24.存在

 次に目覚めたとき、世界はまた暗闇に包まれていた。藤崎は僕の腕の中で眠っている。あれは夢の中の出来事だったんだろうか――それにしては、残った記憶が鮮明過ぎる気がした。
「あ」
 腕の中の体は裸だった。それに気付いた瞬間、思わず声を上げてしまった。夢じゃない。あれは現実の中の出来事だ。
 藤崎は僕の声で目を覚ましてしまったらしく小さな唸り声を上げた。それから殆ど間を置かずに藤崎の腕はヘッドボードの棚に伸ばされ、照明のリモコンのボタンを押した。ぱっと明るくなる。眩しさに目を瞬いていると、唇に柔らかいものが一瞬だけ押し当てられた。
「……おはよう、藤崎。……体の具合はどう?」
 返事は無かった。藤崎は布団の下から自身の下着を無言で探り当てて身に着け、ゆっくりと立ち上がって、クローゼットから見覚えのあるデジタル時計を取り出した。
「全然早くない」
「何時?」
「昼の三時過ぎ」
「……三時?」
「十五時十七分」
 時計は前回来たときと同じ場所に収まった。藤崎はベッドに戻り、カーテンを開ける。それでも外からの光は差し込んでこない。その下に張られた黒のビニールが窓を隙間なく覆っていたからだ。
「……これ……何?」
「遮光用」
 藤崎がビニールをびりびりと容赦なく剥がしていくと、ようやく外が見えるようになった。ビニールを剥がし終わった後は最初のカーテンの下に隠れていたレースカーテンだけが戻された。一見シンプルなレースカーテンには、よく見ればアリスとチェシャ猫と思しきシルエットが潜んでいた。
「藤崎もあれからずっと寝てた?」
「寝てた。……風呂は?」
「……一緒に入る?」
 沈黙。藤崎はカーテンに軽く指を引っ掛け、膝立ちで暫く窓の外を見つめていた。太陽の光に照らされた横顔は、寝起きだというのに見惚れるほど美しく見えた。
「入りに行く。出掛ける用意しろよ」
 唐突に僕に目を向けて藤崎は言った。僕はその言葉の意味をよく理解しないまま頷いてしまった。藤崎がまたベッドを降りて着替えを始めたのを見て、やっと『外の風呂に』入りに行くと言ったのだということに思考が追いついた。



 身支度を整えて軽く食事を取り、部屋をざっと片付けてから家を出た。バスで二十分、それから徒歩での移動に移った。
 藤崎の歩みは普段と比べて幾らか遅く、足取りはややぎこちなかった。昨夜の出来事が影響しているのだろうか。
「お前また余計な心配してるだろ」
 横目で睨まれた。
「だって」
「手」
「手?」
 藤崎は僕の手を取り、握った。そして何事も無かったかのような顔で歩き続ける。歩道のすぐ横にある畑では年配の女性が腰を屈め黙々と作業をしているところだった。視線はこちらに向けられるだろうか――いや、彼女が僕達に意識を向けることはなかった。
「もうすぐ着くから」
「……藤崎がよく行くところ?」
「たまに。一か月に一回とか」
「結構行ってるんだね」
「全然流行ってねーからいつ行っても空いてて都合良いんだよ」
 バス停から約十分。そこからここまでは殆ど民家と田畑しかなく、遥か遠くにガソリンスタンドらしき施設の姿が一つ見えるだけだった。案内の看板すらない。車の通りは勿論、人の姿もあまり見掛けなかった。つまり立地が悪いのだ。
 手を繋いだまま入浴施設に到着して中に入った。そこで藤崎はすっと僕の手を離し、無人のフロントにあるベルを鳴らした。奥からはテレビの音が聞こえてくる。
「はいはい。あら。久し振り」
 数分後に置くから出てきたのは、ふっくらとした体型の中年の女性だった。
「お久し振りです。大人二人お願いします」
「三千円ね。今日も空いてるから私が上がるまではいていいよ。六時半までね。半以降はあのうるさいおばさんに替わるから」
「はい」
 千五百円ずつ支払うと、女性はカウンターの下から鍵を取り出した。
「いつものところでいい?」
「はい」
「あ、ドライヤーが故障してて弱風しか出ないんだけど、大丈夫だった?」
「大丈夫です」
「そう。ゆっくりしてって。お友達も」
「ありがとうございます」
 僕も藤崎と一緒に頭を下げ、藤崎が歩き出した方向に続いた。何となく振り返ったが女性は既にフロントから姿を消していた。きっと奥にあるテレビの前に戻ったのだろう。

 通路には誰もいなかった。声も聞こえない。通路に出てすぐ右手に『大浴場はこちら』と書かれた案内があったが、その上に『大浴場の営業は夕方五時からに変更致しました』という手書きの張り紙が被せてあった。
 まっすぐ進み、突き当り左の扉の前で止まる。扉の上に留められた木の板には『鳳凰の間』と刻まれていた。
 施設のこれまでの印象は清潔ではあるが至る所が古びている、というもので、扉の先もその印象を裏切らない状態だった。脱衣所と休憩所を兼ねた部屋には三人掛けのソファがあり、元は立派だったのだろう面影を残しつつも何となく色褪せ艶がなく、代わりに煙草の灰が落ちた跡や破けた箇所がいくつかあった。ソファの前にある足の短いガラスのテーブルは傷だらけで、鏡台やタオルを入れた籠やドライヤーなどの備品はどれも年代物の雰囲気を漂わせている。
 だがガラスの扉を開けた先にある風呂は、なかなかのものだった。
 シャワーは二つ。深みのある色の石で出来た床、浴槽も石造りで二人で浸かるには十分過ぎる広さがあった。天井は浴槽の少し先で途切れ、木の壁を背後にした小さな庭が趣のある光景を作り出し、空から差し込む光が温かな雰囲気を醸し出していた。
「……温泉?」
「普通の水道水」
 僕達はシャワーの前に並んで腰を下ろして体を洗い始めた。僕は一旦体と頭を流してから目の前の棚にある三つのボトルに手を伸ばした。それには種類を判別する為の文字が印字されていたがどれも薄くなっていて、どれがシャンプーなのかが分かり辛かった。悩んでいる内に藤崎はさっさと髪を洗い始めた。
「藤崎、これどれが――」
 隣の椅子に座った藤崎は、誇張ではなくゴシゴシと音を鳴らし、上げたままの頭を物凄い勢いで掻いていた。
「何?」
「……どれがシャンプー?」
「濃い緑色のボトル。リンスが薄い緑色。ボディーソープが白」
「ありがとう。……あの、藤崎……それ痛くない?」
「それって?」
「頭……、いつもそんな風に洗ってるの?」
「そうだけど。なに。何かおかしいって?」
「いや……、分からないけど……、痛そうだから」
 それも染めたばかりの頭だ。頭皮が剥げそうだ、と思った。
 藤崎は正面を向いたまま沈黙し、手を下ろした。
「じゃあ洗って」
「……、僕もそんなに上手くないよ」
「別にいい」
「……分かった」
 椅子を持って藤崎の後ろに回り、少し前のめりになって頭に手を伸ばした。
「目、閉じてる?」
「開けてる」
「閉じて」
「何で?」
「泡が目に入るから……閉じた?」
「閉じた」
「痛かったら言ってね」
 藤崎は頷いた。
 頭を洗い始めても、藤崎は文句を言うどころか全く口を開かず、殆ど身動きもしなかった。なされるがまま、完全に身を委ねていた。僕は初め、遠い昔妹の髪を洗っていたときのことを思い出していた。彼女は落ち着きがなく、悪戯っぽく頭を振ったり、まだかまだかと文句を言いながら足踏みをしたりしていて常に騒がしかった。藤崎とは違う――思い出が頭から消えると、藤崎のうなじ、そこに薄らと浮かんだ骨の形が、妙に艶めかしく見え始めた。
 ああ、僕達は昨夜セックスしたのだ。
「……痒い所、無い?」
 声は裏返らなかっただろうか。
「別に」
「一回流すから……、頭、下げて」
 言う通りに頭を垂れた藤崎の髪を、中腰になって流し始める。頭の中に展開し出した薄暗闇の中の光景から意識を逸らそうと内心必死になりながら、何とか泡を落とし切る。リンスは自分でやってもらおうかと思いつつシャワーのお湯を止めたところで、唐突に藤崎が振り返った。
「――」
 腕をぐっと引かれ、避ける間もなくキスをされた。腕を引っ張る腕の力に負けて床に膝を突くと、藤崎は体を密着させてきた。藤崎は――僕と同じ状態になっていた。それに気付いた瞬間、僕は片手を藤崎の頬に手を伸ばし、もう片方を腰に回して、性急な口付けに応え始めた。ひやりとした空気が急に真夏の風に変わり、僕の体を熱くする。藤崎の中に入りたかった。昨夜味わった圧倒的な快楽を今もう一度味わいたかった。どうしようもなく藤崎と繋がりたくて堪らなかった。
 だが藤崎の手が僕のペニスに触れたとき、頭の片隅にごく僅か残っていた理性が僕の衝動を抑え込んだ。
「……藤崎、待って」
「待てるかよ」
 急に肩を押され唇を離された藤崎の声は、掠れて余裕がなかった。
「ここじゃ……、ここじゃ駄目だ」
「何で?」
「していいところじゃないから……、声も絶対響く。もう来られなくなるよ」
「そんなのどうでもいい」
「藤崎」
 少し大きな声を出すと、藤崎は僕をまた引き寄せようとする腕の動きを止めた。
「家に帰ったら……思いっ切り、しよう」
 今度は、もし隣の風呂に誰かがいたとしても絶対に聞き取れないくらいの小声で言った。藤崎はそれでもまた僕に身を寄せて唇を重ねようとしたが、その直前で静止し、情欲の滲んだ目で僕を見つめた。
「じゃあこれは……どうすんだよ」
 これ。互いの体に触れている、上を向いた二本のペニスのことだ。
「…………水を……掛けて、収めるとか……?」
 働かない頭から何とか絞り出した解決策は驚いたことに、怒りをもって拒絶されることはなかった。
 藤崎が椅子に座り直してシャワーの水を出し始め、温度調節の目盛りをお湯から冷水にまで捻ったので、僕は椅子を元の場所に戻して腰を下ろし、藤崎と同じようにした。温度を確認していた手の平を凍えるように冷たい水が打つと、思い切ってそれを股間に移した。
「…………」
 強い刺激に一瞬硬くなったペニスは、程なくして小さく萎んだ。隣をちらりと横目で見る。藤崎はシャワーの水を止め、リンスに手を伸ばしているところだった。きっと上手く行ったのだろう。
 僕達は暫く無言で頭や体を洗い、何事もなかったかのように振る舞っていた。自分達の欲望を見事に静めたもの――尋常ではない程の滑稽さを無視して。
 タオルでボディーソープを泡立てている最中、僕は強い衝動に駆られ、隣に顔を向けた。藤崎は使い終わったタオルを洗面器で洗っているところだった。手元に向けられていた視線はすぐに僕の方へと移動した。
 無言で見つめ合う。ふいに、藤崎が口角をにっと引き上げた。
「ばーーーーっか」
 藤崎はそう言い放つと、使ったものをさっと片付けて浴槽の方へと歩いて行った。
 残された僕は呆気に取られ、離れていく裸の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。だが前に向き直ってタオルに泡を立てているうちに、何だか物凄く楽しい気分になってきた。そして頬をふっと緩ませ、肩を揺らして笑いを噛み殺しながら、体が冷え切る前に体を洗い始めた。

 体を流し終わって、浴槽の縁に両腕を置いて庭を眺めていた藤崎の隣に腰を下ろした。家の風呂と変わらないただの水道水だと分かってはいても、熱いお湯に肩まで浸かると気持ちが良かった。
「結構雰囲気あるね」
 小さいながらも立派な庭には、大岩や灯篭や十数種類の植物、よく手入れのされた小さな木が絶妙な具合で配置され、侘び寂びを理解するにはまだ早いだろう年齢の僕にすら、何となく好ましい印象を与えた。
「オーナーの趣味」
「そうなんだ……知り合い?」
「お前が受付で会った人の話」
 外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。人の声は暫く耳を澄ましても全く聞こえてこなかった。
「いま店にいる客、僕達だけなのかな」
 藤崎は答えず、代わりに視線を僕に向けた。僕も同じようにすると、藤崎は僕をじっと見つめた。
「ここ、誰にも教えんなよ」
 元々そうするつもりだったので素直に頷いた。
「お気に入り?」
「そう。楽だから」
 フロントの女性を思い出す。藤崎の態度は余所行きのもので、女性に親しみを感じていたり懐いたりしているという風でもなく、女性は藤崎の調子を尋ねることもなかったが、二人の間には何か特別な了解があるように見えた。
「それにあの女と一緒の風呂に入りたくねーから」
「……お母さん?」
 藤崎は一瞬眉を顰めた。
「湯船に浸かりたいときはここに来る。あの人か掃除の爺さんがいるときは長居出来るし」
「本当は一時間だったっけ」
 料金表によると僕達が払った金額は六十分の貸切料金だった。
「閉店までいさせてもらえるときもある。たまに」
 僕はふと、藤崎がこの地域の廃屋や人気のない場所を不思議なほど熟知し、公民館や無人の家の鍵を開け侵入する方法に通じていたのは、僕を誰にも咎められない場所で密かに犯す為ではなく、家に帰りたくないとき、そういう場所で過ごしていたからなのではないかと思った。
 瀬川に襲われた後、藤崎の寝床は、空調や照明の電源が完全に落とされた暗く静かな部屋や廃屋の破れたソファ、不気味に聳え立つ木々に囲まれた土の上だったのかもしれない――想像の中で一人眠る藤崎の姿に、胸が強く締め付けられた。
 僕達はそれから暫く、静かに庭を眺めていた。会話は無かったが息苦しさは感じなかった。熱いくらいの温度のお湯と、外から吹き込み頬を微かに撫でる冷たい風。そしてささやかな緑と時折聞こえてくる鳥の声が、僕達の身と心を優しく癒していた。

 隣に家族連れの客が入り随分賑やかな声が聞こえてきたところで、僕達は風呂から出た。ソファとエアコンのある部屋に戻り、体を拭き始める。備えのタオルは少しごわついていた。
 髪を拭きながら何となく藤崎の方に視線を向けた。グレーのボクサーパンツを履いている途中の、殆ど裸の後ろ姿が目に入った。背中はまだ濡れていて、背骨に沿った一本の線を辿る滴が光って見えた。
 肉の薄い、綺麗な背中だった――果たしてそこには隠さなければならない『何か』があったんだろうか?
「何見てんだよ」
 藤崎はカッターシャツに手を伸ばしたところで視線に気付いたらしく、振り返って言った。怒っている顔ではなかった。
「……昨日の夜のこと、思い出して」
 鏡に映った白い背中。僕に抱き着いて泣き出した藤崎のことを。
 藤崎は手にしたシャツを置いて僕に近付き、真正面に立って僕の背中に両手を回した。温かい手の平が肩甲骨の辺りの肌に触れた。
「お前の背中」
「……僕の背中?」
「黒子がない」
「……そうなんだ?」
「他のところは人並みかそれ以上あるのに、背中だけ一個もない。濃いのも薄いのも」
「知らなかった」
「傷もない。シミもない。何もない……痣も。綺麗な背中」
 『痣も』その言葉を口にしたときだけ、声が低くなった。
「それがお前にムカついた理由」
 ――息が止まりそうだった。
「体育の授業の前、ジャージに着替えるとき、服を脱いだお前の背中が目に入って……その瞬間からお前のことが頭から離れなくなった」
 そう言って藤崎は手を下ろし、肩に埋めていた顔を上げ、僕と目を合わせた。
「…………」
 何を言えばいいのか分からなかった。あまりに唐突で、予期しないことで、まるでいきなり顔面を拳で殴り付けられたような衝撃を感じていた。呆然とするしかなかった――こんな形で明かされることを期待したことは一度もなかったのだから。
「……どうして……どうして今……、そんなこと……」
「今思い出したから」
 藤崎はそう答えて僕から離れ、またシャツに手を伸ばして服を着始めた。僕はその場に立ち尽くし暫くの間何も出来ずにいたが、やがてシャツを手に取り、殆ど機械的に手足を動かして服を身に纏い始めた。

 先に着替え終わり、ソファでくつろいでいた藤崎の隣に腰を下ろした。藤崎は自身の携帯を触っていた手を下ろし、僕に目をやった。
「お前さ」
 僕も藤崎を見た。
「怒ってんの? 俺のこと嫌いになった?」
「……怒ってないよ。嫌いにもなってない」
 嘘を吐いていないか探る目が、僕の目の奥を覗き込む。
「ただ……、びっくりしたんだ」
 僕はずっと、僕が藤崎に選ばれたことに大した理由はないのだと思っていた。例えば自信の無さが見え隠れする目つき、大人しく目立たず目立ちたいとも思わない内向的な人間性、平凡で特徴の少ない容貌、僕を構成するそういう要素のうちの何かが運悪く藤崎の気に障って目を付けられたのだと。
「背中に何も無かったのがきっかけだなんて……そんなの、想像もしてなかった。それに……」
「それに?」
「……それに……どうしてなのか分からない。だって藤崎の背中は綺麗だよ。本当に。何も無い。何かあった形跡も……悪霊なんてどこにもいない」
 藤崎は僕の言葉を否定することも、反対に肯定することもせずに僕の目を見つめていた。睫毛も瞼も唇もまるで固まってしまったように動かなかったが――まだ濡れたままの髪から一滴、水が滴り落ちた。滴はシャツの襟で広がって薄く染みを作った。
「……藤崎」
 耳に掛かった茶髪に手を伸ばした。滴がまたシャツに落ちそうだった。
「乾かした方がいいよ。……、僕がしようか?」
 藤崎が頷くと、寸前のところで留まっていた滴が僕の指に零れ落ちた。

 ソファの向かいにある小さな籐の鏡台には確かに弱風しか出ないドライヤーがあった。藤崎を椅子に、僕は背後に立ってドライヤーを片手に髪を撫でていた。風があまり出ないだけで熱はあったので、火傷させないように気を付けながら短い髪を乾かしていく。染めたばかりの髪は意外に痛んでいなかった。
「あった」
 唐突に藤崎が声を発した。ドライヤーの音は小さく、言葉は明瞭に聞き取れた。
「何が?」
「痣があったんだよ。背中」
 ドライヤーの電源を切った。
「俺の背中一面に、痣が」
「……誰かにそうされたってこと?」
「違う。生まれつき」
「……蒙古斑?」
「あいつらは悪霊の印だって言ってた。悪霊に取り憑かれて生まれたんだって……だから俺はこうなんだって。なぁ、今度はお前が座れよ」
 藤崎は僕の手からドライヤーを取り、腕を引っ張って言った。唐突に会話が途切れたことに戸惑いを感じたが、藤崎の髪はもう殆ど乾いていたので強く断る理由もなく、藤崎と交代に腰を下ろした。背後に立った藤崎はタオルが掛かった僕の肩に片手を置き、それから襟足に触れた。ドライヤーの電源が入る。
 きっと藤崎は誰かの髪を乾かしたことはないんだろうとすぐに思った。そういう手つきだった。
「なに、熱い?」
「……うん、ちょっと熱い」
「これくらい?」
 ドライヤーが少しだけ離れた。
「うん」
 不器用な手つき。だが乱暴ではなかった。
「お前、将来剥げそう」
「……家系的に大丈夫だと思う」
「ふーん? あ、白髪」
「えっ」
「見間違いだった」
「何だ……」
 そんな会話をしている内に髪はすぐに乾いてしまった。藤崎は電源を切ったドライヤーを元の位置に戻した後も暫く僕の髪を指で梳き、そっと撫でていた。
 小さな鏡に映った藤崎の顔には、怒りや、焦燥や、悲しみや、憎悪、僅かな苦痛の色も見えなかった。微笑んではいなかったし、優しい目つきをしているわけでもなかったが、昨日までの藤崎とは――いつ何時感情を爆発させて僕を罵倒し殴り付けてもおかしくなかった人間とは、何かが違って見えた。
 『憑き物が落ちた』。そんな表現が頭に浮かんだとき、藤崎と目が合った。
「飲み物買ってくる。お前は?」
「一緒に行く」
 悪霊なんてものは存在しない。藤崎も言葉では存在を否定していた。
 だが悪霊が『消える』為には、まず存在しなければならない。
 痣はきっと、本当にあったのだろう。昨夜まであったのかは分からない。ずっと前に消えていたものだったものなのかもしれない。それでもそれは一時でも現実に存在し、藤崎の暴力性や強い怒り、憎悪の象徴として扱われてきたのだ。
 痣の中に見出された悪霊の影は、儀式めいた行為を通して痣の存在感と共に消滅し、やっと藤崎を蝕むのやめた。そして藤崎は背負わされていた重荷から解放され、自身が望む形の人間に生まれ変わったと思うことが出来た。
 少し前を歩く藤崎の背中を見つめながら僕は、悪霊はある意味では本当に存在していたのかもしれないと考え始めていた。

 それは藤崎の背中の痣にではなく、それを悪霊の印だと思い、恐れた人の心の中に存在していたのだ。
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