4.罪と罰

 暗闇の中に薄い光が見えた。僕はゆっくりと息を吐き、まどろみの膜を破って光の中へと浮上する。
 瞼を開けると見覚えのない天井が目に入った。ということは僕が寝ているのは自宅ではないし、教室でも、保健室でもない。首から下を覆っている、ふわりとやわらかい感触は毛布か何かだろうか。何度か瞬きをして考えているうちに、ずきりと頭が痛んだ。その部分に手を当ててみると少し腫れていた。どこかにぶつけてしまったのかもしれない。そういえば肩と手と足にも鈍い痛みがある。眠っている間に、いや、眠る前に何かが起こったことは間違いなかった。
 薄暗い部屋の中で身動ぎし、明るい方に目をやる。窓だ。遮光用の厚手のカーテンは横に留められたままで、ひびが入った透明の窓から外灯の光が部屋の中へと差し込んでいた。いつの間にか雨の降り止んだ窓の外をぼんやり見つめ、それからはっと窓枠の下、僕の隣にいる人物に気付いた。
 ――藤崎。
「あ……」
 思い出した。思い出してしまった。毛布と布団の下で温まっていた体が一気に冷える。藤崎はこちらを向き目を閉じていた。左目の周りには腫れと青痣、頬には擦り傷、唇には切れた跡が見えた。生々しい暴行の跡。僕がやったのだ。藤崎は死んだように動かない。
「ふじ、さ……藤崎……!」
 震える声で名前を呼び、布団の中で肩を掴む。どうか、どうか生きていてほしいと思った。これまで数えきれないほど何度も僕の前からいなくなってくれと願ったのに、今は、僕が持っている何と引き換えでも藤崎を生かしてくれと神に懇願していた。どうか生きていてほしい。死んでいてほしくない。藤崎が生きていてくれるのなら、そして僕が人殺しにならずに済むのなら、僕は死んだっていい。
「藤崎、何でも……何でもするから、お願いだから、目を覚まして……! 藤崎……!」
 そう叫んだ瞬間、藤崎は小さく唸り声を上げた。驚いた僕が肩から手を離すと、不快そうに眉を歪めて目を開き、しっかりと僕を捉える。
「う、る、さい、んだよ、人が寝てんのにうぜえ声出すな」
「……ご、ごめん……」
 藤崎は舌打ちをして窓側に体を向けてしまった。僕は茫然とその後頭部を見つめ、それから我に返って上体を起こした。
「藤崎、怪我は……? 病院に行かないと」
「は? 何で」
「何でって……僕が藤崎にあんな……あんな酷いことをしたのに」
 殺してはいなかった。だが僕は藤崎を気絶させるほど殴り倒したのだ。布団に着いた僕の手、指の付け根に近い盛り上がった骨の部分は傷付き、痛みを発している。殴られた方はもっと痛かった筈だ。
 藤崎は振り返り、僕を見返した。その目に怒りはなく、憎悪もなかった。反逆を企てそれを実行した僕に対し、何か仕置きをしてやろう、報いを受けさせよう、といった考えを抱いているようには見えなかった。藤崎はまるで、生まれて初めて目にする奇妙な生き物を前にしたときのように、不思議そうな目つきでこちらを見ていた。
「……だから?」
 その声に皮肉っぽい響きは感じられなかった。やはり怒ってもいないようだった。それはかえって僕の罪悪感と不安を増幅させ、事態が悪い方向に向かっているのかもしれないと思わせた。もし深刻なダメージを負っているのだとすれば、この態度のおかしさも頷ける。眠っていたのは動けなかったからだろう。でもなければ、あんなことをしてきた相手の隣で無防備な姿を晒せるわけがない。
「何、したのか……あんまり覚えてないんだ。頭とか、お腹とか殴ってたら……大変なことになる」
 そこまで言ってから、僕は気を失う前にやろうとしていたことを思い出した。救急車。そうだ、救急車を呼ばなければいけない。ゆっくり会話している暇なんかなかった。ベッドから降りて立ち上がろうとした僕は、すぐにベッドの上へと逆戻りした。藤崎が僕の腕を掴んでいる。
「な……」
「どこに行くんだよ」
 ぎり、と腕に力を込められた。その力はぎょっとするほど強く、弱っている人間のものとはとても思えない。戸惑い、恐怖を覚えながらも、僕は微かに安堵していた。
「藤崎、救急車を呼ばないと」
「いらねーよ。ここにいろって」
「携帯、取るだけだから……逃げたりしない。ただ救急車を」
「だからいらないって言ってんだろ」
 藤崎の声と腕を掴む手には明らかに怒りが滲んでいて、思わず怯んでしまった。腫れた瞼の下の目は僕を睨んでいる。
「ごめん」
 反射的に謝ってしまったが、僕はそれでも藤崎を病院に連れていくべきだと思っていた。そのときは大丈夫そうに見えても、時間が経ってから状態が悪化し、死に至ることがあると聞いたことがある。そうなってしまったら後悔してもしきれない。
「けど、藤崎……」
 何とか説得しようとした僕に、藤崎が飛び掛かった。藤崎は僕の体に馬乗りになって両の手首を掴み、ベッドに押し付ける。
「『何でもするから』って言ったよな?」
 そういえばそんなことを口走った気がする。いいや、確かに言った。そしてその願いは聞き届けられた。
「……言った」
「だよな。じゃあさっきの続きでもしてくれよ。今から」
 僕を見下ろす藤崎の顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいる。『さっきの続き』――それが何を指すのかは明白だった。中断した行為のことを言っているのだ。僕の中であのときの恐怖が蘇り、微かに吐き気を催した。痛みはまだ残っているし、傷口は間違いなくまだ塞がっていない。だがそれ以上に気に掛かることがあった。
「でも藤崎……体は?」
 そう訊ねると、藤崎はまだ言うのかと呆れたように舌打ちした。
「……お前さあ、お前の力で俺がどうにかなるってマジで思ってんの? 逃げ出して階段から落ちた挙句に頭打って気絶した間抜けはお前だろ」
 藤崎は片手を解放し、代わりに僕の頭へと手を伸ばした。髪の中に指を差し込み、僕の表情で確かめながらその箇所を探り当てた。ぐっと力を加えられて痛みが強くなる。藤崎は僕を嘲笑った。
「死ぬとしたらお前の方。病院に行って手当を受けたいのもお前だろ?」
「違う」
「何がどう違うって? 逃げようとしてたくせに気遣う振りなんて、もっと上手くやれよ。俺に嘘吐くなって何度言った? 物覚え悪いよな、悟は」
「確かに逃げたけど……ここに……戻ろうとしてたんだよ」
 嘘を吐くなと言いたげに爪を立てられた。それも手首と頭、両方にだ。
「嘘じゃ……ない」
「証拠は?」
「ない。……でも、僕は……藤崎を気遣ってるわけじゃない。自分のためだよ。全部自分のため。……人殺しには、なりたくないから」
 そう口にするのは辛かった。僕は心優しい善良な人間などではなく、ただ人殺しになりたくないだけの卑怯者だった。あんなことをしておきながら、僕は自分の心配をしている。
「ああそう。病院に行ったら、お前にやられたってバラすけど? それでもお前のためになるって?」
「……なるよ。バラされても構わない。好きにしてくれていい」
 そう言うと、藤崎は暫くの間沈黙していた。部屋に訪れた静寂はしんと冷たく、一滴の温かさもなく、僕は藤崎に裁かれているのだと感じた。藤崎は藤崎の法で僕という存在を量っている。
 被告人として判決が下されるのを待つ間、僕の思考は彷徨い、混乱し、そしてふと藤崎がスウェットに着替えていることに気付いた。部屋を出る前は制服のままだった筈だ。ということは着替える余裕があったということだ。あれから何時間が経ったのだろう。窓の外の様子からはとっくに夜だということしか分からない。藤崎はすぐに立ち上がって、着替えを済ませ――いや、その前にシャワーを浴びたのかもしれない。藤崎の髪は少し湿っているように見える。よろよろと浴室に向かう藤崎を想像していると、僕の中に疑問が二つ浮かび上がった――そのとき僕はどこでどうしていたんだ? 階段から落ちた筈の僕が何故今、ここにいる? 
 答えを見つける寸前に、藤崎が息を吸い込む音で我に返った。
「……お前の事情なんか知るか。朝が来るまで俺もお前もここにいる。どこにも行かない。どこにもだ」
 藤崎はそう呟くように言って、僕の上から退いた。さっきと同じように僕の隣に横たわり、くしゃくしゃになっていた毛布と布団を引き上げる。そのまま瞼を閉じかけて、藤崎は気を変えた。目をぱちりと開き、まっすぐに僕を見つめる。
「勘違いしてるみたいだから言っとくけど、俺は最初からどうにもなってないから。お前がどうやるのか見てただけ」
 それは一体どういう意味なのか、藤崎はどういう意図からそんなことをしたのか。尋ねようとした僕を、藤崎はぐっと引き寄せる。僕の顔は藤崎の薄っぺらい胸に当たった。
「逃げようとしたら殺す。どんな理由でもこの部屋から出ようとしたら殺す。これ以上グダグダ喋っても殺す。分かったか?」
「……分かった」
 動揺の中で、僕はやっと他の全ての選択肢を諦めて頷いた。僕の体を逃がすまいとする藤崎の腕の重みにはそれだけの力があった。
 夜中になっても戻らない息子を、母さんたちは心配しているだろうか。だが無断外泊など、ここで起こったことを考えると大した問題ではないように思えた。
 明日は――日付的にはもう今日かもしれないが――土曜日で学校もない。

 腕の中の僕が抵抗を全く見せないことに安心したのか、藤崎は暫くして力を抜き、寝息を立て始めた。静かで落ち着いた息遣い。未遂に終わったとはいえ一時は本気で自分を犯し殺そうとしていた人間を胸に抱いて、藤崎は眠っている。
 僕は目を開けたまま藤崎の清潔な香りを嗅ぎ、呼吸と共に上下する胸の動きを感じ、心臓の鼓動に耳を澄ませた。とく、とく、とく、と規則正しい音を刻んで動く心臓は健康そのもので、そこには何の危険も迫っていないように思えた。穏やかで落ち着いた鼓動をその胸に響かせている藤崎は、明日もきっと生きている。
 そして、これまでも生きてきたのだ。昨日も一昨日も、僕たちが初めて出会うより以前も、一人の人間として生きてきたのだ。あたりまえに息をし、体温を持ち、食事をして、何かを考えて、何かを求めて生きてきたのだ。僕と同じように、人間として。僕は今やっとそれを思い出した。あるいは認めた。そうするほかなかった。
 散々に踏みつけられ虐げられる中で、僕は藤崎を自分とは違う何かだと思うことで、自分に降りかかった悪夢をやり過ごしていた。藤崎は人の心を持たない悪魔、災厄そのものだ。だから僕がそんな藤崎を振り払うことが出来ないのも、受ける苦痛を減らそうと不格好に媚びを売ってしまうのも、やむをえずにやっていることなのだ。藤崎は普通の人間じゃない、異常性の塊としかいいようがない生き物なのだから、僕がこんなに情けない姿を晒しているのは仕方のないことなのだ……。自分を擁護するために藤崎を形容していた心無い言葉が、今の僕に重く圧し掛かる。殺してしまっていなかったことが何だというのだ。殺そうとしたこと、犯そうとしたこと、怒りに任せて殴ったことは変わらない。今の僕はこれまでの僕を虐げていた藤崎だった。まともではなく、明らかに異常で、その内心を想像するのも恐ろしい生き物だった。藤崎を殴っていたときに感じていたのは、御しがたい怒り、心の奥底から湧き出してくるような憎悪、激しい殺意。そして自分は今とてつもない力を持ち、それを行使しているのだという実感を伴った歓喜。ああ、僕は悪魔だ。自分と同じような姿をした誰かを殺すことが出来るケダモノだ――そんな考えには耐えられなかった。だから僕は藤崎を同じ人間だと認めることで、自分もまだかろうじて人間の枠に留まっていると思えるようにした。僕は今ここで眠っている藤崎と同じ、欠陥を抱えた一人の人間だ。
 
 だが何十分、何時間が過ぎても、僕は眠りに就くことが出来なかった。思考の中で何度自分を救っても、救われたと思っても、起こったことが変わるわけじゃない。僕は自分が罪のない被害者から加害者の側へと転じたことを覚えていた。僕の中で何が起こったのか覚えていた。自分が藤崎を殴り、犯そうとしていたことを知っていた。そうすることで自分が快楽を得たことを知っていた。僕は罪を犯した。死の危険を感じたからだとはいえ、僕は自分の中で息を潜め出番を待っていた強い暴力性、壁に穿たれた穴のように虚ろで邪悪な臭いがする感情を肯定することは出来なかった。
 どうしようもなく、藤崎に罰されたいと思った。次の瞬間に藤崎が目を覚まし、僕の首に両手を掛け、強く力を込めることを期待した。藤崎に睨まれ、蔑まれ、当然の報いだと言われながら、激しい苦痛を味わわされながら死にたかった。誰でもいい、出来れば藤崎の手で殺されたい、どうか今すぐ僕を殺してほしい、死にたい、死にたい、もう生きていたくない。そんな考えに支配されていく。藤崎の肉体の温かさが、人間らしさが僕を打ちのめし、ぼろぼろに砕いて、価値のない矮小な存在へと変える。僕は人間だ。でも生きている価値がない。僕は正しくなくなった。今や寄る辺を見失い、見せかけの魅力もなく、自分自身へと与えていたまともな人間としての地位も手放してしまった。僕は無価値だ。
 
 僕は明け方近くになって判決を下した。藤崎の代わりに、僕自身へと。
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