12.喫茶店《文鳥》

 煉瓦の階段を上り、ビルの三階にあるその喫茶店のドアを開けると、中から流れてきたコーヒーの香りが俺と流星の体をふわりと包んだ。
 ――だがその香りを鼻腔に深く吸い込む前に、ドアの前で待ち構えていた店員が口を大きく開いた。
「いらっしゃいませ! お客様、お二人でよろしいですか? 当店全席禁煙となっておりますがよろしいですね? 誠に勝手ながらデート中とお見受け致しましたので、窓際のそれはそれは雰囲気の良いテーブル席にご案内させていただきます。よろしいでしょうか? よろしいですね? かしこまりました。ではこちらにどうぞ」
 返事をする隙一つ与えられずに案内された奥の四人掛けのテーブル席には、『予約席』と書かれたプレートが置かれていた。古いがよく手入れされた革張りのソファが二つ、俺や流星が座っても軋む音一つ聞こえない。
「ランチは済ませてこられましたね? もし小腹が空いておられましたら新メニュー候補のじっ…………いえサービスの軽食はいかがでしょうか?」
「今『実験台』って言い掛けただろ」
 俺が指摘すると、言葉は丁寧だがやけに馴れ馴れしいその店員――悠木は、やや顎を引いて『心外な』とでも言いたげに顔を顰めて見せ、やや光沢の入った白のドレスシャツの下、腰から締めた黒のエプロンのポケットから伝票とペンを取り出し、何かを素早く書き込んだ。
「ではサービスの軽食で宜しいですね。お飲み物はいかが致しましょうか?」
「…………、俺はいつもので。流星はどうする?」
 俺と悠木のやり取りを静かに眺めていた流星は、俺を見て、それから悠木に顔を向けた。すると悠木はそれまでのふざけた態度を即座に改め、流星に優しく微笑み掛けた。
「一応メインはコーヒーなんだけど、他のソフトドリンクもあるよ。何がいい?」
「じゃあ……コーヒーをお願いします」
「好みはある? 産地とか、酸味の有る無しとか、苦味とか、薄めとか濃い目とか。デカフェ……カフェインレスのコーヒーもあるし。あとクリーム乗ってるのとか」
 悠木はメニューのコーヒーのページを開きながら言った。流星はそれを見ながら五秒ほど考え、
「あまり詳しくないので、慧さんのお勧めでお願いしてもいいですか?」
 そう答えた。悠木はニッコリと笑った。
「オッケー! じゃあ気合い入れて選んでくる。ちなみにこの時間、淹れるのは俺じゃなくてマスターだから何でも美味しいよ」
 悠木はそう言ってから一度水を取りに行き、俺たち二人にやけに恭しくそれを提供してから、
「じゃあまったりしていってね!」
 ぐっと親指を立ててキッチンの方へと去って行った。
 流星は水を一口飲み、ちらりと辺りを見回した後、俺の目を見て微笑んだ。
「いいところだね。レトロな感じで」
「ああ。悠木曰く、三十年くらい前に開店してから内装にはほぼ手を入れてないらしい」
「へぇ、そうなんだ」
 悠木のバイト先であるこの喫茶店≪文鳥≫は、駅から少し距離のあるビルの三階に入っている。五人掛けのカウンター席に、テーブル席が七つ。今時の明るく華やかな雰囲気のあるカフェとは違ったレトロで落ち着いた雰囲気が、あるいはマスター自慢のコーヒーとその奥さんの料理、悠木を含めた店員たちの接客が人を惹き付けるのか、ジャズ音楽の流れる店に客が途切れることは滅多にない。
「カズくんはよく来てる?」
「俺? いや、最近は一か月に一回位。俺もバイトがあるし」
「そっか」
「流星は初めて……だったよな?」
「うん。そうだよ」
 流星は不思議そうに答える。この店までの道のりを案内したのは俺で、しかもその間、流星は一度も既知の道だという素振りを見せなかったことを考えると、至極当然の反応だった。
 どうも悠木と流星は俺の知らないところで交流を深めている節があるので、もしかしたらと思い尋ねてみたが、さすがに違ったらしい。
「鳥の絵がたくさんあるね」
 壁に掛けられた絵を見て流星が言う。ホールに五枚、入口に二枚、トイレに一枚ある絵は、よく見てみれば全て文鳥をモチーフにしたものだ。他にも皿や箸置きといった小物など、文鳥のデザインのものは多い。
「昔オーナー夫婦が飼ってたって」
「へぇ」
 視界の端で、悠木が少し離れた席の客と談笑しているのが見えた。常連客、特に年配の女性客の大半に気に入られているらしい悠木は、よくああやって話している。本人曰く、悠木目当てで通っている客もかなりいるのだそうだ。ただし、俺の見ている範囲ではこの店の客層は少なくとも俺たちの親以上の年代がメインで、悠木はどうやら恋愛的な意味ではなくマスコットキャラ的な愛し方をされているようだった。
「……ああ、そういや奈央が会いたがってた。流星に」
「俺に?」
「そう。今度うちに連れてこいって。三か月以内に連れてこなかったら俺の部屋に手芸用ビーズを五千個まき散らすらしい」
「カズくんが構わないならいつでも行くよ」
 流星は笑いながら言った。
「……いつでも?」
「いつでも。明日とか明後日とか、来週でも」
「柔道があるだろ?」
「うん、火曜日は。でも木曜に替えてもいいんだ。……カズくんのバイトは火曜と土曜?」
「基本は。時々どっかの曜日に変わったり、穴埋めで他に月二日か三日くらい入る。テスト期間は休み……ああ、そっか」
「月曜からテスト期間に入るね」
「どうする?」
 明日からテスト期間で、翌週からはテスト本番だ。
「勉強会……とか? テストが終わってからにする? カズくんはどっちがいい?」
「どっちでも」
「じゃあ――」
 流星が口を閉じたのは、悠木が俺たちの方に近付いてくるのに気付いたからだった。
「いやぁお待たせ! 流星はカプチーノでー、カズはいつものアイスカフェオレね。もし砂糖が足りなかったらそこにあるから、好きに調整してください」
「ありがとうございます」
「サンキュ」
「そしてそして~、フードはキノコとほうれん草のキッシュに、カツサンド、二種のミルクプリンとチーズケーキです。カツサンドは別に新メニューじゃないけど洋子さん……、あ、マスターの奥さんね、奥さんがオマケでって。もし入らなかったら俺が食うから置いといて」
 大仰なモーションでテーブルに置かれた料理の数々は、どうやらそれぞれ一人分のようだった。今から一人分ずつ食べるのにはどう考えても多すぎるが、二人で分け合って食べるならそうでもないだろう。
「洋子さんがカツサンド以外は感想聞かせてって言ってたから、後で軽くどんな感じだったか聞かせて」
「お前が作ったんじゃねーの?」
 実験台になってくれ、と言い掛けたことからして、おそらくは悠木の手によるものだろうと思っていたのだが。
「うんまぁカツサンド以外は俺が作ったけど、レシピは洋子さんだから」
「ふーん。分かった」
「俺、あとは皿洗ったら上がりだから、それまで二人で何か親密な話でもしといてよ」
「はぁ?」
「じゃ! ごゆっくり~」
 悠木はそう言ってひらひらと手を振り、流星にウィンクを一つして去って行った。
 ウィンク。ウィンクってお前――と思ったが、それを向けられた等の本人である流星が引いた気配を一切見せず、その顔に微笑を浮かべ軽く頭を下げて流した手前、突っ込みの言葉は呑み込むしかなかった。
「美味しそうだね」
 何事も無かったかのような顔をして言った流星に頷き、おしぼりで手を拭いて二切れあるカツサンドのうちの一切れを取った。通常は三切れセットで出されるので、一切れは男なら三口か四口分くらいの大きさだ。
「これ、開店当初からの看板メニューなんだってさ」
「肉の厚みが……」
「凄いだろ」
「うん」
 流星は噛り付いたカツサンドの、肉とパンの間に挟まったキャベツを零しそうになる。目が合って、二人して笑った。
 ここに来る前のゲーセンで体を動かしてきたせいか、思いのほか料理の減りが早く、悠木が私服に着替えて俺たちの所にやってくる頃には粗方片付いてしまっていた。
「おっ、もう全部食ったんだ」
「ご馳走さん。お疲れ」
「ご馳走様でした」
「うぃー。俺は今から昼飯兼仕事上がりのおやつ!」
 悠木は持っていたパフェグラスを一旦テーブルに置き、俺と流星が食べた料理の空き皿を下げに行った後、戻って流星の横に腰を下ろした。
 今現在店でパフェは提供していないが、大昔一瞬だけ出していた時のパフェグラスが何個か残っているらしい。そんなものを棚から引き出して使おうとするのは悠木だけだ。
 下からアイスココア、生クリーム、グラノーラ、プリン、グラノーラ、チーズケーキらしい物体にミックスベリー、最上部はここぞとばかりに盛った生クリームにチョコクリーム。昼飯を兼ねるかどうか謎な、悠木の定番まかない料理だ。
 本人曰く、週に一度仕事上がりに特盛りデラックスパフェを食べなければ、人生の空虚さに絶望して生きる気力を失ってしまうらしい。
 よくそんなもの毎週食べるな、と思っていると、俺の視線を感じたらしい悠木に睨まれた。
「やらねーぞ!」
「いらねーよ」
 それはそれで気に入らない、と悠木の顔には書いてあった。それでもいらないものはいらない。
「……流星は欲しい? 良かったら一口食べて欲しいな~」
 悠木は何を思ったのか、クリームをスプーンで掬って流星の方に向けた。所謂『あーん』の格好だ。流星はさすがに驚いたらしく一瞬固まり、目を瞬いたが、期待の眼差しを自分に向ける悠木の目を見返すと、何も言わず口を開けた。俺が呆気に取られる中、スプーンは静かに流星の口の中へと収まり、そしてゆっくりと唇の間から抜け出していった。
 ごくん、と流星の喉が動くと、悠木はその顔に心底嬉しそうな満面の笑みを浮かべ、何故か一人うんうんと頷いてからパフェに向き直った。
「……流星」
「なに?」
「相手が年上でも嫌なことは嫌だって言った方がいいぞ。お互いの為に」
「うん。……でも今のは別に嫌じゃなかったよ。驚いたけど」
「何だよカズ。俺、ちゃんと口付ける前のスプーン使ったじゃん。文句あんの? ちゃんと洗ってるから全然全くこれっぽっちも汚くねーんだからな!」
 流星が口を付けた後のスプーンでどっさりとクリームを掬い上げながら、悠木はさも心外そうに言う。
「いやそういう問題じゃねーから」
「じゃあ何?」
「……何ってお前……、いや、もういい」
 ここは位置的に他のテーブルからはよく見えない場所にある。カウンターからはよく見えるが、今カウンターに座っている男性はマスターと何か親しげに話し込んでいて、テーブル客のことなど気にも留めていない様子だ。
 となれば、流星本人が構わないなら俺が口を出すことでもないような気がする――あくまで流星が構わないのなら、だが。
 どこで悠木の暴走を止めるべきなのか、俺は未だはかりかねていた。
「あ、カズくん。さっき取ったあれは?」
 よく分からない空気の中、流星はふと思い出したように言った。
「ああ」
 俺は横に置いていたゲーセンの景品袋を取った。中に入っているのは俺の手を広げたくらいの小さなテディベアが三つ――どれもベースは同じだが、赤の帽子を被ったもの、黄色のマフラーをしたもの、青の長靴を履いたものと微妙に装備が違う。
「ん? なにそれ」
「さっき俺たちゲーセンに行ってたんです。カズくんがその三つじゃない別の景品を取ろうとして、うっかり落ちたのがその三つで……」
「ちょうど三つあるから、一個ずつでいいだろ」
「え、まさか俺にもくれんの?」
 悠木は目を見開いた。
「いらねーなら誰か別のやつにやるけど」
「いるいるいるいるいる!!!! 絶対いる!!」
 物凄い剣幕だ。
「分かった分かった。……で、どれがいい?」
「えっ、……流星とカズは?」
「俺らは別にどれでもいいから、お前が選べよ」
「えー……あっ、そうだ、奈央ちゃんの分は?」
「奈央には別のデカいヌイグルミ取った」
 テディベアたちの後、何とか予算内で取ることが出来た目当ての白猫は、景品袋の一番下で眠っている。
「んー……じゃあ、この赤いのはカズので、この青いのが流星、俺はこっちの黄色がいいな。オッケー?」
 流星を見ると、いいよ、という風に頷いた。
「いいけど、何基準?」
 俺と流星の分まで指定してきた理由を尋ねる。
「主人公って言ったら赤が定番だろ? で、アストレアのイメージカラーは青だから、俺は残りの黄色で決まりってこと。ではでは有難く頂きますぜ旦那」
 悠木は丁重に黄色のマフラーのテディベアを引き取り、バッグの中に仕舞い込んだ。俺と流星も各々のテディベアを引き取って、場はパフェに複数のテディベアというファンシーな空間から元の状態に戻った。
「ところで新メニューどうだった?」
「美味かった」
「美味しかったです」
「キッシュさー、あれ焼き立てじゃなくて焼いたのを軽くオーブンで温め直しただけなんだけど、焼き立ての方がいいかな? 中、ぬるくなかった?」
 流星と顔を見合わせる。どうやら問題なかったようだ。
「いや、大丈夫」
「そっか。なら良かった」
「あれ来月からの新メニュー?」
「いや? 来月から工事入るから、それが終わってから」
 パフェは既に一番下のココアの層に到達している。悠木はスプーンからストローに持ち替えた。
「工事って何の? この店に入んの?」
 初耳だった。来月からの新メニューではないという事は、少なくとも来月いっぱいは営業出来ないような大掛かりな工事なのだろうか。
「あ、そうそう。今日はその事を話そうと思って二人に来てもらったんだった」
 悠木はココアを飲み干すと、バッグの中から何かを取り出した。賞状か卒業証書が入っていそうな大きさと形状の筒――というより、どう見ても俺たちの中学の卒業証書を収めていたその筒を。
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