11.写真と昔話

 流星の部屋は物が少なかった。
 五月の半ばにもなって流星が引っ越しの段ボールを転がしておくと思ってはいなかったが、どうも荷物自体が必要最低限だった様子で、目に見える範囲内だけでいえば『兄貴の部屋は殺風景過ぎて不安になる』と奈央が言う俺の部屋と同等か、それ以下の物の少なさだった。
 それなのに寂しげな印象が無いのは、家具の大半が深みある色合いの木製で、ラグやカーテンの色が優しげな緑のパステルカラーで纏められているからなのかもしれない。
 部屋にあるものは一部を除いてどれも真新しかったが、何となく懐かしいものを感じた。この部屋はどこか向こうの流星の家と通じるものがあった。
「おばさんが?」
「うん。他の部屋にあるのは父さんが適当に選んだり貰ったりしたものなんだけど、俺の部屋までそんな風じゃ可哀想だって父さんが言い出して……じゃあ、って母さんが選んでくれたんだ。俺は大きさが合えば別に何でも良かったから、殆ど全部かな」
 流星のおばさんは一時期インテリアコーディネーターの仕事をやっていたことがある。向こうの家にあるものは大抵がそのセンスで選ばれたものだった。
「向こうの家具は?」
「俺の部屋の家具? 重いし、大きいから置いてきたよ。ここにある物は殆ど近くのアウトレット家具の店で揃えたんだ」
「へぇ……あ、悪い、ベッドに座っても良かったか?」
 部屋を見回しながら自然に腰を下ろしてしまった。立ち上がろうとすると、流星は首を横に振った。
「向こうでもそうだったから、そこに座ると思ってた。……何か飲む? ジンジャーエールとさっき飲んでた烏龍茶と……あと母さんが置いて行ったルイボスティーがある」
「流星は?」
「ルイボスティーかな。冷えてるし、結構美味しいよ」
「じゃあ俺も」
「分かった。注いでくる」
「頼む」
「うん」
 流星が部屋を出て行くと、俺はベッドに座ったまま辺りを見回した。仄かに爽やかな香りが漂う、綺麗に掃除された清潔感のある部屋で、目に付く物は二つだけだった。
 一つ目は、窓の横の棚に、綺麗に畳んで置かれた白い道着。新調したのか真新しいそれに、流星が身を包んでいる姿を想像してみようとする。俺の頭にはっきりとした像が浮かぶより、流星が戻ってくる方が早かった。
「お待たせ」
「いや。サンキュ」
 差し出されたグラスを受け取る。流星は自分の分のグラスをベットの向かいにある勉強机に置き、俺の隣に腰を下ろした。
「さっき、道着見てた?」
「見てた」
「……柔道なんて意外だ、って思ってた?」
「まぁ、ちょっとな。……何でやり始めたんだ?」
「カズくんが引っ越して一か月くらい経った頃かな。チラシが入ってたんだ。近くの道場で稽古を受ける小中学生を募集してます、って。それを見た母さんから道場の見学に連れていかれて、いいんじゃない、やってみたら、って言われて、それで始めたんだ」
「じゃあ、合ってた?」
「なかなか面白いよ。没頭出来るしね」
「へぇ」
「もし興味があったら今度見学してみる?」
「いや、俺はバイトもあるし……流星がやってるところは見てみたいけど」
「じゃあおいでよ」
「けど、邪魔になるんじゃねーの?」
「大丈夫だよ。一昨日は慧さんも来たし」
 一口飲もうとしていたグラスを唇に触れる直前で宙に止める。
 ……何だって。
 『慧さんも来たし』と言ったのか?
「……は? 悠木? つか……『慧さん』?」
「慧さんがそう呼んでって……駄目だった?」
「いや別に、駄目じゃねーけど……俺が口出すことでもねーし」
「そう?」
 俺は頷きながらグラスを机に置いた。
「あいつ行ったの? ……道場に?」
「一緒に行ったよ。見学したいって言われたから、二人で」
「……一昨日?」
「うん、一昨日の放課後。学校近くの駅で待ち合わせて、俺の家に寄ってから一緒にバスで行ったよ。でも『この後バイトが入ってるから』って道場で稽古が始まって確か……二十分くらいで帰ったかな?」
「…………」
 流星のことをやたら気に入っているとは思っていたが、まさかここまでとは。
 一昨日と言えば、俺はシフトが入っていなかった日だ。シフト表が出るたびに見せるよう要求してくる悠木がそれを知らない筈も無い。俺を誘わなかったのは――二人きりになりたかったからだろうか?
「俺、もしかして何か不味いことした?」
 流星が俺の顔を窺いながら尋ねる。
「いや、全く。……ただあいつ、お前のことをすげー気に入ってるんだなって。それだけ」
「そうかな。俺がカズくんの幼馴染みだから気に掛けてくれてるんだと思うよ。あと……アストレア? に瞳の色とかが似てるから」
 流星は立ち上がり、勉強机の奥の本立てに並べられた教科書や参考書の中で、一際大きな存在感を放つ文庫本――道着と同じくらい俺の気を引いていたその本を手に取った。
「学校の図書室に置いてあったから借りてみたんだ。カズくんは知ってる?」
 差し出された文庫本を受け取る。見覚えのある表紙には、長い金髪を編み込み後ろで束ねた白のドレス姿のアストレアが描かれていた。確かに瞳の色と金髪は流星と同じだが、彼女の華奢な体つきや、ふわりと膨らんだ柔らかそうな胸、小さな顎や唇を見て、昔の流星ならともかく今の流星と同一視する者は稀だろう。
「アストレアの話なら毎日聞かされてる」
「そっか。カズくんはその子と俺、似てると思う?」
「……いや、あんまり」
「俺もそう思う」
 流星は表紙のアストレアを見ながら頷いた。
「……つか、結構読んだんだな。五巻だ」
 よく見てみれば五、という数字がタイトルの下にあった。小説の既刊は十二冊だった筈だから、順番に読んでいるなら三分の一は過ぎたことになる。
「電車の中で読んでるんだ。難しい本じゃないしすぐ読み終わるから、ちょうどいいなと思って……カズくんは読んだことある?」
「前に悠木が持ってた本を読もうとしたらすぐ取り上げられて、それっきり」
「一巻だけは買ったのがあるから、もし良かったら貸そうか?」
「遠慮しとく。……いや、やっぱり見せてもらってもいいか? ちょっとだけ」
「いいよ」
 流星は勉強机の引き出しから書店の紙カバーが掛かった本を取り出し、五巻と引き換えに俺に手渡した。開いて読もうとすると、流星は俺の手に自身の手を重ね、ぱたんと本を閉じた。少し驚きながら顔を上げた俺に、流星は悪戯っぽく微笑みかけた。
「父さんがパソコンに昔のアルバムを全部入れてきたんだ。昨日俺のパソコンにも入れてもらったから、一緒に見ようよ。それは持って帰って家で読んで」
「……ああ、うん。分かった」
 数分の試行錯誤の結果、おじさん作の電子アルバムが入ったノートパソコンは枕の上に置き、俺たちはその前に並んで座った状態で写真を眺めることになった。
 ――最初に画面に映し出されたのは、生まれたばかりの流星とその流星を腕に抱いたおばさんの写真だった。その次は号泣しながら小さな流星の手に口づけるおじさんの写真、『流星が初めて立った日』『一歳のお誕生日』というコメントが付いた写真、哺乳瓶を抱えてカメラを不思議そうに見上げる流星の写真……。流星は俺たちが出会った頃まで飛ばそうと言ったが、俺は首を横に振った。向こうで暮らしていた時ですらここまで昔の写真は見せて貰ったことが無かったので、どうせなら全部見てみたいと思ったのだ。
「ああ、この流星すげー可愛い」
 生まれたばかりの双子に右手と左手の指をそれぞれ掴まれて、どうしようと困った顔をしている流星の写真を見て言うと、流星は苦笑した。
「詩音と琴音の方が可愛いよ」
「いや、同じくらい……つかおじさんが写ってないの写真が多いってことは、殆どおじさんが? そう言えば昔もよく俺たちの写真撮ってたよな。写真が趣味だったっけ?」
「いや、ただ親馬鹿なだけ」
 やがていつの間にか、俺たちは昔よくそうしていたように大きなベッドの上に寝転び、肩を並べて写真に見入っていた。
「あ、やっとカズくんの近所に越してきた日の写真だ」
「流星が……四歳の時?」
「そう、四歳になってすぐの頃」
 新築の家の前に立った山崎一家の写真を、二人でじっと見つめる。
「この次の日、だったよな」
「うん。カズくんは覚えてる?」
「大体は覚えてる」
「俺も」
 引っ越しの日、俺は流星たちのことを二階にある自分の部屋の窓から見ていた。家の前で写真を撮る姿も、家族揃って近所に挨拶まわりをしに行く姿も。
 その翌日、俺は流星を見に行った。夏の日差しを受けて光に透ける綺麗な髪と、宝石のような目を持ったその子を近くで見てみたかったのだ。
「確か詩音と琴音は父さんと一緒に中で昼寝してて……俺と母さんは荷解きを中断して、二人で一緒に庭のテーブルでお菓子を食べてるところだった。何枚目かのクッキーを手に取ったときに、家の前に立ってるカズくんと目が合ったんだ」
「本当にすぐ気付いたよな」
「うん」
「それでおばさんも気付いて、俺に『こんにちは』って話し掛けてきて……」
「カズくんは凄く驚いた顔で『こんにちは』って返してたね」
「ああ」
 それから流星はおばさんに促され、椅子を降りて俺の元に歩いてきた。そして『こんにちは、ぼくはやまざきりゅうせいといいます』と名乗った後、これからどうぞよろしくおねがいします、というようなことを言ったのだ。ちなみにそのとき俺は完全に目の前の流星に見惚れていたので、その礼儀正しい挨拶に対して自分が何を返したのかは、全くもって覚えていない。
「その後、俺がカズくんを誘ったんだっけ?」
「……多分」
「母さんは庭で作業を再開して、俺たちはテーブルの下に潜り込んで……クッキーを食べながら……」
「俺が持ってきたカードで遊んだ」
「そう。そうだ。カズくんが遊び方とか、カードの種類を凄く丁寧に説明してくれたんだ」
「よく覚えてるな」
「母さんがよく話してたから、半分は母さんの記憶だよ」
 引っ越しの写真以降、俺と流星のツーショット写真の割合が徐々に増えて行った。当時は家族ぐるみの付き合いをしていたので奈央や双子たち、両親たちが同じフレームに収まっていることもあったが、基本的に俺たちは二人で組んで行動することが圧倒的に多かったのだ。
 両家族で行ったキャンプ、遊園地、海水浴、近くの川でやった花火、学校行事の写真を、俺たちはあれこれと記憶を掘り起こしながら楽しんだ。流星は大抵の場合よく詳細を覚えていて、俺のぼやけた記憶を補ってくれた。
 時間は和やかに過ぎて行ったが、時系列に沿って整理された写真が『あるとき』に近付いてくると、俺たちは段々と言葉少なになっていった。
「そろそろ、見るのやめようか?」
 そう言い出したのは流星だった。何でもないような口調だった。
「……ん。そうだな」
 俺の返答を聞いて流星はパソコンを閉じようとしたが、思い直したように手を止めた。
「カズくんは、まだ見たい? 見たいなら見てもいいよ」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ……」
「見ようか?」
「……ああ。見たい」
 だが、怖くもあった。画面の中の写真は俺の引っ越しの二ヶ月ほど前、最後に流星の家に泊まった時のものだった。それから間もなく起こったことは――俺も流星もはっきりと覚えている。
 流星の指がエンターキーを押すと、ソファに寄り添って座る俺と流星の写真が、近所の猫と戯れている双子の後ろ姿に切り替わった。それから料理中のおばさんの写真に、どこかのショッピングモールでひよこのような着ぐるみと一緒にピースサインをしている双子たちの写真に……。
 流星が画面の中にまた映し出されたのは、十枚ほどの不在の後だった。
「これが初めての稽古の日」
 流星は画面を指した。道着を身に纏った、まだほっそりとした体つきの流星が写っている。馴染みのない場所、馴染みのない服、馴染みのない空気の中で、流星はまっすぐにカメラの方を見ていた。その顔には不安の色も、興奮も、微笑すらも見当たらない。
 写真の中の流星は、ただ静かに俺を見つめ返している。
 俺は息を呑んだ――それは俺が酷い言葉を投げ掛け、突き放し、置き去りにした流星だった。
「そしてこれは……ああ、ピアノ発表会の日だ。詩音と琴音の」
 パッと画面が切り替わり、お揃いのドレスを着た双子が映し出された。その次はドレス姿のままの双子が車の後部座席で眠っている写真。間で二人に寄り掛かられているのは流星で、その顔には微笑が浮かんでいたが、カメラの向こうの撮影者に向けた愛想笑いに見えた。
「カズくん」
「……、なに?」
「俺、あとはアストレアの続き読んでるよ」
「ああ、うん。……何で?」
「自分の昔の写真をまじまじと見るのって、何か落ち着かないから」
「そっか。だよな」
「終わったら教えて」
「分かった」
 流星はベッドを降り、勉強机の上の五巻を取って椅子に腰掛け、俺に背を向けて本を読み始めた。
 俺は少し迷った後、結局流星がしていたようにエンターキーを押してアルバムの続きを見始めた。
 写真の中の流星は暫くの間無表情か、作り笑顔ばかりを見せていたが、やがて自然な表情も見せるようになった。双子たちに髪の毛を結われて苦笑していたり、真剣な表情で柔道の稽古を受けていたり、ぶかぶかの制服を着始める頃になると新しい友人たちと楽しげに笑っていることもあった。
 俺はそれを見て、ほっとした。あんな顔をしていた流星が、こんな風に年相応の表情を見せてくれるようになったことが嬉しかった。
 ……そして、どうやら流星の体は中学に入ってから急激に成長したらしかった。中一のクリスマスは骨に肉が追いつかなかったのか縦に長く痩せ気味で、中二から徐々に今の流星の肉付きに近付いていき、卒業式で撮ったらしい写真では今の流星と変わらない姿でおじさんと並んでいた。
「流星」
「終わった?」
 流星はすぐに振り返り、本を閉じて尋ねた。俺が頷くと、
「じゃあ、出掛ける?」
 流星は微笑み、悪戯っぽい口調で言った。
「出掛ける? どこに?」
「どこか。ゲーセンとか……公園とか?」
「とか?」
「慧さん曰く俺たちは今『デート』中らしいから、それっぽいところに行った方がいいかなって。カズくんはどこがいい?」
「……、近くにゲーセンあんの?」
「ここから歩いて十分くらいのところにあるよ。小さいところだけど」
 携帯の時間を確認する。午後一時二十分過ぎ――待ち合わせは三時半。バスの時間を考えても、近くのゲーセンで遊ぶくらいの時間は十分あるだろう。
「行く?」
 流星の問いに、俺は頷いた。
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