19.『お泊り会』


 初めて悠木の家を訪ねたのは、出会った年の秋のことだった。
 親しい友人を引っ越し後すぐに作っていた奈央と違い、俺にとって『友人の家に遊びに行く』という行為自体が数年振りだったせいか、母さんは大袈裟に騒ぎ立てた。
 『親御さんにちゃんと挨拶をしなさいよ』『お土産を持っていきなさい』『夕食前には帰ってくること』『失礼のないように』などと前日の夜にしつこく指図されて、無性に腹が立ち、俺は衝動的に『悠木の家に泊まることにしたから』と言い放って部屋に籠り、そのまま朝まで一切母さんと口を聞かなかった。
 朝、母さんは俺にお土産用だと言って三千円を押し付け、慌ただしく仕事に行った。それで引っ込みがつかなくなった俺は、学校で悠木に昨夜の件を話した。
「――え、泊まるって、うちに? 一也が?」
「駄目だったらいい」
「いや! 駄目じゃない! 駄目じゃないけど……、うち何もないよ? やることがなさ過ぎるあまり暇死にするかも……」
「暇死にってなんだよ」
 俺は笑った。悠木は真顔で『比喩でも冗談でもないから』と返した。
「パソコンないし、ゲームも漫画も古いのしかないし、それすら接続不良で使える時と使えない時があるし……風呂とかトイレとかキッチンとか死ぬほどボロいし……え、ホントに? うちに泊まるの?」
「駄目だったらいいって」
「いや駄目じゃないって! 泊まろう泊まろう! 泊まってください! お願いします!!」
「何でお前が頭下げてんだよ。……なぁ、そういや家の人は?」
 その日は部活が休みで、放課後も家に人がいないから寂しい――と悠木がいうので遊びに行くことになったのだが、泊まりとなると話は変わってくるはずだ。
「え? ああ、それは気にしなくていいよ。うちばあちゃんしかいないんだけど、ばあちゃんは明後日まで旅行で帰ってこないから。どうせ連絡手段もないし」
「いない間に泊めて、お前が怒られるとかねーの?」
「大丈夫大丈夫。一也がトイレットペーパーを一日一ロール使い切るとか、隣の家まで響くくらいのヤバイいびきかく、とかだったら無理だけど」
 悠木はからかうような口調で言った。俺はにやりとした。
「それ、実はお前のことだろ」
「違います~! ……ってか俺、友達を家に泊めるの初めてだ……」
「中学入ってから?」
「ううん、生まれて初めてってこと」
「は? 俺が最初?」
 今は俺とつるむことが多くなったとはいえ、悠木は決して友人が少ない方ではなかった。それに俺と違って生まれも育ちもこの町だ。まさか、と思った。
 悠木は質問に無言で三回頷いた後、にっと笑ってこう言った。
「そう。一也が記念すべき第一号だよ!」


 その日の放課後、俺たちは学校を出てそのまま悠木の住む団地へと向かった。悠木は昼頃から興奮気味で、それは帰路に就いても続いていた。俺に夕食を作ってほしいと凄い勢いで頼んだり(家で料理していることは前に話していた)、何をして遊ぶとか、明日は何時まで家にいてくれるのか、といったことを縁石の上を歩きながら俺に尋ねたり、鼻歌を歌いながら飛び跳ねてみたりと、まるで小さな子どものようにはしゃいでいた。
 だが団地が近付いてると、悠木は途端にあれこれ心配し始めた。しつこいくらいに『何もないし死ぬほどボロいし汚いから』と俺に言い聞かせ、変な臭いがするかもしれないとか、上の階から足音が聞こえて眠れないかもしれないとか、とにかくハードルを下げようとした。
 そして辿りついた107号室は――確かに物が少なくあちこち古びてはいたが、清潔感がある片付いた家だった。
「廊下、塵一つ落ちてなくね?」
「え、あ、うん。昨日めちゃくちゃ掃除頑張った。でも普段は散らかってる」
 案内された悠木の部屋は廊下や居間よりも更に綺麗に片付いていた。初めて入る友人の部屋がそんな状態だと、普通少し居心地の悪い思いをするものだが、日に焼けた畳やシールを貼り付けた跡が残る折り畳み式の背の低い机が、何となく俺を落ち着かせてくれた。
「お茶以外に何か飲みたいものある? 何かおやつとか食べる? ていうか何しよう?」
 俺にお茶と座布団がわりのクッションを出した後も、悠木は立ったり座ったりを繰り返し、そわそわと落ち着かなかった。
「いや……つーか、着替えて後で何か買いに行きたい」
「えっ? 何を? 何が?」
「ジュースとかお菓子とか。母さんからお土産用にって金貰ってるから、それで」
「え、いいよいいよ、そんなの」
「いや、俺も何か食いたいし」
「あ、うん。はい。分かりました」
 悠木が神妙な顔で頷くので、俺は不思議に思った。
「何で緊張してんだよ、俺相手に」
「だ、だって……」
 どうかすると、初めて会話したときよりも他人行儀だ。いくら人を招くのが初めてなのだといっても、相手はこの俺だ。もしかして――何か見られたくないものでもあるだろうか? そう思い、それらしい場所を目で探した。悠木は焦ったように俺の視線を追った。
「え、なに? 何か虫とかいる? 何かおかしい?」
「いや、どっかにエロ本でも隠してんのかと」
「えろ……え、えっ!? なっ、無い無い、無いって! 持ってるわけない!」
「別にあっても引かねーけど」
「無いってば!」
 もしかしたらあるのかもしれなかったが、無遠慮に引き出しや押し入れを開けて探し当てるつもりはなかった。ただ、そういうものがあっても別に問題はないと言いたかっただけだ。
 ……だが、悠木はまだ落ち着かなげにしている。俺が言わんとしたことは伝わらなかったらしい。ガチガチに体を固くして俺を見ている悠木が一体何を恐れているのか分からなかった。だがこうしている間にも、悠木の緊張のボルテージがどんどん上昇していっているのは見て分かった。
「悠木」
 俺はすぐ傍の畳を軽く叩いた。悠木は明らかにそれと分かる作り笑いを浮かべ、意図を確かめるように俺の目を窺った後、おずおずと俺の横に移動してきた。何の用で呼ばれたのかと、ちらりとまた俺の目を見た瞬間。
「あっ!?」
 俺は素早く悠木の脇腹に手を伸ばし、指先を細かく動かし始めた。
「なっ、なっ、何、……ひっ、あっ、か、一也! ちょっ、あっ、だめ、ま、待って! 一也!一也ってば! やっ、くすぐっ、たっ…………ひっ、だめっ……かず、一也ぁ!」
 待たずにくすぐり続けていると、悠木は俺の手を掴んで押し返そうとしながら、どんどんと仰け反っていき――ついには、悠木をじりじりと追い詰めていた俺を道連れに畳の上へと倒れてしまった。
 はーっ、はーっと荒く喘ぎながら体を震わせる悠木を、くすぐる手を止めて至近距離で見下ろし、少しやり過ぎたと反省した。悠木はやがてくたりと体の力を抜き、覇気のない涙目で俺を睨んだ。
「……一也さん…………、随分と、手慣れた手口ですね……」
「妹が俺のアイスを盗み食いしたときに毎回やってる」
 俺は悠木が体を起こすのを手伝い、クッションの上に腰を下ろした。悠木は膝を抱えて顔を伏せ、長い長い溜め息を吐いた。
「も~~……死ぬかと思った……ていうか九割くらい死んだぁ……」
「ゾンビ?」
 悠木はこくこくと頷いた後、顔を上げて俺を見ると、気の抜けた顔で笑った。
「……何か腹減った。おやつ買いに行こうよ、一也。でも俺、今ほぼ死体だからおぶっていって」
「バカ」
「カバずや」
「何だよそれ」
 俺は軽く吹き出し、悠木も笑った。



 買い出しを済ませ夕食を取り、レトロゲームやトランプで何時間か暇を潰して、風呂も済ませた後。
 買ってきた菓子類やジュースを飲み食いしながら、俺たちは話し始めた。
「あー……それにしても、さっきのチャーハン、マジで美味しかった。一也のチャーハン最高」
「はぁ? すげーベチャベチャだったのに?」
「でも美味かったの! また食べたい。明日も食べたい!」
「あれが美味いとか、普段何食ってんだよ」
「えー……何だろ? パンとか……?」
 何で疑問形なんだと首を傾げると、何故か悠木も首を傾げた。
「だって自分でもよく分かんないし」
「悠木のばあちゃんが作ってんの? 自分で?」
「んー、たまにばあちゃんが作るときもあるけど……何かよく分かんない味がするから。それに俺が台所立つと後ですげー文句言われるし……ていうか一也、明日もチャーハン作ってくれる? ダメ?」
「俺はいいけど……文句言われるのお前だろ?」
「大丈夫大丈夫。いないときに作っても文句言われないよ」
 もう一つ気になることがあった。明日は土曜だ。
「つか、サッカー部って土曜、部活あっただろ?」
「いつもはね。けど今週は監督の奥さんが出産で実家に帰ってるらしくて、それに合わせて監督も週明けまでいないんだよ。で、せっかくだからお前らはしっかり休んどけって」
「へぇ。いつも大変そうだもんな」
「うん、でも楽しいよ」
 小学生の頃からサッカーをやっていたという悠木は、入部受付が始まったその日にサッカー部に入部した。初めの頃は一緒にやろうと勧誘をよく受けていたのだが(忙しい部だと家の食事当番がこなせなくなる、と毎回断っていた)最近は全く聞かなくなった。練習の過酷さに新入部員が何人も脱落した後、未経験の俺を誘い続けるのはさすがに気が引けたらしい。
「そういや、一也は入んないの? いや、サッカー部じゃなくて、部活自体にってこと」
「あー……園芸部に入った」
「園芸部!? え、いつ!?」
「先月。一人転校で抜けて、廃部寸前だからって頼まれたんだよ。入るだけで、来なくてもいいからって」
「じゃあ行ってないの?」
「いや、週一で行ってる」
「花植えたり?」
「そう。あと雑草抜いたりとか」
 悠木は横になったまま俺ににじり寄り、畳の上に投げ出していた俺の右手の指に鼻を近付けて、クンクン、とわざとらしく鼻をひくつかせた。
「凄い、ホントだ。草の匂いがする!」
 そう言って顔を上げた悠木を無言で見つめた後、俺は悠木に手を伸ばし、すっと通ったその鼻を人差し指と親指でつまんだ。
「あ、あにすんだよ~」
 抗議する悠木の頭に鼻を寄せ、微かに湿り気が残った髪を悠木がやったように嗅いでみせた。
「あー……、こっちは悠木臭がする」
「えっ、なに!? 悠木臭ってなに!? 臭い!? ヤバイ感じ!?」
 悠木はいきなり体を起こし、凄い剣幕で問いただしてきた。
「いや普通にシャンプーの匂い」
「ホント!?」
「何でそんな必死に……、自分だって臭いって言っただろ」
「草は臭くないし! なぁマジで俺、臭くない? なぁ」
「臭くないって」
 そう言ってもまだ納得しきれないようで、悠木は自身のスウェットを嗅ぎ始めた。俺は溜め息を吐き、悠木を抱き寄せて耳に鼻を寄せた。鼻先が軽く触れるくらい近付いて嗅いでみたが、風呂場にあったシャンプーの匂いがするだけだった。
「かっ、一也……! 離せって!」
 俺はその言葉を無視し、暫くそのまま悠木を腕に抱いたまま呼吸をしていた。悠木は何とか俺の腕から逃げ出そうとしていたが、やがて無駄だと諦めたらしく、力を抜いた。悠木を離したのはそれから少し経ってからだった。
「もし本当に変な臭いがするなら、こんなこと出来ないだろ」
 悠木は無言で頷いた。その顔には何とも言えない表情が浮かんでいた。
「……、何か一也ってモテそう」
「はぁ? モテねーよ」
「彼女いそう。もしくはいたことある。すっごい美人の彼女」
 一瞬、懐かしいあの顔が頭に浮かんだ。胸を締め付けられるような罪悪感と――それ以外の感情の全てが呼び起こされそうになる。俺は何も感じずにいられるように、日に焼けた畳に意識を移した。感情はすぐに俺の頭から締め出されて、あとは胸に違和感が残るだけだった。
「……いねーって。つかモテるっていったらお前の方だろ」
「え? うーん……俺のは違うよ」
「違うって、何が?」
 俺の目の前で隣のクラスの女子や、三年の女子の先輩に連絡先を聞かれていたこともあったし――悠木と出身校が同じだったあるクラスメイトが、毎年のバレンタインで悠木が受け取っていたチョコレートの数を羨ましげな顔で俺に教えてくれたこともあった。
 たとえこれまで生きてきて一度も鏡を見たことが無かったとしても、まず間違いなく自覚しているレベルだ。
「何て言うか……、うーん……よし、創作トランプゲームしよ! ほら、スタンバイスタンバイ!」
「は? 何だよ創作トランプゲームって」
「俺がさっき考えたゲーム! もうババ抜きも七並べも飽きたろ? じゃーまずここに透明人間が二人いると仮定して四人にカードを配るね。OK?」
 悠木は返事を待たずに素早くカードを切り、俺と悠木と透明人間二人にカードを配り始めた。 
 正直消化不良の状態ではあったが、話さなかったことがあるのは俺も同じだった。黙って悠木の対面に移動し、悠木が謎のゲームのルールを口頭で説明するのに耳を傾けることにした。


 その日の夜。ふと布団の中で目覚めた。真っ暗では眠れない、と言い出した悠木のために少し明るくしたまま寝たので正確な時間が分からず、壁の時計を横目で見て確かめた。午前三時――布団に入ってから一時間弱。どうりでまだ眠たい筈だ。
 何となく隣の布団の方に体を向けてみると、悠木と目が合った。驚いたが、悠木の方もかなり驚いたらしく目を見開いていた。
「……、寝ろよ」
 そう言うと、悠木は「一也だって」と囁くような声で返した。
「俺はさっきまで寝てた。そっちは寝てないんだろ?」
「寝てたし」
「何秒くらい?」
「…………、寝てませんでした」
 遅くまで起きていたのは悠木がなかなか寝かせてくれなかったからだ。布団を敷いてからも全く眠そうな顔をしていなかったのを、無理矢理寝かせたのが二時だった。
「人が横にいると眠れないタイプ? なら俺、廊下で寝てもいいけど」
「えっ、いや、そういうのじゃない……」
「じゃあ何で?」
「……何かさ、勿体なくて」
「……何が?」
「だって……泊まりってなかなか無いじゃん」
「いつでも出来るだろ」
「でも部活あるし、無くてもうち、ばあちゃんがいる時は無理だし」
 なら俺の家に来ればいい――と言い掛けて、奈央の友達がうちに泊まりにきた翌日、母さんと奈央が言い争いをしていたことを思い出した。母さんは離婚以来ずっと気が張っている上に、最近は仕事のストレスで短気になっていて、その時は思わず仲裁に入ってしまうほど理不尽な怒りを奈央にぶつけていた。
「うちに来れば。頻繁には無理だけど」
「無理しなくていいよ」
「たまになら別に。俺が飯作ってもいいなら」
「一也が作ってくれるの?」
 母さんと奈央の言い争いの中で特に頭に残っていたのは、四人分だと食事の用意の手間が余計に掛かる、ということだった。負担を減らせば文句も言われなくなるだろう。
「文句ないだろ?」
「うん、ない。全然無い。全く無いです」
「じゃあもう寝ろよ。これが最後じゃねーんだから」
「うん。……なぁ、またお泊り会、してくれるんだよな?」
「するって」
「お泊り会を?」
 やけに可愛らしい表現で、普段なら口にするのを躊躇うところだったが、今はただただ眠たかった。
「そう、お泊り会を」
 悠木は嬉しそうに微笑むと、ころんと仰向けになって目を閉じた。
「じゃあ……じゃあ今度こそおやすみ!」
「おやすみ」
 悠木はまだ当分眠りそうにないように思えたが、こちらはもう限界だった。俺はまた全力で瞼にぶら下がってきた睡魔に身を委ね、意識を手放した。
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