20.告白

「田中先輩と向井先輩は委員会の仕事で遅れてくるって」
 熊ヶ谷梓は園芸部の部室兼倉庫の低い棚に鞄を置きながら言った。園芸部と兼部しているバドミントン部で焼けた彼女のうなじを、ポニーテールの先がさらりと撫でた。
「先輩らが来るまで、花壇の雑草処理でもやっとくか?」
「ううん。先生も作業進めとけって言ってたし。私たち二人でがんばろ」
 俺は頷き、熊ヶ谷の鞄の隣に自分の鞄を置いた。そして――隣で鞄からタオルを取り出している熊ヶ谷の頭をちらりと横目で見下ろした後、こう言った。
「編み込みしてるんだな、今日」
「わ、気付いてくれたんだ!」
 熊ヶ谷はぱっと顔を上げ、八重歯を見せて嬉しそうに笑った。
「けど普段は……」
「うん、纏めてるだけ。でも今日は昼休みにね、上手な子に教えてもらって……」
「自分で?」
「うん。……どう? 似合ってる?」
 熊ヶ谷の細い指が、左耳の上の柔らかな編み込みの線をそっとなぞる。
「……いいんじゃね?」
 本心からそう答えると、熊ヶ谷は「わーいわーい、褒められた~」とふざけた口調で言いながら、照れ臭そうに笑った。

 熊ヶ谷と初めて話したのは、中一の春に同じクラスの同じ委員になってからだった。それまで面識はなかったものの同じ小学校出身で、特に本好きというわけでもないのに図書委員、という共通点から委員会の事務的な会話以上の話をするようになり、熊ヶ谷の誘いで園芸部に入部してからは、単なるクラスメイト以上友人未満、程度の仲になった。
 園芸部は俺が入部した時点で三年が引退していて、部員は俺を含めてたった五人。三人の一年のうち一人は習い事の関係で週一回だけの参加だったので、レギュラー参加の同学年である熊ヶ谷と俺は、必然的に過ごす時間も話す頻度も増えていった。
「そういえば、うちの部にどれくらい入ってきてくれると思う? 新入生」
 その日の放課後、学校の敷地内にあるささやかな畑には、俺たちの他に誰もいなかった。二年に進級してすぐの頃だっただろうか。
「今年は……五人くらいは多分いけるだろ」
 その年の新一年から、生徒は強制的に何かしらの部活に所属することになっていた。
「うちの部、週二だしね」
「帰宅部希望だった奴とか来そう」
「中西くんみたいな人とか?」
 熊ヶ谷は俺に悪戯っぽく笑い掛けた後、よいしょ、と小さく言いながら土に鍬を入れ始めた。少し離れたところで俺も土に鍬を入れていく。地味で疲れる作業だが、たまにこうやって体を動かすのも悪くはなかった。
「今は結構楽しんでるよ。……まぁ最初はやる気なかったけど」
「あ、やっぱり? 最初は週一だったもんね」
「今は楽しんでるって」
「意外とハマっちゃったパターン?」
 頷くと、だよねぇと熊ヶ谷も頷き返した。熊ヶ谷はバドミントン部兼園芸部の先輩に誘われて仕方なく入り、俺と同じように徐々にハマっていった人間だった。
「そんな感じで定着してくれる子がまた入ってくれればいいんだけどなー」
「何となるだろ」
「ですねぇ」
 そんな風に時折他愛もない話をしながら、俺たちは二人で畑を耕していった。
 だが――十分ほど経った頃だろうか。俺はふと熊ヶ谷の手が止まっているのに気付いた。何かあったのだろうかと手を止めて熊ヶ谷の顔を見ると、目が合った。
「……ね。中西くんって今、付き合ってる子とかいる?」
 あまりにも唐突な問いに、俺は一瞬固まった。熊ヶ谷はその間を肯定と捉えたらしく「あ、そっかいるんだ」と早口で言った。
「あ……いや。今は……いない」
「ホント?」
 頷いた。
「じゃあ、もしよかったら……私とか、駄目かな?」
「駄目って、何が?」
 急に喉の渇きを感じた。自分の心臓の音が聞こえ始めた。
「……中西くんの彼女に、ってこと」
 どう答えるべきか――どう反応すべきなのか。正直言って、どうすればいいのか全く分からなかった。
「……、何で俺?」
「んー……、いいなって思うところは色々あるよ。結構真面目なところとか、周りを見てるところとか。最初は素っ気ないかなって思って実はちょっと苦手だったんだけど、ちゃんと話してみると落ち着いてて、結構優しいんだなーって思って……あ、これがきっかけかな。でも、何が決定打って言われると分かんないな」
 熊ヶ谷は困ったように笑いながらそう答えた後、真面目な顔で俺を見つめながら言った。
「けど、好きだよ。気付いたらこんなに好きになってた。……中西くん、私と付き合ってもらえませんか?」
 熊ヶ谷は学校で一番親しい女子だった。女子の中では一番話しやすく、一緒にいて心地いいと思った。笑顔が可愛くて、活発で、優しい子だった。
 だが、その時の俺が考えていたのは、どうしたら熊ヶ谷を傷付ずに断ることが出来るか、ということだけだった。
「熊ヶ谷になら……もっといい奴いるだろ?」
「もっといい奴って? 私は中西くんがいいし、中西くんが一番だと思ってるよ」
 ――どうして俺なんかが熊ケ谷の『一番』になるんだ?
「……悪い、気持ちはすげー嬉しいけど――」
「待って! 今返事しないで」
 焦った声で遮られて、思わず口を閉じた。
「一週間くらい、考えてもらえないかな? それで私のこと、少しでも……ほんの少しでも好きになれそうだって思ってくれたら、付き合って欲しい。ちゃんと好きじゃなくていいから。それでも……それでももし駄目だったら、すっぱり諦めるから。お願い」
 その『お願い』をどうやって拒めば良かったのだろう? 受け入れるべきではないと分かっていたのに、言葉が見つからなかった。
「……分かった」
「ありがとう」
 ほっと安堵したような声。
 タイミングを見計らったかのように、校舎の方から先輩たちが歩いてくるのが見えた。先輩たちと合流した後の熊ヶ谷は普段と何も変わらず、先輩たちも俺たちの間に起こったことに感付いていない様子だった。


 部活が終わると、熊ヶ谷はいつも通りに「じゃあまたね」と俺に声を掛け、三年の女子の先輩と連れ立って帰っていった。
 告白が俺の見た白昼夢だった可能性を考えながら、俺は運動場の方へと歩いて行った。サッカーゴールの近くで部員が整列し、その前で顧問が何か喋っているのが見えた。どうやら最後の挨拶をしているところらしい――そう判断し、そのまま悠木を待つことにした。サッカー部は活動時間が長く、基本的に園芸部とはかなりズレがあるのだが、たまたま園芸部の活動が長引いた日はこんな風に少し待って、二人で一緒に帰ることになっていた。
 解散後、悠木はすぐ俺の存在に気が付き、走り寄ってきた。
「一也!」
「お疲れ」
「一也もお疲れ! すぐ鞄取ってくるから校門で待ってて!」
 悠木はそう言って目にも止まらぬ速さで駆けて行き、俺が校門に辿り着いて一分もしないうちにまた顔を見せた。しかも練習着から制服に着替えた上に、制汗剤も使ったようだった。匂いは爽やかだが急ぎ過ぎて息が荒い。俺は苦笑し、悠木の呼吸が少し落ち着くまで待ってから歩き出した。
「毎回言ってるけど、そんなに急ぐ必要ないだろ」
「ある。一也に置いて行かれたくねーもん」
「いや、普通に待ってるから。そこまで気短くねーよ」
「でもさぁ、ちょっとの時間でも、積もり積もったら待つのが嫌になるかもしれないだろ?」
「ならねーって」
 納得したのかしてないのか、悠木は「んー」とよく分からない声を出した後、溜息を吐いて、
「俺、犬になりたい」
 そんなことを言い出した。
「……は?」
「犬になりたい。飼い犬。人間やめて人間に飼われたい」
 妙に真面目な声だった。
「何で」
「んー? 犬だったら悩み事とかめちゃくちゃ減るじゃん。それに人間に可愛がってもらえるし」
「変な奴が飼い主だったらどうすんだよ」
「それは大丈夫。一也に飼われるから」
 俺の頭の中に、物凄い勢いで尻尾を振り、興奮気味に走り回りながら俺を見上げる犬の姿がパッと浮かんだ。
「……お前、すげー粗相しそう」
「しーまーせーん~」
「うれションとかする」
「しないってば!」
 粗相が直らない困った犬でも、どこか憎めないタイプの犬だろうな、と内心思った。愛嬌があってよく懐く、人に可愛がられるタイプの犬だ。
「……つか、何か悩み事あんの?」
 尋ねると、悠木は不思議そうに首を傾げた。
「え、何で? ないよ」
「犬だったらめちゃくちゃ悩み事減るんだろ」
「あー……それは、うん、言葉の綾ってやつ。まぁ部活のこととか、そういうのはあるけど」
 悠木は一年のとき、三年の引退のタイミングでレギュラーになった。そのプレッシャーや、これから後輩が出来ることによる不安もあったのかもしれない。
「俺で良かったら聞くけど」
「んー……ありがと。でも大丈夫」
 俺は悠木が周囲や自分自身の期待に応える為に、文字通り血の滲む努力をしていることを知っていた。身体能力が特別他より優れているとか、サッカーの天賦の才があるわけではないが、練習には誰よりも真面目に参加し、体を作り、日々センスを磨き、自分自身だけではなく周りもよく見て場を作って、仲間から信頼を勝ち取っていく――悠木がそんな人間であることを、俺は知っていた。
 俺は何となく悠木の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃとその髪を撫でた。
「わ、わっ! 何だよ一也! ていうか俺、練習後だからな!? 汚いって!」
 悠木が素早く俺の手から逃がれたので、すかさず肩を抱いて引き寄せ、更にぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
「よしよし」
「か~ず~や~~! やめろって~~~!」
「この犬すげー喋る」
「まだ犬じゃねーから!」
「じゃあいつなるんだよ」
「来世!」
 悠木はそう叫び、大きく開いた口のまま俺に噛み付く真似をした。どうやら来世の予行練習をし始めたらしい。歯形を付けられる前に離すと、悠木は人見知りの猫のような身のこなしで前方に飛び、俺から一・五メートルほど離れた後、振り返って俺を睨み、無言で指差してきた。
「何だよ」
「たらし野郎」
「はぁ?」
「一也のば~か」
 薄暗くて表情がよく分からなかった。追い付いて見てみると、意外なことに悠木は笑いも怒りも睨みもしていなかった。寂しげに見えたのは気のせいだろうか。悠木は俺と目が合うと唇の両端を微かに上げてみせた。
「あのさ、一也」
「なに」
 俺たちはまた歩き出した。
「今日、熊ヶ谷さんから話とかあった?」
「……話って?」
「んー? 何か、特別な話」
 特別な話――『告白』? どうして悠木がそのことを?
 ちらりと悠木の横顔を見ると、悠木は俺をじっと見つめ返し、「そっか、やっぱりかぁ」と呟いた。
「……熊ヶ谷から?」
 俺と悠木は二年になってクラスが別れたが、熊ヶ谷と悠木は同じクラスだった。相談でもされていたのだろうかと思い尋ねると、悠木は首を横に振った。
「何となく、一也と熊ヶ谷さんを見てたら分かった。今日あたりかなって。さっき運動場にいたとき一也もちょっと雰囲気違ったし。表情に出てたわけじゃないけど」 
「雰囲気違ったって……どんな風に?」
「ん~~、何だろ? 何となく……直感みたいな。多分俺以外の人は気付かないレベル」
 そんな小さな変化、兆候を悠木が読み取ることが出来たのは――悠木が人に好意を向けられることが多い人間だからだろうか、それとも。
「……なぁ、付き合うの?」
 答えに窮した――自分でもどうするつもりなのか分からなかったからだ。
「あっ、えーっと、俺これでも秘密は守る方で、あっ、でも話したくないんだったら全然いいから、俺無関係だし。一也と熊ヶ谷さんのことだから。やっぱ当事者同士の問題だし、悪い、無神経に聞き出したりなんかして……」
 悠木は早口で捲し立てたかと思うと、最後はどんどん声が小さくなっていった。どうやら俺の沈黙は無言の抵抗として受け取られたらしかった。
「……何いきなり他人行儀になってんだよ。別に気悪くしてねーから。無神経とかも思ってねーし」
「本当ですか」
「本当です。……何で敬語だよ。つか、まだ熊ヶ谷に返事してないだけ」
「保留?」
「一週間考えてみて、って言われた」
「そっか」
 一瞬、沈黙が下りた。それを破ったのは悠木だった。
「熊ヶ谷さん、可愛いし、いい子だし。付き合ったら、凄く楽しいと思うよ」
 俺は頷き、もし自分と悠木が今と反対の立場だったなら、俺も同じことを言っただろうなと思った。
「……お前は?」
「俺? 何が?」
「誰かと付き合いたいとか、彼女欲しいとか思わねーの?」
 悠木は即答しなかった。うーん、と何回か唸った後、こう答えた。
「俺にはサッカーがあるから」
 本気か、それとも誤魔化しただけなのか。どちらでもあり得るような気がした。
「あとさ……こういうの、あんま人に言ったことないんだけど……っていうか一也、もしかしたら引くかもしんないんだけど」
「……なに?」
「俺、そういうの無理っぽい」
「恋愛とサッカーの両立が?」
 悠木は曖昧に首を振り、躊躇いがちに続けた。
「何て言うか、自分が誰かと恋人として付き合う、ってことを考えるのが。気持ち悪くなって……耐えられない。考えてたらいつも吐きそうになる。だから絶対無理。……多分、一生無理なんだと思う」
 ……思わず言葉を失ってしまうような、衝撃的な告白だった。数時間前のそれと同じか――あるいはそれ以上に、悠木の言葉は俺の頭を揺さぶり、微かに息苦しさまで感じさせながら、胸に重く沈んでいった。
「引いた?」
「いや……驚いただけ」
「ホント?」
「本当。……すげーびっくりしたけど」
 悠木は「一也がそこまで驚いてんの見るの、超レア」と言って笑った。
「でもさ、友達が誰かと付き合ってんの見たり、恋愛話聞いたりするのは嫌いじゃないから。その辺は平気、っていうかむしろ大歓迎」
 つまり、自分が当事者になるのが駄目で、それ以外なら平気――ということらしかった。
「だから、もし一也に彼女が出来たら……」
「……出来たら?」
「それはもちろん――」
 悠木は両手を高く上げ、晴れやかな声でこう叫んだ。
「バンザーイって感じ!」 


 一週間後、俺は熊ヶ谷と付き合い始めた。
 悠木に異変が起こり始めたのは、それから半年ほど経った夏の終わりの頃だった。
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