2.予感

 メールの着信を知らせる音で目覚めた。カーテンの隙間を掻い潜って中に入る光から判断するに、まだ外はそう明るくない。ぼんやりとした視界の中で壁時計の針を読んでみれば、予想と違わずいつもの起床時間より短針一回り分早い時間を指していた。一日の始まりはいつも憂鬱だが、今日は特に酷い。重たい腕を伸ばして携帯を取ってロックを解除すると、『田中正弘』からの着信が一件と表示されていた。田中正弘。よくある平凡な名前でも、僕の知り合いにそんな名前を持った人物は存在しない。
『おはよう』
 件名はなし、本文には素っ気ない一言だけが書かれている。これは僕と差出人との間で決まった朝の呼び出しの合図だった。これを見たら出来る限り早く集合場所に向かうこと。もし見なかったとしても出来る限り早く集合場所に向かうこと。さもなくば酷いお仕置きが待っている。おはよう、のたった一言で僕を最悪な気分にさせることが出来る人物は一人しかいない――藤崎だ。架空の人物の名前を使うのは、万が一このメールやアドレス帳を誰かに見られたとしても、その誰かが僕と藤崎の秘密にまで辿りつくことはないだろう、という考えからだった。着信履歴の殆どを一人で埋める田中正弘は、中学校時代に僕と同じ部活で仲良くなり、高校は別のところに進んだが、今もたびたび会うほど親しい、という設定だ。実際は僕に朝の挨拶メールを送ってくる友人など一人もいないし、将棋部も最後は殆ど幽霊部員と化していたため今も親交がある者は皆無だった。藤崎という悪魔に日常を支配されているというのに、一体誰と仲良くなれるというのだろう。
 メールには全く同じ文章を返して起き上がった。手鏡でさっと肛門の状態を確認する。切れたところはまだ少し赤い。これは何としてでも挿入を避けなければ。朝から突っ込まれることはあまりないといっても、三か月に一回はそういうこともある。
 激痛に耐えながらトイレで用を済ませ、キッチンに出る。いつも通り食欲はないがあまり痩せると不審に思われる。無理やりにでも食べておかなければならない。パンを焼き、バターと蜂蜜をこれでもかと塗りたくる。これは少量で多くのカロリーを摂取するという効率性を重視した方法だ。
 手早く食事を済ませて歯磨きをしていると、母さんが部屋から出てきた。朝から疲れた目をしている。
「ああ、今日は委員会? 大変ね」
 曖昧に頷くと、母さんはすぐに僕から興味を失ってテレビの電源を入れた。明るく爽やかに見えるよう構築された世界がぱっと画面の中に現れる。母さんは毎朝欠かさずそれを流すが、別に興味を持っているわけではない。何しろレギュラー陣の名前すらろくに憶えていないのだ。母さんはただ、食事をする間の暇つぶし、尽きることのない悩み事について思いを巡らせる間のBGM替わりにしているだけ。数年前に父さんの勤めていた会社が倒産しパートの量を増やすことになって以来、母さんはずっとこんな調子だった。父さんが数か月後に再就職しても変わらなかった。家のローンやこれからのこと、特に入院がちになった母さんの母親、つまり僕の祖母のことを考えるとやめるにやめられないんだろう。
 父さんは出張ばかり、母さんはいつも忙しく疲れていて、どちらも息子の抱える問題について気付く余裕などなかった。



 出掛ける準備をして家を出たのは、メールを受信してから十八分後のことだった。通っていた中学が一緒だった僕と藤崎の家はそう離れておらず、また家からの最寄り駅は同じところだが、僕は通学に電車を、藤崎はバスを使う。藤崎が使うバスの時刻表を僕は殆ど把握していて、今日の集合場所はこの時間、電車で行く方が早いと分かっていた。だから少し余裕を持てたというわけだ。
 二駅揺られて電車を降り、少し歩いて線路沿いの林の中に入る。晴れた日の朝だというのに薄暗く、何となく不気味だ。整備された道も建物もない。そう広くもないのに、雰囲気のせいか自殺者も数年おきに出ている。藤崎が目的を果たすのにちょうどいい場所だと選んだ理由は分かるが、僕の方は肝試しでも来たくなかった。
 しかし藤崎が僕を連れていく場所は大抵がろくでもないところだ。例えば寂れて誰もこないような場所。治安が悪いせいで知り合いと遭遇する可能性が低い場所。健全で暗いイメージのない場所だが、そこに足を踏み入れるには不法侵入という方法を使わなければならない場所――閉館後の公民館や、海外旅行などで長期にわたって住人が留守にしている住宅などだ。藤崎に順法精神などまるでなく、道徳観念や良心といったものは欠片も持ち合わせていないように見えた。
 林の奥に進み、嵐で倒れてそのままになっている木の上に腰を下ろした。耳を澄ませば微かに遠くで車が行き交う音が聞こえる。ここに来るのは確か、二か月振りだろうか。藤崎は僕を犯す為の場所をいくつも知っていて、それを藤崎がそのときの気分で選ぶ。メールなどで何も指定がなければ、ローテーションで使うことになっている場所に行く。それがルールだった。
 毎回場所を変えるのとそうでないのでリスクにどれほどの違いがあるのか、僕は知らない。

「……おはよう」
 藤崎が来たのは十分後のことだった。
「は。何で挨拶二回もしてんの? メール見ただろ。バカじゃねーの? うぜーんだけど」
 僕の挨拶は藤崎の機嫌をひどく損ねてしまったらしい。こういう日はしなかったらしなかったでまた難癖をつけられることは知っていた。どちらにしろ僕はただのサンドバッグに過ぎず、いつも通りごめんと謝るほかなかった。
 藤崎は不機嫌そうなまま一本の木に凭れ掛かり、ベルトに手を掛け始める。僕は素早く彼の前に跪いた。後ろに突っ込まれる前に口で咥えてしまおうという自己防衛策だ。勝手に動いたことが気に入らなかったのか、頭上から舌打ちが聞こえてくる。しかしやめろとは言われなかった。
 グレーのボクサーパンツを少し下げる。珍しく朝から呼び出したわりに、藤崎は全く性的な反応を示していなかった。普段なら僕と顔を合わせた時点で固くし始めていることが多い。放課後、秘密の場所に連れ込まれたときには、服の上からでも分かるほどの興奮状態にあることも珍しくなかった。
 僕はきつく目を閉じてやわらかいペニスを浅く口に含んだ。舌と唇で刺激すれば、それは咥内で膨張していく。十分に勃起したところで根元を持ち、喉の奥まで迎えてはすぐに吐き出し、また口の中に収めるのを繰り返すうち、藤崎は息を荒げ始めた。
「悟、歯、立てろっ……!」
 ああよかった、と僕は密かに安堵する。藤崎がこう言わないときはもっと酷いことが起こる。大抵頭を両手で掴まれて無理に出し入れを繰り返された挙句、いきなり喉の奥で射精されてしまう。あれは本当に苦しいし、折角食べた朝食を吐き戻す事態になりかねない。
 藤崎が僕の耳を捻って促すので、少し目を開けた。漏れ出した先走りの味に顔を顰めないように気を配りつつ、先端を軽く上下の前歯で挟む。
「もっと、もっと噛めよ……!」
 余裕のない藤崎の声に応え、甘噛みという言葉では済まない圧力をペニスに加える。僕は密かに股間をきゅっと縮ませた。こんなことの何が気持ちいいのか全く分からない。やっているこちらの方が痛みを味わわされている。排泄する為の穴にコンドームもなしで突っ込むことも理解できないが、これはもう趣味が悪いとしか言いようがなかった。
「あ、あっ」
 藤崎は声を上げて僕の舌の上に精液を吐き出した。僕は噛むのをやめ藤崎が射精しきってしまうのを待ち、最後に残った精液を先端の穴から吸い出した。気持ちよさそうな溜息が聞こえ、僕はやっとペニスから離れた。藤崎が僕をぼんやりと見下ろしていたので、仕方なく精液を飲み込む。口の外に出すところを見られると、それがたとえトイレの床だったとしても舐めるように言われることがある。消化しかけの朝食と藤崎の精液が胃の中で混ざり合うところを一瞬想像し、気分が悪くなる前にそのイメージを頭の中から追い出した。

 事が終わった後も藤崎は不機嫌そうなままだった。一緒に登校するところを見られると仲がいいと思われてしまうので、大抵は藤崎が先にその場を離れ、数分後に僕が続く、という形を取るのだが、藤崎は暫くの間その場に留まっていた。息が落ち着くとその場でのろのろと小用を済ませ、僕がペットボトルの水と清涼感のあるタブレットで行為の痕跡を消すのをじっと眺めてくる。視線を感じると落ち着かず、僕は早く行ってくれないだろうかと面には出さないように願っていた。しかし藤崎は動かない。僕を痛めつける計画を練っているのか、ただ睨んでいるだけなのか。
 気まずい数分が過ぎると、藤崎はふっと僕から目を逸らして去って行った。



 学校での藤崎は比較的まともに振る舞っている。中学のときは昼休みと放課後を殆ど全て奪われていたが、高校に入ってからは呼び出される回数が平均して週三回程度に減った。平均して、というのは藤崎が恐ろしく気まぐれなせいだ。毎日のように苛め抜かれることもあれば、二週間全く音沙汰ないということもある。何にしろ、授業中や十分休憩の間に手を出されることはない。その間はサンドバッグからクラスメイトに格上げしてもらえる。その機会があれば『吉田』と苗字で呼ばれ、笑顔を向けられ、世間話をする程度の知人として扱われる。藤崎は表向き、誰にでも分け隔てなく接し誰からにも好かれるタイプだ。そこは中学校時代と変わらない。
 しかし裏では僕にああいうことをしているし、僕の見立てでは、藤崎は僕と同じで親しい友人の一人も持っていない。中学校時代もその傾向はあったが、高校に入ってからは人との接し方がより表面的なものになったように見えた。特定のグループには属さず、かといって孤独なわけではない。よく観察していればその不自然さは異様に感じるほどで、藤崎がますます恐ろしくなってくる。どんなに話が盛り上がっても相手に大した興味を抱かず、執着せず、本当に親しくなる前に離れてまた別の場所に行き、そこでまた一時だけの関係を築く。たとえ話している相手が女子で、その子が藤崎に特別な好意を寄せていても、それが無視できない程の思いに変わる前に上手く彼女の気を逸らし、ふっと離れて別の誰かと楽しげに話し始める。何だあいつ、と言われるところは見たことがない。藤崎は巧妙な渡り鳥だった。
 本性を知っているからそんな風に思ってしまうのだろうか。きっとそうだろう。僕だってずっと昔、まだ知り合って間もない頃は藤崎に憧れすら抱いていたのだから。

 五限目は自習だった。監督の先生が都合をつけて教室からいなくなっても、皆が皆、楽しいお喋りに興じ始めたわけではなかった。集中の程度に差はあるものの、半数は教科書や参考書に向かっている。かくいう僕もそうだ。少し無理をして選んだ学校だったせいで、気を抜くと赤点とはいかないまでも両親を心配させるような点数を取ってしまう。
 ノートに計算式を書いていると、ポケットの中で携帯が震えた。僕は問題集をそのまま一ページ分解いてしまってから届いたメッセージをチェックした。
『駅』
 本文にはそれだけ書かれている。差出人は勿論、件の人物だ。ああ、今日も放課後は潰れてしまうのか。昼休みに音沙汰なかったせいで軽く油断していたものの、朝の様子から何となくそうなるんじゃないかという気はしていた。視界の端で女子と楽しげに話している藤崎に、心の中で悪態を吐く――可愛い彼女を作ろうと思えば作れるくせに、どうしてそうしないんだ。
 しかし僕は、細くて柔らかい体をした女の子たちが藤崎の手に掛かり、異常な暴力性の捌け口になってしまうよりは、まだ自分で我慢してくれた方がいいとも思っていた。繊細な体を持った女の子たちは多分僕より痛い思いをするだろうし、妊娠という厄介な問題が絡んでくる。それを考えると、僕の我慢には少しばかり意味がある筈だった。たとえそれが男でも、理不尽な暴力を受けることに慣れてしまった今の僕よりは多くのダメージを受けるだろう。昔の僕と同じように、自ら命を絶つことを考えてしまう可能性だってある。それなら僕が、僕一人が耐えている方がずっといい。
 そういうことを、僕はたまに考える。存在もしていない自分以外の被害者を救っている気になることで、何とか惨めな自分に存在意義を見出すために。

 放課後、駅で落ち合った。藤崎は僕の姿を認めるとすぐにバスの停留所の方へと向かい始めた。少し距離を置いて後に続く。藤崎がタイミングよく到着したバスに乗り込んだので、僕も素知らぬ顔で乗り込んだ。藤崎がいつも家に帰るのに使っているバス。一体どこで降りるつもりなのだろう。僕は少し不安に思いながら藤崎に意識を向け続ける。バスの外は曇り空で、今にも雨が降り出しそうだった。藤崎は一旦興奮し始めると土砂降りの雨の中でも行為を続けたがるが、肌寒くなったこの時期、雨に打たれながら凌辱に耐えるのは辛い。僕は段々と、屋内ならもう不法侵入でも何でもいいという気分になっていた。
 結局降りることになったのは藤崎の家に一番近い場所にある停留所だった。藤崎は一足先に地上へと降り立ち、じっとこちらを見ながら僕が降りてくるのを待っていた。
「何トロトロしてんだよ」
「……だってこの辺、知り合いが……僕たち二人が一緒にいるところ見られたら」
 中学を卒業して以来、この辺りで接触を持つことは絶えてなかった。戸惑う僕とは裏腹に、藤崎は冷めた顔で歩き出す。普段、落ち合ったり事を行ったりする場所をあれこれ用意しては僕を隠そうとしているのは藤崎の方だというのに、今日はまるで気にしていないようだった。どんどん先へ進んでいく、平均より高めのすらりとした後ろ姿。きょろきょろと辺りを見回しながら付いていく僕の方が悪いことをしている気分になってしまう。
 ぽつぽつと降り始めた雨の中で、僕は自分の心臓が次第に早鐘を打ち始めるのを感じていた。僕たち二人が向かっている方向――それはずっと前に遠目でその形を見たことしかない、藤崎の家の方向だ。まさか。まさかそんなことあるわけない。そう自分に言い聞かせながら、泥に埋まったように重くなっていく足を動かす。しかし見覚えのある名前が刻まれた表札の前で藤崎は足を止めた。
「悟」
 藤崎は洋風の美しい門扉を開け、振り返って僕の名前を呼んだ。とっとと中に入れ、そう言われているのは分かっていた。だが動けなかった。鋭く尖った矢の形をした門扉上部の装飾、鮮やかなワインレッドの屋根。それらは緊張している今の僕の目には恐ろしく攻撃的に映り、広々と大きく手入れの行き届いた完璧な庭は華やかなのにどこか不気味に見えた。ここに足を踏み入れたくない、そう強く感じた。本能が入ってはいけないと告げていた。この家の中に一度入ってしまえば、きっと今まで経験したことがない、想像もしていなかったような酷いことが起こる。
「心配しなくても」
 藤崎は僕の腕を掴んだ。
「今日は誰もいねーよ。俺達以外の誰も帰ってこない」
 俄かに雨が強く降り出し、ごろごろと雷の気配までし始める。それに苛立ったような舌打ちが一つ。僕は殆ど引き摺り込まれるようにして悪魔の家へと足を踏み入れた。
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