17.血痕/帰路

 大分暗くなってきたので、今日はもう帰ろう、という話になった。
 四人の人間が草木や落ち葉を踏んで進んだ跡が微かに残っていたとはいえ、元々道らしい道もないので行き道を正確に辿るのは難しかったが、やや下りながら斜面を横断して進んでいくと、特に迷うこともなく舗装された道の方に出た。あとはそのまま坂道を下っていくだけだ。
 悠木は少し下ったところで足を止めた。
「……あのさ! 俺、ちょっとだけ上の方を見ていきたい」
「は? 上って……進入禁止だろ?」
「だからその進入禁止の札があるところまで見てくる。ダッシュで」
「今から?」
 どれだけ上に札があるのか分からないが、もうすぐ太陽が完全に落ちて暗くなる頃だ。山に外灯はなかった。
「うん、今から。二人は下まで行って待ってて」
「いや、三人で行く方が良いだろ」
「なに言ってんだよ。上の方に行ってイノシシが出てきたら危ないだろ。流星が怪我でもしたらカズどうすんの?」
「俺は大丈夫です。一緒に行きます」
 流星が言う。悠木は首を横に振り、俺の前に立つと、デイパックから袋を取り出して俺に差し出した――思わず受け取ってしまう。
「何だよこれ」
 よく見てみればスーパーの袋だ。やや膨らんでいて、軽く、口はしっかりと結ばれている。中身は透けて見えそうで見えない。
「大事なもの! 割れ物だから気を付けろよ。カズに預けるから、流星と下のバス停まで持って行って欲しい。で、着いたら俺が来るまでそこで待ってること。分かった?」
「いや、だから――」
「じゃ、頼んだからな!! 中身は見るなよ!!」
 悠木はそう言い捨て、いきなり全速力で走り出した。反射的に伸ばした俺の手はデイパックを掠めただけで、悠木はどこにそんな体力が残っていたのか不思議な速度で坂を駆け上っていく。
「おい、悠木!」
 追いかけるか、否か。考える前に走り出そうとして、流星のことを思い出した。顔を見ると、あっけに取られたように口を開けていた流星も俺に顔を向ける。
「……カズくん、俺が追い掛けようか?」
「いや俺が」
 行く、と言い掛けて、預かったばかりの荷物を思い出す。流星は俺の視線を追って袋を見た。
「預かるよ。俺はここで待ってるから。……俺が預かってもいいものかな?」
「ああ……うん、いいだろ。じゃあ……頼んでもいいか?」
「うん」
 袋を手渡した。何が入っているのか皆目見当もつかないが、さすがに危険物ではないだろう。
「すぐ戻ってくるから。暗くなるし、ここじゃなくてバス停の方で――」
「分かった。そこで待ってる」
 俺は頷き、既に豆粒ほどの大きさになっていた悠木の後ろ姿を見つめ、溜め息を吐いて、それから走り出した。

 夕焼けの中、坂道を駆け上っていく。
 無理をすれば車二台が何とか通れそうな狭い道に、道路脇の木々の枝が影を落としている。明らかに整備されていない伸び方だ。普段滅多に車が通らないのか、倒木や小動物の腐敗した死体まであった。俺はそれらを避け、時には飛び越えて全力で走ったが、悠木はなかなか捕まらなかった。呼びかけても無駄だった。
 今はどの部活にも属していないとはいえ、中学のとき悠木はサッカー部で活躍していた。当時のサッカー部の顧問はとにかく厳しいことで有名で、練習もかなりハードワークだと部員がよく漏らしていた。それに耐えていたのだから、当時の持久力は無くなってしまっても、無理をすればまだそれなりに走れるのだろう。しかも今日は胃の中で消化前の食べ物がタンゴを踊り狂っているということもない。
 何度か左右に曲がって悠木の姿を完全に見失い、そして息苦しさが一周回って落ち着いた頃、例の警告が目に入った。

 ≪この先、私有地につき立ち入りを禁ず≫

 道の両端の木に太いロープが二本張られていて、警告文が印字されたアルミのプレートは、そのロープの間に挟まるようにして括り付けられていた。
「……悠木?」
 立ち止まって辺りを見回した。まだ陽は落ちきっていなかったが、悠木の姿はどこにも見当たらなかった。もしかすると気づかぬ内にどこかで追い抜いてしまったのかと思い、三十メートルほど下ってみても同じだった。とすれば――林の中か、警告の先しかない。
 俺はまた坂を上がって、警告の前に立った。ロープは見逃すほど細くも短くもない。上に行こうとすれば間違いなく目に入るし、よそ見をしながら走っていればロープに引っ掛かってしまう。先に行くには助走をつけて飛び越えるか、腰を深く落として下か二本のロープの間を抜けるか、一度林の中に入る他ない筈だ。
 ……まさか。
 かろうじて電波が通じていたので、電話を掛けた。呼び出し音を聞きながらロープの先三メートルほどの場所を見ていると、何か――ふっと気を引く、奇妙なものが目に入った。ひびの入ったコンクリートをじっとりと濡らす、赤黒い染みのような――。
「――――」
 背筋がぞっと冷たくなった。
 血だ。それも、かなりの量の。微かに鉄臭い風が上から流れてくる……。
 留守電に繋がった携帯を下ろし、短く息を吐いた。胸の中で、心臓が倍に肥大したかのような存在感を放ちながら大きく脈打っている。血――悠木の血だろうか? 野生動物に襲われたのか、それとも? ただその辺りで転んで出来た傷と考えるには多過ぎる量だ。
 もう一度悠木に電話を掛けながら、俺は染みを凝視する。よく見れば赤黒い染みは正体不明の固形物混じりで、道端の嘔吐物のような形で激しく広がり、そこから斜面に沿って何本かの線が垂れていた。
 ――また留守電に繋がった。近くにいれば聞こえてくるだろう悠木の携帯の音も全くしない。俺は携帯をポケットに入れ、辺りをもう一度見回してからロープに近付き、掴んだ。
「悠木……悠木! ……すみません! 誰か、そちらにいますか!?」
 返事はない。悠木からも、それ以外の誰かからも。
 あの血痕が悠木のものと決まったわけじゃない。もしかしたら血のように見えるだけで、違う何かなのかもしれない。だが、どうしても胸騒ぎが収まらなかった。
 血痕のすぐ先はカーブで、ここからでは曲がった先に何があるか窺い知ることは出来ない。俺は数秒の逡巡の後、素早く上下のロープの間をくぐって私有地の中に入った。そして左右を見回しながら血痕の側を走り抜け、カーブを曲がった。
 アスファルトはカーブの先で途切れていて、そこからは砂利道が続いていた。そしてその先には――
「――――!」
 息が止まりそうになった。砂利道に、中学生くらいの女の子が立っていたからだ。
 浅黒い肌をした足の長い少女は真顔で俺を凝視していた。だが、話し掛けようと俺が口を開いた途端、その手に持っていたバケツを放り捨て、中に入っていた水が盛大に零れるのにも構わず、素早く方向転換して上の方へと駆け出した。
 少女は思わず目を見張るほどの速度で俺から遠ざかり、砂利道を十メートルほど進んだ先の、車が五、六台は置けそうな広々としたスペースを通り抜け、その先の建物の中へと消えてしまった。
 不法侵入している身ですぐに追い掛けるのも躊躇われ、せめて人を探していることを彼女に伝えようと、大きく息を吸い込んだとき。聞き覚えのある声が微かに耳へと入ってきた。
「…………」
 俺はほっと息を吐いて肩の力を抜いた。そして倒れていたバケツを道の脇に立てて置き、少し迷ってから建物の方へと歩いて行った。
 少女が消えた二階立ての大きな建物(周りにいくつか小さな離れがある。おそらく、雰囲気的にここが旅館だったのだろう)の裏手に回ると、こじんまりした屋外の調理場で、かなり恰幅のいい中年の女性が料理しているところだった。彼女の側に立って何か興奮気味に話していた悠木は、彼女の視線が俺の方に向けられたことで追跡者の存在に気付いたらしく、目を瞬いた。
「あれ!? カズ、何でここに? 下で待っててって言ったのに……」
 俺は悠木の言葉を無視して女性に頭を下げた。
「勝手に入ってすみません。……こいつを探してたんです。すぐ帰ります」
「下の血を見たの?」
 女性はバーベキュー用のコンロに並べた肉をちらりと見、折り畳み式の机に置いた卓上コンロの鍋をお玉でかき混ぜながら尋ねた。
「はい」
「この子もそうだって。あれ、テンなのよ。屋根裏に巣を作ってたから捕まえたの。あんなとこで〆るつもりなかったんだけどねぇ。遠くまで行ってから放すつもりだったんだけど、暴れるから、仕方なくね」
「カズ、テンって何か知ってる? 俺も知らなかったんだけど、イタチの仲間らしい」
「フンはするし、食べ物は持ち込むし、ほんと困った生き物よ。わざわざうちに入らなくても、その辺りにいくらでも住む場所はあるでしょうに」
 女性の言葉に、悠木は神妙な顔で頷いた。
「……あの、すみません。さっき中学生くらいの女の子と会ったんですが、こちらの方ですか?」
 俺が尋ねると、女性は一瞬不思議そうな顔をして、それから「ああ」と合点がいったように声を上げた。
「あの子はね、女じゃなくて男。髪が女みたいに長いけど、触られるのを嫌がるから切れないの。少し前にあそこを片付けておいてって頼んでたから、ちょうど鉢合わせたんでしょうね」
「すみません、俺が怖がらせてしまったみたいで……」
「ああ、いいのよ、人見知りなだけだから。後で変な人じゃなかったって言っとくわね」
「すみません。よろしくお願いします」
 俺は一拍置いて悠木に顔を向けた。
「帰るぞ」
「あ、もしかしてカズ怒ってる……? 分かった分かった、帰るから。じゃあすみません、お邪魔しました!」
「気を付けて帰りなさい」
「はーい」
 悠木は元気よく答え、俺は会釈してその場を離れた。


「……カズ、やっぱ怒ってる?」
 私有地から出ると、悠木は並んで歩きながら俺の顔を覗き込んだ。
「つうか……すげー焦った。お前が襲われたのかと思って」
「え? ああ、あの血のこと?」
「そう。お前のかと」
「ごめん」
「いやそれは別にお前のせいじゃないだろ。……けど三人で来たんだから、一人で勝手にどっか行くなよ」
「はい。すみませんでした」
 流星に今から戻ると電話で連絡した後、悠木と二人で歩いて山を下りながら、俺は悠木が私有地に入った訳を聞いた。曰く、悠木はあの血を私有地の中にいる人間のものと思ったらしい。俺がしたようにロープの前で呼び掛けてみたが応答がなく、緊急事態だと判断して私有地の中に入り、微かな物音と鍋の匂いを辿ってあの女性を見つけた。
 旅館の廃業後、跡地にそのまま住み始めたという女性は、下から誰かの声がすることには気付いていたが、料理中で誰が何を言っているのかまでは聞こえず、またその場所を離れるわけにもいかなかったので、動かずに声の主が立ち去るか現れるかするのを待っていた。そして現れた悠木に少し驚きはしたものの、開口一番に『大丈夫ですか』と心配そうな顔で尋ねてきた悠木を不審者とまでは思わず、屋根裏のテンの話をしたのだという。
「あ、そういや俺が預けた荷物は?」
「流星に持ってもらってる。つか、あれ何だよ」
「ん、あれ? うーん……ただのおやつ」
「は? おやつ?」
「うん、マシュマロと煎餅」
 貴重品でも割れ物でもない。いや、煎餅はある意味割れ物だが。
「あのときは口から出まかせ言ってました。申し訳ありませんでした。流星にもちゃんと謝ります」
「…………」
 途中、軽く森川さんたちに挨拶をしてからバス停に戻った。遠目にも分かる大きな人影が一つ。
「あっ、流星! おーい! 待たせてごめんなー」
 悠木は一人待っていた流星に大きく手を振り、駆け寄っていった。



 帰りの電車も余裕で三人とも座れるくらいの乗車率だったが、悠木は行きと同じで立ったままでいくと譲らなかった。体は疲弊しているだろうに疲労を感じている様子はなく、普段なら俺の肩に凭れてぐっすりと眠っていてもおかしくはないのに、欠伸一つする素振りも見せなかった。
 そして電車が動き出して間もなくして、悠木は今回の調査で『分かった』ことをほぼノンストップで語り始めた。
 相槌もろくに打てず、止める間も与えられず、俺も流星も殆ど置いてけぼりの中。何とか言葉を拾い上げて理解した内容は、こうだ。

 ――まず、あの洞穴は、当時原作のストックが少なかったため独自要素が多かったアニメ版『アストレア』と強い関連がある可能性が高い。それも、アニメ版の終盤で主人公たちの前に立ちはだかったアストレアの親友、正体はアストレアを生み出した後の女神の涙とそれが染み込んだ泥が混ざり合って生まれた怪物が、カズとアストレアによって封じられた場所に対応するものではないか。
 また、俺たちはあの場所に足を踏み入れたことで『アストレア』との繋がりを強くしたため、これから俺たち三人の運命は大きく動き出し、その中で俺と流星はより深く結びつくだろう――
 そういったことを、おそらく、悠木は話していたのだと思う。

 明らかに流星は悠木の勢いに圧倒されていたが、うんざりしたような様子や、悠木を深く関わり合いを持たない方がいい変人と見なしたような素振りは、最後の最後まで見せなかった。そして家に帰ってから送られてきたメールには、最後は少し驚いたが、二人と遊べて楽しかった、というようなことが書いてあった。
 悠木はというと、いつもは寝る直前までひっきりなしに送ってくるメールを、その夜はただの一通も送ってこなかった。
 だからだろうか、俺は眠りに入る寸前まで悠木のことを考えていた。
 悠木が語った妄想と、その熱に浮かされたような、ここではないどこかを見ているような目のこと――そしてそれと全く同じものを初めて見た、中学生時代のある夜のことを。
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