10.車中

 心臓が胸の中で暴れ回っている。
 そのまま肋骨と皮膚を突き破って、外へと飛び出してもおかしくない。破裂寸前だった。声を上げようとしても喉はひゅうひゅうと音がするだけ、助手席のドアは何度開けようとしても頑なに僕を拒んで動かず、右手は男の大きな手に掴まれたままだ。かさついた冷たい手の感触が恐怖を煽る。
「シートベルトしたら?」
 人を一人拉致している途中だというのに、男の声も、その顔も平静そのものだった。
「したらって言ってんだけど? 俺運転荒いから、頭打って死んでも知らないよ」
 助言というよりは命令だった。手首を握る手が骨をへし折る勢いで力を掛けてくる。僕は声を上げ、体を窓の方に近付けながら左手で男の手を引き剥がそうとした。
「吉田くん。俺さあ、ナイフ持ってるよ」
 男はちらりと横目で僕を見る。ほんの一瞬合った目は冷たい。ナイフを持っていようがいまいが、男は自分の必要を満たすために僕を躊躇なく傷付けるに違いない、そう思わせる目だった。僕の体はぴたりと抵抗をやめた。男の命令に従うことが懸命だとは思えなかったが、恐ろしくて逆うことが出来なかった。シートベルトを着用しながら外へと視線で助けを求めようとしても、暖房と雨で曇った窓ガラスの先に、恐怖に凍り付いた僕の顔へと目を向けようとする者はいない。シートベルトの留め具がかちりと嵌ると、男は僕の手を離した。
「そうそう、大人の言うことは聞くもんだよ」
 一体どこに向かっているのか、車は運の悪いことに一度も赤信号に引っ掛かることなく走り続けている。僕はシートベルトを震える両手で握り締め、勇気を振り絞って口を開いた。
「あの……お、下ろして、下ろしてください」
「んー、後でな」
「い、いま……」
「後でって言ってんだろ?」
 頭の中で鳴り続ける警鐘が、どんな手を使ってでも今すぐに車を飛び出せと告げている。だが僕の体は動かず、ここから抜け出す方法も思いつかない。こうなる前、男に対して何か良くないものを感じたというのに、僕はその直観を無駄にした。車に近付かなければ、男を無視していれば、電話をもっと早く終わらせていれば、そもそも店を出なければ……そんなことを今更悔やんでも後の祭りだ。
 ああ、だけど僕はどうして、名前も知らない男の車の中にいるんだ?
「吉田くんさあ、翔太の彼氏でしょ」
 暫く走ってから、男はそんな風に話を切り出した。『翔太』。僕はその名前を一度も口にしていない。本当に叔父かどうかは別として、この男は少なくとも無差別に人を攫ったわけではないらしかった。
「違う?」
 どう答えればいいのか分からなかった。この男は肯定を求めているのか、それとも否定を求めているのだろうか。ぐるぐると考えていると、男はふんと鼻で笑った。
「じゃあお友達? にしては仲良かったよな、休みの日に二人でお買い物ってさ。つーか俺、お前とあいつが一緒にいるとこ見掛けたの今日が初めてじゃないし。中学ん時からの付き合いだろ?」
 車はいつの間にか古い団地が立ち並ぶ区画に入っていた。雨のせいか人気は少ない。
「ぼ、僕と……藤崎は……」
「へぇ、翔太って下の名前では呼ばないんだ」
「……呼んだことない……です」
「じゃあ、セックスは?」
 一段低い声。ルームミラー越しに男と目が合った。男は目を細め、左折する為に前を向いた。荒っぽいやり方で車が曲がり、体が揺れる。
「……どっ、どこに、行くんですか」
「んー……つーかはぐらかすってことは、もうヤったんだ。吉田くん大人しそうな顔してんのになぁ。見るからに童貞っていうか、手馴れてなさそうな感じなのに」
 男は笑っていたが、愉快そうではなかった。僕が藤崎の『彼氏』で、僕たちが『ヤった』かもしれないことが、男が腹を立てている原因に違いなかった。甥を気に掛ける叔父、にしては行き過ぎている。話したこともない高校生を車で拉致し、ナイフの存在をちらつかせるなんて尋常じゃない。
 この男は異常者だ。
「僕、と藤崎は……、そういうんじゃ」
「あー、嘘とか誤魔化しとか、そういうのいいから。鬱陶しいわ」
 車は団地を抜け、細い道を通ると、だだっ広い駐車場に入った。看板には契約駐車場とあり、入口に張られた鎖をスイッチ一つで下ろすことが出来るシステムになっていた。まばらに止まる車の中に人の姿は見えない。男は奥の方まで進んでいった。僕は気付かれないよう必死で何か武器になりそうなものを探していたが、ポケットで沈黙している電源の落ちた携帯くらいしか思いつかなかった。ナイフを奪おうにも、どこにあるのかすら分からない。
 車が停まり、男はエンジンを切った。屋根を叩く雨の音がその響きをもって非現実的な感覚を齎し、僕は数秒の間、自分は悪夢を見ているのではないかと本気で思っていた。
「俺さあ、昔あいつのことレイプしたんだよね」
 ――そんな言葉が、耳に入るまでは。
 男は背凭れに体を預けて僕に顔を向け、笑みを浮かべた。
「あいつが……翔太が中学ん時かな、ヤったのは。吉田くん、知らなかった?」
 言っている意味が上手く理解出来なかった。え、と声を上げた僕の体は、がたんと音を立てて倒れた背凭れに引き摺られる。男はシートベルトを取って僕の上へと移動した。無意識に抗おうと動いた手は抑えつけられて動かない。
「吉田くん、あいつのことどこまで知ってんの?」
 男は僕の両手を胸の前でひとまとめにし、片手で抑えると、どこからか白の結束バンドを取り出して結び付けた。がっちりと締め付けられて痛みが走る。ひっと声を上げた僕の体に男が圧し掛かる。男物の香水と、きつい煙草の臭い。男はスーツのポケットから折り畳みナイフを取り出し、僕の目の前でぱちんと開いて見せた。
「綺麗だろ。小さいけど結構切れんだよね。ま、あいつのときはこんなの使わなかったけど……」
 ナイフの刃が僕の頬に当たる。尖った切っ先は僕の目の方に向けられていた。薄暗い車内で、僕を見下ろす男の目が近付く。不安と恐怖を抱かせる目。生温かい息が吹きかかった。
「で、どこまで知ってる?」
「し、し、知らない……何も、僕は何も……」
「ふーん。……あいつさ、親に虐待されてんだよ。親っていうか、俺の姉貴の方にだけど。変な宗教にハマっちゃって、教祖さまだか巫女さまだか何だかに唆されて、わりと洒落にならないようなことをさ。躾と称して今よりもっとガキの頃から散々やられてんの。カワイソーだろ」
 ナイフはとんとんと僕の顔を叩きながら下に降り、マフラーの中に潜った。僕は息を止め、男は目を細める。一秒、二秒、三秒。マフラーが解けた。ナイフの背でやったのか、マフラーは破けてはいなかった。男は現れた僕の首に刃を当てる。唾を飲み込むと、冷たく固いナイフが僕の喉仏を押した。痛みはない。それでも僕の体は手足の先まで凍えた。
「父親は見て見ぬふりしてたってさ。あいつ、兄貴もいたんだけど……あいつが小学生五年か六年の時だったかな? 自殺してさ、さすがに騒ぎになりかけて、夜逃げするみたいに今のとこに移ったって話。弟を一人置いて死ぬってさ、よっぽど酷い目に遭わされてたんだろうね、兄貴の方も……お、何だこれ。首、絞められた?」
 男はライトを点け、僕の首を何も持っていない方の手で触った。
「へぇ。お前ら、高校生の癖にこんな過激なプレイしてんだ。俺もさすがに首絞めはやったことなかったわ。こういうのって気持ち良いの? 俺もやってみようかな」
 ナイフがシャツのところまで下がったので、僕は許された範囲で必死に首を横に振った。男は僕の回答など別にどうでもよかったのか、鼻歌を歌いながらシャツの襟をナイフで弄んでいる。
「あ、何の話だっけ……? ああ、そうそう。翔太のことだけど。あいつ、当然小学校の頃からしょっちゅう家出してて、引っ越し先が俺の家に近かったからだろうけど、中学になってからは週一くらいで上がり込むようになってさあ。正直邪魔でうざかったんだけどまあ甥っ子だし、置いててやったのね」
 男はナイフの切っ先で僕の指を撫でた。ぴりりと痛みが走り、皮が薄く切れる。
「そしたらあいつ段々自分の家みたいに振る舞うようになってきてさ、あん時なんか仕事で疲れて帰ってきた俺のベッド、一人で占領して寝てたんだよ。いくら何でも腹立つじゃん、そんなの」
 僕の体を座席に縛り付けていたシートベルトが外れる。二枚のシャツの下から左手が侵入してきた。腹をまさぐられて怖気が走る。
「礼儀を教えてやろうと思って近付いてく内に、あ、もしかしてこいつ誘ってんのかなって思ってさ、それなら乗ってやろうじゃんって服脱がしてたら、あいつすぐに目覚まして、今の吉田くんみたいな目で『何やってんだよ』って言ってキレてきてさ」
 ナイフが男の手で膨らんだ腹部に下り、左手と同じように二枚のシャツの下へと潜り込んだかと思うと、ぐっと二枚を拘束された手のすぐ下まで引き上げた。現れた肌を見て、男は笑い出した。
「何だこれ、殴られた? それとも蹴られた? 痣になってんじゃん。あいつの目も似たようなことになってたけど、お前らやっぱそういう趣味なの? 引くわー」
 冷たいナイフの刃が、僕の腹に出来た痣をなぞるように動く。僕は小さく「やめてください」と震える声で言ってみたが、男は首を傾げて笑うだけだった。
「あー、でも俺のせいでそういう趣味に目覚めたのかもなー。俺あいつのこと殴り倒して、蹴り倒して、後ろから乗っかって、泣くまで犯してやったもん。あいつ今はあんな生意気な顔してるけど、あんときは『お兄ちゃん、お兄ちゃん、助けて』って可愛い声で泣いてたよ。つーかお前のお兄ちゃん死んでんじゃんってさ。それとも俺のことお兄ちゃんって呼んでたのかな?」
 男は僕のベルトを左手で緩め、体を反転させた。それから僕の髪をナイフの先で弄び、マフラーを取り去って、いきなりうなじに噛み付いた。歯の感触、唾液の生温い感じ、至近距離の呼吸音。接しているその部分から毒が入り込み、肉を汚して、体全体が腐っていくイメージに襲われた。逃れようと身を捩ると、ナイフの刃が僕の頭皮に軽く突き刺さった。
「暴れんなって」
 男は僕の頬をシートに押し付け、ナイフに付いた血を目の前に近付けてみせた。
「車汚したくないんだよ。煙草も中では我慢してるっていうのに、お前の血がシートにベッタリとか最悪だろ」
 血は僕の耳で拭われた。ナイフは首に下がった。男は左手で僕の腰を撫でる。
「……なぁ、吉田くん。あいつ一週間後に俺を呼び出してきたんだけどさ、何て言ったと思う?」
 僕は答えなかったし、答えられなかった。
「『慰謝料として百万寄越せ』って言ったんだよ。面白いだろ? 犯されて泣いてたガキが大人を強請るってさ、大した根性してるよな。凄い性悪。で、俺優しいから払ってやってんの、分割で。今日は十万やった。そろそろ百万になるんじゃないかな。けどさあ、たった一回で百万って、超高級ソープでも無い値段だろ? 割に合わないよな?」
 腰を撫でていた手がスラックスを掴んだ。
「本当は両方攫って、彼氏の前であいつを犯してやろうと思ってたんだよ。けど吉田くんが一人で無防備に立ってたから、じゃあこいつ一人でいっか、って。吉田くんみたいなのは全く俺のタイプじゃないんだけどまあ許容範囲内だし、犯してるとこ動画に撮って送ってやろうかって……ん、高校生って男もわりと肌キレーだねー」
 男は僕の尻を撫でる。ぞわりと怖気が走った。嫌だ、と喉から声が出た。だが男の手は僕の尻を鷲掴みにし、その部分を露わにしようとする。強い痛みが走った。
「うっわ、グロ。何だよこれ、ちょっと裂けてんじゃん。座ってて痛くなかったの?」
 笑い声混じりに男は言う。座っていたとき、歩いていたとき、痛みが無かったわけじゃない。それでもこんな風に無遠慮な開かれ方をするよりは随分とましだった。
「ああ、そっか、なーんだ……吉田くんってあいつの彼氏じゃなくて、ただの玩具だったんだ。何かパッとしないの選んだなと思ってたら、はは、カワイソー。こんな滅茶苦茶やられてんのに一緒にいるって、吉田くんも何か弱み握られてんだ?」
 ナイフが遠ざかって、僕を押さえつけていた体が離れていく。男は運転席に戻ってナイフを閉じ、ジャケットの内側に仕舞った。乱れた着衣を整えて、僕を見る。
「もうやる気ないって。そんなとこ突っ込んだら血塗れになんじゃん、シートが」
 何をぼんやりしているのか、と何となく責めるような口調で男は言った。それから結束バンドの存在を思い出したらしく、もう一度ナイフを出して素早く切り離し、ほら、と顎をしゃくって促した。僕は男から目を逸らし、制服のスラックスを下着ごと引き上げた。座席の横をまさぐってシートを起こしてから、シャツやベルトやマフラーも整えていく。男はエンジンを入れ、車を動かし始めた。
「今度さ、俺と吉田くんの二人であいつに復讐しようよ。残りは俺が全部やってやるから、吉田くんはあいつを呼び出す係で。あいつ俺のこと警戒してて、人が多いところでしか会ってくれないからさ。吉田くんもあいつのことヤりたかったら、俺の後で良かったら好きにしていいよ。どうせ写真か何か撮られてんだろ? 俺も、まあハッタリだと思うんだけど、俺があいつを犯してるところを動画に撮ってるって言われてんだよね。それ取り返すためにさ、二人でやってやろうよ……どう、いいだろ?」
 降り続く雨、水溜りをタイヤが蹴散らす音がする。僕は俯き加減にフロントガラスの先を見た。水を弾くワイパーの動き。世界がぐるりと回った。
「……下ろしてください」
「んー?」
「下ろしてください」
「何で? せっかく家まで送ってやろうと思ったのに」
「歩いて帰れます」
 男は駐車場を出たところで車を止めた。人通りの少ない道だ。
「濡れるんじゃないの?」
「大丈夫です」
「ふーん。あ、吉田くん、携帯貸してよ。連絡先交換しとこう」
「充電が切れてるので」
「ああ、そう」
 男は助手席のドアのロックを解いた。僕が取っ手に手を掛けると、男は僕の腕を掴んだ。目が合う。
「やっぱ吉田くん、あいつの彼氏?」
 腕を振り解き、体中の筋肉を動かして、全力で車から脱出した。最初はでたらめに、それから車が入る余地のない細い路地に向かって駆ける。雨、雨、雨。雨が体を打つ。
 暫くして振り返ると、男の車はもうどこにも見当たらなかった。そもそも追ってきてはいなかったのかもしれない。僕は立ち止まり、胸を押さえて荒い息を吐き出した。
 胸と、頭と、手足と……どこもかしこも痛かった。吐き気を覚えて蹲る。全力疾走したせいか、それともさっきの出来事のせいなのか分からない。嘔吐を堪えるために目を閉じて深呼吸した。それでも世界はぐるぐると回り続け、僕の脳味噌をぐらぐらと揺らし続ける。

「――た、大丈夫?」
 上の方で声がして、ゆっくりと顔を上げた。傘を差した老婦人が僕を覗き込んでいた。綺麗な色の傘が僕の方へと傾いている。
「あなた、大丈夫? どうかしたの?」
「あ……大丈夫です……、ちょっと気分が……悪くなって」
「救急車呼びましょうか? あら、顔が真っ白よ」
 立ち上がって何とか首を横に振ったが、彼女は鞄から携帯を取り出した。
「大丈夫です」
「なら、親御さんにでも迎えに来てもらった方がいいわ」
「あの」
 親切な老婦人は、気遣わしげな顔で「なあに」と答えた。
「友達に電話かけても……いいですか。僕の携帯、充電が切れてて……」
「お友達に? ええ、いいわよ」
「ありがとう、ございます」
 手を出して、その手も服の裾もずぶ濡れになっていることに気付いた。
「大丈夫よ、これ防水ってお店の人が言ってたから」
「あ……ありがとうございます」
 貸してもらった携帯で、ずっと前に暗記していた番号に電話をかける。すぐに繋がった。
『……もしもし?』
 不信感を隠そうともしない声。自分でかけた癖に黙り込んでしまった僕に、藤崎は不機嫌そうな声を上げた。
『は? もしもし。俺今急いでんだけど、あんた誰? ……悟?』
「……うん」
『お前……今どこだよ。何勝手にどっか行ってんの?』
「ごめん。藤崎は……今どこ?」
『バスん中。お前の家に乗り込んでやろうと思ってた。つーかお前は――』
「藤崎の家の近くのバス停で降りて。降りたらすぐ、バス停の前にあるコンビニに入って待ってて欲しい。二人で一緒に藤崎の家に帰ろう。僕も今から行く」
『は?』
「藤崎、お願いだから、僕のこと待ってて」
『……早く来いよ』
「うん。すぐ行くから」
 僕は通話を切った。
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