3.暗転

 微かに濡れた制服のジャケットと鞄が、荒っぽくフローリングの床に投げ出される。藤崎はそのまま靴下を脱ぎ捨て、ベルトも放った。まさか玄関でするつもりなのかと不安に思ったが、幸いなことにそれは杞憂に終わった。
「何ぼーっとしてんだよ」
 振り返った藤崎の目に、僕の腕を掴んだときの光は既になかった。声音に滲むのは怒りというよりも単純な疑問のようで、僕は自分がぼんやりと立ち竦んでいたことに気付いた。それも腕を解放されたときの位置のまま、逃げ出そうともせずに。
「それ、よろしく」
 藤崎は投げ捨てたものを指差して廊下を歩き出した。『よろしく』。初めて訪れた場所で一体どうしろというのだろう。さっさとどこかの部屋に入ってしまった藤崎に尋ねることも出来ず、僕は「お邪魔します」と小さな声で言い、恐る恐る靴を脱いで頼まれたものを拾い上げた。それからスリッパ立てをちらりと見て少しの間考え、勝手に使うのはよくないだろうと判断し、靴下のまま藤崎の後を追った。
 開いたままのドアから覗いてみると、藤崎は冷蔵庫のドアを開けているところだった。中の様子がちらりと見える。賞味期限切れのものがごろごろしているうちの冷蔵庫と違い、綺麗に整頓されているようだった。藤崎は中のものをいくつか取って冷蔵庫を閉めた。
「上」
 藤崎はそれだけ言って僕の横を通り過ぎる。今度はどうするのか分かった。藤崎の部屋はおそらく二階にあるのだ。間隔を保ちつつ後ろに続き、廊下と同じく埃一つない綺麗な階段を上っていく。微かに軋む緩やかな階段から二階へ入ると、廊下は少し埃っぽい感じがした。何となく肌寒さを覚えて身を竦める。人感センサー付きらしい照明は奥の方が切れていて先に行くほど薄暗い。確かに藤崎の言った通り家族は不在のようで、人の気配は全くなかった。外の雨と相まって、ホラー映画のワンシーンのようにどこか緊張を誘う静けさだ。
 廊下の突き当りを右に行くと、少し奥まったところに一部屋あった。その部屋の前はあまり掃除をしていないのか通り道以外は白っぽく汚れている。藤崎が迷いなくその部屋のドアを開けて中に入ったので、僕は靴下を汚さないよう先人の足跡を辿って進んだ。
 藤崎のものらしいその部屋は――控えめに表現するなら、あまり片付いていなかった。漫画本、教科書、参考書、何種類かのゲーム機、ゲームソフトのケース、くしゃくしゃに丸まった服の塊、そういったものが床やベッドや机の上に散らばっている。この部屋の方が僕の部屋より一回り大きいのに、何となく手狭に感じられる程だった。だが見た目に反して臭いは殆どしない。それはおそらく左手にある窓が開け放られていたからで、風と一緒に入り込んだ雨粒は明らかにベッドを濡らし始めていた。あと十分遅ければ水浸しになっていたかもしれない。
「ハンガーはその辺のどっか。靴下は籠の中」
 窓を閉めながら藤崎が言った。僕は自分が藤崎の荷物を運んでいたことを思い出し、落ち着かない気持ちで視線を落とした。指定されなかった鞄は空いた場所に置き、入口のすぐ横にあった籠の中に靴下をそっと入れ、その近くに落ちていたハンガーを拾って制服のジャケットを掛ける。フックはどこにあるのだろうと壁を見渡し、僕はぎょっとした。ドアの右手の壁に大きな穴が開いている。拳くらいの大きさだろうか。それが二つ。フックにハンガーを掛けながら、これは間違いなく藤崎が穿ったものだと直観した。虚ろな穴には激しい怒りの痕跡が感じられ、背筋がぞっと冷たくなる。振り返って部屋を見渡してみれば、他にもいくつか同じような穴が目に入った。幸いなことに僕はまだ病院送りにはなっていないから、壁に穴を開けるほどの力で殴られたことはないのだろうと思う。それはただ藤崎が加減していただけなのか、それともこの家の中だと藤崎の怒りの衝動は増幅されて現れるということなのか、どちらにしても僕は藤崎のことがこれまでよりずっと恐ろしくなった。
 藤崎は立ったままの僕を無視してベッドに寝転がり、冷蔵庫から持ってきたお茶を飲み始めた。無言の数十秒が過ぎ、藤崎はペットボトルの蓋を締めてベッドの傍に放った。それはゲーム機に繋がったコントローラーに当たって派手に音を立てる。びくりと体を震わせた僕に、藤崎は顔を向けた。
「つーか、いつまで突っ立ってんだよ」
 座っていいとは言われていない。もし言われていたとしても、腰を下ろせそうな場所は藤崎の足元あたりぐらいしかなく、そこには出来れば座りたくなかった。
「モノを適当に寄せるくらいお前でも出来るだろ」
「……どのあたりだったら、いい?」
「自分で考えれば」
 辺りを見回して思案し、ベッドの傍にあった僅かなスペースを広げることにした。藤崎の足が向けられている方に近いため、急に手を伸ばされることはないだろうという打算もあった。積まれていた漫画本をそっと脇に寄せて腰を下ろし、鞄を脇に置く。漫画本は最近購入したものなのか真新しく綺麗で、床もよく見ればそう汚れていなかったが、ひんやりと冷たかった。
 藤崎は特に文句も言わずにゲーム機の一つを起動し、奥にある大型テレビの電源を入れ、代わりに照明を消した。テレビはうちのリビングにあるものより一回り大きく、薄暗くなった部屋をぼんやりと明るくする。画面に現れたのは英語のタイトルだった。しかし藤崎がコントローラーのボタンを連打してさっさと飛ばしてしまったため、どう読むのかも分からないまま先に進んでいく。タイトルの次に表示されたのは長々しい英語の文章、それも連打、連打で飛ばされ、何かの選択画面に辿り着いた。藤崎は素早く一つを選択し、僅かなロード時間の後に迷彩服姿の男を操作し始めた。どうやら男がいるのは廃墟ビルの広い一室らしい。細部まで作り込まれた建物や人のグラフィックはまるで映画のようにリアルだ。おそらく海外メーカーのアクションゲームだろう。そのうちレベル上げやアイテム集めでもやらされるのかもしれないと画面を注視する僕の存在を完全に無視し、藤崎は延々と男を歩き回らせ、たまに画面下のゲージを回復したり物を拾ったりしていた。
 次第に、自分は一体何のためにここにいるのだろう、という疑問が湧いてくる。こういう風にだらだらと共に時を過ごすことが全くなかったわけじゃない。だが藤崎の家に連れ込まれたのはこれが初めてだ。前日の予報から今日の午後は強い雨が降ると分かっていたこと、更に藤崎の家族が不在だということには何か理由がある筈だった。そう、例えば悲鳴を聞かれる心配がないだとか、人体を痛めつける道具を自由に使えるだとか、そういう理由が。

 アクションを起こされないせいで高まっていく不安と恐怖に怯えながら膝を抱えていると、ふいに画面の中で大きな変化が起こった。
 赤いマークが画面いっぱいに点滅表示され、それが消えたかと思うと不安を煽るような音が鳴り始める。ゲームの中の男は銃を構えて柱の陰に隠れた。画面奥ではドアが揺れている。誰かが蹴破って中に入ろうとしているのだろうか。廃墟の錆びたドアの向こうからは苛立たしげな唸りが聞こえる。藤崎が操作キャラクターの位置を細かく調整し襲撃に備えてから殆ど間を置かず、ドアが派手な音と共にひしゃげて跳んだ。
 砂埃の中から姿を現したのは異形の大男――人間がベースになってはいるようだが、その容姿は明らかに人の域を外れている。紫色の手には巨大な斧が握られていて、刃の部分には血液らしきものが付着していた。大男がそれを掲げて野太い咆哮を発すると、藤崎はコントローラーを激しく操作し始めた。激しい銃声が響いて大男の胸が揺れる。だが倒れはしない。大男は怒りの声を上げ、自身の体を穿ち続ける銃弾を物ともせずにこちらへと向かってきた。丸太のような足は重たげな音を立てて床を蹴る。しかし銃の照準はなかなか定まらず、壁や厚みのある胴体を僅かに抉るだけだった。大男は斧を振り上げ息を荒げて迫ってくる。もうだめだ、殺されてしまう。そう思った瞬間、銃弾が大男の黄ばんだ目に命中した。悲痛な声が大きな口から吐き出され、斧が投げ出される。操作キャラクターの一撃がダメージを与えたことは間違いなかった。目を押えて暴れる大男に容赦ない追撃が加えられていく。一発、二発、三発、四発。そこで弾丸が切れてしまった。その一瞬の隙に血まみれの大男が腕を大きく振り回した。
 ぐしゃりと嫌な音がして視点が切り替わる。床に転がった操作キャラクターに大男がのしかかり、カメラがその周りをぐるぐると回っているかのような映像が流れる。ゲームオーバーらしい陰鬱なメロディと骨が砕け肉が飛び散る音をBGMにした、モザイクも何もないグロテスクな惨殺シーン。脳味噌が弾けたところで僕は目を背けた。
「悟」
 名前を呼ばれてベッドの方を見ると、藤崎はコントローラーを放り出して仰向けになっていた。
「何、お前ビビってんの?」
「……だって、残酷過ぎる」
「たかがゲームじゃん」
 何をそんなに怖がる必要があるのかと不思議がっている目。後ろで見ていただけの僕の心臓はまだ早鐘を打っているというのに、プレイしていた当の本人は全く何も感じていないようだった。
「あー、腹減った。冷凍室のピザ焼いてきて」
 ごろりと体を横にして背中を丸めながら藤崎が言う。
「え……」
「は? 返事は?」
「……分かった、行ってくる」
「あと飲み物も適当に」
「うん」
 他人の家、それも初めて訪れた家の冷蔵庫を漁ることには強い抵抗を覚えた。しかし藤崎の命令を拒否するわけにもいかず、僕はのろのろと立ち上がった。

 廊下の窓から外の様子を窺うと、雨はますます勢いを増して辺りを白っぽく染めていた。一時間二時間ではとても降りやみそうにない。鞄の中の折り畳み傘は役に立たなそうだ。だからといって藤崎は快く傘を貸してくれるような優しい人間ではないし、凶器に転用し易そうな傘という物体の形状を考えれば、藤崎にはその存在を出来る限り意識させたくなかった。だから十中八九、濡れて帰ることになる。あまり遅くならなきゃいいな、と僕はぼんやりと思った。
 来た道を辿って一階に下りるまで、やはり藤崎の部屋以外からは人の気配を感じなかった。『誰も帰ってこない』という言葉を信じるなら、藤崎の両親は旅行か何かに出掛けているのだろう。家の大きさからして兄弟姉妹が一人二人いてもおかしくないように思えるが、彼らの痕跡は見当たらなかった。
 キッチンに入り、流しで手を洗ってから冷凍室を開ける。ピザはすぐ見つかった。25センチサイズのミックスピザ。調理法はと裏面の記載を読んでみると、どうやら紙トレイのままレンジで加熱するだけでいいらしい。包装を破り、冷蔵庫の横にあったレンジに入れてセットする。調理の間に皿やフォークを用意することにした。皿はレンジのある棚で見つかったが、フォークは見当たらない。暫くキッチンを彷徨ってリビングの方に出る。アイランドキッチンの作業台の反対側に、それらしい引き出しが三つあった。逡巡の後に最初の引き出しを開けて、思わずぎょっとした。
 中に入っていたのは『神のみことば』『信者のくらし』と題された白い表紙の本二冊と、何かよくわからない字と模様が墨で書かれたお札の束だった。他にも宗教的なにおいを感じさせるもの、呪文が刻まれた小さな瓶や木彫りの不気味な人形が奥に覗いていたが、僕はそれらをしっかりと確かめることはせず、急いで引き出しを閉めた。
 フォークは隣の引き出しの中に入っていた。多分あれは見てはいけなかったものだ、とピザや皿をプラスチックのトレイに移しながら思う。少なくとも、僕があれを目にするように藤崎が仕組んだという可能性は限りなく薄い。そんな回りくどいことをする必要はないし、第一、あの藤崎が神を信じているとは考え辛い。きっと両親のものだろう。見るからに怪しげだったといっても、僕は会話をしたこともない彼らのことを詮索するつもりはなかった。全部見なかったことにしようと心に決め、冷蔵庫から取り出した炭酸飲料のボトルとトレイを持って藤崎の部屋に戻った。

 ドアを開けて中に入ると、ちょうどテレビの中で大男の体が床に倒れるところだった。今度は無事に仕留めたらしく、大男は血だまりと臓物の海に横たわったまま微動だにしない。迷彩服の操作キャラクターは大男の体を探り始め、何かアイテムらしきものを容赦なく奪い取っていく。死体が立てる生々しい音と無駄に作り込まれた映像はやはり悪趣味で、勝っても負けても残虐なシーンが流されるのは変わりないんだな、と思いながらベッドに近付いた。
「……藤崎。ピザ、焼けたよ」
「飲み物は?」
「持ってきた」
「キャップ開けて」
 トレイをどこに置くべきか迷って、藤崎の傍に置いた。指示された通りキャップを開ける。プシュッと小気味よい音が響き、ボトルの中で泡が弾けていく。藤崎がコントローラーを置くのを待ってから手渡した。藤崎はそれを二口飲み、ピザを手で取って食べ始めた。念のためにと持ってきたフォークと皿を使う様子はない。何となく後ろめたい気持ちになる。
 藤崎は元の位置に腰を下ろした僕に咀嚼しながら顔を向け、じっとこちらを観察し始めた。二人のとき、藤崎は僕をたまにそんな目で見る。今朝もそうだった。気まずく感じるのはいつも僕の方だけで、藤崎はその不躾な眼差しだけで僕の精神力を削ってくる。くっきりとした二重の下の目が親愛や共感の念を伝えてくることは一切なく、邪悪な光を湛えているとき以外では、その黒目がちの大きな目には底知れぬ闇が巣食っているように見えた。
「悟」
「……なに?」
「お前、このゲームする?」
 友人が友人に親切心から勧めているわけじゃない。『この』というのは今も起動したままのグロテスクなゲームのことを言っているに違いなく、つまり嫌がらせだ。
「……藤崎がやってるのを見てるだけで十分だよ」
 しない、やりたくないと答えるよりはましな結果を期待して笑顔を作る。唇の端が引き攣っているのが自分でも分かった。
「ふーん? ま、お前下手そうだもんな」
「自分で言うのもなんだけど、本当に下手だと思う」
 藤崎は鼻で笑い、ピザをもう一切れ取った。それから何を思ったか、取ったピザを元の場所に戻して上のサラミを指で取り、体を起こして僕の方へと向けた。口の前にサラミを差し出され、無言の内に促されて口を開ける。舌の上に載せられたサラミを躊躇いながら何度か噛み、飲み込む。
「どんな感じ? 美味い?」
 空腹だが食欲は失せている状態で、その味はあまりよく分からなかった。曖昧に首を傾げる。
「飲み込んだ?」
「うん」
「証拠は?」
 口を開けてみせると、藤崎はまたも僕に手を伸ばした。今度は何も持っていない指。それは僕の咥内に入り込み、思わず後退した舌を掴んだ。心臓が跳ねる。一体何をされるのかと怯える僕の顔を藤崎は見つめ続け、唾液が溢れ出しそうになったところで舌を解放した。
「間抜け面。バカみてぇ」
 冷たい声音で藤崎は言い、その顔に形だけの笑みを浮かべた。悪い兆候だ。
「なぁ、こっち来いよ」
 藤崎がベッドの上のものを荒く払ったために、まだ何ピースも残っていたピザや蓋が開いたままのペットボトル二本が床に転がり落ちた。それに気を取られた隙に腕を掴まれて引き寄せられる。藤崎は僕を俯せにして前に手を回すと素早くベルトを外し、下着ごとスラックスを下ろして僕の尻を露出させた。
「藤崎!」
 僕は慌ててスラックスのポケットからハンドクリームを取り出した。だが藤崎はそれを無視してカチャカチャと自身のベルトを外し、殆ど僕の尻に股間を押し付けるようにしながら既に勃起したペニスを下着の中から引き出した。
「藤崎、頼むから、本当に、お願いだから……!」
 尻がぐっと開かれ、ペニスの先端が肛門に押し付けられる感触がして戦慄する。
 普段なら、舌打ちをしたり面倒そうな声を出したりしながらも藤崎はハンドクリームを受け取ってくれる。滑りがなければ挿入し辛いからだ。しかし今日に限って藤崎は何の準備もなしに僕の体へと入り込もうとしている――まだ傷が完全に塞がっていないそこに凶器を押し込んで、自身の欲望を遂げるつもりだ。初めのころよくそうしていたように、唾を吐きかけたり水を引っ掛けたりして僅かながら濡らすこともせずに。僕は恐怖した。そんなことをされたらただでは済まない。傷口がただ開くだけならまだしも、そこが更に深く裂けてしまったら。
 藤崎が使ってくれないのなら自分で何とかするしかない。そう判断しキャップを取って後ろにクリームを出そうとしたが、その手は強引に払われた。その勢いでハンドクリームのチューブは僕の手の届かない場所へと落ちてしまった。藤崎は一瞬の隙を逃さなかった。
「――!」
 僕は声にならない叫びを上げ、シーツを強く握り締めた。熱した杭を体内に打ち込まれたような激痛で全身が硬直する。力を入れたせいで余計に苦痛が深まり、じわりと涙が滲む。藤崎は僕の様子に気付いているのかいないのか、なおも深くペニスを押し込むために僕の腰を掴んで体を近付けようとしている。駄目だ。こんなの耐えられない。
「ふじ、藤崎……藤崎、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だやめて、やめてくれ……っ!」
 僕は叫びながら前進して藤崎から逃れようとする。初めて犯されたときに味わったものと同等の、もしくはそれを上回るほどの恐怖が思考を支配していた。何も知らなかったあの日とは違って、今の僕は起こり得る最悪の結果を鮮明に思い浮かべることが出来るのだ。そのイメージはグロテスクなゲームの残像と相まって激しいパニックを誘い、苦痛を増幅させる。痛い。怖い。嫌だ。どうして僕なんだ。嫌だ。ここから出たい。誰か助けてくれ。僕を押さえつけるように体重をかけ、どうやっても逃がすまいとする藤崎のことが恐ろしくて堪らなかった。痛い、苦しい、息が出来ない、体を引き裂かれる、バラバラにされる、痛めつけられる、このままじゃいつか殺される。ぐるぐると回る視界の中で、僕を犯しているこの人間は間違いなく平気な顔で人を殺すことが出来る人種だ、そう確信した。藤崎は、こいつは人の心を持たない悪魔に違いなく、良心など欠片も持ち合わせていない。そうだ、ああ、僕は今からこいつに殺される、いいや今この瞬間に殺されている、嫌だ、僕は殺される殺される殺されてしまう。
 手を伸ばして無意識に何かを掴んだ。それはベッドの端にかろうじて残っていたゲーム機のコントローラーで、無線式だった。僕の体は思考を置き去りにして動き、腕はそれを手当り次第に振り回した。呻き声。藤崎の体のどこかに当たった。続けて殴る。僕は唇を噛み締めて前へと逃れ、ぐらぐらする視界の中で振り返って正面から藤崎を殴った。頭に一発。藤崎が反射的にかその場所を押えたので、僕はコントローラーを投げ出しベッドから飛び降りた。そして部屋の外へと駈け出そうとした――だが、藤崎に手首を掴まれてしまった。逃走の方へと傾きつつあった僕の意識は、一瞬にして倍に膨れ上がった恐怖心の支配下に置かれ、静止し、次の瞬間には藤崎へと飛び掛かるよう肉体に命令を下していた。
「僕が! どんな気持ちで……どんな気持ちでお前に、お前に犯されてきたと思ってるんだ! 殺してやる! 殺される前に僕がお前を殺してやる! 僕が味わってきた痛みをお前にも味わわせてやる!」
 そのとき藤崎が抵抗したのかどうか僕には分からない。僕は藤崎を激しく殴打し続け、気付けばその上に乗っかっていた。押し倒した藤崎の上で僕は強く興奮し、激高し――そして、勃起していた。今まで藤崎といたときに性的興奮を覚えたことは一度たりともなかったし、この瞬間もそんなもの感じていなかったが、僕は今確かに固くなって上を向いたペニスを藤崎へと向けていた。藤崎がしたように尻を掴んで開き、窄まった穴にそれを押し付ける。僕は自分の中の何かに突き動かされ、野獣のように唸り声を上げ、全身に漲る原始的な感情で藤崎を犯そうとしていた。
 しかし衝動は長く続かなかった。僕は童貞で、藤崎の穴は固く閉じていた。手の届く範囲に潤滑剤となるものはなかったし、ペニスをその場所に押し付けるだけの稚拙なやり方では、滑るだけで浅く挿入することすら叶わなかった。自分がそれを果たせないことが分かると、僕の頭はバケツの水を被ったように一気に冷静さを取り戻し、爪を立てたせいで傷付いている藤崎の尻や、くしゃくしゃになったシーツに散らばっている血、そして俯せになったまま動かない藤崎を捉えた。不快な寒気が全身に広がり、口からは言葉にもならない呻きが漏れる。僕は両手で自分の頭を抱えて首を横に振った。違う。こんなことやりたかったわけじゃない。こんなこと僕はしない。僕じゃない。僕は荒い息を吐いてドアへと向かい、すぐに躓いてスラックスを引き上げ、ドアの外へと飛び出した。無我夢中で廊下を走り、階段を降り始める。だが僕は自分のしでかしてしまったことから意識を逸らすことが出来なかった。僕は藤崎を殴り倒してしまった。強姦しようとしていた。もしかしたら――殺してしまった。
 救急車を呼ぶにも携帯電話は鞄の中だった。駄目だ。戻らなくてはいけない。もし殺してしまったのだとしても僕にどれだけの責任があるというのだろう、あれは正当防衛だ、いや、そうじゃない、あれは違う、僕こそが責任を取らなければいけないんだ。逃げ出してはいけない。逃げ出してはいけない。藤崎を助けなければ。
 階段の上の方で方向転換しようとして、僕は足を大きく踏み外した。あっと思った次の瞬間には、世界は真っ黒に塗り潰されていた。
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