26.二人の少年

 ヒール付きの靴が階段を踏む音がする。棚の埃を払いながらガラス扉の向こうにちらりと目をやった。三階の住人か、それともお客さんだろうか――いや、どちらでもなかった。目が合うと彼女は片手を上げ、ひらひらと軽く振った。
「仲野さん。どうしたの?」
 店に入ってきた彼女にそう声を掛けたのは、昨日大学で顔を合わせていたからだ。何か用があって訪ねてきたにしても、仲野さんの家から少し距離がある僕のバイト先にわざわざ足を運ぶより月曜を待つ方が良かっただろう。
「うん、悟くんに用があって。あと久し振りにお店見たいなーって思ったから」
「用?」
「これこれ」
 仲野さんはやけに大きなバッグから薄い包みを取り出した。端にリボンが掛かっている。受け取って手に持った感じは、どうも書籍のようだった。
「もしかして藤崎への?」
「そう。本当は金曜に渡すつもりだったんだけど、家に忘れてて。誕生日プレゼントだし、あんまり遅くなるのは嫌だったから……一応来るよーって連絡したんだけど、見た?」
「あー、見てなかった。昨日充電忘れたせいで電源切れてる。ごめん」
「ううん。それ、お願いしてもいい?」
「うん。渡しとくよ」
「ありがとう。お願いします」
 仲野さんはにこりと笑い、僕が掃除をしていた棚に目をやった。僕がプレゼントを奥に置いて戻ったとき、仲野さんは一枚のスカーフをじっと見つめているところだった。
「それはチェコで仕入れたものだって」
「綺麗だね。あんまり他じゃ見ない感じ」
「うん。青葉さん……、オーナーはそういうのが好きだから。もし欲しいんだったらだけど、従業員割引で四割引き出来るよ。オーナーが友達に使っていいって言ったから」
「迷惑じゃない?」
「全然。そもそも店に来る僕の友達って仲野さんしかいないし、家族も使っていいのに誰一人として来ないから」
「柚花ちゃんも?」
「柚花は一回来ただけ。しかも趣味じゃないって言ってすぐ帰った」
「あー、確かに柚花ちゃんの趣味とは違うね。私は好きだけどなぁ」
「二人が仲良いのが不思議だよ」
「正反対だから合うのかも」
 柚花と仲野さんは、僕と仲野さんが友人として付き合うようになってから暫く経った頃、二人で遊ぶようになった。高校に入って見た目も趣味も完全にギャルと化した柚花と、大学に入ってごくシンプルな服装と化粧を好むようになった仲野さんは、一見合わないように見えて実際は親友と表現してもいいくらいに仲が良かった。柚花は仲野さんにかなり懐いていて、自分が二十五になったら二人でドレスを着て結婚式を挙げ、将来的には子どもを三人、一人目は自分が産み、二人目は僕の精子提供で仲野さんが、三人目は養子を貰うのだと本気か冗談か分からないようなことを言っている。
「……よし。じゃあ買います」
 仲野さんは意を決したように言った。
 会計をして階段まで仲野さんを見送った。これから仲野さんは柚花と二人で一泊二日の旅行に出掛けるのだという。早速スカーフを首に巻いた仲野さんは、来たときと同じように手を振って去っていった。


 僕が青葉さんの店で働くようになったのは、受験を終えてすぐの頃だった。僕がアルバイトを探していることを藤崎経由で知った青葉さんから、良かったら店で働かないかと提案されてのことだった。店は僕が通う予定の大学からはそう離れておらず、時給も良かった。それに店は青葉さんの家――藤崎が暮らす家から近かったので、僕は他県に引っ越したアルバイトの一人と入れ替わりに店で働き始めた。
「ヨッシー、俺荷物出しに行ってそのまま帰るから、時間が来たら一人でお店閉めてもらっていい?」
 奥からのそりと顔を出したのは、青葉さんの弟の達利さんだ。
「分かりました」
「よろしくーお疲れー」
「お疲れ様です」
 達利さんは近くにある作業場から一日二回やってきて、店の通販業務だけを黙々とこなして帰っていく。青葉さんや藤崎に聞いたところによると、本業の息抜きに、海外に出ていることの多い青葉さんの仕事を手伝っているらしい。絵画や彫刻、フィギュアの原型作りなど、美術関係の仕事を色々と手掛けている達利さんは、かなり個性的な人だ。いつも寝癖の酷い髪にスウェット姿で、大抵の場合イヤホンで音楽を聴いている。口数は少なく、表情もあまり変わらない。初めは怒っているか嫌われているのかと思っていたが、段々とそれが達利さんの『普通』なのだということに僕は気付いた。
 藤崎が僕や仲野さんの通う大学ではなく写真学科のある大学に進学したのは、達利さんからの影響もあったらしい。僕達の通っていた高校の生徒の半数は同じ大学を目指していて、藤崎の当初の志望校もその学校だった。クラスでも上位の成績を取っていた藤崎の方向転換は担任や進路指導の教師の強く執拗な反対にあったが、藤崎は決して譲ろうとはせず、保護者である青葉さんや由利子さんの支持を受けたこともあって、最終的には成功した。
 最初に打ち明けられたとき、全く驚かなかったと言えば嘘になる。将来を決定づける選択で、藤崎が『写真』を選んだということに、僕は少なからずショックを受けた。それが藤崎にとってどういう意味を持っていたのか、十分過ぎるほど知っていたからだ。
 藤崎は、心に傷を負っている人が心理学を学ぶようなものだと言った。そのときは理解出来なかったが、藤崎が達利さんの知り合いから譲り受けたカメラを持ち、ファインダーを覗き込む姿を見るうちに、僕は運命的なものを感じるようになった。そして藤崎の選択は藤崎自身にとって、僕が感じ取った以上の意義があることなのだと思った。


 閉店間際に訪れたお客さんを見送って暖簾を下ろした後、藤崎に電話を掛けた。
『終わった?』
 ワンコールで繋がった。
「今終わったところ。藤崎はまだ家?」
『外。アキの散歩から帰ってるところ。もうマンションの前』
 アキは三か月ほど前から青葉家で飼われている犬だ。アメリカンエスキモードッグという犬と何かの雑種らしい。白くふさふさした毛に覆われた五歳の雄犬は、すっかり藤崎に懐いていた。
「じゃあそっちに行くね」
『いや、車使っていいって言われたからそっちに車持ってく』
「分かった」
 通話を切り、閉店作業を済ませて階段を降り始めたとき、ちょうど車が下に停まった。グレーの軽自動車。由利子さんの車だ。
「お疲れ」
 藤崎は運転席から手を伸ばしてドアを開けてくれた。
「ありがとう」
「腹は?」
「少しだけ。藤崎は?」
「俺も同じ。なら近場じゃなくていいよな」
「うん」
 店は僕が入って少し経った去年の七月から、一時間半だけ営業時間が延びた。一月の終わりのこの時期、外はもう真っ暗だった。冬の夜の冷たい空気の中、車がゆっくりと走り出す。
「仲野さんから誕生日プレゼント、預かったよ」
「絵里奈から? 何?」
「写真集だって。春休みのヨーロッパ旅行のときに買ったって言ってた」
「ふーん? つかあいつマメだよな、毎年。お前も貰ってるだろ」
「うん。今年は僕がフランス語の勉強してるから、ってフランス語の小説を貰ったよ」
 仲野さんと僕達は、高校三年になっても同じクラスだった。
 藤崎は僕や仲野さんが戸惑うほどマメに仲野さんに話し掛け、交流を持ち、いつの間にか仲野さんと僕達は友人同士として付き合うようになっていた。その時はどんな意図があってのことなのか分からなかったが、進学後に本人の口からきいたところによると、藤崎は仲野さんが僕の女避けになると思ったらしかった。仲野さんのような女の子が側にいれば、大抵の人間は声を掛けるのも諦めるだろう、と。
 文学部の僕と教育学部の仲野さんは常に一緒にいるわけではないが、昼食を一緒に取ったり、たまに被った講義では隣同士に座ったりすることが多い。付き合っているのかと尋ねられれば二人とも違うと答える。仲野さんは大学の外に年上の恋人がいて、僕は藤崎と付き合っているからだ。それでも何となく周りにそういう関係だと思われている節があるのは、大学では互いよりも仲のいい異性がいないせいなのだろうと思う。
 女避けに、と藤崎が仲野さんと交流を持った理由を話したとき、驚くべきことに、仲野さんもその場にいた。仲野さんは少し考えるように黙った後、今はどうして自分と付き合っているのかと藤崎に尋ね、藤崎はこう答えた――自分にとって純粋に友人だと言えるのはお前だけだから、と。
 それで仲野さんは、今も僕達と友人関係を続けている。


「先月末、俺いなかっただろ」
 外より少しまし、程度だった車内の温度がすっかり温まった頃、藤崎はそう切り出した。
「由利子さんと出掛けてたんだっけ」
「そう。二人で出掛けてた」
「どこに行ってたの?」
「墓参り。兄貴の」
「……誰のお兄さん?」
「俺の兄貴」
 言葉を失った。僕の沈黙の意味を、藤崎は正確に理解した。
「お前に兄貴なんかいないって言ったのは覚えてる」
 藤崎はハンドルを持つ自身の手を見つめながら言う。信号は赤だった。
「嘘を吐こうと思ってそう言ったわけじゃない。でも本当のことを言ってたわけでもなかった」
「……どういう意味?」
 藤崎は横目で僕を見やった。
「話、長くなるけど。今聞く?」
 頷くと、藤崎は後部座席からコンビニの袋を取って僕の膝に置き、もし空腹に耐えられなくなったときは中のサンドイッチやおにぎりを適当に食べていいと言った。そして、
「兄貴のこと、ずっと忘れてたんだよ。アキがうちに来るまで」
 そう静かに語り始めた。



 由利子さんの友人から藤崎が譲り受けた犬は、新しい名前に慣れず、前の飼い主がつけた名前以外を自身の名前と認識出来なかった。
 『アキ』。それが白い犬の名前だった。
 そして藤崎が生まれる四年前に生を受け、今の藤崎よりも若い歳で亡くなった藤崎の兄の名は、輝く人と書いて『アキヒト』といい、友人たちからはよく『アキ』と呼ばれていた。
 犬と兄の名が偶然重なったことに、藤崎はすぐには気付かなかった。よくある名前だ。今までのクラスメイトや最近テレビによく出ている俳優にも同じ名前の人間がいる。藤崎が兄の名を、兄の存在を思い出したのは、犬を飼い始めた数日後、座り心地の良いソファに座り、高三からの付き合いのカウンセラーと話をしているときだった。
 彼女との会話の中で藤崎は、犬の名前から受けた微かな違和感、靄のかかった感覚から、自身の思い出の中に兄の存在を偶然『取り戻した』。といっても完全に忘れ去っていたわけでも、無意識の中に完全に閉じ込められていたわけでもなかった。彼はこの世から跡形もなく消滅したわけではなかったし、藤崎の脳の記憶領域から失われてもいなかった。藤崎の無意識から殆ど存在しなかったかのように見せかけられ、誤魔化され、その不在を別の存在で繕われていただけだった。

 藤崎の兄は快活聡明で、身体能力や対人スキルにも優れていた。同年代の友人は多く、大人たちの中でも萎縮せず落ち着いて会話が出来るような子どもだった。誰もが憧れる人気者、老若男女に好かれる類い稀な資質を備えた少年。
 瀬川や藤崎には冷淡な態度を貫いた祖父も、彼にはそれなりの愛情を注いだ。といっても普通の祖父のようにではなかったが――少なくとも、名前を呼び、物を買い与え、期待をする程度には可愛がっていた。人らしい感情を持たない男でさえそうだったのだから、母親が彼に向けた愛情の大きさは容易に想像出来るだろう――彼女は長男を全ての基準にした。当時から家を空けることが多かった夫の言葉以上に彼の言葉を求め、頼り、信用した。
 藤崎にとっても彼は、自身を導く眩い光だった。藤崎に食事を与え世話をするように母親に言ってくれるのも彼で、問題が起こったときに藤崎を庇い、誰も傷付かないように解決してくれるのも彼だった。そして幼い藤崎の手を握り、頭を撫で、心が荒れたときに抱き締めて落ち着くまで側にいた家族は、彼一人だけだった。
 藤崎と藤崎の家族の生活は、十数年の間、長男である一人の少年を中心に、何とか上手く回っていた。彼は息子であり兄であり夫であり父でもあった。その双肩に人々の期待を一身に受けながら、一家の精神的支柱としての役割を果たしていたのだ。
 ――そしてそれはつまり、彼が崩れれば、全てが崩壊するということを意味していた。
 歪ながらも均衡を保っていた生活の中に、不気味で異様な顔をした『悪霊』が顔を出した。
 それを連れてきたのは『グル』だった。『グル』はある日突然藤崎家に姿を現し、以来藤崎の母親に会いに度々訪れるようになった。二人はそれより以前からの長い付き合いだったのだという。母親の信仰は長男を得たことで弱まってはいたものの、消えてはいなかった。藤崎の兄は唐突に現れた異物をすぐに受け入れることはなかったが、やがて『グル』を父親のように慕うようになった。
 藤崎は、兄が本当に信仰を持っていたのかどうか今でも分からないと言った。彼は母親と共に教団支部に足繁く通い、教団の教えを自身の思想と思考に組み込んだが、それは母親の愛情を彼自身に繋ぎ止める為だったのかもしれないし、『グル』の期待と信頼に応える為だったのかもしれない、と。
 藤崎を裸にし、冷たい水の中に沈め、悪霊を払おうとしたのは、藤崎に触れることすら恐れていた母親ではなく――それまで藤崎を守っていた兄の方だった。彼は藤崎を傷付けるとき、これはお前の為だと言い聞かせた。こうしていればいつか全てが良くなる筈だと、何度も繰り返した。
 優しく体を抱き締めた後に冷たい目で藤崎の背中から浮き上がる『悪霊』を見下ろした兄が、他の誰かの愛情を勝ち取る為に弟を犠牲にしていたのだと思うよりは、誰のことも救わなかった神と『グル』を信じてしまったせいだとしても、弟を救う為にそうしていたと考える方が、まだ救いがあるのかもしれない。
 だが僕は――藤崎の横顔を見て、そう考えることは出来なかったのだと思った。かつての藤崎にとって兄は絶対の存在で、その兄が信じているものなら藤崎も信じていた筈だった。だが藤崎は自身に取り憑いているのだという『悪霊』が本当に存在しているのか疑いを抱き、盗んだビデオカメラで姿を捉えようとした。それで安心しようとしたのだ。兄がしているのは正しいことなのだと。
 カメラが捉えたものを、藤崎は兄に見せた。詐欺師である『グル』を追い出せば、全ては元通りになると信じて。だがそうはならなかった。藤崎の兄に問い詰められた『グル』は、話すべき以上のことを話してしまったからだ。
 藤崎の兄は『グル』の血を受け継いでいて――母親と、両親の実の息子である藤崎とは、血縁関係のない全くの他人だった。

 藤崎の母親が恐れていたのは、藤崎そのものではなく、己に流れる血だった。彼女は自身の父親を恐れていた。欲深く残忍な世にもおぞましい男――実の娘を無理矢理犯すだけでは飽き足らず、自分に逆らわない従順な男を夫に宛がい、その不在を見計らって、夫ではなく自身の子どもを身籠らせようとする男を、彼女は逃げることすら出来ないほど恐れていた。
 彼女は父親の目論見通り妊娠したが、男の欲望の権化は、彼女の腹に長く留まることはなかった。彼女は安堵しながら同時に恐れてもいた。父親がそれで諦める筈がないことを知っていたからだ。
 『グル』は彼女を支えながら、いい方法があると彼女に言った。全てを解決する術を、自分は知っていると――『グル』は、ちょうど望まれない子どもをその身に宿した少女のことを彼女に話した。身寄りのない、大人しく従順なその少女が母親になったことを知っていたのは、『グル』、藤崎の母親、教団で少女の世話を任されていた『グル』の姉、『グル』の姉の夫であり町の小さな病院の院長であった男だけだった。
 四人の計画は、概ね上手く行った。藤崎の兄の母親である少女は出産の数年後に町から去り、『グル』と藤崎一家は十数年の間距離を置いた。かくして秘密は守られ、裏切る者はいなかった――藤崎の兄が真実を知ったその日までは。
 少年の心に何が起こったのか、彼が触れた秘密のうちの一体どれが彼に破滅を齎したのか、今となっては想像する他ない。父親のように思い始めていた男が、年端も行かない少女を手籠めにする外道だったことに耐えられなかったのだろうか。それとも母親だと思っていた女性と自身に全く血の繋がりが無かったことだろうか?
 はっきりとそう口にはされることはなかったが、藤崎は兄と母親の関係について――特に『グル』が現れる前の数年、二人の間に流れていた雰囲気について語るとき、何度か強い嫌悪感を示した。実際に現場を目にしたのかもしれないし、ただ感じ取っただけなのかもしれない。藤崎が言外に仄めかした、母親と兄との間にあった家族の絆以上の『何か』は、真実を知った少年の胸の内でどれほど残酷に変容し、深く重く圧し掛かったのだろう。少なくともそれは彼を追い詰めこそすれ、救いや、最後の拠り所となるようなものではなかったことは確かだった。
 『あいつらをナイフでメッタ刺しにして、家とホームに火を点けてやった』のは、藤崎ではなく、藤崎の兄だった。彼は『グル』を問い詰めたその二週間後、町で買ったナイフで母屋にいた祖父を刺し、家に火を放った。そしてその足で自身の家に戻り、予め呼び出しておいた『グル』を刺し、また家に火を放った。その日、普段藤崎の祖父の家で手伝いをしていた女性が休みを取っていたこと、母親がちょうど役場に用があり不在だったことは、きっと偶然ではなかったのだろう。
 二人の男をその手で刺した少年は、服を着替え顔と手を洗い、近くの山に歩いて行った。中で待たせていた藤崎と合流し、二十分ほどゆっくりと何でもない会話を交わしながら木々の中を歩いた後、藤崎に一人で歩いて帰るように言い、藤崎の姿が見えなくなると持参していたリュックの中からロープと折り畳み式の踏み台を取り出して、自らの命を絶った。
 一連の事件で命を落としたのは、結局、彼一人だけだった。木造の家は二棟とも全焼したものの、刺された二人の男はどちらもしぶとく命を取り留めた。本来ならニュースになってもおかしくはない出来事だったが、そうはならなかった。圧力を掛けた男は事件の数年後に孫ほどの年の妻を迎え、火事の焼け跡に何食わぬ顔で家を建て直し、今もそこで暮らしている。
 『グル』の方はといえば、事件後すぐに解体された町の教団支部から他県の支部に移ったのだという。
 当時既に村からも町からも離れていた瀬川は家族の一大事にも無関心で、十年以上前に姿を消した藤崎の兄の母親も村には戻らなかった。
 藤崎一家は事件後すぐに建て売りの家を買い、逃げるように引っ越した。
 そして引っ越した先で――藤崎は僕と出会ったのだ。



「十五分くらい歩いてから、兄貴のところに戻った。でも兄貴はもうとっくにぶら下がってて、死んでるって一目で分かった。兄貴がぶら下がってた木の根元に封筒が二つ立て掛けてあったから、俺は自分の名前が書かれた方だけ持って一人で山を下りた」
 車はまだ走り続けていた。藤崎は何度かペットボトルのお茶で喉を潤し、僕も同じお茶を一回だけ貰った。走り始めて一時間弱の時間が過ぎていた。
「残った一通の方に書いてあったのは、皆に迷惑を掛けてしまったとか、期待に応えられなくて申し訳ないとか、そういうことだったって後から聞いた」
 藤崎宛の遺書には何が書かれていたのか――尋ねるまでもなく、藤崎は答えを口にした。
「俺の方には、『僕は最初からいなかったと、お前の上に兄は存在しなかったものと思って欲しい』――そう書いてあった。だから俺は一回読んですぐ川に捨てて、兄貴のことは考えないようにした。最初からいなかったんだって思い込もうとした。そうして欲しいんだと思ったから……けど」
 僕は藤崎を見た。
「由利子さんは、兄貴はただこの世からも俺の記憶からも消えたかったんじゃなくて、『悪霊』に関して俺にしたことは間違いだったって、あんなことするべきじゃなかったって、そう伝えたかったのかも、って言ってた。遺書だけじゃなくて、二人で最後に歩いていたときも、本当はそう言いたかったんじゃないかってさ」
 外灯に照らされる藤崎の横顔を見て、後悔しているのかもしれない、と僕は思った。兄にビデオを見せてしまったこと。言われるがまま兄を一人にしたこと。山の下で何をしてきたのか、山の中で何をするつもりなのか、それを何の為にするのか、心のどこかで気付いていながら尋ねなかったこと――兄が自分に伝えようとして、終ぞ口にすることが出来なかったのかもしれない言葉を引き出して、赦しを与えなかったことを。自身の行動次第で、兄が自ら命を断つことのなかった未来が訪れたかもしれないと、一度も考えない方が不自然だ。
 思い返してみれば、墓参りをしたという先月末前後、藤崎はいつもより口数が少なかった。僕は何かあったのかと尋ね、藤崎は話したくないと言って僕の服に手を掛けて、ろくに会話もしなかった。
「でももう全部終わったことなんだよ」
「……うん」
「わざわざ『グル』を探し出して事情を洗いざらい聞き出して、あそこにいたときに撮ったビデオを全部見返して、墓参りの前にはあの女にも爺さんにも手伝いやってたおばさんにも駐在所の親父にも話を聞いたけど、兄貴が何を思ってあんな遺書を俺宛てに寄越したのかとか、俺と一緒に歩いてるときに何を考えてたのかとか、誰も答えられなかったし知らなかった。由利子さんが言ったことも俺が思ってることも、結局ただの想像じゃん」
 兄貴は死んでいなくなったから、答え合わせをする機会なんて永遠にない。藤崎は淡々とした口調で言った。
「結局」
「うん」
「今更何やっても無意味なんだよな」
「……………」
 僕は藤崎の話に圧倒されていた。肯定、否定、沈黙、どれを選べばいいのかすらも分からなかった。後ろに流れていく風景をじっと瞳に映しながら、藤崎と沈黙を共有する。
 そしてそっと口を開いた。
「でも、藤崎は……お兄さんのお墓に行ったんだね」
 藤崎は小さく頷いた。
「由利子さんがそうした方がいいって言ったから。二人で行った。すげー小さい墓だった。爺さんが先祖の墓に入れるのを嫌がった上に、一銭も金出さなかったから……、自業自得で刺されて、血の繋がりが無かったって分かっただけで、ゴミみたいに……血の繋がりなんかどうでもいいだろうが」
 それまで冷静を保っていた声が俄かに軋み、語気に怒りが滲む。
「俺は……兄貴と血が繋がってなかったことも、兄貴がやってたことが正しくなかったってことも、別にどうでも良かった。謝って欲しいとも思ってなかった。あいつらが死んで殺人犯になってたとしても、兄貴のことを嫌いにはならなかった」
 藤崎は苦しげに息を吸い込んだ。
「ただ俺は、兄貴と前みたいに過ごしたかっただけだったんだよ。兄貴が存在しなかったなんて、嘘でも思いたくなかった」
 胸が痛くなるような声だった。まっすぐ前を向いていた藤崎は、はっと我に返り、自分自身が発した言葉とその声に驚いているような顔をした。瞬きをすると、その目からはぽろりと涙が零れ落ちた。
「……藤崎、車、どこかに停める?」
「いい」
 藤崎は頬に一筋流れた涙を手の甲で拭い、深呼吸を一つした。
「……後部座席に俺の鞄あるだろ。その中に不織布の袋が入ってる」
「……それ、取ればいいの?」
「そう。取って」
 言われた通りに袋を取った。紺色の不織布の袋はやけに膨らんでいて、ごつごつとした感触をしていた。
「開けろよ」
「うん」
 中に入っていたのは――プラスチックと金属片で出来た何か『だった』と思しき残骸の山だった。
「これ……」
「HDDとフラッシュメモリ」
「……藤崎が?」
「中のデータを完全に消去してから、物理的にも壊した。それで全部。……兄貴のだけ少し残したけど」
「……全部って?」
「高校卒業までに俺が撮って保存してた動画と画像。バックアップ分もそれで全部。作業するときは一度もネット接続してないパソコンを使ってたからネット上にコピーはないし、パスワードと物理的な鍵で管理してたから俺以外誰も触ってない」
 素人目にも修復不可能だと分かるほど破壊し尽くされた記憶装置の山を、僕は見下ろした。
「全部……、あいつの……瀬川のも?」
「あいつのも消した。もう帰ってこねーだろ、あいつ」
 瀬川は――僕達が高二だった年の冬、マンションや複数所持していた車を全て処分し、経営していた飲食店まで全て引き払って日本を出ていった。それは暴力団関係者との間にトラブルを起こした後のことだった。瀬川が散々弄んだ挙句に馴染みの風俗店に紹介した女性の一人が、彼らの怒りを買うような有力者の娘だったらしい。瀬川は彼らの要求する『示談金』の為にあちこちで金の無心をし、最終的に、憎悪していた父親にまで姉を通して泣きついた。その上瀬川は、藤崎が自主的に返却した『慰謝料』全額も手にしたが――それでも足りなかった。
 瀬川と藤崎が最後に会った日の翌日、僕と藤崎の前に瀬川の友人と名乗る男が現れ、事の顛末を話し、瀬川は今後一切日本に足を踏み入れることはなく連絡を取ることも出来ないが、警察には相談しない方が彼の為になる、と言って、リンチを受けた直後だと一目で分かる瀬川の写真を僕達に見せた。数日後に送られてきた、瀬川と瀬川のパスポートの両方が写った海外の空港の写真も、きっと彼の仕業だったのだろうと思う。
 彼がどちら側の人間だったのかは分からない。藤崎や僕に危害を加えることは無かったし、忠告にも威圧的な響きはなかった。だが彼の言う通り、瀬川が僕達の前に現れることは二度となかった。  
「他の動画も消した。……お前のも」
「僕の……」
「お前が教室でオナニーしてる動画も、俺が万引きさせてたときの動画も、裸で外を歩いてる動画も、全部消した。俺の家にいるときの動画も写真も全部」
「…………」
 僕は声を発することが出来なかった。
「お前さ」
「……うん」
「俺が昔お前にやってたこと、考えないようにしてただろ」
「…………」
「お前は口では色々言ってたけど、お前を散々殴って、犯して、脅迫して、ゴミみたいに扱ってたときの俺と、お前と付き合い始めた後の俺を、自分の中でずっと切り離して扱ってただろ」
「そんな……」
「お前が急に俺のことを好きだって言い始めたとき、本気で頭がおかしくなったんじゃないかと思った。だっておかしいだろ。本当にそうだったとしても自分のことをあんな風に扱ってた奴にわざわざ弱み晒すとか有り得ねーし、俺が傷付いたり死んだりしないように馬鹿みたいに気遣ってたのも、俺とセックスして幸せそうにしてたのも、全部……普通に考えたら異常なんだよ」
 僕は今、責められているのだろうか。思考が上手く働かない。藤崎が何を言いたいのか分からなかった。
「けど、俺が昔お前に対してやったことをお前が全部切り離して考えてるんなら説明がつく。お前が俺を、ただ情緒不安定で束縛の激しい彼氏ぐらいに扱ってたのも、俺に俺がお前にやったことの責任を取らせるどころか、謝らせようともしなかったのも」
「……それは、僕も藤崎に酷いことを……」
「だから? それで帳消しになったって? そんなわけないだろ。お前のは殆ど正当防衛だった。それに――」
 藤崎はそこで一度言葉を切り、一拍置いた。
「俺が、あの時お前がああするように仕向けたんだよ」
「……どういう意味?」
「そのままの意味。あんだけ酷くやれば、お前でも俺に反撃してくるだろうって分かってやったんだよ」
「な……何で? 何でそんなこと」
「死にたかったから。殺されるならお前がいいと思ったから」
 ――頭を酷く殴り付けられたようだった。その言葉を藤崎が僕の前で口にしたのは、これまでの付き合いの中で初めてのことだった。
「……けど藤崎は……僕があんなことして……怖かったって」
「嘘だよ。あのときの言葉も、お前の前で泣いてみせたのも演技」
 どくどくと全身の血が震えている。手足はまるで誰かからの借り物のように重たかった。
「何で……今、こんなこと……」
 僕達は、藤崎の兄の話をしていたのではなかったか。どうして今こんな話を自分がしているのか、藤崎が何を思って僕にこんなことを言っているのか、混乱した頭では分からなかった。
「ずっと話そうと思ってた。先送りにしてただけ。けど俺がもし明日事故か何かで死んだり離せなくなったりしたら、いつかなんて無くなるだろ」
「……うん」
「昔の俺がやったことでも責任は俺にある。今の俺は昔の俺の延長線上にあるから。俺はお前に酷いことをしたんだよ。自分が他の誰かにやられたこと以上のことを、お前に対してやった。お前は何も悪くなかったのに、心も体も傷付けて、お前に自分を殺させようとして、何もかも奪おうとした。お前はどこかの時点で俺に殺されたり一生モノの傷を負わされたりしてもおかしくなかった。そうじゃなかったのはただ単に運が良かっただけ。死んでもおかしくなかったんだよ。悟、お前は……」
 車が停止する。一時間以上走って、僕達は元来た場所の近くまで戻ってきていた。店の近くのコインパーキング。
「お前は俺にあんなことをされるべきじゃなかった。俺はお前にあんなことをするべきじゃなかった。俺がお前に対してやったことは……間違いだった」
 耳鳴りがする。声も、自分の息遣いの音でさえも聞こえなくなる。
 頭が真っ白になる――視界が歪む。
 僕は自分が泣いていることに、すぐには気付くことが出来なかった。
 いつの間にかぼろぼろと頬に流れていた涙を拭おうと手を上げ、固まって――息を止めた。顔を少し伏せて、静かに両手で顔を覆う。手の平の下で涙が溢れて、嗚咽が止まらない。自分が今何を感じているのか、何を思っているのかも分からないまま、僕はただ泣き続けた。


 涙が止まった後も僕は暫くの間放心状態で、運転席から藤崎の姿が消え、車のキーも無くなっていることに数分経って気付いた。いつの間にいなくなったのだろう。驚きはしなかった。僕が泣いている間、横に藤崎の気配はなかった。
 多分、藤崎の言う通りだったのだろう。僕は藤崎の全てを受け入れている振りをして、自分の恋人である藤崎と、かつて悪魔だとさえ思った虐待者とを、頭のどこかで切り離していたのだ。そして自分が藤崎から受けた暴力から、心の奥底に穿たれた傷痕から目を逸らし続けていた。考えないようにしていたのだ。僕が、僕と藤崎の関係が、藤崎への気持ちが、上手く行き始めた全てのことが、僕のせいで台無しになってしまわないように。
 藤崎は、自身が、僕を虐げていた少年の延長線上にあると言った。僕が心の底から恐れ、憎み、呪っていた少年は、他の誰でもなく、自分なのだと――どうしてそんなことを言ったのだろう? ずっと今までのままでも良かった筈だ。藤崎は長い時間をかけて新しい家族と良好な関係を築き、あんなに拒絶していた病院にも行くようになった。僕達は暴力や脅しといった望ましくないものではなく愛情で結ばれていて、お互いだけに依存してもいなかった。そのままできっと上手く行った筈だ。全てのことが良い方向に向かっていて、僕達はその方向に進み続けるだけで良かった筈だ。なのに、どうして。どうして藤崎は自分の兄の話をした後に――僕の前から姿を消したのだろう?
「藤崎」
 頭が真っ白になる。
「藤崎!」
 僕は上手く動かない手で携帯をポケットから取り出し、藤崎に電話を掛けた。聞き慣れた着信音が車の中から聞こえる。鞄は後部座席に置かれたままだった。
 携帯を手に持ったまま車を飛び出した。藤崎。藤崎はどこに行ったのだろう。僕の元を離れてからどれくらいの時間が経ったのだろう。見渡す範囲に藤崎らしき人の姿は見えない。パニックに陥った頭を冷静に戻そうとするが、出来なかった。僕は夢中で足を動かし、走り回って、やがて店の前に辿り着いた。僕が電気を落とし、シャッターを閉め、施錠した店の前に。
「……藤崎」
 藤崎は店の前に座り込んでいた。声を掛けると顔を上げ、驚いたように目を見開いた。
「お前、何で……」
「良かった……生きてた」
 体の力が抜けて、僕はその場に座り込んだ。藤崎は入れ替わりに立ち上がって、僕の前にしゃがみこんだ。
「……『生きてた』って?」
「藤崎が……、あんな話をした後だったから……、もしかして、死ぬつもりでいるんじゃないかと思って……」
「馬鹿だろお前」
「うん……」
 藤崎は僕の体に腕を回し、安堵から涙を流し始めた僕を抱き締めた。僕は藤崎を抱き返し、何とか涙を引っ込めた。
「……違ったの?」
「違う」
「そっか……」
「お前を自由にしただけ」
「自由?」
 僕が顔を上げると、藤崎は僕の目を見つめた。
「お前は俺とずっと一緒にいるって約束したけど、あれは俺がお前に嘘吐いた上に、無理矢理縛り付けてたからだろ。だから」
「だから、今の僕にはそうする必要が無いって?」
 藤崎は頷いた。
 ああ、とやっと腑に落ちる。車が元の場所に戻ったのは、僕が自分一人で帰ることが出来るように。僕を一人にしたのは、ただ考える時間を与える為か、自分の感情で僕を引き留めることがないようにしたかったからなのか、どちらかだろう。
「藤崎だって馬鹿だよ」
「何で」
「僕が離れても、藤崎は平気?」
「平気じゃない」
「うん」
「お前がいなくなったら、どうしていいか分からない」
「うん」
「けど俺は……」
 声を詰まらせた藤崎を、僕はきつく抱き締めた。
「僕はずっと藤崎と一緒にいるよ。藤崎もそれを望んでくれてるのなら」
「……望んでる」
「うん。……藤崎」
「なに」
「藤崎が言ったように、僕は多分今の藤崎と、僕を苛めてたときの藤崎をどこかで切り離してた。それでいいんだって思ってた……でも、そうじゃなかった。僕も藤崎も、あのときのことを心のどこかでずっと引き摺ってきたんだって、今になって分かった」
 藤崎は何も言わなかった。微かに、震える息遣いだけが聞こえた。
「今の僕は……藤崎のことを憎んでもないし、怒りもない。でも正直に言うと、あのときの僕は藤崎のことを死ぬほど憎んでた。藤崎のことを悪魔だと思ってた。自分とは違う生き物なんだって思ってた」
 冷たい空気の中で藤崎を腕に抱きながら、僕は二人の不幸な少年のことを想った。背の高い痩せた体の少年と、彼に怯え、そうする自分を恥じながら生きていた少年のことを。
 僕はただ、悲しいと思った。誰にも救われず、救おうとする手を掴むことも、自分から手を伸ばすことも出来ず、互いに傷付け合った二人のことを、悲しいと思った。
「あんなこと、無い方が良かったと思う。僕にとっても……藤崎にとっても。あのとき僕達の間に起こったことは、起こるべきことじゃなかった。でも現実に起こったことは変えられない」
 そう、変えることは出来ない。藤崎がやったことも――僕がやったことも。
 胸に痛みが走る。僕は今でも、倒れた藤崎を見下ろしたときの絶望を鮮明に思い出すことがあった。
 藤崎は、僕が藤崎にしたことは、藤崎自身が仕向けたことだと言った。だがどんな理由があったとしても、あれは絶対に間違ったことだった。僕は自分が過ちを犯したこと――自分が藤崎を傷付けようとしたことを忘れられないし、これからもずっと後悔し続けるだろう。
 そう思ったことは、口にはしなかった。僕の後悔が藤崎にとって下ろすことの出来ない重荷になることは分かっていた。そして藤崎が、僕が口にしなかったことを既に理解してしまっているだろうことも。
「……俺はお前に何をしてやれる?」
 僕は藤崎から少し体を離し、顔と顔を近付けた。
「もうしてくれたよ」
「何を?」
「色んなこと。今日僕に、話をしてくれたこと」
 今僕の前にいる藤崎は、出会ったときに比べればずっと健康的で、穏やかな顔つきをしている。そこに恐ろしく残忍な笑みや空虚な怒りが唐突に浮かび、僕を脅かすことは、今はもう決してない。
 藤崎の目に映る僕は、今も長身の藤崎より背は低かったが、高校生活の終盤でそれに少しだけ近付き、体重は筋肉を付けたことで藤崎より重くなった。あのとき藤崎を守ろうとしていた細く頼りなげな腕は、今では幾らか力強く見える。
 僕達はあの悲しい二人の延長線上にいるのだ。
「ありがとう」
 僕は自分が車の中で流した涙の理由にやっと気付いた――僕がずっと押し殺し、考えないようにしていた記憶が、誰にも救われることがなかった昔の僕自身が、あのときやっと救われたのだ。
「藤崎」
「……なに」
 僕は藤崎の頬を撫で、目元に落ちた涙を拭い、キスをして微笑んだ。
「御飯、食べに行こうよ。僕、今やっと自分が凄くお腹空いてるのを思い出した」
 藤崎は僕が言ったことの意味を理解しかねたかのように僕の目をぼうっと見つめた後、ふっと噴き出した。
「俺も。すげー空いた」
 僕達は笑いながら立ち上がった。二人で階段を降り、ゆっくりと車まで歩いていく。
「どこに行く? もう近場でいいだろ」
「いいよ。何か買って僕のアパートで食べてもいいし」
「じゃあそれで」
「うん。……あのさ、藤崎」
「なに」
「僕、藤崎のこと好きだよ」
「知ってる。お前、三日に一回はそれ言ってるから」
「そんなには言ってないよ」
「言ってる」
 そうかなと真剣に考え始めたとき、藤崎は立ち止まった。
「悟」
「うん」
「こういうの性に合わねーから普段は言わないけど」
「うん」
「俺はお前のこと、愛してるから」
「……うん」
 藤崎からそんなことを言われたのは初めてだった。そして僕がそんな言葉を誰かに掛けられたのも、今までの人生でこれが初めてだった。
 胸に熱いものが広がり、涸れるまで出し切ったと思っていた涙がまた溢れそうになる。これほど深く、強く、息も出来なくなるような幸福感を味わったのは、生まれて初めてだった。
 藤崎が僕に開いてくれた全てのこと、そして今与えてくれた言葉に、僕は途方もない価値を感じた。この先何があったとしても、僕は藤崎を想い続け、全てを捧げることが出来るのだと思った。今この瞬間に僕の全てが――今までの人生の全てが報われた気分だった。
「……僕も。僕も藤崎のこと、愛してるよ」
「知ってる」
「藤崎が知ってる以上にだよ」
「何だよそれ」
 藤崎は優しく笑いながらそう言い、僕の手を取って歩き出した。
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