14.電車の中

 悠木曰くアストレアの世界と『一致している』というその場所は、喫茶店≪文鳥≫のある南区からはやや離れたところにあった。
 俺と悠木が住んでいるこの市は十二の区に分けられていて、中央区を除き人口密度はそう高くはないものの、それぞれの区にはそれなりの広さがある。そして目的地である北区は南区から見ると、高層ビルが立ち並ぶ中央区を含む、五つの区を挟んだ場所にあった。
 流星の家から≪文鳥≫まではバスで行った方が安くついたのでバスを選んだが、どうやら≪文鳥≫から北区までは時間的にも経済的にもバスより電車の方が良いらしい。俺たちは≪文鳥≫から徒歩十分の駅で電車に乗り込んだ。
 座席には余裕があり、ちょうど三人分空いていた場所に俺たちは腰を下ろした。といっても、悠木は一駅動いたところで『横に長身の男が二人いると俺がすげー小さく見えるから』という理由で、並んで座る俺と流星の前に立った。
「着くまであと一時間もあるんだろ?」
 バイトの後で疲れているだろうに、妙なプライドを張ろうとする悠木に俺は言った。俺と流星の横が嫌なら離れた座席に座ればいい。
「全然違いますーあと四十三分ですー。それに立ってたら流星をずっと見守ってられるじゃん」
「居心地悪過ぎだろ」
 あと四十三分も真正面から『見守って』いるつもりなのか。同い年ならともかく、流星にとって悠木は『先輩』なのだ。一個上の先輩から四十三分も上から見下ろされ続けるなんて、俺なら御免だ。
「居心地? 俺は最高だよ。流星も別に問題ないよな?」
「はい」
「だよなー!」
 ここで居心地が悪いですと正直に言える人間は、果たしてどれだけいるのだろうか。
「つかさぁ、カズ分かってないみたいだけど、こんな危険なところでこの超絶可愛い流星をほっといたりなんかして、もし万が一悪い奴に襲われでもしたらどうすんの? 責任取れる? 取れないだろ? 俺は世界の中心である流星を守ることで、この世界の崩壊を食い止めるっていう使命を果たしてんの」
「……この辺りって治安が悪いんですか?」
「いや全然」
 俺は素早く答えた。悠木が現実とアストレア世界を混同した答えを返す前に。
「つかお前より流星の方が明らかに強いだろ」
 道場に見学に行ったのなら、流星が黒帯の実力者だということは知っている筈だ。悠木はムッとした顔で俺を睨んだ。
「カズだって流星と歩いてたら絶対車道側に立つくせに。俺知ってるんだからな!」
「……いやそれは別に流星相手だからってわけじゃ――」
「それに流星みたいに自分の身を守れるくらいの力を持ってるアストレアだって、相手が人外とか魔導士のときとかは苦戦するんだからな?」
 人外も魔導士も電車に乗り込んではこないだろ、とは思いつつ、また反論されるに決まっているので「そうだな」と頷いた。
「対人間でも、三十三人の盗賊団に囲まれた時はかなり危ない状態でしたね」
 流星がさりげなく口を開いた。
「そうそう! 一巻の最後十ページで! カズは引き離されてたし前方と後方の馬車は速攻潰されて逃げ道は無くなるしで、マジで超絶対絶命の……って流星、ホントにアストレア読んでんだな!」
「はい。読んでます」
 流星が微笑むと、悠木は何故か頬を赤らめた。
「……えっと、流星は五巻まで読んだんだっけ?」
「はい」
「じゃっ、じゃあアストレアが『正義の天秤』を手に入れたところは……?」
「読みました。その後すぐ、主人公が自分の前世の記憶を一部取り戻すシーンが入るんですよね」
「う、うん。そう。『正義の天秤』が記憶を呼び覚ますんだよね……」
 悠木は頬を赤らめたまま、あからさまに動揺した様子で俺に目を向けた。
「か、カズ! なぁカズ!!」
「なに」
「俺、俺さ、アッ、アストレアの話人とこんなもしかして出来る……初めて! 嬉しい!」
「何でカタコトなんだよ。つか、田上さんは?」
「え? だってしえりちゃんはストーリーにはそんなに興味ないから……」
 そう答えながら悠木はまるで内気な少女のように耳まで赤くして俯き、吊り革を掴んでいない方の手で無意味に自分のシャツの裾を弄って、それから顔を上げた。
「な、なぁ流星、じゃあ……その……、アストレア語りしない?」
 流星も俺と同じように悠木の今更な変貌振りに戸惑ったような顔をして――今まで散々アストレア絡みの話をしていたのだから当たり前だが――頷き、俺の顔をちらりと見た。原作未読の俺が話に乗れるのか気になったのか、あるいは助けを求めているのか。
「俺は本読んでるから」
 あまり長く付き合わされているようなら途中で助け舟を出せばいいだろう。鞄から流星に借りた本を取り出して言うと、流星は軽く頷いてから悠木の方に顔を戻した。
「慧さんはどのキャラが一番好きなんですか?」
「そりゃーもちろんアストレアが一番! 流星は?」
「俺は……今のところ賢者ケイロンが好きです」
「ケイロン……えっ、ケイロン!? 賢者ケイロン!? うおーーマジか。意外。つかすっげぇ渋いところ行くなぁ! ケイロンかぁ、うん、でもいいキャラだよな! 俺も超好き。ケイロンって何故か表紙に出たことないから不憫キャラで定着してるけど、主人公のカズを除いた全男キャラの中じゃダントツ人気なんだよな」
「そうなんですか?」
「うん。人気投票では初回の十一位からじわじわ順位上げてって、最新の人気投票ではなんと四位なんだよ! それも初回の投票から倍以上キャラ増えてってるのに。やっぱ三巻の展開がやばかった。あれマジでかっこよすぎ」
「あれは……燃えますね」
「だよなだよな! ケイロンがいなかったらカズもアストレアもあの巨人に――」
 俺が『アストレア』第一巻を開いたことに、流星と夢中で話している悠木が気付いた様子は無かった。
 それから十数分は密かに二人の様子を窺っていたが、どうやら流星の方も悠木との会話を楽しんでいる様子だったので、俺は二人に向けていた意識を本に移し、ガタンゴトンと規則的に聞こえてくる音と二人の会話をBGMにして、気楽に本のページをめくっていくことにした。



 小説版『アストレア』第一巻は、通称『カズ』こと『菅原和彦』が夜中に自分の部屋のベッドから抜け出し、望遠鏡を持って屋根裏部屋に上がるところから始まる。
 俺と同い年の彼は、屋根裏部屋の小窓を開けて夜空をじっと見上げた後、年季の入った望遠鏡で空を眺め始める。それは彼が小学三年生だったとき、誕生日に父親から買ってもらったものだ。
 幼い頃から星に親しんできた彼は、空に浮かぶ星々を星座の線で繋ぐこと、多くの星の名を口にすることが出来た。星々は彼にとって遥か彼方の空に住まう友人であり、兄弟であり、恋人だった。
 そして今、春の空に浮かぶ星の中、一心に望遠鏡を覗く彼の心を惹きつけるのは、おとめ座の一等星『スピカ』だ。青白く美しいその星を、彼はこれまで何千回としてきたように見つめ続ける。恋をしたことがない彼が恋に近い胸の痛みを覚えるのは、その星を見ているときだけだった。
 どうしてその星に心を動かされるのか、彼自身にも分からない。だが彼はその美しい星を見つめずにはいられないのだ。まるで星座神話の中に登場する女神――かつて人を心から愛し、そして絶望の後に地上を離れて星となった女神アストレアに恋い焦がれ、彼女が再び地上に降り立つことを願うかのように。


 場面が変わり、視点は主人公と同じくらいの年頃の少女に移る。彼女は目覚めたばかりだった。白いベッドの上で横たわる彼女の目からは涙が流れている。彼女はその理由を知っていた。何千回と見た夢、いつもの悪夢のせいだ。
 彼女は起き上がって髪を梳かし、長い金髪を編み込んで後ろで束ねてから顔を洗う。そうしている間、彼女の頭の中には夢の中で見た光景がノイズ混じりに蘇っている。

『――あなたが行ってしまうのなら、私もここにはいられません』
『どこへ? 俺は一体どうやって君を探せばいい?』
『空を見上げてください。私はそこにいます。あなたならどれが私の星なのか、きっと分かるはず』
『君が空から見守っていてくれるなら、奇跡だって起こせる気がするよ……もしかしたら、生きて帰ることだって』
 夢の中の彼女も、それを思い出している彼女も、それが決して叶わないことを知っていた。
『さようなら、――。この荒れ果てた人の世で、あなたこそが私の最後の希望でした』
 彼女は青年から離れていく。彼女と青年は互いの手を握ることも抱き合うこともしなかった。二人が触れ合ったことは一度もないのだ。それまでも、そしてこれからの永遠も。
 ノイズが酷くなる。彼女は酷く荒れた薄暗い視界の中に青年の姿を見つける。向かい合っていた最初のシーンとは違い、見下ろすような視点だ。それでも青年が酷く傷付いていることは分かった。青年の手足に刺さった矢からは血が流れ、右眼と左手の指は潰れてしまっている。
 現実の世界にいる彼女は服を着替えながら息を止めてその後の展開に備える――『それ』はすぐに、そして驚くほど呆気なく訪れるのだ。
 剣を振り上げた彼は、それを敵に振り下ろす前に、自身の脇腹に何かが突き刺さったことに気付く。そしてそれに目をやった瞬間、正面から向かってきた剣に彼は胸を突かれてしまう。心臓を一突きにしたその剣は、絶望的な量の血を胸から溢れさせ、青年の命の鼓動を止める。

 悪夢が消え去った後、彼女はいつものように目尻を拭い、鏡の前に立った。悲しみからは立ち直っていた。悪夢は彼女自身の記憶だったが、それは遠い昔の出来事なのだ。使命を負った者として、過去を嘆いて暮らすわけにはかない。
 彼女は夜空の星となった女神アストレアが、愛する者を失った悲しみで流した最後の涙の一粒、地上に落ちた一かけらの中から生まれた子どもだった。女神アストレアの存在が事実から伝説へと変わってしまった時代に、特別な力と運命を持って生まれ、女神と同じ名を与えられ――今は太古の予言通りに世界を救うため、全てを捧げると自分自身に誓った少女。
 それが今ここで鏡の前に立ち、自分自身をまっすぐに見つめている彼女、アストレアだった。


 主人公である『カズ』とアストレア、それぞれの登場が済んでから二人が出会うまでには、まだもう少し時間がかかった。
 『カズ』は俺たちが住んでいる世界とかなり近い、魔法も醜悪な怪物たちも存在しないごく普通の世界で、一個下のやけにべったりな妹や、近所の魅力的な女子大生、悠木が真似をしているのであろう親友、可愛らしいクラスメイトたちに囲まれて生活する姿を、かなりのページを割いて描写される。
 アストレアの方はよくあるファンタジー世界――電子機器はなく、代わりに魔法や現実には有り得ないような怪物たちが存在する世界で、崇められ、ときには激しく非難され憎悪されながら予言を実現する為に行動していく。『カズ』とアストレアの出会いは、その予言の一つにある召喚の儀式により、『カズ』がアストレアの住む異世界に現れる、という形で起こるのだった。


 小説を読んでいて驚かされることや新鮮味を感じるようなことはあまりなかった。
 細切れではあるが悠木から散々話を聞かされていたし、悠木が学校に持ってきた本のページをパラパラとめくってみたこともあった。それにこれまで見せられたアニメのワンシーンやイラストから、主要なキャラクターたち――特に、やたらと出てくるわりに記号的で分かりやすい美少女や美女たち――のことは最初から殆ど頭に入っていたからだ。
 悠木が表現するところの『哲学的な深み』や『人生の深遠なる謎と同時に与えられる啓示』というのがどのあたりを指すのかは分からなかったが、多分それはまだめくっていないページにあるか、俺に悠木のような感受性が欠けているかのどちらかだろう。
 意外に思ったのは――主人公の親友の『ケイジ』こと『瀬田啓二』が、これまで思っていたよりも存在感のあるキャラクターだということだ。
 小説を読む前は、モブキャラより名前があるだけマシ、程度の立ち位置かと思っていた。悠木から見せられてきたイラストの中に彼の姿は殆ど無く、いたとしても隅の方に小さく描かれているだけで、悠木の口から聞かされた彼の情報は『主人公の親友』『二度目の召喚で主人公と共に異世界へと飛ぶ』程度のものだった。
 だから俺は知らなかった。彼が幼い頃に両親と兄を事故で亡くし、遠縁の夫婦の養子として育てられたことや、図々しく軽薄な態度とは裏腹に人と付き合うことをどこか恐れていること、そして――その胸に何か大きな秘密を抱えていることも。


「――ああ!? カズ……は!?? え、ちょっ……何でそれ読んでんの!?」
 俺は本から顔を上げた。アストレア一行の会話の中に、三十三人の盗賊団の噂が出てきたところだった。
「流星から貸してもらった」
「本の出所じゃなくて! 理由!」
「別に何でもいいだろ。興味出たから読んでるだけ」
「興味とか出てない!」
「いや出たから」
「でも俺言ったじゃん! カズは主人公だから読む必要ないって」
「読まない必要があるわけじゃないんだろ?」
「いいやある! あるわけある!」
 凄い剣幕だ。どうやらあれだけアストレア、アストレアと俺の前で話しておきながら、悠木は俺にこの本を読んで欲しくなかったらしい。
 喜ぶならまだしも、この反応は――そう不可解に感じた後、俺は思い直した。
 もしかすると悠木は、自分を重ねている『ケイジ』と、俺が知っている悠木の過去や現在とを重ね合わせて欲しくなかったのかもしれない。
「……分かったよ」
 俺は本を鞄に仕舞い、ドアの上部にある案内に目をやった。
「なぁ、降りる駅って次だったろ?」
「次の次の駅」
 悠木はそう答えながら、また本を取り出さないかと俺の手元を見張っている。
「じゃあバスは?」
「時間通りなら電車を降りてから四分後。バス停は駅を出てすぐ右手にあるって」
 窓の外にはのどかな田園風景が広がっている。次の次の駅に辿り着いても似たような景色であろうことは想像に難くない。
 遠くには連なる山々が見えた。その一つの麓が俺たちの目的地だった。
「……つか、着いたらどうするか決めてんの? お前何も言ってなかったけど」
 到着後の予定を尋ねると、悠木は不思議そうな顔で俺を見た。
「へ? どうすんのって……どうするも何も、俺たちが着いたら絶対何か起こるに決まってんじゃん。カズと流星の二人があそこに行くのに、運命が動かない筈ないだろ?」
 つまり――ノープランらしい。
 流星の方に少し顔を向けると、すぐに目が合った。流星は微笑み、少し弾んだ声でこう言った。
「楽しみだね、カズくん」
 ――果たしてあの山の麓には、悠木と流星の期待に応えられるようなものは眠っているのだろうか?
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