠木は俺の方を見たので、腕を離した。
「一也……?」
 走りながら一瞬目に入っただけでそれが悠木だと気付いたのは、悠木が白のパーカー、それも今年の誕生日に俺がプレゼントした服を着ていたからだ。ぼんやりとした声で俺の名前を読んだ悠木は、はっとしたように右手を前ポケットの中に押し込んだ。
「何してんだよ、こんな時間に」
 尋ねると、「散歩」と小さな声で返ってきた。
「明日も朝練だろ。何か買い物?」
「……一也は?」
「走ってた。つか、さっき猫いたよな」
「え?」
「見てたんだろ?」
「……あ、うん。可愛かった」
 妙な感じがした。何かが噛み合っていない。悠木の目つきや声にも何か不自然な所があるような気がした。
「俺、今から飲み物買いに行くけど、お前も一緒に行くだろ」
 行かないか、とは聞かなかった。でなければ逃げられるような気がした。悠木は少し口を開けて答えを探す顔をした。逃げるための言葉を。
「……いい。お金、持ってきてないから……」
「なら、俺の家来いよ」
 悠木は目を見開いた。
「何で?」
「何となく」
 何となく、悠木を置いて帰ってはいけない気がした。
「こんな時間から行けない。迷惑かかるし」
「かかんねーよ」
「かかるって。……やだ」
 本気の声だった。だからそれ以上は言えなかった。
「じゃあ、その辺歩くのは?」
「何で?」
「何でもいいだろ。来いよ」
 それで悠木はやっと頷いた。断り続けることに疲れたのだろう。
 シャッター街を歩き始めた俺たちの間には空気よりも重たい何かが立ち込めていて、どこか息苦しく、足は重く感じた。それでも悠木を一人にはしたくなかった。
「悠木って、猫好きだったっけ」
「うん、結構……」
「俺も」
 普段の悠木なら「一也は犬好きだろ」とでも返してくる筈だが、その時の悠木は会話が途切れるままにしていた。気まずい沈黙を相槌で埋め立てようともせず、ただ黙っていた。悠木の性格では殆ど有り得ないといってもいいくらいの態度だった。
 人通りのない道を暫く歩いていると、悠木とたまに入るスーパーの明かりが見えた。閉店間際の駐車場はがらがらで、その中をゆっくりと歩いても横を通り過ぎていく車は一台もなかった。
「あのさ。俺すぐ戻ってくるから、ここで待ってろよ」
「え?」
「俺一人じゃ困るから、どっか行くなよ」
 返事を待たず、スーパーの中に入った。入口で待たせた悠木を振り返ることもなく、カゴの中へ適当に物を入れていった。稼働しているレジは一台だけだったが、会計で待たされることはなかった。
 所要時間は三分ほどだっただろうか。出入り口付近に立ったとき、悠木の姿がないことに一瞬慌てた。しまった、と思った。走り出そうとして、出入り口近くの人影に気付いた。悠木は空き缶の回収ボックス横に片手で膝を抱いて座り込んでいた。
「気分悪い?」
 声を掛けると、悠木はすぐに顔を上げた。本当は泣いているのではないかと思っていたのだが、ゆっくりと首を横に振った悠木の目に、涙はなかった。
 普段そうしているように俺が無言で差し出した手を、悠木は「大丈夫」と言って断り、自力で立ち上がった。照れたような顔で――あるいはふざけた雰囲気の中で拒否をされることはあっても、そんな風にどこか素っ気ない顔と声で悠木に手助けを拒まれるのは初めてだった。理由はポケットの中に突っ込まれたままの右手にあるのだろうと思ったが、それだけではない気もした。
 俺たちは無言で歩き出した。悠木は特に異を唱えることもなく俺の足が向かう方に足を向け、最初に悠木を見掛けた商店街の方まで付いてきた。昼間も殆どシャッターが閉まっている商店街を抜けた先には坂があり、その長い坂を上がり切って左に曲がったところには小さな休憩所があった。
 休憩所と言ってもそこには野晒しの石の椅子と木の小さなテーブルがあるだけで、木陰で人目に付きづらいという利点はあるが、すぐ近くが住宅街なので大抵近所の子どもが占拠しているし、そうでないときは落ち葉や死んだ虫、たまに鳥の糞が落ちていることもある。外灯の薄明りの中で確認すると、今回は落ち葉と枝、薄汚れた野球のボールがあるだけだったので、軽く払ってから椅子に腰を下ろした。『どうしたらいいか分からない』と目で訴えかける悠木に「こっち」と隣を叩いた。悠木は少し迷う様子を見せた後に従った。
「買い過ぎたから、お前も食えよ」
 テーブルに買い物袋の中身を開けた。箸二膳。値引きシールが貼られた五個入りのおにぎりに、同じく値引きされたパックのからあげ。500ミリリットルのお茶のペットボトル。三個パックのシュークリーム。パックにしたのは、悠木はきっと食事をしてないだろうと思ったのと、一個ずつだと手を出しにくいだろうと思ったからだ。
「……あとで俺も払うから」
「じゃあ今度帰りにジュースな」
 悠木は頷いたが、ポケットの中に入ったままの右手を見下ろし、唇を噛んだ。
「……ごめん」
「何が?」
 悠木はポケットの中から右手を取り出した。一瞬、何がおかしいのか全く分からなかった。封を開けようとしていたパックを置き、悠木の右手を取ってよく見てみると、微かに茶色っぽい染みが確認出来た。
「……この汚れのことか?」
 どうしてこれで謝罪が必要なのかと思いながら尋ね、悠木の顔を見る――そしてぎょっとした。悠木の目から、ぽろ、と涙が零れ落ちたからだ。
「泣くこと、ないだろ……」
 悠木は「ごめん」と繰り返した。あまりに悲壮感漂う声だったので、手を離すタイミングを逃してしまった。
「俺があげたやつって言っても、今はお前のだし……謝る必要全くないだろ。つか、そんなショックだったのか?」
 涙が流れ続ける。悠木は汚れていない方のパーカーの袖で涙を拭いながら頷いた。
「そういうのが好きならまたやるから」
 悠木は首を横に振った。
「……汚すから……」
「着てたら汚れるもんだろ、普通。俺もこないだTシャツ汚して寝間着にしたし。……つか、これぐらいの汚れなら、まだどこにでも着て行けるレベルだと思うけど」
 悠木は何も言わなかった。俺の慰めの言葉は見当違いだったのかもしれない。
 プレゼントと言っても中学生の小遣いで買えるもので高価なものではないし、限定品というわけでもなく、デザインが飛び抜けて優れているわけでもない――そんなパーカーを一枚汚しただけで泣いているわけではないのだということは明白だった。パーカーを汚すまでの経緯か、サッカー部に理由があるような気がした。
「……これ、お前が?」
 殆ど分かるか分からないぐらいの染みを見て言う。
「……ばあちゃんが。ごめん、泣いたりして」
 悠木は殆ど泣き止んでいたが、それはいいことなのか分からなかった。悠木の目は暗く沈み込んでいて、もう全て出し尽くしたというよりは、やっと行き場を見つけた感情の渦が無理矢理に堰き止められ、悠木の中を荒く削りながら内に留まり続けているように見えた。
「謝るなよ」
「……ん」
 手を離して、惣菜のパックや飲み物のボトルを開けた。俺が食べ始めると、悠木も食べ始めた。
「ゴミの袋に」
 悠木はおにぎりを半分ほど齧った後、小さな声で話し始めた。
「ゴミの袋に入ってたんだ。この服」
「……お前のばあちゃんが捨てたって事か?」
「うん、そう」
 途切れ途切れに話す悠木に相槌を打ちながら聞き出したところによると、悠木が今日家に帰ってからゴミを出そうとしたとき、ゴミの袋の中にこのパーカーが押し込められていることに気付いたらしい。パーカーはソース塗れで、生ゴミの上にあり、酷い状態だったそうだ。当然犯人は悠木ではなく同居している悠木のばあちゃんで、悠木が問い詰めると、今日の昼前、ソースのボトルをテーブルに零した際、近くにあったから拭くのに使い、洗うのも面倒だから捨てたのだと白状した。悠木は急いで洗濯したが、全ては取れず、頼みの綱のクリーニング屋は閉まっていたので、コインランドリーに走ってその洗濯機も試したが、結局袖の部分が取れずに残ってしまった、という事らしかった。
 人の身内にこんな事を思っていいのか分からなかったが――酷い、と思った。悠木が気に入っていたパーカーを台拭き代わりにし、勝手に捨てて、問い詰めるまで黙っている、なんて。
 悠木を含めて誰かに言ったことはなかったが、俺は悠木のばあちゃんの事をあまりよく思っていなかった。悠木を見る目や、扱い方が何となく、一般的な孫に対する祖母の態度ではないような気がしたからだ。俺の見ていた範囲でも、家に転がり込んできた迷惑な野良猫に対するもののような、そんな感じの雰囲気だった。
「でも一番悪いのは、ばあちゃんの物の扱いが悪いの知ってて、廊下に置きっぱなしにしてた俺なんだよ。ちゃんと部屋の中に戻しておいてれば、こんな事にならずに済んだのに」
「……そんな事ないだろ」
「そんな事あるんだよ。ばあちゃんにはばあちゃんのやり方があって、本当はそれに俺の方が合わせるべきなんだから」
 断言口調だった。悠木は自分の祖母をよく思っていない――だが時折、こんな風に一歩引いた言い方をする事があり、俺はそれを不思議に思っていた。
「……けど、一緒に住んでるんなら、お互いそうするべきなんじゃねーの。一方的に合わせるんじゃなく」
「俺は居候だから」
 悠木はぽつりと言った。
「居候?」
 聞き返すと、悠木の顔に後悔の念が浮かんだ。聞かなかった事にして欲しいと思っているのは分かっていたが、あえてじっと悠木の目を見て待った。
「……うち、基本ばあちゃんと俺しかいないじゃん。親父はたまに帰ってくるけど」
 一度だけ、悠木の父親に会った事がある。会った、といっても向こうは俺を認識していなかったが――その人は居間で眠っていたのだ。鼻と眉の形が悠木とよく似たその男は無精ひげを生やし、周りにビール缶と雑誌を転がして眠っていた。近くのテーブルには灰皿、惣菜の空きパック、それにアダルトDVDのパッケージが開いたまま置かれていて、部屋の隅にあるゴミ箱の近くに生々しいティッシュの塊が落ちていた。居間に充満する男の体臭とビールと煙草の臭い……。男は悠木の父親というより、年の離れた兄といっても通じるような年に見えた。
「母親は、俺を産んでからすぐ親父に押し付けたんだってさ。で、親父は俺をばあちゃんに押し付けた。それも子ども嫌いのばあちゃんに。ばあちゃんは押し付けられる人間がいなかったから、仕方なく俺を預かってるってわけ。だから居候」
 悠木の家庭環境は何となく想像がついていた。悠木がいる家は幸福とは無縁の場所だと分かっていた。だがいざ悠木の口から真実を聞くと、俺は初めてその事実に触れたように、酷く打ちのめされてしまった。
「……でも、俺もばあちゃんも親父も母親も、血が繋がってるんだな、ってよく思う」
「それって……どの辺りが?」
 造形の事を言っているのかと思った。悠木のばあちゃんは悠木とそっくりの耳をしていたからだ。
「大事にしなくちゃいけないものを大事に出来ないところ。人を簡単に傷付けるところ。いつか周りに誰もいなくなるところ」
「……一つもお前に当てはまってないと思うけど」
「全部そうだよ」
「血筋だから?」
「血筋だし、実際そうだって自分で確認したから」
「いつだよ、それ」
「いつでも」
「いつ、何をどうしたのか言ってみろよ。ねーから、そんなの」
 悠木はずっと手の中で弄んでいた箸を置き、代わりに椅子の上に靴を脱いだ足を上げ、両膝を抱いた。
「……今日、パーカー。廊下の籠に置きっぱなしにした。カズと海に行った日、自転車。家の中に入れておかなきゃいけないって分かってたのに、ばあちゃんが嫌がるからって入れておかなかった。小学四年の頃、ばあちゃん。ムカついて、ばあちゃんを押して怪我させた……」
「……お前が?」
 にわかには信じられなかった。悠木が誰かを傷付けるところなんて、サッカーの試合中ですら(たとえばわざとではなく偶然に相手を蹴飛ばしてしまうとか、そういうものですら)見たことがなかったのだ。ましてや、『ムカついて』人を押した結果怪我をさせるなど、有り得ないと思った。
「そう、俺が。腕を釘で深く切って、手の指の骨にひびが入って、暫く腰も痛がってた」
 どう言えばいいのか分からなかった。大したことない、そんな事はよくある、と言えるような怪我のレベルではなかったからだ。それに俺は、悠木が本当にただ『ムカついて』そんな事をしたとは思えなかった。ペットボトルの茶を二口飲み、考える。
「……それって、喧嘩してたのか?」
「喧嘩……」
「言い争いとか」
「……うん」
 事故だったんだろ、と聞こうとして、俺は一度口を噤んだ。もし違ったら悠木を更に追い込んでしまう気がした。
 だから俺は、ゆっくりと悠木から話を聞き出した。
 ――その日、悠木は友人たちと遊んでいてたまたま帰りが遅くなり、トイレを借りに入ったゲームセンターで警察官に補導されてしまった。家の電話の受話器が外れていて連絡が取れなかったため、呼び出された当時の担任が警察署まで悠木を迎えに行き、家まで送り届けた。悠木の普段の素行に特段問題はなく、担任が悠木や悠木のばあちゃんに補導そのものについて注意をすることは殆どなかったが、彼は話の中で悠木の家庭環境について言及した。それがもとで、担任が帰った後、悠木と悠木のばあちゃんは口論になった。やがて無益な会話を続ける気力を失った悠木が黙り込み、部屋の隅で動かなくなると、悠木のばあちゃんは悠木を邪魔だといって蹴飛ばした(悠木は『虐待』というほどの力ではなかったと何度も繰り返した)。部屋に戻ろうと立ち上がった悠木を、悠木のばあちゃんは叩こうとした。それで――悠木はばあちゃんを手で押し退けた。バランスを崩した彼女は転がり、怪我をした――そういうことだった。
 正当防衛、あるいは事故だと言ってもいいような話だと俺は思った。だが悠木は頑としてそうではないと譲らなかった。何故ならその時の自分には、ばあちゃんに対する強い怒りがあったからだ、という。
「多分、傷付けてもいい、って思ってたんだよ。傷付けようと思ってなくても、俺はばあちゃんの事を大事にはしてなかった。だからあんな事が起こったんだ」
「悠木――」
「俺はまた同じ事をすると思う。また同じ風に誰かを怪我させて、大事なものを無くして、最後には俺の周りに誰もいなくなる」
 悠木は真顔でそんな事を言った。自分の言葉を確信し、そして同時にその言葉で自分自身を呪っているような、そんな目だった。その目に言葉を失っていると、悠木はふっと俺の方を見た。その顔に激しい動揺が浮かぶ――悠木は急に足を下ろして靴を履き、立ち上がった。
「ごめん――帰る。ごめん」
 そう言うなり悠木は走り出した。俺は反射的に悠木を追って立ち上がり、引き離される寸前の所で手首を掴んだ。
「悠木!」
「ごめん、帰るから、本当にごめん」
「何がだよ」
「全部。腕離せよ」
 俺は絶対に離すまいと思った。手に力が入り、悠木の顔が痛みに歪んだ。その瞬間、俺は決意を忘れて手を離した。だが解放を要求していたはずの悠木は酷く狼狽えていたせいか反応が遅れ、すぐに走り出そうとはしなかった。一拍置いて逃げの体勢を取った悠木の手を俺はもう一度しっかりと掴み、自分の方へと引き寄せた。
「…………」
 無言で見つめ合って、喉が渇く。気の利いた言葉一つ思いつかない自分に腹が立った。
「……あのさ……お前は大丈夫だよ」
 悠木は俺の分かりにくい言葉の意味を捉えかねたらしい。戸惑いが顔に浮かんでいた。
「お前は大丈夫だから。お前はちゃんと自分の好きなものを大事に出来るだろ。サッカーだって、あんなにキツいのに続けてるし――」
「辞めたんだ」
 悠木は泣き出しそうな声で俺の言葉を遮った。
「部活、辞めたんだよ。今日」
 辞めた。まさか、と思った。小学生の時に人数合わせで誘われたサッカーの試合で、まぐれのシュートを決めて以来ずっとサッカー一筋なんだと言っていた悠木が――どれだけ練習がきつくて、吐いても倒れても、もう辞めたいと口にした事すら一度もなかった悠木が、辞めた?
「辞めたって、何で――」
「出来なくなったからだよ! ずっと監督の下で頑張ってきたのに、それが正しい事なのか分からなくなって、フィールドに立っても、ボールの蹴り方が分からなくなった。皆がどう動いてるのかも、自分がどう動かなきゃならないのかも、全然分からなくなった。何にも楽しくなくて、息苦しくて、駄目になった。もう駄目なんだよ……だから……辞めるって、言ってきた……」
 悠木は泣いていた。肩を震わせ、他にどうすることも出来ずに涙を流していた。
 いつも明るく振る舞っていた悠木に、どこか脆いところがある事は知っていた。泣く所を見たのはその日が初めてだったわけじゃない。だがその時の悠木は、手を離せば心ごと粉々に壊れ、もう二度と元に戻らなくなってしまうのではないか――そんな事を思ってしまうほど危うく見えた。
 もしかしたら本当にそうだったのかもしれないと、今でも思う。
「悠木」
 俺は震える体を抱き寄せた。悠木は一瞬身を固くしたが、俺が宥めるように背中を叩くと少しだけ力を抜いた。
「俺はお前が人を傷付けないように人一倍気を遣ってるの知ってるし、人も物もすげー大事にしてる奴だって知ってる。お前がどう思ってたって俺の目にはそう映ってるし、これからもそうだって思ってる」
 その先に続けた言葉は、俺が口にしてもいい言葉なのか分からなかった。だがどうしてもその言葉が必要だと思った。悠木の為に、そして悠木を失おうとしている自分自身の為に。
「それに……俺はお前の周りからいなくならないから」
 悠木は暫く泣き続けていた。泣き声は小さく、腕に抱いていなければ殆ど聞き取れないくらいだった。きっと悠木はいつもそうやって声を殺して泣いていたのだろう。あの小さな部屋で一人、誰にも気付かれないように泣いている悠木の姿が脳裏に浮かんだ。
 胸に痛みが走る。一人にしたくない、そう思った。
「かず、や……」
「なに」
「うん……」
 むずがる奈央によくやっていたように、悠木を深く腕の中に入れ、もう一方の手で頭を撫でた。そういえば俺は汗臭い状態なのではないかと今更思い出したが、悠木は嫌がるわけでもなく、じっと俺に身を任せていた。
 悠木は普段殆ど人に触れようとしない――サッカーだとか、学校の行事で必要だからとか、そういった理由があれば違うが、理由がなければ肩を叩いてくる事すら稀だ。そんな悠木が友人やチームメイトに肩を抱かれたり、頭を撫でられたり、ふざけて軽くプロレス技をかけられたりするとき、少し嬉しそうな顔をするのは――傷付けるのが怖くて自分から手を伸ばさないだけで、本当は誰かと触れ合うのが好きだからなのではないかと、ふと思った。
 だとしたら――恋愛が無理だと言ったのも、正確には違うのかもしれない。そう考えたが、尋ねてみることはしなかった。悠木の繊細な心をこれ以上かき乱したくなかったし――何故か俺は、答えを聞きたくなかったのだ。
「……一也」
 もう大丈夫だから、と悠木は掠れた声で言った。そっと体を離すと、悠木は泣きはらした顔で俺を見上げた。俺は無意識に悠木の頬へ手を伸ばした。悠木がびくりと過剰反応を示したのに驚いて一瞬動きを止めそうになったが、ここで俺も固まってしまうと空気がおかしくなると思い、そのまま頬の涙を拭って、最後に軽く鼻をつまんでやった。
「お前、鼻詰まってるだろ」
 悠木はぱちぱちと目を瞬く。俺は苦笑し、高くて随分とつまみやすい鼻を解放した。
「走った後、奈央にはよく汗臭くて最悪、近寄んなバカ兄貴って言われんだけど」
 一拍置いて、悠木は笑った。力ない笑みだったが、作り笑いには見えなかった。

 俺たちは元の場所に戻ってシュークリームを食べた後、家に帰る事にした。一人で大丈夫だという悠木を団地に送り届ける道すがら、泣き疲れたらしく無口でぼんやりとした顔の悠木の様子を観察していたが、行きよりも幾らか雰囲気が柔らかく見えた。
「何かあったら、俺に相談しろよ」
 別れ際に言うと、悠木は一瞬何かを訴えかけるような目をした。縋り付くような、赦しを請うような――そんな目だった。
「……うん」
「おやすみ」
「おやすみ。今日は迷惑かけてごめん」
「いや別に、全然迷惑じゃねーし」
 俺は悠木の髪をくしゃくしゃと撫でた後、悠木が何か言い出すのをじっと待った。何か言いたい事があるなら今ここで打ち明けてもいいのだと、目で語ったつもりだった。
 だが悠木は「おやすみ」ともう一度言っただけだった。俺が頷いて手を退けると、悠木は俺に背を向けて団地の中に歩いて行った。
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