7.訪問者

 くしゃくしゃになって汚れたシーツ。汗と精液の臭い。僅かばかりの規則性をも失ってしまった荒れ放題の床。そんな混沌に、落ち着いたリズムで屋根やアスファルトを打つ雨の音が薄く流れ込む。呆然として固まっていた僕は、ふらりと上体を起こしてヘッドボードの棚にあったティッシュを取り、胸と腹と性器の汚れを拭き取ってゴミ箱に捨てた。
 それから窓の外を見た。庭と道路を挟んで向かいにある家は遠く、まっすぐこの部屋に向いた窓はない。だが覗こうと思えば覗けるのではないだろうか。例えば双眼鏡か何かを使えば、この部屋の中で起こっていること、起こったことを見ることが出来たのではないか。今更そんなことを考えるのは遅すぎたが、僕は衝動的にカーテンを閉めた。
 途端に真っ暗になってしまった部屋はしんと静かで、廃墟のように見えた。急に寒気を覚えて体を震わせる。くしゃみを一回、二回、三回。そういえば僕は真っ裸で、髪は殆ど濡れたままだった。足元で丸まっていた毛布を手繰り寄せ、頭から被って膝を丸めた。
 体が冷えて、頭の方も平静を取り戻しつつある。自身の死を願っていたときよりも、藤崎の前に身を投げ出して好きにしろと言ったときよりも、僕はずっと自然な状態の自分自身に回帰しようとしていた。
 しかし完全な自分自身に戻る前に、強烈な尿意が襲い掛かってきた。昨日の夕方にしたのが最後だから、十時間以上も排尿していないことになる。今まで意識しなかったことが不思議なくらいだ。
「……トイレ、行きたい」
 そう口に出してしまったせいで、尿意が更に強まってしまった。だがトイレはきっと使用中だ。早いところ済ませてトイレを開けて欲しいという気持ちと、そのまま中に籠って出てこないでくれと願う気持ちが同時に胸の中にあった。生理的欲求は長く抑えられない。だがどんな顔をして藤崎と対峙すればいいのか分からなかった。
 藤崎が一体何を思ってあんなことをしようとしたのか、僕は理解に苦しんでいた。ほんの少し前まで藤崎は僕のものを銜えて、その舌で舐めて濡らして、それから――もし勘違いでなければ、藤崎の中に入れようとしていた。
 僕はこれまで、藤崎が僕を無理矢理に犯すのを、マウンティングか何かのようなものだと捉えていた。体と心を抑えつけて自分の道具にし、酷い屈辱を味わわせることで、自らの優位を示しているのだと。ついでにお手軽な快楽を得られるから飽きもせずに僕を使うのだと、そう思っていた。僕にとってあれは性行為の形を取った暴力であって、それ以外の何物でもなかった。

 ついさっきここで起きたこと、起ころうとしていたことは、一体何なんだろう。
 僕は自分の身を守るためでなければペニスなんか絶対に口の中に入れようと思わないし、まして直腸の中をそれで擦られたいなどと願ったことは一度もない。だというのに藤崎は自ら進んでそれをやろうとしていた。藤崎はもしかして、今まで僕が行為の中で快楽を得ていたとでも思っていたのだろうか。いや、そんな筈はない。僕は血と涙を流し、どうかやめてくれと懇願し、日によっては嘔吐までした。全身で拒絶していた筈だ。
 実は藤崎は僕のことが好きになっていて、僕に奉仕したいと考えてあんな行動を取ったのではないか――という可能性をほんの一瞬だけ考え、すぐに否定した。万が一藤崎が『好きな子はいじめたくなる』タイプだとしても、僕がその『好きな子』である筈がない。恋愛感情なんてものを藤崎が持ち合わせているとはとても思えないし、あそこまで一方的かつ徹底的に人を苦しめ痛めつけることが愛だなんて有り得ない。
 思いつく答えはおのずと限られてくる。その中で一番正解に近そうなものは一つ――『藤崎は僕が思っていた以上のマゾヒストで、僕からの暴力をきっかけに、自分を痛めつけることを思いついた』。
 そう考え始めると、昨日から今日にかけて起こったことの大半が理解出来るような気がしてきた。藤崎の言葉を信じるなら『最初からどうにもなってない』にも関わらず襲ってきた僕に反撃しなかったこと、階段から落ちた僕を運び上げて部屋に留めようとしたこと。よく考えれば、殴ったことにも犯そうとしたことにも、藤崎は不自然なほど怒りを示していなかった。あれはそうされることを望んでいたからだとしたら?
 あまりに自分に都合が良すぎる考え方のような気がして、僕は微かに吐き気を覚えた。
我を失って無理矢理に犯そうとしていたときに感じていた、とてつもない怒りと暗い喜び。あれはどんな理由があっても肯定出来るものではないし、肯定したくなかった。
 それなのに、数分前の僕は藤崎の尻の間にある小さな穴、窄まった肛門の感触を、どうしようもなく気持ちいいと感じた。そして僕は藤崎があのまま腰を落として僕を迎え入れようとしているのが分かっていたし、藤崎が僕を欲していたのを知っていた。それでも止めようとしなかったのは、それが起こることを期待していたからだ。
 僕は一体何なんだろう。恐怖と怒りのあまり藤崎を殺そうとしたり、それで興奮して藤崎を無理矢理犯そうとしたり、逃げようとしたり、対峙しようとしたり、全てを投げ出してみたり。自分でも理解出来ない。ぐるぐると狭い円の中を回る頭で後悔して、無気力になって、自分を殺そうとして、また怖がって、快楽に流されて。行動にも感情や思考の動きにも一貫性がない。支離滅裂だ。
 つまり、僕はこういう人間なんだろうか。芯の通っていない、ぺらぺらの意思と道徳観念を持った、頭のおかしな人間。

 入口の方で、ドアが開く音がした。僕は毛布の中で体をびくつかせた。隙間から細く光が差し込む。照明を点けたのだろう。床のものを踏んで歩く音がして、ベッドがいきなり揺れた。
「お前、何してんの」
 そんな言葉が聞こえたのとほぼ同時に、毛布が僕の頭から落とされた。至近距離に藤崎の顔。眩しさに目を瞬いた後、まともに視線が合う。あんなことがあった後なのに、藤崎の顔には羞恥や後悔の色は浮かんでいなかった。明るい光の下で目の周りの痣が痛々しい。
「つか毛布取んなよ」
「ごめん」
 目を逸らしながら謝り、毛布を渡した。裸に戻ると、まるで当てつけのようなタイミングで大きなくしゃみが出る。
「服着れば?」
「……うん。取ってくる」
 立ち上がりかけた僕の手を、藤崎が掴む。心臓が跳ねた。
「どこ行くんだよ。そこにいくらでもあるだろ」
 藤崎が顎でしゃくった方向に目をやる。だが僕の服は見当たらなかった。もしかして服の塊の中に埋もれているのだろうか。そんなことを考えていると、藤崎は僕の手を離し、ベッドの近くの崩れた服の塊から何枚かを取り上げた。藤崎が今着ているのと似たスウェットの上下に、派手なイラストがプリントされたTシャツ。ぽんと軽く投げつけられた。
「……僕のじゃ――」
「お前のは洗濯中」
 そう言えば浴室から出たとき、放置していた筈の服を見掛けなかったような気がする。あのとき既に洗濯機の中に入れられていたのかもしれない。
「その……下着も?」
「全部突っ込んだ」
 藤崎はトイレの帰りに持ってきたらしい紙パックを開封した。一リットル入りのオレンジジュース。躊躇う様子ひとつ見せず口を付けてそのまま飲み始める。その口元を見ていると、何故か心臓が落ち着かなくなった。
「その辺のを拾って使えば」
「えっ……」
「は? 何だよ、汚いって? 全部洗ってんだけど。籠の中に入ってるの以外はキレーだっつーの」
 籠。おそらく、昨日僕が藤崎の服を入れた籠のことだ。それ以外の服といえば殆ど崩れた床の服の塊に違いなく、その中には藤崎が零したピザやペットボトルが載っているものもある。それでも多分、そうなる前は清潔な状態だったのだろう。
「ごめん。じゃあ……借りる」
 別に、汚いと思って声を出したわけじゃない。ただ藤崎が下着まで貸そうとしたことに驚いただけだったのだ――他人の、それも藤崎の下着を借用することに抵抗が全くないと言ったら、嘘になるが。
 一番近くにあった服の塊から、ピザソースも水も零れていない、シンプルなグリーンのボクサーパンツを取った。藤崎の視線を感じつつ足を通し、スウェットを身に纏う。下着のサイズは一緒なのに、スウェットの方は身長差のせいでぶかぶかだった。
「……あの、藤崎」
「なに」
「トイレ、使ってもいい?」
「正面にある」
「分かった」
 そろりと立ち上がって、部屋を出る。廊下をまっすぐ歩いたところにあったドアを開けると、そこは藤崎の言った通りトイレだった。
 生理的欲求を解消しながら、僕はほっと溜息を吐いた。切迫した状況から解放された上に、小さな空間に一人きりになれた。部屋にいるよりずっと落ち着ける。二人きりでいると息が詰まりそうだった。藤崎は概ね普段通りのように思えるが、服と下着の件を抜きにしても何かが違うような気がして落ち着かない。そのせいか結局いつものように下手に出てしまった。軽い自己嫌悪に陥り、片手で頭をがりがりと掻く。指先がちょうど腫れた場所に当たって痛みが走った。そうだ、そう言えば落ちたときにこの場所を打ったのだった。意識を失うほどだったのだから、強打したのか当たり所が悪かったのだろう。どうにかなっていなければいいな、と他人事のように思う。
 用を済ませてから不自然ではない程度の時間を何もせずに過ごし、水を流した。部屋に戻る途中で窓の外を覗いた。雨はまだ降り続けている。また雷が鳴り始めそうだ、と思ったところで視界の中に変化が訪れた。車だ。この家の敷地に入ってくる。運転席に座っている人物の顔までは確認出来ない――藤崎の両親だろうか? 駐車場から玄関までの道のりは、この窓からは遮蔽物に隠れて窺えなかった。それでも誰が来るのか気になって待っていると、藤崎の部屋のドアが開いた。
「お前、何突っ立ってんの?」
「……誰か帰ってきたみたいだから、見てた」
「は?」
 藤崎は眉を上げた。そんなわけないだろ、とでも言いたげに。本来ならまだ誰も帰ってこない時間帯なのかもしれない。
「どうでもいいけど、さっさと戻って来いよ」
「うん
 しかし僕がそう答えたタイミングで呼び鈴が鳴った。明らかに来訪を告げるものだ。藤崎は舌打ちし、最初の一歩を踏み出す前の僕の元に大股で近付いてくると、腕を取って荒っぽく部屋に引き摺って行った。僕をベッドに座らせてからドアを閉めるとき、もう一度呼び鈴が鳴った。藤崎はそれを完全に無視し、何事も無かったかのように僕の横へと腰を下ろした。それからまたオレンジジュースを手に取って飲み始める。一口、二口。注ぎ口から唇を離してからもパックを持ったまま黙っていたかと思うと、藤崎はそれを僕に差し出してきた。
「飲めば?」
 衝撃のあまり固まってしまった僕の胸に、藤崎はパックを押し付ける。
「返事くらいしろよ」
「うん……あ、ありがとう」
 藤崎にまともな食べ物や飲み物を嫌がらせ以外の目的で勧められたことは一度もない。藤崎は異常に飽きっぽいので、飲みかけ、食べかけのものを投げ出すことはよくある。だがそれはその辺のごみ箱かそうでないところに捨てられるだけで、僕に渡されることはなかった。
 直前に口を付けるところを見ていなければ、何か異物が混入しているのではないかと思うところだ。パックはまだそれなりの重さがあり、中身は十分入っているようだった。ここに来てからまともに水分を補給していない。喉はからからに渇いている。
 気になるのは、藤崎が何故か僕をじっと見つめていて、僕がちゃんと飲むのかどうか確かめたがっているように見えることだ。本当にただのオレンジジュースなのだろうか。それともこれを飲んだ代償に、何か法外なものを要求されるのだろうか。
 結局僕は気まずい沈黙に耐え切れず、オレンジジュースを飲んだ。甘くて優しい味。普通のオレンジジュースだ。三口だけ飲んで、藤崎に返した。
「あ……ありがとう」
「飯は?」
「え?」
「腹減ってるかって聞いてんだけど」
「減って……る」
「ふーん。出前でも取るか」
「え……えっ?」
「は? 腹減ってんだろ?」
「でも、だって……」
 そんなの、僕を気遣ってるみたいじゃないか。そう言おうとした口は動揺のあまり上手く動かず、舌は絡まってしまう。
「『だって』、なに?」
 ――僕はそのとき何故か、トイレにいるときに触れた側頭部の腫れのことを思い出した。もしかして藤崎は、殴られたことで思考と精神に何らかの異常をきたしたのではないか。
「藤崎……頭の調子は?」
「あ?」
「僕が殴ったところ、痛くない? 頭痛とか眩暈は?」
 藤崎はあからさまに表情を歪めた。
「お前さ……心底うぜーんだけど。いい加減鬱陶し過ぎ。何ともなってないって散々言ってんだろ」
「けど」
「じゃあ確かめてみろよ。その手で触ってみれば?」
 冗談、かと思った。だが藤崎はオレンジジュースのパックを置いて、僕に迫ってきた。お互い引くに引けない状況で、僕たちは見つめ合う。五秒、十秒、三十秒。例によって先に耐えられなくなったのはこちらの方で、僕は恐る恐る藤崎の頭に手を伸ばした。さらりとした感触に指先が痺れたようになる。触れたか触れてないか分からないようなタッチで、藤崎の頭部を確認していく。そうする内に片手だと時間が掛かることに気付いたので、もう一方の手も使い始めた。
 十本の指に揺らされて微かに音を立てる、一本一本が太目でしっかりとした短い髪。それと同じように真っ黒に近い色をした藤崎の目はまっすぐ僕に向けられていて、瞬きもせずにこちらを睨んでいる。はっきり言って物凄く気まずいし、とても集中出来ない。
「その、藤崎」
「は。なに」
「目、閉じてくれたら少しやりやすい……かもしれない」
 もごもごと言うと、藤崎は素直に目を閉じた。大きな目が瞼の下に隠れたことで、少し気持ちが落ち着いた。僕は余計なことを頭から追い出して膝立ちになり、そっと藤崎の髪の下へと指先を滑り込ませ、さっきより入念にチェックし始めた。前頭部、頭頂、両側頭部、後頭部。前は眉上ギリギリのところまで触れてみたが、あたたかい頭皮に怪しげな腫れや凹みはない。その他素人でも分かりそうな異常は探知出来なかった。
 僕が手を下ろすと、藤崎はぱちりと目を開けた。
「で?」
「うん……どうにもなってなさそう、だけど」
「『だけど』?」
「念のため病院に」
「だから何度言わせんだよ。そんなところ死んでも行くか」
 藤崎の目にぎらりと強い光が宿る。僕は思わず息を止めてしまった。無理矢理連れて行こうとしたら殺してやる、とでも言われたようだった。
「つーかお前、俺がどっかおかしくなったって言いたいわけ?」
「そ……」
 んなことない、と続けようとした口を慌てて閉じた。藤崎は嘘に敏感だ。経験上、僕は追及されれば大抵の場合ボロを出してしまう。
「おかしくなったって言うか、いつもと違う……と思って」
 オレンジジュースのパックを見ながら言った。藤崎は僕の視線を追おうともしなかった。
「お前が言ったんだろ」
「……何を?」
 藤崎は僕の胸を掴んだ。一瞬のことで避けることも出来ない。また殴りでもするのだろうかと思っていると、藤崎は舌打ちをして僕を解放した。それからオレンジジュースのパックを取り、向いのクローゼットへと力任せに投げ付けた。鈍い音がして、中身が派手に零れる。
「俺にどうしろっていうんだよ」
 藤崎は強い力が込められたままの手で拳を作ろうとした。だがそうする寸前に、ドアの近くから籠った電子音が聞こえた。聞き覚えのあるメロディ。藤崎は手を下ろし、荒い息を吐いてから鞄を取った。鳴り続ける携帯の画面を確認し、眉間に皺を寄せて電話に出る。
「はい」
 素っ気ない声だった。ということは、電話の主はクラスメイト以外の人物だ。
「は、今? 何でですか?」
 微かに聞こえてくる声は、女性のもののようだった。勝手に聞こえてくるだけなのに、盗み聞きしているような気分で落ち着かない。
「別にいらないんだけど……ユリコさんが自分で食べればいいんじゃないですか?」
 向こうが発している言葉は上手く聞き取れないが、藤崎の様子から判断するに軽く揉めているらしい。僕以外の相手に対し、最初からこんなに喧嘩腰の態度を取るところは滅多に見ない。二人の関係が気になりつつも、僕は部外者として席を外そうとした――しかし、ガッチリと手首を掴まれてしまった。
「分かりました。でも言っとくけど、受け取るだけだから」
 藤崎は通話を切り、携帯をスウェットのポケットに入れて立ち上がった。
「お前はここにいろよ。絶対出てくるな」
 返事は? という目で凄まれて、頷く。
「うん、分かった」
「ここに座ってろよ」
「うん」
 藤崎はその眼差しで念押しをして出て行った。ドアは閉まり切らないまま止まった。その隙間から部屋の外の音が漏れ入ってくる。廊下を足早に歩き、階段を一段飛ばしに下りていく音。
 ドアを閉めようかと思った。だが僕はそうするかわりに大きなくしゃみを一つし、それから自分の鞄へと手を伸ばして携帯を取り出した。マナーモードにしていたそれには、メールと電話の着信がそれぞれ三回ずつ。
 遠くで玄関のドアが開き、雨音と共に電話の主と同じ声が聞こえてくる。二人の話し声はよく響いた。

『朝早くにごめんね。……あら、翔太くんそれどうしたの? 大丈夫? 何かあった?』
『別に何も。ぶつけただけです。さっきチャイム鳴らしたのユリコさん?』
『そう、私。あれから一旦コンビニに寄って払いもの済ませてきたの。……ねえ、本当に大丈夫? ヨシエさんとお父さんは……知ってる?』
『知らない。それより、受け取るだけって言った筈なんですけど』
『ああ、うん、ごめんなさい。これ。ちょっと多いかもしれないけど、良かったら』
『どうも。じゃあ』
『……お昼頃にまた来ても構わない? 少し話がしたくて』
『そんな暇ないです。つーか、友達が泊まりに来てるから』
『お友達?』
『はい』
『良かったら、挨拶だけでもさせてもらえたら、嬉しいな』
『出来ない。寝てる』
『……なら、名前だけでも教えて』
『……悟。吉田悟』

 着信は全て母さんからだった。メールには、誰の家に泊まるのか、いつ帰ってくるのか、迷惑を掛けないようにしなさい、これに気付いたら連絡して、というようなことが書かれていた。不自然に思って送信済メールフォルダを確認してみると、週末は友達の家に泊まることにした、という旨のメールが母さん宛に送られていた。全く覚えがない。藤崎が勝手に僕の携帯を使ったんだろう。

『じゃあ、吉田くんによろしく。ヨシエさんにも』
『はい』
『もし何か困ったこととか、相談したいことがあったらいつでも電話してね。メールでもいいから』
『分かりました』
『じゃあ、お邪魔しました』
『さよなら』

 玄関のドアがまた開き、閉まる音がする。藤崎は外まで見送りをしなかったらしく、すぐに階段を上る足音が聞こえてきた。
 携帯を持つ手を膝に置き、ちらりと窓の外を覗く。穏やかで優しい声の訪問者を乗せたシルバーの車は、雨の中をどこか遠くへと走り去っていった。
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