9.見知らぬ男

 藤崎は少しずつ体の力を抜いていった。僕の上半身に掛かる、身長のわりに軽い体重。罪悪感に押し潰されそうになりながら、僕は藤崎の背中をゆっくりと撫でた。小さな子どものような泣き声はやがて啜り泣きに変わり、それも泣き疲れたような吐息へと落ち着いていった。藤崎はふいに、明らかな呼び掛けの意図を感じさせる声音で「悟」と僕の名前を呼んだ。
「お前、責任取れよ……」
 僕は頷き、それから声を出して「うん」と答えた。
 腕の中の藤崎は暫くの間黙り込んでいたが、涙を拭くためだろうか、僕の胸に顔を伏せたまま頭をもぞもぞと動かした。そして明瞭な声でこう言った。
「言質は取ったからな」
 顔を上げた藤崎は、ほんの少し前まで泣いていたとは思えないほどの眼差しの強さで、まっすぐに僕の目を見る。僕は気圧されて息を止め、それから芸もなく「うん」と同じ言葉で答えた。
「でも、どうやっ……」
 言い終わる前に、僕の視界を藤崎が支配する。近付いた顔、触れた吐息、少しだけ当たった鼻先の感触。そして唇に触れたやわらかい――やわらかい、何か。僕が事態を理解するまでの数秒、真っ黒で大きな瞳が、心の奥底までを覗き込むようにこちらを見つめ続けていた。
 藤崎は唇を離し、足元に追いやっていた毛布と掛け布団を引き上げて僕の胸に横顔を埋めた。
「眠いから二度寝する」
 そう言って藤崎は本当に眠りの態勢に入ってしまった。展開に置いてきぼりにされた僕は、慌てて藤崎の体を揺すった。
「ふじ、藤崎」
「何だよ」
 藤崎は目を開けて僕を見る。思わず顔を背けてしまった。
「今のって、その……あの、えっと……これって、つまり」
 いつも以上に回らなくなる舌と頭で必死に言葉を紡ごうとする。藤崎は黙っていた。
「僕たちが、つ、付き合う、ってこと……?」
 多分、もし幻覚か何かでなければ、僕はつい一分ほど前に、藤崎からキスをされたのだと思う。それはおそらく『どうやって』という問い掛けの答えで、唇と唇が重なったという事実以上の何かが含まれているものに違いなかった。その『何か』の可能性として頭の中の引き出しから混乱した僕が取り出すことが出来たのは、そんな陳腐で感情的で間の抜けた、有り得そうにもないことだけだった。
 鼻で笑われるかと思った言葉を、藤崎は暫く吟味するように口の中で転がした後、
「じゃあそれでいい」
 そう答えて僕の横に転がった。ヘッドボードの棚に藤崎の手が伸びたかと思うと、ぱっと照明が消えた。布団の中で僕は引き寄せられ、胸に顔を埋められる。長い足が僕の足に絡んだ。
「じゃ、じゃあって……」
「俺、もう寝るから。お前も寝たら」
 殆ど真っ暗闇に戻ってしまった部屋の中、もう何をしても藤崎は反応しそうになかった。僕は少し経ってから小さく「藤崎」「起きてる?」と二回話し掛けただけで諦め、暫く悶々と考えた後、藤崎の勧めに従って目を閉じた。



「おい悟、起きろよ」
 乱暴に体を揺すられて、ぼんやりと目を開ける。至近距離でこちらを覗き込んでいた藤崎と目が合い、叫び声を上げそうになるのを寸でのところで堪えた。信じられないことに、僕は本当に眠ってしまっていたらしい。
「あ、あ、ああ……」
「は? なに」
「お、おはよう……」
 藤崎は僕の挨拶を無視し、目元をごしごしと擦り欠伸をして体を起こした。それから布団の中や枕元をごそごそと漁り、最後にスウェットのポケットに手を突っ込んで、携帯を取り出した。
「あー、もう昼過ぎじゃん」
 時間を確認したかっただけなのか、藤崎は携帯をベッドの上に放った。僕は自分のポケットから携帯を取り出してみたが、電池が切れていた。マナーモードのままだったせいか充電切れの音も聞こえなかった。こうなる前に母さんに電話するべきだったかもしれない。
「悟」
 藤崎は僕の手から携帯を取り上げた。
「俺といるときに余所見すんなよ。誰に……」
 取り上げた携帯をチェックしようとした藤崎は、電池切れに気付いたらしく、一気に興味を失った顔で僕の元へそれを放った。掴み損ねた携帯は僕の顔の近くに落ちた。
「おい」
「ご、ごめん……」
「は?」
 ポケットに携帯を仕舞いながら謝った僕に、藤崎は訝しげな目を向けた。
「腹は?」
 ああ、何だ、そう訊ねようとして声を掛けたのか、と僕は心の中で呟く。
「減ってない」
「ふーん……喉は?」
「……ちょっと渇いてる」
「じゃあ冷蔵庫から何か取ってこいよ」
「分かった……藤崎も?」
 体を起こしながら言うと、藤崎は少し考えるような顔をしてから立ち上がった。
「俺も行く」

 二人で一階に下り、冷蔵庫の前に並ぶ。扉を開けたのは藤崎だった。
「何飲むわけ」
「え……っと……出来ればあったかいやつがいい」
 水でも何でもいい、と答えて絡まれるよりは我が儘を言った方がましかと思い、正直に答えた。藤崎は炭酸飲料のボトルを取って蓋を開け、飲みながら冷蔵庫の中を漁り、紙パックに入ったココアを取り出した。ひょいと手渡される。一リットル入りの容器は未開封だった。
「自分で温めろよ」
「あ……ありがとう」
 冷蔵庫の扉を閉めても、藤崎は部屋に戻ろうとしなかった。僕の用事が済むのを待っているのだろうか。視線を感じながらパックを開け、食器棚から取り出したマグカップにココアを移す。残りを冷蔵庫に仕舞い、カップをレンジにセットして、温まるのを待つ。何となく手持ち無沙汰で落ち着かない数十秒が過ぎて、やっと温まったココアを取り出した。藤崎はやはり僕を待っていたらしく、僕がカップを手にしたのを確認してから動き出した。キッチンを出て行く藤崎の後に続き、二階に上がる。

 部屋に戻ると、藤崎はベッドに座らず部屋の隅を漁り、ごみ袋を数枚取り出した。燃えるごみ用を二枚か三枚、燃えないごみ用を一枚。どちらもこの地区で売られている家庭用ごみ袋としては最大のサイズだった。僕は身の振りようを考えて結局ベッドの上に腰を下ろし、藤崎が何か始めようとするのを見守ることした。
 藤崎はまず、飲んでいた炭酸飲料を燃えるゴミの袋に入れた。まだ半分くらい残っていたし、リサイクルに回すべきではないかと思ったが、僕は指摘しなかった。ペットボトルの次は手近にあった服の塊だ。一番上にからからに乾いたピザが見えた。ピザごと何枚かの服がごみ袋の中に消える。藤崎は参考書や教科書の類を蹴り飛ばし、その手で燃えるごみに分類されるものと、多分それには分類されないものを大雑把に分けながらごみ袋の中に回収していく。その様を、僕はココアで両の手の平を温めつつ観察する。藤崎の手は殆ど迷いがなく、片付けのため物を一時的に避難させる目的でそうしているというよりは、本当に捨てるつもりでごみ袋に突っ込んでいるとしか思えなかった。何しろ、漫画本も干からびた食べ物もオレンジジュース塗れの服も、全部いっしょくたにしているのだ。
 あっという間に二つのごみ袋が満杯になる。藤崎はごみ袋を二度しっかりと結び、ドアの横に置いた。それから今度は燃えないごみの袋を広げ、その中にゲーム機を入れ始めた。テレビとの接続部分も荒っぽく引き抜き、コードも本体もコントローラーも、ついでにゲームソフトも中に入れていく。テレビに接続していなかった他のゲーム機も同じ運命を辿った。ゲーム機はどれも数万はする高価なもので、ソフトは最近発売されたものばかり、そして目立つ破損はどこにもなかった。唖然とする中、燃えないごみの袋も口を固く結ばれてドアの横に置かれた。
 ココアを飲み終わる前に、ほんの数分で部屋に溢れていたものがごみ袋に纏められた。藤崎はクローゼットを軽く開け、中からモップを取り出した。それがフローリングの床を一分ほど駆けまわると、部屋は寒々しさを感じるほど綺麗に片付いた。藤崎はモップを元の場所に仕舞い、僕の横に腰を下ろした。視線を感じたのか形のいい眉の片方が持ち上がる。
「何だよ」
「……えっと……あれ全部捨てるの?」
「あ? 当たり前だろ」
 ごみ袋に入らなかったものと言えば、僕たち二人の鞄と制服、教科書や参考書といった学校関連のもの、それに藤崎が『ユリコさん』に貰ってきた食べものくらいだ。あとは殆どごみ袋の中に移動してしまった。
 僕はふと、これまで一度も藤崎から金銭的要求を受けた覚えがないことを思い出した。もしかしたら藤崎の家は相当に裕福な家庭なのかもしれない。
「お前、まだ飲んでんの」
「あ、うん、ごめん」
 慌てて残りを飲むと、藤崎はカップを僕の手から取った。それから『どけよ』と目で合図し、僕をベッドの上から追い払ってベッドシーツを片手で剥ぎ取った。その下にあったベッドパッドも取り、マットレスを剥き出しにする。二枚の布はおそらく洗濯に出すものを一時的に置いておく籠に入れられた。枕と毛布もその上に投げ込まれてしまい、ベッドの上に残ったのは掛け布団と藤崎の携帯電話だけになった。藤崎は携帯を取り、どこかに電話を掛けながら部屋を出て行った。
 取り残された僕は、とりあえずフローリングに腰を下ろした。その冷たさに身震いし、くしゃみを三回した。

 藤崎は数分で部屋に戻ってきた。空のマグカップの代わりにその手にあったのは制服だった。
「お前の」
 放られた制服は、確かに僕のものだった。中に着ていたTシャツや靴下、下着まである。どれも仄かにあたたかい。乾燥機にかけてくれたんだろう。
「ありがとう」
「今から出掛ける」
「あ、うん……」
「とっとと着替えろ」
 どうやら二人で家を出るつもりらしい。窓の外で雷がごろごろと鳴っている音が聞こえたが、そんなことは関係ないのだろう。藤崎がクローゼットから服を取り出して着替え始めたので、僕も遅れないよう服に手を掛けた。
 藤崎は黒っぽいジーンズにボーダーのシャツ、シンプルなダークブラウンのコートを着て、更にニット帽を目深に被った。目の周りの痣が少し目立たなくなる。じっとその痛々しい目元を見つめていると、視線が合った。制服を着た僕の首に藤崎の手が伸びる。指先が肌を撫でた。多分そこは絞められた跡が残っているところだ。藤崎はクローゼットから黒のマフラーとベージュのダッフルコートを取り出した。
「ん」
 差し出され、「ありがとう」と礼を言って受け取る。コートは親切心からだろうか。既に寒気を感じていたので、有難かった。
「鞄、邪魔だから持ってくんなよ」
「分かった」
 僕はコートのポケットに鞄から取り出した財布を入れ、一応携帯も入れておいた。目に入った限りでは、藤崎も僕と同じものと鍵だけを所持品に選んだようだった。
「お前、これとこれ持て」
 手渡されたのはどちらも燃えるゴミの袋で、見た目と反してそれほど重くは感じなかった。藤崎はさっき籠に入れた洗い物を持った。二人で一階に下りる。藤崎は脱衣所に入り、すぐに手ぶらで出てきた。それから僕が持っていたものを取り上げてリビングに続くドアの向こうへ消えようとした。僕は少し勇気を出し、その後ろ姿に声を掛けた。
「藤崎、その、洗面台借りていい?」
「好きにすれば」
 許しを貰い、急いで脱衣所に入った。洗面台の水を少しだけ出して顔を洗い、それからマフラーの巻いた感じを調節して跡が完全に隠れるようにする。用事が済んだところで、藤崎が横から顔を出した。
「おい、行くぞ」
「うん」
 そして僕たちは家を出た。

 雨が降り続いている。空は灰色の雲に覆われていて、たまにごろごろと雷が喉を鳴らしている。大降りではないが、小降りでもない。藤崎は傘を貸してくれた。
「藤崎」
「あ?」
「……その、どこに」
「買い物」
 藤崎も同じビニール傘を差し、歩き出す。僕はその背中を追った。

 バスに乗り、五分ほど揺られて降りる。近くにある商店街が目的地かと思っていたが、藤崎はそれとは別の方向に向かって歩き始めた。数分後、藤崎は僕の方を振り返った。
「悟」
 藤崎はちらりとポケットの携帯を見る。
「お前、ここにいろよ」
「うん」
「絶対動くなよ」
「分かった」
 藤崎は僕をシャッターの閉まった和菓子屋の前、軒の下に置いて歩いて行く。どこに行くのだろうと少し顔を出して見ていると、藤崎は交差点を挟んだ先にあるコンビニの駐車場で足を止めた。止まっている車を一つずつ覗き込み、何かを確認してコンビニの中に入る。忙しなく行き交う車の隙間から、藤崎が雑誌コーナーの前に立ったのが見えた。誰かを待っているのだろうか。五分ほど経った頃、藤崎は携帯を耳に当て、コンビニを出てきた。その少し前に駐車場へと入ってきたSUV車の方へと近付いていく。だが今度は覗き込むことをせず、車の主が出てくるのを待っていた。
 運転席のドアが開く。出てきたのは長身の藤崎よりも更に背の高い男だった。横顔が見える。見知らぬ男だ。遠くからは表情まで窺うことは出来ないが、藤崎の親というには若過ぎ、兄というには年を取り過ぎているように思えた。三十代半ばくらいだろうか。スマートなスーツ姿、ゆったりとした足取りで、藤崎の傘に入っていく。二人は何か会話しているようだった。内容が聞こえる距離でもなく、勿論男の唇の動きも読めなかった。藤崎に至っては後ろ姿しか見えない。男はスーツのジャケットに手を差し込み、中から封筒を取り出して藤崎に差し出した。白っぽい無地の封筒だ。藤崎はそれを受け取り、中を覗き込んで頷いた。男は藤崎の肩に手を置こうとしたが、藤崎はそれを避けて後退った。男は肩を竦め、車に戻っていく。藤崎は封筒をポケットに仕舞い、車が発車してどこかに消えてしまうまでじっと見つめ続けていた。
 戻ってきた藤崎は、何となく不機嫌そうだった。立ち止まりもせず、足早に僕の横を通り過ぎる。だがすぐに振り返ってこちらを睨んだ。
「おい、行くぞ」
「あ……うん」
 僕たちは最初に予想していた商店街の方へと向かう。雨は絶え間なく傘を叩き続け、僕たちの間に会話はない。藤崎は商店街を抜けた先に立ち並ぶ店の中でも特に目立つ外観の、大手のディスカウントショップに入った。騒がしく明るいBGMが僕たちを迎える。籠を取った藤崎は店の中を進み、エスカレーターを上がって、まずメンズ服のコーナーに入った。ついさっき捨てた服の分を補充する目的らしく、下着やシャツなどの衣料品を大量に籠の中へと放り込んでいく――どうも普通の買い物のようだ。僕は藤崎の横でぼうっとそれを眺めていたが、ふと生理的欲求を覚えた。
「藤崎」
「なに」
「えっと、僕、トイレに行ってくるから」
 藤崎は手にしていた下着から顔を上げ、僕の顔を数秒眺めた後、頷いた。
「勝手に帰るなよ」
「うん」
 トイレは確か、一階で案内を見たような気がする。下りてみると、入口正面の防犯装置を抜けて右手の方にあった。そこに行く前に、旅行用の歯ブラシのセットを買った。もう一泊するなら必要になると思ったし、いい加減口の中が気持ち悪かったからだ。二つ用を済ませてからトイレを出た僕は、藤崎の元へと戻ろうとした。その途中で何とはなしに店の外へ目を向けた。道路を挟んで向かいに電話ボックスが見え、足を止める。
 ――連絡。母さんに連絡をした方がいいだろうか。そんな考えが頭に浮かび、逡巡の後に店を出た。まだ数分しか経っていない筈だ。幼児ではないのだから、藤崎もそう大騒ぎすることはないだろう。

 すぐ目の前にあった横断歩道を渡り、電話ボックスに入る。公衆電話を使うのは随分と久し振りだ。お金を入れ、母さんに電話をかける。四コールで繋がった。
『もしもし?』
「……悟。今公衆電話からかけてる。携帯の充電が切れたから」
『藤崎くんの家じゃなかったの?』
「今二人で買い物中」
『そう。悟、外泊するなら先に言いなさい。お母さん心配したわ。向こうの親御さんは知ってるの?』
「えーっと……藤崎に聞いてみないと分からない。ごめん。その、急に誘われて……。明日戻ってくるから」
『そう、じゃあ、迷惑になるようなことはしないのよ。藤崎くんによろしくね。今度うちにも連れてきなさい』
「……伝えとく。じゃあ」
 通話を切り、傘を取った。外に出ようとしたとき、ボックスの外、すぐ近くの歩道に横付けされていた車が、コンビニの駐車場で見たものと同じ車種であることに気付いた。何となく眺めながら傘を開くと、助手席のドアが開いた。
「おーい、きみ」
 低い声が聞こえた。きょろきょろと辺りを見回す。近くに人はいない。僕に呼び掛けたのだろうか。
「そう、君だって」
 もう一度声が聞こえて、僕はそろそろと車に近付いた。運転席に座り、助手席に乗り出していた人物は、明らかに僕を見ていた。
「あの……?」
「君、あいつの友達?」
 あいつ。今僕に話し掛けているのは、さっき藤崎と話していた男と同一人物のように見えた。黒の短髪を立てた殆ど坊主に近い頭と、高そうなスーツには覚えがある。
「藤崎のことですか」
「そう。友達?」
「えっと……あの、失礼ですが、あなたは……?」
「ああ、悪い。俺はあいつの叔父」
 男はにこりと笑う。顔の造形は整っているが、眉が少し薄めなせいか威圧的な感じがあった。僕は男のその笑みに何か心がざわつくものを感じた。
「あ、初めまして……吉田です」
「吉田くんか。悪いんだけど、あいつに届け物してくれないかな?」
「届け物……ですか?」
「そう。さっきあいつに渡し忘れてさ。電話しても出ないから待ってたんだけど……頼まれてくれる?」
「あ、はい……分かりました」
「これなんだけど……あ、申し訳ないんだけどさ、これ濡れるとダメになるやつなんだよね」
 男は後部座席に手を伸ばしながら言う。僕は男がシートベルトを着用していることを無意識に確認してから車に近寄り、後部座席を覗き込んで――
 次の瞬間には、車の中に引き摺り込まれていた。あっと声を上げる暇もない。ダッフルコートを掴んだ男の手は、硬直した僕の体を更に奥へと引き込んでいく。傘はドアに当たって僕の手を離れた。男は素早く僕の前に乗り出し、ドアを無理矢理閉める。
 混乱と恐怖のあまり声を発することも出来なかった。男は左手で僕の手首を強く握り締め、運転席の方から助手席のドアのロックを掛けると、何食わぬ顔で車を走り出させた。
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