5.無気力

 夜が明けて、朝が始まろうとしている。だが僕に新しい一日が訪れることはない。今日は昨日の延長線上にあり、繋がった二つの概念を切り離すための線は、心地よい夢の中で見つけてこなければいけないものだからだ。藤崎の腕の中にいる間一睡もしなかった僕は、昨日の気分を引き摺ったままでいる。
 一旦目を閉じ、息を吸い込んで、藤崎の腕から抜け出した。気付かれないように静かにやるとか、言い訳が聞くように寝惚けた顔を作って見せるとか、そういう小細工は一切しなかった。だからだろう、藤崎はすぐに小さな唸り声をあげ、眉間に皺を寄せて、僕がいた場所を無意識に手で探り始めた。僕はベッドを降りてすぐの場所に立ったまま、じっとそれを眺め、藤崎が目を覚ますのを待っていた。
「……何、してんだよ」
 すぐに目を開いた藤崎は、僕の姿を認めるや否や睨みつけてきた。起き抜けの声に力はないが、とてつもなく不機嫌になっているということは分かった。
「悟」
 普段なら名前を呼ばれるだけで僕の体は強張り、降りかかる災厄に対して準備を始め、頭は藤崎の意図を読み最悪の事態を避けることでいっぱいになる。三文字の言葉は僕のものではなく、藤崎が所有し、自由に使い、貶めるものだった。
 だが今は違う。呪いの言葉は力を失っていた。今の僕には不安も恐怖も焦燥もない。痛みをもって学習させられた筈の反応は起こらず、心は死んでしまったように何も感じなかった。
「聞こえてんだろ。逃げようとしたら殺すって言ったよな」
 藤崎は体を起こし、僕に手を伸ばそうとした。僕は後退り、それを避ける。足が色んなものを踏みつけたが、気にならなかった。
「は? なにふざけてんの、お前」
「……もうこんなこと耐えられない。僕はもう藤崎の言うことに従う気は一切ない。これから警察に言ってこれまでのことを全部話して、藤崎のことも、僕のことも捕まえてもらう。それで終わりにしよう。今日で全部終わりにするんだ」
 淀みなく口から溢れる言葉は、まるで自分以外の誰かが体を乗っ取ってそうさせたように、まるで現実感がなかった。僕は喋りながら、藤崎の左目の痣、昨日よりも痛々しくどす黒い色に変わってしまった青痣のことを考えていた。
 藤崎は腫れた瞼の下から僕を冷たく見つめ、ゆっくりと立ち上がった。僕は藤崎の目をまっすぐに見返し、今度は一歩も動かずに藤崎を待っていた。ほっそりとした外見からは想像も出来ない強さを持った手が、僕の首に伸ばされる。片手でぐっと掴まれ、その勢いのままベッドの反対側にあるクローゼットの扉に押し付けられた。
「もう一回言ってみろ。何を、どうするって?」
 低い声。藤崎は喉仏を握り潰す勢いで僕の首を痛めつける。僕の顔に苦悶の表情が浮かぶと、その手はぱっと離された。藤崎は俯いて咳き込む僕の髪を荒っぽく掴み、睨んで、質問の答えを求めた。僕はただ首を横に振った――すると、腹部に強い衝撃が走った。思い切り蹴られた。続けざまにもう一発。内臓が揺れ、吐き気を催し、息苦しくなる。倒れ込んだ僕に、藤崎はすぐさま馬乗りになった。今度は両手が首に絡む。
「なあ……お前、頭悪いから自分の立場忘れちまったんだよな? もう一回ちゃんと教えてやろうか、悟」
 指にはまだ力が入っていない。藤崎は指先で僕の首を撫でる。謝罪、あるいは懇願と悲鳴を促しているのだ。
「……僕はもう、お前の玩具じゃない。何を言われても、何をされても、僕はもうこれ以上お前みたいな頭のおかしいやつの言いなりには」
 最後まで口にする前に、喉がぐっと締め付けられた。僕は喘ぎ、無意識に体をばたつかせて藤崎を押し退けようとする。だが藤崎は手のひらに、指先に、僕を押さえつける足に更なる力を加え、殺意が漲る大きな目を見開いて喉を圧迫し体重を掛けてくる。どうかすれば骨が折れてしまいそうなほどの力。爪を立てられた場所に鋭い痛みが走り、息苦しさに涙が滲む。苦しい。耐えられないほど苦しい。僕の中に残っていた僅かな生への欲求が暴れ回り、増幅し、持てる力全てを使って抵抗しろと告げる。だがもう誰かに助けてくれと叫ぶことも出来なかったし、出来たとしても――僕はそうしたくなかった。
 目が霞み、意識が薄れ始めた頃。ふっと喉を圧迫していた力が消え、体に圧し掛かっていた重みが消えた。肺にどっと空気が流れ込み、次の瞬間には激しい咳の発作に襲われる。さっきの比じゃない。僕は口から涎を垂らしながら必死に息を吸い込んでは吐いた。視界はぐらぐらと歪んで、頭痛までする。
「――自分は人殺しになりたくないだとか何とか言っておきながら……」
 藤崎の声。どこからだろう。僕は顔を上げた。
「これかよ」
 こちらを見下ろす目にはもう、怒りも興奮も見えない。藤崎は屈み込んで顔を近付けた。
「ふじ、さき……」
「俺を使って自分を殺そうとしたんだろ。最低だな。この、人、殺、し」
 あ、と僕の口から情けない声が漏れる。あああ、あああ。僕は意味をなさない声を上げ始めた。頭を抱えて首を横に振り、後退って、日陰の虫のように体を小さくする。視界がぼやけ、涙が溢れる。僕は顔を両手で覆ってそれを止めようとしたが、どうすることも出来なかった。耳障りな声を上げて、小さな子どものように泣き喚く。
 そう、藤崎の言う通りだった。僕は藤崎を死刑執行人に仕立てあげようとしたのだ。人に人を、殺させようとした。無価値な自分を見限り、疎んじて、藤崎に始末させようとしていた。そうだ。僕はただ自分の攻撃性を、憎悪を、絶望を、藤崎にではなく自分自身へと向けただけだった。涙が次から次に頬に流れ、鼻が詰まり、息苦しさで喘ぎながら声を上げ続ける、死んでしまいたい、あの窓から飛び降りてしまいたい、こんな情けない人間として生き続けていたくない、こんなことになったのは全部藤崎のせいだ、違う、僕のせいだ、自業自得なんだ、やっぱり藤崎があのまま殺してくれたらよかったのに、今からでもいい、殺してほしい、そんな考えが頭の中に溢れてはシャボン玉のように弾けて消える。どうしようもなく自分が恥ずかしくて、哀れで、苛立たしくて、僕はただ泣き続けた。

 どれくらい時間が経ったのか、僕には分からない。声がすっかり涸れてしまった頃、飽きもせず流れ続けていた涙はやっと止まろうとしていた。僕を取り囲んでいた世界がぼんやりと姿を現し、その中に藤崎の姿が浮かび上がる。僕がそれを認めて暫くすると、ベッドに腰掛けてこちらを向いていた藤崎は立ち上がり、歩み寄ってきた。その顔には微かな不快感を含んだ笑みが浮かんでいる。
「きたねー顔。不細工すぎ」
 涙はまだ完全に止まっていなかった。罵られたことで刺激を受けたせいか、また溢れ出してしまった。舌打ちが聞こえ、苛立たしげな溜息が聞こえて、それから藤崎は僕の手首を掴んだ。ぐっと手を引かれ、ふらふらと立ち上がる。抵抗する気力はなかった。僕は空っぽだった。
 藤崎は僕の手首を掴んだまま部屋を出た。静まり返った廊下に、啜り泣きと足音だけが響く。階段を降り、キッチンに続くドアとは反対側にある引き戸を開けて入った先は、どうやら脱衣所のようだった。藤崎はそこでやっと僕の手首を離し、かわりにシャツのボタンへと指を掛けた。藤崎のじゃない――汗や涙で汚れてくしゃくしゃになった僕のシャツの、だ。藤崎は無抵抗の僕からそれを剥ぎ取り、その下に着ていた無地のTシャツも取り去った。それからベルトを、制服のスラックスを、下着を脱がせて、靴下まで奪い取って、僕を裸にしてしまう。そんなことをされても別に何とも思わなかった。上から下まで見られて貧相な体だと嘲笑われたこともあるし、真っ裸で暗い夜道を歩かされたこともある。
 脱衣所の傍にあるのは浴室だ。藤崎はその扉を開けて僕を中に押し込んだ。浴室は寒々としている。浴槽に湯は溜められていない。何をするんだろうと考えていると、藤崎はシャワーヘッドを掴んで取り上げ、いきなり僕の顔に水を掛けた。
「わっ……!」
 氷のように冷たい水は麻痺していた僕の感覚を目覚めさせる。しつこく流れ続けていた涙はぴたりと止まってしまった。
「つめ、冷たい」
 藤崎は顔を背け逃げようとする僕の腕を掴み、シャワーの水を掛け続ける。僕を凍えさせるためにそうしていたのかと思ったが、水はすぐにお湯へと変わり、ちょうどいい温かさになった。
「あとは自分で洗えよ。俺のは右だから」
 藤崎は僕の手にシャワーヘッドを押し付け、そう言って浴室を出ていった。残された僕は閉まった扉を呆然と見つめ、暫くの間お湯を垂れ流すままにしていたが、せめてそれを止めるか使うかは決めなくてはならないと気付いた。今の僕には難しいことを考える脳はなく、藤崎が言った通りに従うことにした。その方が楽だった。
 立っているのが辛かったので椅子に座り、ゆっくり髪と体を洗い始める。『俺のは右』の意味を正確に読み取るだけの気力もなく、三つに分けられたボディーソープやシャンプーのセットの中から、一番右にあったものを選んで使った。明らかに男用だったし、『使うな』の意味だったしても別にいいかと思った。しかし体を洗うタオルを借用するにはやや抵抗を覚えたので、手で何とかした。
 泡も汚れも涙も洗い流し、お湯を止めてしまうと、やることが無くなってしまった。僕は座ったまま辺りをゆっくりと見回し、自分の右横にある鏡に気付いた。曇り止めを使っているのか、オレンジ色の照明が点けられた浴室をはっきりと映していた。綺麗に磨かれたタイル、水滴と湯気がそこかしこに見える。その中にいる人間が一体誰なのか、僕は少しの間気付かなかった。僕は自分の姿をすっかり忘れていた。
 涙のせいで腫れた瞼、力のない目、落ちた肩、首には指の跡。それでも変わり果てた姿、というほど酷いわけじゃない。シャワーを浴びた直後だというのに顔色が酷く、まるで雨の中に打ち捨てられ死を待つばかりの犬のような奴でも、そう、確かに僕だった。濡れて力をなくした当たり障りのない髪型も、右頬に三つある薄い黒子も、瞼が腫れているせいで分かり辛いが左目だけ二重になった目も、それが僕であると告げていた。
 だけどこいつは本当に僕なんだろうか。今日までの僕はどんな顔をしていただろう。平凡で目立たない、何ということもない顔だったような気がするが、どんな顔が鏡に映っていたとしても、僕は首を傾げたに違いなかった。
 ぼんやりと鏡の中の自分と見つめ合っていると、浴室の扉が開いた。
「いつまでやってんの。女かよ」
 藤崎は僕を立ち上がらせ、脱衣所まで引っ張って行った。バスタオルで雑に拭われる。水分を拭き取っているというより、お湯でふやけた皮膚を剥がしにかかっている、と表現した方が正しいようなやり方だ。実際僕の体積は少し減ったと思う。
「藤崎、痛い」
 文句を口にすると、藤崎はじゃあもういいとでも言いたげにバスタオルを投げ捨てた。手首を掴まれ、裸のまま引っ張られて、来た道を戻っていく。寒さに震えながら廊下の窓を見た。夜中に上がった雨がまた降り出していた。まだ小降りだが、これから強くなるかもしれない。
 酷く散らかった部屋に入ってすぐ、藤崎は僕をベッドの方に突き飛ばした。それから僕を仰向けにし、その上に馬乗りになる。もう驚きはしない。
「お前さ、死にたいんだろ」
「うん」
 今の僕は生きたいとも死にたいとも思っていなかったが、何となくそう答えた。
「じゃあ、どうせいらないんだったら俺に寄越せよ」
「何を?」
「全部」
 こんなの貰ってどうするんだ、というのが最初に頭の中に浮かんだ感想だった。
「わざわざ人間を使わなくても、サンドバッグが欲しいならそれを買えばいいのに」
 そう言ってから、サンドバッグには穴が付いていないことを思い出した。だがそれでも、僕みたいなパッとしない男を使うより、そういう玩具か何かを使う方がましだろう。同じようなことが頭に浮かんだのか、それとも別のことを考えているのか、藤崎は黙っていた。
「今までのことを続けたいなら藤崎の好きにしてくれていいよ。でも僕、自分でも何するか分かんないから。カッとなって藤崎のことをナイフで刺し殺すかもしれないし、明日学校の屋上から飛び降りるかもしれない。それでも良かったら、殴るなり犯すなり、好きにすればいい」
 挑発と取られてもおかしくない、投げやりな言い方で忠告する。僕は藤崎ではなく壁の穴を見ながら話していた。この無気力な態度の代償に、あの穴が僕の体に開けられるのだとしても別に構わなかった。
「……じゃあ俺はどうすればいいんだよ」
 何だか途方に暮れたような声だった。そんな弱々しい声を藤崎が出すところを聞いたことは、今まで一度たりともなかった。思わず仰ぎ見ると、藤崎は頼りなげに眉を寄せ、まるで小さな子どものように瞳を揺らしていた。迷子になって親を探している子ども、置いてきぼりにされて泣くのを堪えている子どもの目。あるいは、ただ目の錯覚でそう見えただけかもしれない。瞬きをしてもう一度見た時には、藤崎はただの不機嫌そうな少年に戻っていた。
「藤さ……」
「今までのことじゃなかったらいいんだろ」
「え?」
 制止する暇もなかった。藤崎は僕の股間に手を伸ばし、それを――粗末で不格好だと嘲笑ったこともあるそれを、ぐっと掴んだ。
「いっ……」
 握り潰されるかと思うほどの力。本能的な恐怖を覚えて藤崎の腕を押した。
「な、何するんだよ」
 藤崎は僕を無視して手を動かし始めた。まだ何の反応も示していないペニスをそんな力で擦られても、気持ちいいどころか苦痛と恐怖しか生まれない。それが目的だとしても、他人の、それも同性の性器に素手で触れてまでやる意味はあるのだろうか。藤崎の意図が読めない。
「藤崎、痛い、痛いって!」
「好きにしていいって言ったのお前だから」
「そんな」
 ――ことをするとは思ってなかった。言い訳をしようと上体を起こした僕を、藤崎は片手で押し戻した。そして自分は後ろに下がり、頭をぐっと下げた。
「う」
 温かく濡れた感触。視線を下げて、僕は我が目を疑った。
 藤崎は僕のものを、その口に銜え込んでいた。
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