8.涙

 大きめの紙袋と茶色のビニール袋をそれぞれ一つずつ持って、藤崎は戻ってきた。携帯を置いたままの僕の膝に一瞥を加え、隣に腰を下ろす。
「飯、貰った」
 紙袋は二人の間に置かれ、ビニール袋の方は藤崎の膝に置かれた。細い指が中を乱暴に探る。
「……で? お前は結局食うわけ?」
 藤崎は中から木箱を取り出し、封を破りながら訊ねた。食べないのか、というニュアンスを含んだ問いのように聞こえた。まだ僕に何かをしてくれようとしているのだ。
 僕は膝の携帯を手の中で弄びながら逡巡する。何も考えずにイエス、ノーと答えていいものだろうか。
「その、週末の間、僕はここにいることになってるの?」
「はぁ? ……当たり前だろ。お前、俺を一人にして帰るっていうのかよ」
 低く怒気を孕んだ声とは裏腹に、口にしている言葉は駄々をこねる小さな子どもと変わらない。ただ単に責められているのか、それとも側にいてくれと乞われているのか分からなかった。
「……別に、帰るとは言ってないよ」
「じゃあいろよ」
「うん」
「飯は?」
「食べる。……食べてもいいなら」
 手の中から携帯が奪い取られ、代わりに紙袋が膝の上に置かれる。何やら携帯を操作し始めた藤崎の横顔を窺いつつ、紙袋の中を覗いた。中には有名な和菓子チェーン店の包みが一つ、見慣れない洋菓子店の箱が一つ、ゆるキャラと特産物らしき肉や魚のイラストが印刷された袋が一つ。
「藤崎、ど……」
「どれでも好きなの食えば」
「……うん、ありがとう」
 お菓子よりも普通のごはんが食べたかったので、ゆるキャラの袋を取った。中には数種類のハムとウィンナー、乾燥野菜のパック、海産物の小瓶、数種類のレトルトカレーの箱が入っていた。迷った末、ハムを一つ取った。いただきます、と小さく呟いて封を開ける。切れ目も何も入っていない、丸々とした大きなハムだ。意を決してそのまま噛り付いてみる――凄く美味しい。滑らかな肉質、食欲を煽る香り。だが僕はこの高そうなハムよりも、隣のことが気になっていた。
 藤崎は箸を握り、木箱に入っていた寿司を口に運びつつ、もう片方の手でどうやらメールを打っているようだった。
「その……藤崎、何書いてるの?」
「メール」
「誰に……?」
「お前の母親」
 ちょうど打ち終わったらしく、藤崎は僕に携帯を差し出した。送信完了画面。受け取って送信済フォルダを確かめる。

『クラスメイトの藤崎くんの家だよ。お家の人が旅行で出てるらしくて、二人でのんびりゲームとかやってる。日曜の夕方には戻ってくるから』

「日曜の夕方……」
 今は土曜の朝。つまり、もう一泊が決定したということだ。今日一日、そして明日の夕方までの時間を、おそらく二人きりで過ごすつもりなのだろう。それはいい。その間、僕は藤崎の体調が急変しないか見ていられる。
 気になったのは、藤崎の名前が出ていることだ。僕たちの関係を悟られないために使っていた『田中正弘』という架空の存在を、藤崎は覚えていた筈だ。これまでも何度か携帯を覗かれたことがあったし、家ではその名前で呼んでいると藤崎に話したこともある。
 これは一体どういうことなんだろう。藤崎はもう僕に酷いことをするつもりが無くなって、それ故に関係を隠す必要性も無くなったということだろうか?
「なに。何か文句あんの?」
 画面をじっと見つめて考え込んでいたせいで、藤崎に睨まれてしまった。僕は携帯をスウェットのポケットに仕舞った。
「文句っていうか……藤崎、って送ってるけどいいの……?」
 藤崎はふんと鼻を鳴らして寿司を口の中に入れた。うっかり自分の名前を出してしまった、というわけではないらしい。食事中にしつこく質問責めにするのも躊躇われて、僕は口を噤んだ。

 無言のままに数分が過ぎ、気付くと僕はハムを丸々一つ食べてしまっていた。藤崎の食事が終わるのを待っていると、唐突に木箱が差し出された。受け取って中身を見る。イクラとウニだけが残っていた。
「……食べて、いいってこと?」
「いらねーからやってんだろ。それキモいから嫌いなんだよ」
 箸も押し付けられてしまった。残った二つが本当に好みではないのか、それとも気を遣って言っているのか、今はもうどちらか分からない。
「早く食えよ」
 うん、と頷いて箸を握る。藤崎は寿司の袋に入っていたらしいペットボトルのお茶を飲みながら横になった。
 イクラを食べながら木箱を見ている内に、どうも何かがおかしいことに気付いた。不思議に思って木箱の上の方を持ってみると、下にもう一段あった。二段目はたくさんの具材が盛り付けられた、豪華なちらし寿司。
「藤崎、これも?」
 藤崎は僕の方をちらりとも見ずに頷いた。もう全く興味がないらしい。食欲が満たされた後の藤崎は好物に対しても冷淡な態度を取るから、たとえこれが何だったとしても同じように頷いたに違いない。
 昨夜何も食べていなかった僕は、藤崎が見捨てた豪華な食事の残りを有難く頂戴した。見た目通りの味のものを全て平らげた後、ご馳走様でしたと小さく言いながら手を合わせて、箸や木箱を藤崎が散らかしたごみと一緒にまとめ、ごみ箱に捨てる。部屋全体がごみ箱のような状態で、そこには今捨てたものと丸まったティッシュぐらいしか入っていない。丸まったティッシュ――僕はついさっきのことを思い出した。
「悟」
 立っている僕の背中に、藤崎が声を掛ける。どっと心臓が跳ねるのを感じながら振り返った。
「ぼーっとしてんなよ」
「……うん」
 ベッドに戻ると、藤崎はペットボトルに蓋をして枕元に転がした。紙袋はいつの間にか床に移動している。はっと気付いたときには藤崎の手が僕の肩に置かれていて、そのまま押し倒されそうになった。思わずその手を取ってしまう。
「なに」
「えっ……と、何をするつもりなのかと……思って」
「は。セックスに決まってんじゃん」
 藤崎は僕に手を掴まれたまま迫り、膝で僕の股間を押した。
「わっ」
「お前も気持ちよくなるんだから文句ないだろ」
 ということは、やはり僕を犯すつもりなのではなく、さっき失敗した行為をやり直そうとしているのだ――その考えを裏付けるように、膝が明らかな意図をもって僕のものを擦る。ひっと息を呑んだ瞬間に押し倒されてしまった。
「ちょっ……、待って、藤崎、待ってって……!」
 いつもなら無視されるか怒りの拳を誘うだけの言葉に、藤崎は動きを止めた。その目は酷く不機嫌そうな色を湛えてはいるが、殴ったり蹴ったりといった暴力的な行動を取る様子はない。
「なに。お前うざいんだけど」
「いや、だって……だって、藤崎」
「はっきり言えよ」
 僕は恐る恐る藤崎の胸を押し、体を起こした。
「藤崎は……その、さっきみたいなことするつもりなの?」
「だったら?」
 まっすぐ僕を見る目に気圧されそうになる。僕は深呼吸した。
「それは、僕が藤崎にってこと……?」
「そうだよ。お前が俺に入れんの」
「……何で?」
「お前が言ったからだろ。今までと同じことしたら死ぬって」
 だからといって、今度は自分が性器を受け入れる側に回ろう、という考えに至るものだろうか。論理的な説明にはなっていない。
「……でも、何かおかしいよ。何でそうまでして……藤崎は、その、痛いのが好きだったりとか、男の体が好き、だったりし……」
「俺はホモじゃない」
 藤崎は僕の言葉を遮り、強い口調で言った。
「お前は俺がそんなおかしいやつだって思ってんの? 異常者だって? そんな風に思ってたわけ? せっかく人が優しくしてやろうとしてたのに、お前、やっぱり殺してやろうか? あ?」
 ぎらついた目で凄まれると、どうしても体が硬直してしまう。殺してくれ、殺されてもいいと言ったのは今日のことなのに、僕の体はそれを忘れたように激しい感情的、身体的反応を示す。ばくばくと激しく鼓動する心臓が落ち着いてくれることを願いながら、僕はゆっくりと首を横に振った。
「ただ、聞いただけだよ」
「ふーん?」
「……でもそうじゃないなら……こういうこと、何で……」
 数秒の沈黙。藤崎は一瞬も僕から目を逸らさない。
「決まってんじゃん。したいから。それだけ」
 それ以外に理由があるとでも、という風に首を傾げて見せる藤崎に、僕は唖然としてしまう。
「そんなの……」
「『そんなの』?」
 ケダモノ、みたいじゃないか。潔癖じみた言葉が頭に浮かぶ。藤崎にぶつけるにはあまりに攻撃的な響きで、とてもじゃないが促された言葉の後に続けることは出来なかった。代わりにもう一つ浮かんだ感想を口にする。
「僕は、したくない……」
 藤崎は一瞬呆けたように小さく口を開け、それからあからさまに侮蔑的な笑みを浮かべた。
「さっきあんなに気持ち良さそうにしてたのは誰だったっけ? お前も楽しんだんだろ?」
「それは……あ、あんな風にされれば、誰だって」
 口や舌で愛撫されば誰だって気持ちが良くなる。そんな風に説明しようとしたところで、藤崎に僕の抵抗の意味が伝わる筈もなかった。案の定、藤崎は『快楽を得られるのならそれでいいだろう』とでも言いたげな顔をしている。だから僕は言い方を変えることにした。
「僕は……その、そういうのは、セ、セックスとかは彼女としたい。……もしいつか彼女が出来たらだけど。それに、あそこは本来排泄器官であって、何かを入れるところじゃない……と思う」
 衛生的な問題もあるし、受け入れる側の肉体的負担も軽くない。単に入れたら気持ち良くなるからといってやるべきものではない、と考えるのに十分な材料が揃っている。本当の同性愛者の人達がどうやっているのかは知らないし、もしかしたら気持ち良くて安全なやり方があるのかもしれないが、僕自身は是非やりたい、とは思わなかった――興奮状態のときは別として。そうだ、あれは例外だ。
「じゃあ昨日のアレは何だよ。あ? あんだけおっ立たせておいて『入れるところじゃない』だって?」
「あれ、は……」
 その時のことがフラッシュバックする。通り過ぎた過去の出来事の一つとしてではなく、今目の前にある体を押し倒し、殴って、勃起したペニスを押し付けているかのように。舌が痺れ、手が震えて、息が乱れる。罪悪感がぶわりと胸の中で溢れ、頭がずきずきと痛んだ。
「間違い、だった。ごめん。本当にごめん……」
 俯いた僕の胸を、藤崎が小突く。
「『ごめん』で済むと思ってんのか? トラウマになったらどうしてくれんの? なあ。あんな酷いことやっておいて、お前は言葉で済まそうと思ってんだ」
 藤崎は小突くのをやめ、手のひらで軽く胸を押した。倒れ込んだ僕の上に藤崎が乗り上がる。
「藤、崎……」
「なぁ、俺はお前を無理矢理犯したことはないよな」
 え、と僕は思わず小さく声を上げてしまった。『無理矢理犯したことはない』――だって? それが顔にも出ていたのか、藤崎は僕を見下ろしながら片眉を上げる。
「だってそうだろ。お前は殴られたくなくて、恥ずかしい写真とか動画をバラまかれたくなくて、俺に自分を差し出した。俺はあれをやり出してからお前を殆ど殴らなくなったし、お前が俺の前でやったことは全部秘密にしてる。つまり俺たちはそういう契約を結んだってことだろ。だからあれは合意の上の行為ってことになる」
「そ……んな……」
 あまりに乱暴で自分本位な論理展開。恐怖すら覚えた。反論すら口に出来ないでいる僕の上で藤崎は僅かに首を傾げ、顔を曇らせた。
「だけどお前は? 俺はお前があんなことするとは思ってもみなかった。想像すらしてなかった。これは裏切りだよな。俺に対する、俺たちの関係に対する裏切りだ。悟、なあ、そうだろ? 俺は、本当は……」
 藤崎はそこで息を止めた。瞬きを忘れ、口元を強張らせ、眉根を寄せたかと思うと、突然その目から大粒の涙を零した。その涙は白い頬を滑り、顎に流れ、僕の胸に落ちた。
「ふ、藤崎」
「怖かった……悟、何で、何であんなことしたんだよ」
 震える声、藤崎は僕の胸を両手で掴み、スウェットの分厚い生地に皺を作った。顔を歪め、ぼろぼろと止めどなく涙を流している藤崎はまるで別人のようで、しゃくりあげるその様は幼く儚げだった。藤崎は固まっている僕の胸へと顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
「悟、悟……さとる……」
 唸るような泣き声の合間に僕の名前を呼んで、藤崎は泣き続ける。涙はついに服の奥深くにまで浸み込み、その下の皮膚に辿り着いて僕に濡れた感触を与えた。藤崎の涙。そんなもの見たことも、感じたこともない。昨日今日で起こったことの中で――いや、今まで体験した全ての出来事の中で、最も強い衝撃を僕に与える光景だった。
 あたたかい涙、震える体、泣きじゃくる声、藤崎は唐突に僕の前へと弱みを曝け出し、縋っている。僕は謝ろうとした。ごめん、僕が悪かったんだと謝罪の言葉を口にしようとした。だがそんなものは藤崎にとって何の意味もない言葉で、ほんの数分前に受け取るに値しないと跳ね返されたものだということを思い出した。
 そんなもの慰めどころか自己満足にしかならない――なら、どうする? 

 混乱状態の頭で長いこと考えた末に、僕はそっと右手を上げた。そしてその手を、恐る恐る藤崎の背中へと当てた。
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