21.夕暮れの海

 九月最初の日曜日はサッカー部の練習が丸一日休みで、俺たちは何日も前からその日に二人で遊ぶ予定を立てていた。練習で海に行き損ねたという悠木の為に目的地を海、交通費節約の為に自転車を移動手段にして、朝から日が暮れるまでそこで遊び尽す――そんな予定だった。

 当日、早朝。
 悠木を迎えに行くと、待ち合わせ場所である団地の入口には誰もいなかった。連絡用にと携帯を持たされていた俺と違い悠木は携帯を持っておらず、朝早くに家の電話や玄関のベルを鳴らすのも躊躇われて、俺は自転車を押しながら辺りを歩き回り始めた。もしかすると待ち合わせの場所を俺か悠木が勘違いしていたのかもしれない、と思ったのだ。
 悠木の姿を見つけたのは歩き回り始めてすぐ、場所は団地の自転車置き場だった。悠木は何をするでもなく、ただそこに立っていた。
「悠木?」
 声を掛けると、悠木は呆然とした顔を俺の方に向けた。
「あ……一也……」
「どうしたんだよ」
 悠木の手にはキーホルダー付きの見覚えのある鍵が握られていたが、今から自転車を出そうという雰囲気ではなかった。
 と、すれば。
「うん……何か……」
「……盗まれた?」
「っぽい……」
 悠木の自転車は、小学生のときに所属していたサッカークラブの先輩から、中学入学時にお祝いとして譲り受けたという古いクロスバイクだった。特別高価なものでも状態の良いものでも無かったそうだが、悠木の手に渡ってからはマメに手入れされ、大事に使われていた。
「どこにも?」
 団地には駐輪場がいくつかあり、それぞれは場所が違うだけで作りは全て同じだった。もしかしたら駐車するときに間違えたのかもしれない――僅かな望みをかけて尋ねてはみたが、答えは聞く前に分かっていた。
「全部探したけど……どこにもなかった。鍵、ちゃんと掛けてたのに……二つも……」
 チャリン、と音を立てて、悠木の手の中から鍵が滑り落ちた。
「なぁ、一也……海、どうしよう……?」
 その表情と声はひどく心細げで、頼りなく、まるでもっと小さな子供のようで――今にも泣き出してしまいそうに見えた。


 俺は悠木を近くの警察署に連れて行き、盗難届を出す手伝いをした。以前俺も盗難被害に遭っていて、手続きの流れは知っていたからだ。不幸中の幸いとでもいうべきか、自転車を譲り受けた後に防犯登録をし直していたため、手続き自体はスムーズに済んだ。
 警察署を出た後、暗い顔をしている悠木を自宅のマンションに連れて行った。家族共用の自転車が一台空いていたからだ。といってもそれほど速度は出ず、最後の使用者である奈央曰くパンク中のものだったのだが――とても日を改めようと言う気にはなれなかったのだ。
 二人で様子を見てみると、どうやらパンクはしていないようだと分かった。家にあった安い修理セットを使って小さな部品を交換した後、空気を入れ直しただけで使える状態になり、試し乗りをした悠木の顔には笑顔が浮かんだ。
 俺たちは予定から一時間半ほど遅れて海に出発した。その頃には大分、悠木の気分も持ち直しているように見えた。


 殆どぶっ通しで自転車を漕ぎ続けて辿り着いた海は、穏やかで暖かく、空はとても澄んでいた。海水浴のシーズンには人でごった返す浜辺も時期が時期だけに閑散としていて、やけに広く見えた。
「あれ何だろ?」
 悠木はサンダルを片手に持ち、裸足で砂浜に入りながら遠くを指差した。波打ち際に何か妙なものが落ちているのが見えた。
「あっ、……分かった! クラゲ! 絶対クラゲだ!! 一也、なぁ、クラゲが!」
「聞こえてる。触るなよ」
「分かってるって! ちょっと観察してみたいだけ。ああ~クラゲだ……!」
「――っ! おい、悠木!」
 俺は走り出そうとしていた悠木の腕を掴んだ。悠木のつま先から真っ直ぐ十センチの当たりに、ガラス瓶の欠片らしきものが見えたからだ。
「足元。ちゃんと見て歩けって」
 腕を離した。
「……あ、ごめん……サンキュ、って、うわー、ガラスかぁ。危なかった……」
「お前、ほっといたらクラゲも踏んで刺されそう」
「一也が見ててくれなかったうっかり踏んじゃうかも」
「はぁ? お前何歳だよ」
「俺? 今は精神年齢三歳!」
 そう言って悠木はサンダルを履き、クラゲに向かって走り出した。俺はどんどん遠ざかっていく背中をあっけに取られながら見送った後、ガラスを拾ってティッシュで厚く包み、邪魔にならないよう適当に処理してから悠木の方へと歩いて行った。
 悠木はクラゲの傍で腰を落として屈み込み、俺が追いついてもずっと同じ体勢でクラゲを眺めていた。
「……そんなに面白いか?」
「面白いっていうか、綺麗だよ」
「もう死んでるだろ」
「んー……でも、死んでても綺麗。ゼリーみたいでさ」
 クラゲの死骸はまだクラゲらしい形を保っていて、色はうっすらと白が混じった透明だった。それを見て普通に綺麗だとは感じなかったが、死骸にしては確かに綺麗だった。
「俺もこいつみたいになりたい」
 悠木はじっとクラゲを見つめ続けながら呟いた。
「こいつみたい、って?」
「んー? 波に漂ってどこへともなく流されたり、ぷかぷか海の中を泳いだり、痛みも苦しみもなく生きて、最後はこんな風に綺麗に死ぬ、みたいな」
 浜辺に打ち上げられて死に顔を晒すのは、人間なら悲惨な最期ではないかと一瞬思った。
「でも出来るなら海の中で死にたいな。知らないうちに海に溶けて体が無くなってる、みたいな。ふわーってさ」
「体が無くなる?」
「そう、ふわーって分解されて。あとは水だけになる。俺、来世はそういうクラゲになるから」
「……つか、来世の話なら俺の飼い犬になるんじゃなかったのか」
「なれたらなるよ」
「何だそれ」
「だってさ、俺がいくらそうなりたいって願ってても、ネズミとかアリとかダニとか、最悪何かの菌とかになる可能性もあるじゃん? 確率的に」
 悠木はそう言って立ち上がった。そしてどうやらクラゲの死体観察には飽きたらしく、砂浜の端を指差して、次はあっちの方に行こうと俺を促した。


 俺たちは波打ち際から少し離れて歩いた。途中で悠木はまたサンダルを脱ぎ、俺も裸足になった。直に触れる乾いた砂の感触は心地良く、そのまま歩いてゴツゴツとした岩場の方に行くよりも、砂の上に腰を下ろす方が良さそうだと二人とも思い始めた。
 砂浜の入口と波打ち際は漂流物や人の捨てたごみが目立ったが、その中間辺りはそこそこに綺麗で、悠木は腰を下ろしてすぐに仰向けに寝転がった。俺はその横に座り、気まぐれに砂を握って、悠木の腹の上に落とした。
「わっ」
 悠木は声を上げた後、俺の目を見上げ、それから素早く俺のジーンズのポケットに砂を注ぎ込んだ。
「何すんだよ」
「一也こそ何すんだよ」
 俺は少し考えてから今度は両手で砂をすくい、また悠木に掛けた。悠木はまた無邪気な三歳児に戻ったらしく、笑いながらわーわーと声を上げ、大袈裟に手足をバタつかせて俺の魔の手から逃れようとし、俺はそれを追い続けた。
 そうこうしているうちに俺たちは砂遊びにすっかり夢中になり、気付けばどちらも全身砂まみれだった。辺りの砂を滅茶苦茶に堀り起こした結果、乾いた砂の下の湿った土に手が触れるまで荒らしてしまっていた。
 さすがに暴れ疲れて一休みしていると、唐突に悠木の腹が激しく鳴った。『聞こえた?』という目で悠木が俺を見たので(悠木の頬に砂が付いたままだったことに気付いた)頷いた。
「俺も腹減った」
 俺たちは出来る範囲で砂を払い、持参していた昼食を取った。それから遠くの方で遊んでいた家族の真似をして砂の城を作り、それに飽きると砂浜の貝殻をひたすら集め、それを種類ごとに分類した後、悠木の即席創作ゲームの駒として活用して、最後には飛距離を競いながら海に全て投げ捨てた。


 遊び尽した頃、太陽が沈み始めた。
 空が橙色に染まって、少しずつ太陽が沈んでいくのを、俺たちは二人並んで静かに眺めた。美しく圧倒的な光景――それなのにどこか物悲しくもあった。それが過ぎ去ってしまえばすぐに立ち上がって、急いで家に帰らなければならないことを互いに理解していたからだと思う。
「このままずっと……」
 悠木が独り言のように呟いた。
「このままずっと、一也と二人で遊んでられたらいいのに」
 膝を抱え水平線を見つめる悠木の横顔は、美しい橙色に彩られ、海面を反射した光がその瞳に映って輝いていた。俺はその横顔を何か絵画でも眺めるように見ていたが、悠木の口が紡ぐ言葉と、背後から忍び寄り次第に悠木の体を包んでいく影に、じわりと胸がざわめき出すのを感じた。
 根拠のない不安が――説明しようのない不吉な予感が、胸の奥の暗く冷たい場所で蛇のように頭をもたげるのを。
「……俺と二人じゃ、サッカー出来ないだろ」
 悠木はぼんやりと俺の方に顔を向け、それから少し口角を上げて見せた。
「確かに。全然人数足りない」
 少し目を離した隙に、太陽はその顔を殆ど隠してしまっていた。赤や橙に染まっていた雲もあまり残っていない――俺たちに残された時間も。
「悠木」
「ん?」
「何かあったなら言えよ」
「何かって?」
「悩み事とか」
「何で?」
「今日、朝から元気なかっただろ。何か」
「自転車盗まれたから」
「今も元気ないし……自転車だけじゃないだろ」
 確信があったわけじゃない。だが自転車の他に、悠木を酷く打ちのめし落ち込ませるようなことがあったのではないかと、そんな気がしてならなかった。
「だって……今日、すげー楽しかったから。もう帰んなきゃなんないだなーって、ちょっと寂しくなっただけ。夏も終わって、もう海に来ることなんて暫く無いし……それだけだよ」
 それだけ、と悠木は小さく繰り返した。俺は何も言えなかった。
 そして蝋燭の火が燃え尽きるように、ふっと呆気なく太陽が沈み切った。
 悠木が立ち上がり、履いていた七分丈のズボンから砂がぱらぱらと零れ落ちた。
「そろそろ帰ろっか。あんまし遅くなると帰り道危ないし!」
 空元気だということは分かっていたが、このままずっとここに二人でいるわけにはいかないことも分かっていた。俺たちは自転車の方へと歩いて行った。
「なぁ。今日、うちに泊まってけば」
 自転車の鍵を外しながら言うと、悠木は一瞬固まった後、微妙な顔をした。
「いきなりだとおばさんの迷惑になるから、いいよ」
「別に。お前すげー気に入られてるし。奈央にも」
「でも」
「俺が飯作るから」
「……けど、明日朝練あるし」
「今日のうちに鞄とか全部持ってきて、うちから行けばいいだろ」
「でも俺砂まみれで」
 自転車のハンドルに置かれていた悠木の手を掴んだ。力は込めなかったが、悠木が動揺したのは分かった。
「いいから来いよ」
 やっと悠木が頷いたので、手を離した。それから念のために携帯で母さんに連絡を取った。通話後、予想通りあっさりと了解が得られたことを悠木に伝えると、あからさまにほっとした表情を見せた。
「先にお前の家に荷物取りに行くってことでいいよな」
「うん。……何か、一也、今日はすげーやる気ある人みたい」
 悠木はそう言って少し笑ったかと思うと、その笑みの下の弱気な顔をまた覗かせた。
「……でも、ホントにいいの?」
「いいって。つか何で今日はそんなに遠慮すんの、お前」
「それは……だって……だって、今日は」
 悠木は一度言葉を切り、唇を噛んだ後、小さな声でこう続けた。
「……夜、もしかしたら、俺……泣くかもしれないから」
 その声は微かに震えていた。だが驚いたことに、悠木は大声でこう続けた。
「あーもう、夏が終わったのが悲し過ぎて泣くとか! 我ながらありえねー! やばすぎ!」
 そして大口を開けて笑い出した悠木は、笑い続けながら自転車に飛び乗り、物凄い勢いで漕ぎ始めた。薄暗い中に一人取り残された俺は、一瞬あっけに取られ――すぐに我に返って、大急ぎで悠木を追い始めた。


 その日の夜、悠木が泣いたのかどうか、今も俺には分からない。
 いつものように悠木は俺のベッドで、俺はベッドの横に敷いた予備の布団で寝たからだ。
 照明を消してからも俺は長いこと目を閉じずに起きていたが、俺に背を向けて横たわる悠木の方から泣き声は聞こえてなかった。何度が微かに聞こえたような気がした声も、耳を澄ましてみればすぐに幻聴だと分かった。
 暗闇の中、天井を見つめながら悠木の異変の理由について考えているうちに、俺はいつしか眠りに就き、夢を見た。

 夢の中、夕暮れの砂浜に悠木が座っていた。俺の視点は悠木の遥か後ろにあり、何故か動くことは出来なかった。
 空は早回しのような速さで色を変えていき、陽はずぶずぶと溺れるように沈んでいく。悠木はゆっくりと立ち上がり、海の方に向かって歩き出した。その足音と波音だけが砂浜に響いていた。
 俺は声も発することも、悠木に触れることも、近付くことすら出来ずに、悠木の後ろ姿をただ見つめていた。暗く陰る空と同化し、海に沈んでいく悠木の後ろ姿を。
 ――悠木は一度だけ振り返ったが、その時にはもう何もかも遅かった。俺は涙に濡れた悠木の頬を暗い色の波がその舌で舐め、頭を飲み込むのを見た。
 そして次の瞬間には全てが闇に包まれ、悠木はもうどこにもいなかった。
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