25.三か月後

 抱き合ったままシャツの下に手を差し込んで、痩せた背中にくっきりと浮き出た背骨の窪みを指先でなぞる。藤崎の口から漏れた吐息を飲み込むようにキスをして、肩甲骨を撫でた。
「悟、それ……」
「背中?」
「おかしくなる」
 僕の膝の上に乗った藤崎はそう言って僕にくたりと体重を預けた。その重みに逆らわず一旦後ろに倒れた後、ゆっくりと横に転がって体勢を逆転させた。既に上気した藤崎の頬に唇を落とす。
「……こっちは?」
 少し笑いながらシャツ越しに平らな胸に触れると、藤崎は熱っぽい目で僕を見上げた。
「こっちも」
「じゃあ……、もう触るのやめた方がいい?」
「やめない方がいい」
 藤崎は僕の首の後ろに手を回し、キスをねだる。僕は誘われるまま唇を合わせ、胸に触れていた手でシャツのボタンを外し始めた。

 藤崎はあの日以来、確かに変わった。一瞬にして燃え上がり周りを焼き尽くそうとする激しい怒りや憎悪、度を超した攻撃性を僕に向けることはなくなり、『殺す』『犯す』といった言葉を口にすることすらなくなった。たまに物を壁に投げつけたり、僕の腕を強く握ったり、不機嫌になって口調が荒くなったりすることや二人きりのときに泣き出すことはあっても、周りを巻き込みながら破滅の道に向かうまるで嵐のような感情に藤崎が支配されることは、この三か月観察出来た範囲では皆無に等しかった。
 だからだろうか。僕達の間には、緊張感よりも性的な空気が流れていることが多くなった。それはかつて僕達が行っていた虚ろな行為とは全く別物で、僕は藤崎とキスやセックスをするたびに藤崎のことをより好きになり、藤崎の方も僕を少なからず思ってくれているのだと実感することが出来た。藤崎は僕が嫌がること――例えばキスをしているときに舌を僕の口の奥まで無理に差し込んだり、藤崎のものを僕が口に咥えているときに僕の頭を持って腰を動かしたりといった行為は、あっさりとやめてくれた。公衆トイレや野外、他人の住居や公民館といった施設など、これまで僕達が後ろ暗い秘密を隠していた場所で事に及ぶこともなくなった。
 今日のように藤崎の部屋で、あるいは僕の部屋で互いの体を探り合い、何度も抱き合った。最初は殆ど毎日、それから色々と話し合って三日に一回になった。冬休みが明けてからもう一度話し合い、肉体的な負担が大きく時間も掛かる挿入を伴う行為は週に一日だけに、伴わない行為は特に制限を設けないことにした。藤崎は毎日でも僕と肌を合わせたがり、僕の方も藤崎と触れ合うことに単純な快感だけはない心地よさを感じていたからだ。

「あ、あ、悟、悟、いく、いく、あ、ああっ」
 心臓の音を内から強く響かせる胸に舌を這わせ、時折乳首に軽く歯を立てながら藤崎のペニスを手で緩く刺激する。藤崎は五分もしない内に体を震わせ、果てた。
 後始末をし、ティッシュをごみ箱に落とす。藤崎は僕の制服のスラックスに手を伸ばした。ベルトを外されて下着ごと引き下ろされる。
「飲みたい」
「……いいよ」
 藤崎は僕の股間に顔を埋めた。そこで何をすればいいのか熟知している舌が僕のペニスを這い始める。柔らかく濡れた厚い肉の感触に背中がぞくりと震え、すぐに体が熱くなった。硬くなったペニスは藤崎の咥内に収まり、粘膜に包まれて優しく刺激される。
「あ……」
 ペニスを口に咥えたまま、藤崎は尖らせた舌先で僕のそれを舐め回す。腰が抜けそうなほど気持ちが良かった。すぐに黒に染め直したせいで少し痛んでしまった髪を右手で撫でながら、左手で枕に爪を立てた。
「藤崎……もう、いきそう」
 藤崎はペニスを口から出し、先走りが溢れる先端に舌を軽く差し込んだ。体の芯がじんと痺れる。
「出せよ……なぁ、いっぱい出して」
 命令なのか誘惑なのか懇願なのか、藤崎は囁き、また僕のペニスを咥え込んだ。
「う、うん……あ、あっ……」
 温かい口の中で精液を吐き出す。藤崎はそれを器用に舌で受け止め、出し切れず残った精液まで吸い出してからペニスを口から出した。ごくりと喉が鳴る音。藤崎が僕の精液を嚥下した音だ。
 ゆっくりと顔を上げた藤崎を抱き寄せ、髪を撫でて、キスをした。唾液に混じった精液の残り香はけして心地よいものではなく、藤崎が帰り道で噛んでいたミントガムの香りを掻き消してしまっていたが、それでもキスがしたかった。
 口付けたまま藤崎の下着の中に手を入れ、また硬くなっていたペニスを手で刺激する。藤崎は僕のペニスを口に含んでいる間、自分の手でそれを擦っていたので、射精するまでそう時間は掛からなかった。
 息を整え、後始末をし、二人ともうがいをして部屋に戻った。藤崎は制服から私服に着替え始め、僕はベッドに腰を下ろした。あの日からあまり部屋の状況に変化はなく、ベッドの上には相変わらずぬいぐるみが置かれている。藤崎によると抱き枕や足置きに丁度良いらしい。一見可愛らしい光景だが、よく見ればペンギンの片翼とテディベアの片腕が手錠で繋がれているのが分かる。藤崎作の奇妙なオブジェだ。
 ぬいぐるみの頭を撫でながら、僕は口を開いた。
「疑問に思ってたことがあるんだ」
「なに」
「何で最近……飲みたがるの?」
「こないだ言っただろ。飲みたいから」
 理由になっていない。
「つか何だよ。嫌なわけ? 今は強要してないじゃん」
 セーターに袖を通していた藤崎は、動きを止めて僕の顔を見た。
「……嫌では、ないよ。でも」
「でも?」
「最近何か……、藤崎に酷いことしてるような気がして」
「何、飲むのが?」
「うん……」
 自分の精液を恋人に飲ませて喜ぶのはその行為で支配欲が満たされるからではないか、という思いが最近僕の中に現れ始めた。藤崎が僕を無理矢理に犯していたとき、どうして精液を僕の体の中に出していたのか、その理由を藤崎が僕の精液を嚥下するのを眺めているうちに理解してしまったのだ。
 あれとこれとは全く違う――藤崎は自ら望んでやっていて、僕は藤崎に無理強いしているわけではない。頭では分かっていても心の中に薄く靄が張るのはどうしようもなかった。
「逆なんだけど」
「逆?」
「お前のを飲むと気分も体調も良くなる。だから体に良いんだよ」
「ええ……?」
「嫌だって言うんならやめてもいいけど。俺はやめたくない」
 着替え終わった藤崎は、僕の隣に腰を下ろした。
「体に良いって……」
「別にネットの変な情報見てこういうこと言ってるわけじゃないから。他の奴のなんて死んでも飲みたくねーし。お前のだから良いんだよ。それでも駄目?」
「…………うん、いや、ううん、駄目じゃないよ、大丈夫……問題ない」
「ふーん?」
 藤崎は僕を真顔で覗き込み、じっと目を見つめてきたかと思うと、いきなり全力で僕の脇腹をくすぐり始めた。
「ちょっ、えっ、わっ、藤崎、やめ、わっ、わひゃ……!」
 唐突かつ容赦のない攻撃だった。抵抗を試みるもすぐにバランスを崩し、あっさりと後ろに倒されてしまった。笑いながら身を捩って逃れようとする僕に藤崎は少しの間猛撃を加えていたが、僕の限界の三歩手前で手の動きを止め、僕の胸に飛び込んできた。
「わっ……」
 藤崎は僕が上げた声など意に介さず、胸に両手を重ねて置き、その上に顎を置いた。
「も……もう……、なに?」
「俺は飲みたいんだよ。分かった?」
「……え……あ、うん……、分かった」
「本当に?」
「本当、だってば。本当に、心の底から、分かった……」
 荒い息を吐き出しながら、本心から言う。そしてまた悪戯な手に脅かされないよう、藤崎をしっかりと両手で抱き締めた。
「……ん。このセーター、良いね」
 柔らかく肌触りの良い、淡いグレーのセーター。この体勢では見えないがVネックのラインが綺麗だった。
「気に入った?」
「うん、好き」
「俺も結構気に入ってる」
 背中を撫でると藤崎は少しだけ笑みを浮かべて目を閉じた。僕は手の平に触れる糸の感触と嗅ぎ慣れた藤崎の香水の匂い、密着した体の温かさを味わいながら、大人しくなった藤崎をゆっくりと撫で続けた。
 もしかして眠ってしまったのだろうかと思い始めたとき、藤崎の目が開いた。
「お前さ」
「うん」
「何か変わったよな」
「僕が? ……どんな風に?」
「こんな風に」
「うーん?」
「前だったら俺があんなことしても絶対笑わなかっただろ」
「藤崎にくすぐられたの初めてだよ」
「隈も無くなった」
「ああ、うん……最近よく眠れるから」
 藤崎の手が僕の顔に伸び、指先が皮膚の薄い下瞼にそっと触れる。
「俺は……一番眠れるのはお前といるとき」
「……なら今日は、このままうたた寝する?」
 半分冗談半分本気の提案を、藤崎は僕の下瞼を軽く撫でながら吟味しているようだった。
「……いや。予定通り出掛ける」
 背中に回していた腕を外すと藤崎は軽やかな動きで起き上がり、僕の腕を取って立ち上がらせた。

 多分、僕の方の変化は藤崎よりも緩やかに起こった。
 初めの内は、何か変わったような気もするし、何も変わっていないような気もする、という中途半端で曖昧な感覚だけがあった。けして『生まれ変わった』とか、目の前に広がる世界の色さえも変わるような劇的な感覚はなかった。
 だが時が経つにつれ、夜中に酷い悪夢に魘され冷や汗をかきながら目覚める回数が減り、白昼夢に囚われる回数も減っていった。よく眠れるようになって、日中殆ど常に感じていた不安や倦怠感が薄れていった。
 もし僕があの雨の日のように藤崎を殴り倒し、そして今度は本当に犯してしまったら――我を無くして藤崎の肉体と精神を自分の手で酷く傷付け、最後には殺してしまったら。そう不安に駆られることが少なくなったのは、ある出来事によって瀬川が今後僕達に害をなすことはないと確信が持てたこと、そして藤崎と体を重ねていく内に僕が僕自身のことを知り、藤崎も僕の行動や思考に理解を示すようになったことが理由なのだと思う。
 藤崎が僕を犯していた頃と似た状況で、あるいは完全な暗闇の中に置かれた状況で体を重ねようとすること。侵入的だと感じる肉体的接触を藤崎から受けること。それによって藤崎に攻撃的な反応を示してしまうかもしれないこと。それが僕の不安と恐怖の引き金だった。藤崎は何が僕の不安と恐怖の引き金になるのか、そしてその場所はどこなのか知った後は、それに触れようとはしなかった。
 藤崎はそれでも、殴られ犯されたところで簡単に死ぬことはないと言う。僕達二人は今も生きていて、そういう方法で傷付けられたとしても、確かに簡単には死なないのかもしれない。
 だがもし――もしあの雨の日に、藤崎を犯し、暗い欲望を遂げてしまっていたら。過去や未来のどこかで僕の恐怖が現実になってしまっていたら。
 僕は自分の命がその先も続くことに、きっと耐えられなくなっていただろう。



「グルの一人が俺の痣を悪霊の印だって言ったんだ」
 バスから降り、目的地までの道を徒歩で移動していたとき、藤崎は唐突に話し始めた。
「……グル?」
「導師、覚者のこと。一般教徒を変革に導く指導者。そいつの一人が、俺を撮った写真にあった黒い靄を悪霊だって言ったんだ。靄はちょうど俺の背中辺りにあった」
 今日は土曜授業の日だった。学校を出たのは昼過ぎだったからまだ日は暮れていない。明るい空の下で藤崎が淡々と口にする言葉は、妙に非現実的で乾いた響きをもって僕の耳へと届いた。
「あの女は――俺の母親は、それから完全にグルの奴隷になった。それまでも別に普通の母親じゃなかったけど。少なくとも俺のことを水風呂に沈めたり、窓も家具も照明もない、誰もいない部屋に俺一人を何日も閉じ込めたりはしなかった」
「……『グル』が……そうしろってお母さんに?」
「さぁ。水風呂に使う浄めの水とか、俺を閉じ込めるときに部屋に焚いた除霊用の香とか、そういうのを買うように誘導はしてた。それを使うと俺が良くなるんだって唆して。馬鹿みてーな値段だった。でもあの女は値段なんか気にしてなかった。金ならいくらでもあったから。爺さんにねだれば金なんかいくらでも手に入った」
 母方の祖父のことを藤崎はいつも『爺さん』と呼んだ。そこに親愛の情を感じさせる響きがあったことは一度もない。
 色々と想像しながら話の続きを待っていたが、一向に始まる様子がなかった。暫く待ってみても藤崎は黙ったままだった。もしかすると目的地が近付いた為に話を終わらせただけなのかもしれない。そうでなかったとしても続きを無理に引き出すことはしたくなかったので、僕も藤崎と同じようにもう話は終わったのだという顔をして前を向いた。
 近頃――こういうことがよくあった。藤崎は唐突に昔のことを話し始め、唐突に話を終わらせる。断片的に与えられる情報の中に幸福な記憶は一切見当たらず、安らぎもなかった。幼い藤崎は殆どの場合、無味乾燥で寒々しい場所に置かれているか、荒れ狂う嵐の中に一人で立っていた。そして彼の抱えていた苦悩は数年の間、藤崎の口からは誰にも語られず、暗く冷たい場所に隠されてきたのだった。



 細切れに与えられた情報を繋ぎ合わせると、ぼんやりとした形が見えてくる。
 藤崎は小学生まで、この町からはかなり離れた場所にある少し大きな村に住んでいた。藤崎家はそこの地主の家系で、藤崎の両親と藤崎が住む家は、結婚後に藤崎の祖父が住む古く大きな家と同じ敷地内に建てられた。
 藤崎の祖父は、地元では名士として知られているそうだ。名前を検索すればいくらでも顔が出てくると藤崎が言うので一度だけ調べてみたことがあるが、確かに村の図書館に蔵書や備品を寄贈したという記事や村の公式サイトにある役員名簿の中に、その名前と顔をすぐに見つけることが出来た。
 彼は――特徴的な容貌をしていた。鼻と目と口はどれも大きめで、シミの多い肌は血色が悪く、全体的にくすんで垂れ下がっている。眉は太く、一本一本の毛が長い。左頬から首に向かって青っぽい痣があり、それは着物の衿の下にまで続いていそうだった。写真の中では大抵の場合笑みを浮かべていたが、どれも口元を動かしているだけだと一目で分かった。
 藤崎とはあまり似ていなかった。藤崎の母親ともだ。だが若かりし頃の姿が写った古い白黒写真の顔は、眉と痣を除けば瀬川と雰囲気がよく似ていた。特に――その目の冷たさが。
 彼が目を掛けていたのは娘である藤崎の母親だけで、息子である瀬川のことは昔から疎んでいたらしい。瀬川は彼の最初の妻との間に出来た息子で、瀬川の姉である藤崎の母親は後妻、生まれた当時は愛人だった女性との間に出来た娘だった。当然の結果として瀬川の方も彼を嫌い、あまり家には近寄らなかった。瀬川の名字が『藤崎』ではないのは、まだ十代のうちに結婚し、相手の女性の名字に変えたからだそうだ。
 藤崎の両親は、藤崎の祖父の勧めで結婚した。藤崎の父親の家は藤崎家とは薄い血の繋がりがあり、藤崎は父親の妹である『ユリコさん』青葉由利子さんとは、法事や年末年始の集まりでよく顔を合わせていたらしい。彼女は当時から藤崎を気に掛けていたが、藤崎の母親に好かれていなかったせいであまり話をする機会はなかった。
 村の学校で藤崎は、かなり浮いた存在だった。藤崎に向かって藤崎の母親が表現したところによると『生まれた瞬間から他と違った』『目つきが普通の子どものものじゃなかった』らしく、藤崎は今でもそれが周りに馴染めなかった理由だと考えていた。
 藤崎はいつからか、教師や他の生徒に危害を加えるようになっていった。暴言を吐いたり、殴ったり、鉛筆で相手の手を刺したりすることもあった。それが始まったのは虐待の前だったのか後だったのか、藤崎は覚えていない。
 確かなのは、村にほど近い町にあった教団支部の『グル』の一人が藤崎家に出入りするようになってから、全てのことが一気に破滅の方向へと加速していったということだった。



「写真よりビデオの方が良いだろ?」
 信号待ちをしていたとき、藤崎は出し抜けにそんなことを言った。
「良いって何が?」
「情報量」
「情報量……」
「だからビデオカメラを仕掛けたんだよ。靄のあった写真はグルが撮ったものじゃなかったから俺でも撮れると思って。いつ映ってもいいように、家と学校とホームに四つずつ」
 ああ、これはさっきの話の続きだ、とようやく気付く。『ホーム』は教団施設の呼び名だった。
「けど映ってたのは悪霊じゃなくて――」
 信号が青に変わる。藤崎の長い足が、横断歩道の白い線を踏む。
「あの女とグルがヤッてるところだった。あいつら家でもホームでも、発情期の獣みたいにセックスしてた。毎日毎日飽きもせずに。俺の部屋でヤッてることもあった」
 それまで無感情だった声に、僅かに嫌悪感らしきものが滲む。
「こんな奴らの言うことなんて聞く意味なんてないと思った。自分達は綺麗で正しくて間違ってないなんて顔して、俺に散々影でやってたのは不倫なんて偽善者どころか詐欺師じゃん」
 少し前を歩いていた藤崎が急に足を止めたので、僕は目的地に着いたのかと思い、近くの店の看板を見上げた。家を出る前の話では雑貨屋に用があるということだったが、どうもそれらしき店は見当たらない。
「……藤崎?」
「だからあいつらをナイフでメッタ刺しにして、家とホームに火を点けてやったんだ」
 藤崎は振り返った。言葉を失った僕の顔を見つめ、
「あの角を左に曲がったら店に着く」
 そう言って前へと向き直り、歩き出した。



 告白の衝撃から立ち直れないまま目的地に辿り着いてしまった。
 店は三階建ての建物の二階にあった。看板らしきものはなく、一階美容室横の壁にB4サイズの控えめな案内が出ているだけだった。

『二階 雑貨屋Blue Leaf 11:00~17:00 不定休』

 木彫りの人形や明らかに量産品ではないアクセサリー、不思議な色合いのストールなどが棚に並び、民族風の音楽がBGMとして流れる店はかなりこじんまりとした造りで、店員はレジに座っている一人だけだった。椅子に座ってパソコンの画面を見ていた男性は、僕達がドアを開けるとすぐにこちらに目を向け、色白のふくよかな顔に微笑みを浮かべた。
「翔太くん。いらっしゃい。よくここが分かったね。電話してくれれば家まで迎えに行ったのに」
「前に来たことあったので。ビルの前を通っただけですけど」
「そうか、来てくれてありがとう。……彼はお友達かな?」
 どうやら藤崎と知り合いらしい店員の男性は、藤崎から僕へと視線を移した。
「友達じゃなくて彼氏です」
 あまりに自然に藤崎がそう口にしたので、一瞬自分の耳を疑った。
「ああ、なるほど、君がそうなのか。初めまして、こんにちは。青葉敏明です」
「……初めまして。吉田悟、です」
「良かったらコーヒーでも飲んでいかないかい? ちょうど入れようと思ってたんだ」
「いただきます」
 藤崎は即答した。
「うんうん。悟くんは……ああ、馴れ馴れしかったね、吉田くんはコーヒーで大丈夫かな? 紅茶と緑茶と、あとココアもあるよ」
「……えっと」
「遠慮しないでいいよ。僕が自分のコレクションを自慢したいだけだから」
「……じゃあ、僕もコーヒーをいただきます」
「了解。そこの椅子に座って待っててね。時間的にもうお客さんは来ないと思うし、ゆっくりしてていよ。店の中を見ててもいいから」
 青葉さんはそう言ってレジ後ろのドアの向こうに消えて行き、藤崎はレジ横に二つ並んだ丸椅子の一つに腰を下ろした。僕はその隣に座り、藤崎の顔を見る。
「あの人が由利子さんの旦那さん」
「……僕達のこと、話してたんだ?」
「中学高校が一緒で、最近付き合い始めたってことしか言ってない」
 藤崎が僕のことを人前で自分の彼氏だと口にしたのは、仲野さんの件を除けばこれが初めてだった。学校では友人ということになっていたし、互いの家族にも本当の関係を話していなかった。
「なに。黙ってて欲しかった?」
「ううん。藤崎がいいなら、僕は構わないよ」
「じゃあ他の奴に話すのは?」
「付き合ってるってことなら、いいよ」
「本当に?」
「本当に」
 仲野さんの件を考えると今更な問いだった。だがあれは例外だったのかもしれない。藤崎が彼女に関係を仄めかしたのは嫌がらせと牽制が目的だったのだから。
 起こったこと全てを白日のもとにしようというのならまだしも、恋人同士であるということを話すだけなら、気乗りはしないが嫌ではなかった。この先もずっと一緒にいるのだ。いずれ周りも気付くだろうし、僕はそのことを覚悟しなければならないと思っていた。
 ――覚悟。
 僕達に対する周りの反応よりも今気に掛かっているのは、店に入る前に聞いた藤崎の言葉だった。

『ナイフでメッタ刺しに――』

「お待たせー」
 間延びした声がレジ奥のドアの向こうから聞こえてくる。青葉さんはのっしのっしと効果音を付けて戻って来た。片手に折り畳み式の小さなテーブル、もう片方にコーヒーと取り皿、数枚の紙ナプキンが載った木のトレイを持っている。
「ごめん、どっちかこれ持っててくれる? ああ、ありがとう」
 レジに近い方に座っていた藤崎が先にトレイを受け取った。青葉さんがテーブルを開こうとしていたので、何もすることが無かった僕は立ち上がった。
「僕やります」
「おお、じゃあお願いするよ」
 青葉さんは僕にテーブルを渡すと店の出入り口の方へと歩いていき、ドア内側の上部に丸まった状態で留まっていた暖簾を下ろした。ドアを覆う柔らかな色合いの暖簾は、遠目に麻のような生地で出来ていて、裏地なので分かり難いが豪奢な装飾を施された大きな象が縦に四匹、そして細身の優雅な猫達が象と象の隙間を埋める形で描かれていた。
 青葉さんはまたレジ奥のドアの向こうへと消え、数種類のドーナツが載った皿と、レジにあった椅子を手に戻ってきた。
「さっき常連さんからいただいたんだ。たくさんあるから遠慮しないで食べて」
 僕達は淹れ立てのコーヒーの香りが漂うテーブルを囲み、ドーナツを齧りながら話を始めた。



「あの人。どうだった?」
 遅くまで引き留めてしまったから、と青葉さんはわざわざ家まで車を取りに戻り、僕達二人をいつもの駅まで送ってくれた。よく手入れされたオレンジのミニバンが視界の外に消えた瞬間、藤崎は僕に尋ねた。
「青葉さんのこと? 良い人だね」
 初対面の僕にも気さくに接し、藤崎の質問に答える形で色々なことを話してくれた。
 店は数年前に開店したこと。通販と本業であるライターの仕事で稼いでいるので、店は殆ど趣味で経営しているということ。ライターの仕事で世界各地に旅行に出掛け、そこで珍しいものや一点ものの品などを買うのが好きなこと。若い頃の体重は今の半分ほどだったこと。前職で体を壊して入院していたとき、その病院で働いていた看護師の由利子さんと出会ったこと。
 そして最近、由利子さんと藤崎と青葉さんの三人で、たまに食事をするようになったこと。
「良い人って、具体的には?」
「……初対面だけどあんまり緊張しなかったし、話は聞いてて楽しかったし、僕にも話を振ってくれたし、最後は送ってくれたから……気を遣ってくれる優しい人だなって思ったよ」
 歩き出した藤崎の隣に続きながら、僕はお土産にと持たされた紙袋を見る。それには青葉さんがイギリスの専門店で直接購入したのだという紅茶が入っていた。妹が最近紅茶に凝っていると最初の二十分の間にちらりと話したからだろう。強く遠慮する必要はなさそうな量で、それがかえって良かった。
 青葉さんは物腰が柔らかく落ち着いていて、動作はゆっくりしていたが、頭の回転は恐ろしく速かった。青葉さんの理知的で穏やかな目は、表面上は敬意を払っている風で時折はっとするほど鋭い言葉を発し青葉さんの本心を切り開こうとする藤崎を、優しく真摯に見つめ返していた。
 それは青葉さんが僕の前で示した他の何よりも、青葉さんを好ましい人物だと僕に感じさせた。
「……藤崎はどうして今日、僕を連れて行ったの?」
「あの人、由利子さんがいるときは聞き役に回ること多いから。大人しいお前と一緒なら話すと思った。あとお前があの人をどう思うか気になったから」
 何となく、意外には思わなかった。行く前に僕に青葉さんの存在を知らせなかったのは、先入観を持たせない為だったのだろう。
 だがどうして今日だったのかが不思議だった。既に一緒に食事をする仲なのに、今更信用に値する人物かどうかを確かめる意味はあるのだろうか――そう思っていたとき、藤崎はぽつりと言った。
「由利子さんに、一緒に暮らさないかって言われた」
「……青葉さんと、おばさんと、藤崎の三人で……ってこと?」
「そう。親とは話がついてるって」
「……どう返事するか迷ってる?」
 藤崎は少しの間黙っていた。
「由利子さん、子どもが出来ない体だから。俺に自分の息子になって欲しいんだと思う。だから俺のこと本気で心配してるわけじゃない。おじさんも由利子さんに乗せられてるだけ」
「…………」
 僕は絶句した。
「ただ血が少し繋がってるってこと以外に、俺を気に掛ける理由なんかないだろ。あの人達は偽善者なんだよ」
 頻繁に藤崎の家に出入りするようになった僕は、時折藤崎を訪ねてやってくる『由利子さん』と何度か顔を合わせたことがあった。清潔感のあるショートヘアとパンツスタイル、骨ばった手が特徴的な人だった。年は三十代半ばだと藤崎から聞いたことがある。
 見る者に力強く健康的な印象を与える風貌と、優しい声を持った一人の女性の秘密を――少なくとも慎重に取り扱われるべきであろうことを、こんな形で知ってしまっても良かったのだろうかと思う。果たして僕には、知る権利があったんだろうか?
「藤崎、僕は……」
 上手く言葉が出てこない。僕はたった今知ってしまった由利子さんの秘密と、ほんの少し前まで会話していた人とその家族を冷たく突き放した藤崎の両方に、強いショックを受けていた。
「お前は?」
 藤崎は足を止めて僕の顔を見つめた。僕も立ち止まってその目を見つめ返し、ああ、と胸の中で小さく声を上げた。
 そうだ。本当に彼らをただの偽善者だと思っているのなら、突き放していい存在だと思っているのなら、わざわざ僕に青葉さんを引き合わせて印象を尋ねる必要も深い事情を明かす必要もない。
 きっと藤崎は――自分を顧みなかった父親の妹とその夫に希望を与えられるのを恐れている。そして信頼出来そうな数少ない大人である彼らにいつか失望し、傷付くことがないように、自分自身に保険を掛けているだけなのだ。
「僕は……そうは思わない」
「ふーん、何で?」
「…………」
 無言で藤崎の手を取り、そのまま歩き出した。日が落ちて人通りは少なくなっているとはいえ、まだそう遅い時間でもない。顔見知りと遭遇する可能性は低くはなかった。だが僕は今、藤崎と手を繋いでいたかった。
 藤崎は僕の手を振り払おうとはせず、僕に歩幅を合わせて歩いた。
「去年の十二月、僕が由利子さんに初めて会ったときのこと覚えてる?」
「冬休みに入った日だろ。俺は見てねーけど」
「うん。そう……、僕が藤崎の家に泊まりに行った日」
 歯ブラシを持ってくるのを忘れたことに藤崎の家に辿り着いて暫く経ってから気付いた僕は、近くのコンビニに一人で出掛けた。往復五分程度しか掛からなかったが、ちょうど僕がコンビニに到着した頃辺りに由利子さんは家を訪ねてやってきていたらしい。彼女は前回のように藤崎に持参した食べ物を渡し、ほんの少しの間だけ会話をした後、藤崎に追い返された。そして車に乗ってエンジンを掛けようとしたとき、僕が戻ってきたのだ。
 僕は彼女の車を覚えていた。もしかして、と思いながら運転席に目をやって、ふっと目が合った。数秒見つめ合った後、彼女は車を下り、僕に話し掛けた。

『こんにちは』
『……こんにちは』
『もしかして、翔太くんのお友達?』

「僕が藤崎の友達だって言った瞬間、本当に、心の底から嬉しそうな顔したんだ」
 彼女が僕に見せた表情を今も鮮明に思い出すことが出来る。ごく薄い化粧が施された小さな顔に、ぱっと大きく花開くように浮かんだ笑顔を。くっきりとした二重の目は一瞬見開かれてから横に細まって目尻に皺を作り、両端が上がったやや大きめの唇の間からは上下の白い歯が覗いて見えた。
「ちょっと面喰ったけど、多分この人は、藤崎のことが凄く心配だったんだろうな、って思ったよ。だからそんなに喜んだんだろうって」
「それ、つまりあの人は俺には友達が一人もいないて思ってたってことだろ? 俺は最初にお前が家に来た日に、友達が泊まりに来てるってあの人に言ったのに」
「……ただ話で聞くのと、実際に見るのとでは違うよ」
 藤崎は暫く黙った後、ふっと鼻を鳴らした。
「で。それが何? 心配してたのは俺を息子にしたかったからだろ?」
「おばさんがどう思ってるかなんて、僕には分からない。けど、もし藤崎をちょっと血が繋がってるから息子にしたいって思ってるんだとしても……、藤崎の事を一人の人間として心配して、気に掛けて、会って話をしたいと思ってないとは言い切れないと思う。それに……」
「それに?」
「もし藤崎が二人を信用出来ないと思うなら、無理にしなくてもいいと思う。ただ一緒に暮らすだけでも……、今の家にいるよりは、藤崎がちゃんとご飯を食べてるかとか、安全に暮らしてるか、とか、そういうのを気に掛けてくれる大人がいるところで暮らすだけでも、今よりはずっといいと思う。……二人は藤崎にお母さんがしてたみたいなこと、しないんだよね?」
「しない」
 はっきりと明瞭な声で藤崎は答えた。
 街灯に照らされた横顔から表情は上手く読み取れない。
「これからも絶対にしない」
 藤崎はそう言って、安堵したように小さく溜息を吐いた。



 途中で藤崎と別れて家に帰り、一人で考え事をするために部屋に籠った。
 ベッドに寝転んで、頭に浮かぶのは藤崎のことだ。
 帰り際に藤崎は、僕達が物理的に離れても今と同じように会ってくれるかと聞いた。青葉さんと由利子さんの家は雑貨店の近くにあり、今僕達が住んでいる場所からは電車で一時間半程の距離があった。僕は今と同じようには出来ないだろうと答えた。学校帰りに藤崎の家に寄ったり、遅くまで二人で遊んだりすることは、時間的にどう考えても難しいからだ。その分休みの日は今まで以上に一緒に過ごして、平日は帰宅後にスカイプで連絡を取り合おうと言った。それに学校は一緒なのだから、きっと大丈夫だと。
 二人は藤崎に、高校を卒業してからでも構わないと話していたらしい。僕は出来るなら早い内に二人のところで暮らすようになって欲しいと思っていたが、口にはしなかった。あまり強く口出しするべきではないと気付いたからだ。
 僕は二人のことや藤崎の両親について、そう多く知っているわけではなかった。
 それどころか、藤崎のことも。

「――お兄ちゃん?」
 ノック音が聞こえて、返事をする前にドアが開いた。僕が体を起こすのと、妹が――柚花がドアの隙間から顔を出すのは殆ど同時だった。
「なに?」
「んー、中入っていい?」
「いいよ」
 柚花はドアを閉め、椅子に座った。
「試験。自己採点では合格ラインだったよ」
「そっか、よかった。受験お疲れさま」
「まぁギリギリだけどね。先生は大丈夫だろうって言ってたけど」
 そう言いながら、柚花は机の上の紙袋に目をやった。青葉さんに貰った紅茶が入った袋だ。
「ああ……、それ知り合いに貰ったんだ。妹が紅茶にハマってるって言ったら、御裾分けだって。だから柚花のだよ」
「貰っていーの?」
「うん。変な人からじゃないから安心して」
「知り合いって最近お兄ちゃんがうちに連れてきてる人?」
「その人の親戚のおじさん、かな。よく外国に旅行してるんだって」
「へぇー。あ、いい匂い」
 何か用があってドアを叩いたのだろう。切り出されるのを待っていると、柚花は紙袋の中を覗き込みながら何でもないような顔で口を開いた。
「あのさー、お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんとあの人って付き合ってるの?」
「……あの人って?」
「さっき言った、お兄ちゃんがうちに連れてきてる人。藤崎……さんだっけ?」
 ほんの一瞬だけ、答えるのを躊躇した。
「うん。付き合ってるよ」
「あー、やっぱり! やっぱりなー、だと思ったんだー! 絶対付き合ってるって思ったんだ! やっぱりね!」
 柚花はいきなり凄い勢いで顔を上げて、叫ぶように言った。僕はどんな反応が返ってくるか密かに身構えていたが、あまりの勢いに目を瞬くことしか出来なかった。
「あーもう。まさかお兄ちゃんが私より先に彼氏作るとかさー、悔しい。しかも相手があんなかっこいい人とかズルい。あーあー、お兄ちゃんのバーカ。バーカバーカ」
 本当に悔しそうに座ったまま地団太を踏みながら言うので、何だかおかしくなってきてしまった。
「どこで気付いた?」
「どこでって。こないだ家の前でキスしてたじゃん! 見間違いかなとは思ったけど、藤崎さんとお兄ちゃんって友達っていうのも何か雰囲気違うし。キスしてたでしょ?」
「あ……うん。ごめん」
「別にいいけど。あーもう。いいなぁ。いいなぁ! 私だって高校入ったら速攻で彼氏作るから」
「柚花ならすぐ出来るよ」
「……はー? その余裕な感じ超ムカつく。ていうか私言いたいことがあって来たのに」
「言いたいこと?」
 てっきりこれが本題だと思っていた。違ったらしい。
「試験の十日くらい前、塾帰りに酔っ払いに絡まれたの」
「え! 大丈――」
「大丈夫。大丈夫だったから。大丈夫だったから今ここにいるんだよ。大学生っぽい感じの三人組でさ、腕引っ張ってきて、すっごいしつこくて、その日いつもは一緒に帰ってる友達が二人とも用事があって塾休みで、私一人だったから本気で怖くて正直泣きそうだったんだけど、お兄ちゃんがくれた防犯ブザーのこと思い出して、鳴らしたらその人達びっくりして固まったの。その隙に全力で走ったら上手く逃げられたんだよ。だから御礼言おうと思って」
 右斜め下の何もない場所を見つめながら早口で一気にそこまで言って、柚花はそろりと僕と目を合わせた。
「……御礼を言おうと思って。そのー、ありがとう」
「……いや……、柚花が無事で良かった」
「うん」
「それからその人達には?」
「一回も会ってない。その後はずっと友達と帰ってるし」
「父さんと母さんには話した?」
「言ってない。試験前だったし、あんまり考えたくなくて」
「そっか」
「じゃあ私部屋に戻るね。あ、私も明日おばあちゃんのお見舞いに行くから」
「うん。僕も行くよ」
「あと紅茶、喜んでたって、御礼言ってたって、今度おじさんに会った時に代わりに伝えてくれる?」
「柚花」
 立ち上がりかけていた柚花を呼び止めた。
「今度さっき言ってたみたいなことがあったら、父さんか、母さんか、僕に言って。危ないから。それに遅くなりそうなときは連絡くれたら迎えに行くから」
「まだ防犯ブザー持ってるよ?」
「うん。それでも」
「過保護だなー。もう塾通いも終わったし、そんな機会ないと思うけど」
「分かった?」
「分かりましたー。言えばいいんでしょ?」
「うん。あと」
「あと?」
「ごめん。あのとき防犯ブザーを渡すだけじゃなくて、警察に言えば良かった。柚花が酷い目に遭わなかったのは、ただ運が良かっただけなんだって今分かった」
 瀬川はもしかしたら、本当に藤崎や僕や僕の家族に手を出していたかもしれない。もし藤崎が言っていたようにそうするつもりは全くなかったとしても、僕と妹が一緒に歩いているのをたまたま目撃して、ふっと悪い気を起こしていたかもしれない。そして最悪の事態が引き起こされたかもしれないのだ――すべきことを怠った僕のせいで。
「なに、真剣な顔して。もうその人の件は片付いたんでしょ? なら結果オーライじゃん」
「それでも。本当にごめん」
 柚花は今度こそ立ち上がった。
「そんな謝んないで。私がお兄ちゃんのおかげであの大学生達から逃げられたのは事実なんだし。本当にありがとうって思ってるの。可愛い妹が無事に助かった上にこんなに感謝してるんだから、もっと嬉しがってよ」
「うん……」
「気持ちがこもってない!」
「柚花が無事で嬉しい。……本当に良かった」
「今度はこもりすぎ。ていうか私絶対お兄ちゃんの彼氏よりかっこいい人見つけて自慢しに来るからね! バーカバーカお兄ちゃんのバーカ」
 そう言い捨てて柚花は部屋に戻っていった。

 僕は暫く体を起こしたまま柚花と瀬川のことを考えていたが、ふっと肩の力が抜けて、またベッドに寝転んだ。
 携帯をポケットから取り出して、何とはなしにデータフォルダを開けた。殆ど容量を使っていない写真フォルダには二十四枚の写真が入っている。メモ代わりに撮ったレストランの看板やメニューの写真が五枚、野良猫や風景を撮った写真がそれの三倍。残りの四枚だけ、人物写真だった。炬燵で半纏を着てミカンを剥いている祖父母の写真が一枚。親戚の赤ん坊の寝顔が一枚。その赤ん坊を腕に抱き、抱き方はこれで間違っていないかと不安げな顔で撮影者を見る僕の写真が一枚。そして最後は――藤崎だ。
 撮って欲しい、僕が撮った写真を見たいと言ったのは藤崎だった。藤崎は僕の前で服を脱ぎ、背中を向けた。僕が撮ったその写真には痩せた白い背中しか写ってはいなかった。藤崎はそれを確認するとすぐに写真を消し、後には何も残らなかった。それが何となく寂しくて、僕はもう一度藤崎にカメラを向けた。
『藤崎』
 呼び掛けると、藤崎はカメラをじっと見つめた。その目は何となく不安げで、頼りなく、微かに怯えているように見えた。すぐにカメラを下ろすと、藤崎は撮らないのかと尋ね、僕が頷くのを見て服を身に着け始めたが、それから一時間ほどして、撮らないのかと僕にもう一度尋ねてきた。
『撮られるの、あんまり好きじゃないのかと思って』
『今は別に。撮りたいなら撮れば』
 藤崎は僕の携帯を取り、カメラを起動して僕に差し出した。受け取るのを躊躇っていると藤崎は手を引っ込め、カメラを自身に向けてあっさりと一枚撮り、僕の手に携帯を戻した。
『消すなよ』
 写真の中の藤崎は、ピースの形にした手を頬に当て、口角をにっと上げて笑っている。目元が笑っていないせいで少しぎこちない雰囲気はあるものの、他の写真の中に混じっていてもおかしくない程度には普通の写真だった。
 僕はその写真を眺めながら色々なことを思い出し、考えていた。
 藤崎は――学校の行事で撮られる写真には滅多に写っていなかった。カメラマンが雇われる合宿や修学旅行といった行事では大抵藤崎は休みで、それは入浴時に痣を見られたくなかったからだと僕は思っていた。そして瀬川に暴行を受けたときの映像や、過去に脅しに使ったという人々の後ろ暗い秘密を捉えたカメラは、それ以前に予兆を感じて仕掛けていたのだと思っていた。
 もしかしたら本当にそれだけだったのかもしれない。でも本当に、そうだろうか?
 母親と『グル』に失望しても、藤崎は悪霊から解放されてはいなかった。『生まれ変わった』あの日まで、藤崎はずっと彼らの言う悪霊に取り憑かれたように生きてきた。そこにいるのではないかと、自分は取り憑かれているのではないかと、否定しながらも疑いは捨て切れずにいた。
 だから藤崎は――カメラを通して、自身に取り憑く悪霊をずっと探し続けていたのかもしれない。いる筈のない悪霊が、いるわけがないと否定していた悪霊が、カメラを通して姿を現すのではないかと思い、自分が過ごす場所にカメラを仕掛け続けていたのかもしれない。
 写真の中の藤崎をじっと見つめる。瞬きをしない二つの目が僕を見つめ返す。暫く操作を忘れて見つめ合っていたせいで画面が暗くなったが、すぐに画面がぱっと明るくなり、間髪入れずに聞き慣れた着信音が流れ出した――心臓が口から飛び出そうになる。藤崎からの着信だった。
『悟? 俺だけど』
「うん」
『月曜。したい』
 何を、とはお互い口にしなくても分かっていた。
「うん……月曜がいいの?」
『明日は見舞いに行くんだろ』
「ずっといるわけじゃないよ。もう手術も終わってるし、あんまり長居しても迷惑になるから。三時くらいに、会う?」
 本当は病院を出た後、家族四人に祖父を入れた五人で食事をし、祖父母の家で夜まで過ごす予定だった。それを口にしなかったのは、何となく藤崎を一人にしたくなかったからだった。
『会う。俺の家だったら、どれくらいいられる?』
「月曜、藤崎の家から学校に行ってもいいよ」
『……なら泊まりで。自分で抜くなよ』
「うん。藤崎」
『なに』
「好きだよ」
『……ふーん。じゃあ明日』
「うん。おやすみ」
『おやすみ』
 微かに息を吐く音が電話の向こうから聞こえた後、通話が切れた。僕は携帯を手にしたまま、暫くぼんやりと天井を見上げていた。眠気に飲み込まれる前にまたノックの音が聞こえる。返事をする前にドアを開くのは、家族の中で一人だけだ。
「お兄ちゃん? お母さんがお使い行ってきてって。豆腐買い忘れたんだってさ」
「分かった」
「何かお菓子も買ってきて。紅茶と一緒に食べたいから」
「いいよ」
「ありがとー。あ、今度は財布忘れないでね」
「忘れたの去年の一回だけだろ。ちゃんと持って行くよ」
「食べ物の恨みはそうそう忘れられないから。じゃあお願いしまーす」
 ドアが閉まる。僕は腰を上げた。



 一人外を歩きながら、これからのことを考えた。
 不安はある。数えきれない程あった。そしてどれも簡単には消えそうになかった。
 それでも――多分、もしかすると、乗り切れるのかもしれない。何もかもとはいかなくても、きっと全部は駄目にならない筈だ。絶望的な淀みの中で溺れかけていた去年と比べれば、随分ましな状況の中に藤崎と僕はいる。
 きっと由利子さんと青葉さんは、藤崎に好ましい影響を与えるだろうという予感があった。寒々しいあの家で暮らすよりも、あの二人の家に行く方が藤崎にとってはずっといい筈だ。
 藤崎の話には、まだ欠けたピースがあるように思えた。藤崎の語る話の中に唯一人、全くその存在を現さない人物がいたからだ。もしかしたら彼は本当に存在しなかったのかもしれない。あるいはまだ話の中で明かされる時期にないのかもしれない。いずれにしてもあの二人は、藤崎の過去を、衝撃的で、残酷で、悲惨としか言いようがない過去を僕よりも確実に知っている。何が起こり、何が起こらず、どんな形で終わったのかを知っている。そしてそれを受け入れ、藤崎を家族として迎えようとしている。藤崎がどう答えを出すかは分からないが、どちらにしても、二人が藤崎を簡単に突き放し見捨てることはないだろう。
 僕は――藤崎を傷付け、家族を危険に晒した。最善の道を選ぶことは出来ず、精神的にも不安定で、自分が何をしているのかもよく分かっていなかった。今も完全に分かっているとは言えない。もしかしたら明日にもバランスを崩して、一気に酷い状態に落ち込んでしまうかもしれない。
 それでも前よりはずっといい状態にあることは、自分でも分かっていた。明日を呪うことも、悪夢に魘されることも、酷い妄想に囚われて身動きが取れなくなることも、空想の中で恐ろしいことを実現しようと思うことも今は殆どなくなったからだ。
 僕は少しずつ現実を取り戻そうとしている。
 そして理解し始めていた。現実の中で起こったのは僕が想像していた絶望的な未来ではなく、藤崎も、僕も、家族も危機を乗り越え、何とか生き延びたということだと。
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