23.土曜日【18:10-】

「俺はそんなこと望んでない」
 藤崎は突き離すように言った。
「お前は何も知らなくていい」
 そしてそう続けた。僕は暫くの間放心し、返された携帯を握り締め、向こう側のガラスに映る風景を目に映しながら拒絶の痛みにじっと堪えた。
 僕は藤崎を妄想の中で半分救った気になっていて、藤崎のことを、映画の中の女性のように僕を導き受け入れてくれる存在だと勘違いしかけていた。だが現実は違う。ナイフを持っているのは僕ではなく瀬川の方だ。僕は藤崎を守るどころか、この手で殴り、殺意を抱き、犯そうとまでした。何度も泣かせ、怒りを誘い、傷付けた。こんな無神経で不器用で何も役に立たない僕が藤崎の過去を掘り起こして、一体何が出来ると思ったんだろう。結局思い込みや衝動で行動して、藤崎の傷を抉るだけじゃないのか?
「悟」
 ふっと我に返る。外だった。腕に痛みを感じて視線を下ろす。藤崎の手に掴まれていた。どうしてだろう――ああ、そうか、車が僕達の前を走っているからだ。横断歩道の信号は赤だった。
「お前何してんの?」
「ごめん、ぼーっとしてた」
「まさか俺から逃げようとしてたんじゃないよな」
 脅すような口調。
「違うよ」
 藤崎は信じていないようだった。僕の腕を掴んでいた手を下に滑らせ、手首を強く握り締め、そのまま前を向いてしまった。逃がす気はないということらしい。地元の駅からそう遠くないこの場所で、知り合いに遭遇する確率はそう低くはない筈だ。藤崎はそれでも構わないという顔をしていた。
 信号が青に変わる。藤崎は僕の手をきつく掴んだ状態のまま歩き出した。
 導かれて歩くうちに、僕の意識はまた映画の光景と現実を重ね始めた。僕は幻想を何とか追い払って深呼吸し、今日一日極力思い出さないようにしていたこと――この後に待ち構えていること、そこで自分が果たすべき役割について考え始めた。



 藤崎の家は外から見ると真っ暗だった。藤崎の両親が不在だということは事前に教えてもらっていたので不思議には思わなかった。留守中に他人の家へ上がり込むことにはまだ抵抗を感じたが、これからすることを考えれば、午後八時には家族が全員揃ってしまう自宅へ藤崎を連れ込む気にはなれなかった。
 門から玄関へと通じる小道に、人感センサー付きのライトで仄かな明かりが灯る。その道を歩きながら、庭に置かれた陶器の人形や妖精、屋外用のテーブルセット、綺麗に咲いた花々や灌木を眺めた。
 きっと手入れをしている人がいる筈だ。両親のうちのどちらかなのかもしれない。美しい庭に注がれた愛情は藤崎にも注がれているのだろうか。
「逃げるなよ」
 鍵穴に鍵を差し込みながら藤崎が言う。
「逃げないよ」
 扉が大きく開く。中の照明が僕達を照らし――玄関を上がってすぐの廊下に立っていた女性の姿が目に入った。
「……は?」
 互いに見つめ合い、沈黙して、初めに声を上げたのは藤崎だった。僕ですら殆ど聞いたことがない、凍えるほど冷たく不機嫌そうな低い声だった。
「何でいんの? 早く出てけよ」
 女性は藤崎によく似ていた。藤崎を女性的にし、二十くらい年を足して、瞳の強さと攻撃的な雰囲気を引いたような人だった。控えめに化粧が施されたその顔は一瞬息を呑むほど美しい。
 彼女はチェック柄のワンピースにシンプルな黒のコートを合わせ、首元には殆ど黒に近い焦げ茶色のストールを巻いていた。長い黒髪が流れるその肩にストールと同じ色のバッグが下がっているところを見ると、今から出掛けるところだったのだろう。
 調和の取れた上品な装い。どこか陰があるように思えるのは、全体的な色合いのせいだろうか。
「あの人が」
 彼女の声はか細く聞き取り辛かった。僕の隣に立つ藤崎の顔からは能面のように表情が失せている。
「どうでもいいから」
「あの人が来てたのよ」
「どうでもいいって言ってんだろ。さっさと行けよ」
「ついさっきまで大和さんが来てたから……あの人に何かしたの?」
「何も」
 藤崎の声は冷たい。
「殺されたくなかったらさっさと出てけよ、ババア」
 廊下に立っていた女性は――藤崎の母親は、それで口を閉じた。目を伏せ、玄関に揃えて置かれていた靴を履いて僕達の前に立つ。藤崎は僕を自身の後ろに隠すようにして彼女が通るスペースを作った。
 横を通り過ぎる瞬間、彼女は僕に視線を向けた。たった今存在に気付いた、といった顔で僕を見る彼女に、軽く頭を下げた。
「あの……初めまして……、こんばんは」
「こんばんは」
 彼女は挨拶を返したが、その顔には微笑すら浮かんでいなかった。不思議そうな、というより何故僕がここにいるのか理解出来ないというような顔だった。僕は「お邪魔します」とか「お世話になります」と言おうとしたが、声が喉に詰まって、言葉は何も出てこなかった。
「さっさと入れよ」
 藤崎は僕を中に押し込み、乱暴に玄関の扉を閉めた。そして鍵を閉め、チェーンまで掛けてから僕の手を解放した。
 断ち切られた空気が気まずい。後ろを振り返って扉の向こうの気配を窺おうとしたが、僕に向けられた藤崎の視線はそうすることを望んではいなかった。

 藤崎は僕を先に立たせ、階段を上るように言った。まだ僕が逃げ出すと思っているのかもしれない。
「藤崎、大和さんって……瀬川のこと?」
 僕は名刺に印字されていた名前を覚えていた。
「だから? どうでもいいだろ」
「よくないよ、また家に来てたなら――」
「俺達には関係ない話だから」
「でも、藤崎のお母さんは」
「あの女の話なんかするな」
「……ごめん」
 玄関での出来事を思い出す。親子の会話に温かみや寛いだところはまるでなかった。母親を前にした藤崎は、まるで彼女との間にある血の繋がりを拒絶し断ち切ろうとしているようだった。
 彼女は藤崎に一体何をしたのだろう。
「あいつは俺に何も出来ない」
 あいつ。一瞬、瀬川と母親のどちらのことを言っているのか分からなかった。
「お前にも。お前にまた触ったら殺すって言ってあるし」
「殺すって……藤崎」
「うるさい」
 二階の廊下は前回と違って埃一つ見当たらないほど綺麗に掃除されていた。相変わらず冷たいフローリングを歩いて行く内にもう一つの変化に気付く――藤崎の部屋のドアに鍵らしきものが二つ取り付けられている。藤崎はまた僕の手首を強く握り、もう片方の手で鍵穴の一つに鍵を差し込んでドアを開け、照明を点けた。
「…………」
 目の前に広がる光景に、思わず言葉を失う。
 淡いピンクと黄色の花がまばらに咲いた白のカーテンが窓を覆い、最後に見たときには何もなかったフローリングの床には、羊の毛を刈り取って置いたようなクリーム色の丸いラグが敷かれている。その上にはブラウンの柔らかそうなクッションが二つ。ラグの少し先、部屋の奥には白枠の全身鏡が置かれ、壁に穿たれていた穴は葉っぱと猫のウォールステッカーで覆い隠されている。
 そして、ベッド。掛け布団や枕などの寝具はカーテンと同じ柄で纏められていて、更にその上にはぬいぐるみがいくつも置かれている。壁際にどんと大きく腰を下ろした大きなテディベアに、皇帝ペンギンの赤ちゃんや可愛らしくデフォルメされたライオンのぬいぐるみ……。
 二週間前とはまるで別の部屋だ。物が散乱していたごみ溜めのような部屋でも、床に置いた物を容赦なく取り除かれて寒々しさだけが残っていたあの部屋でもない。ある場所と間取りが同じなだけの別人が住んでいる部屋ではないかと真剣に思う。
 だってこれはまるで――まるで、女の子の部屋だ。
「これ。スリッパ、お前の分」
 部屋にはスリッパが二セット用意されていた。藤崎は先に足を通し、もう一方を僕の方に軽く蹴って寄越した。藤崎が履いているのは毛玉のようにもこもことした白のスリッパ。僕の分だと渡されたのは、同じデザインのブラウンのスリッパだった。僕は戸惑いながらも中に入ってそれに足を通し、藤崎が部屋のドアを閉め、中から鍵を掛けるのを見守っていた。
「ベッドに座れば?」
「あ、うん……」
 促された通りにベッドに腰を下ろす。藤崎もそうするのかと思ったが、エアコンや鏡の横辺りに置かれていた加湿器のスイッチを入れたり、クローゼットの中からビニール袋や折り畳み式の低いテーブルを出したりと落ち着かない。僕はぼうっとしたまま、ラグの上に置かれたテーブルに、ビニール袋から取り出された食べ物や飲み物、漫画本や携帯ゲーム機などが続々と並べられていくのを眺めていた。
 エアコンから流れる空気が部屋を十分暖めた頃、藤崎はやっと上着を脱ぎ始めた。それで僕は自分も上着を着たままだったことに気付いた。
「お前の」
 藤崎はそう言って僕に手を差し出す。何かを渡す為ではなく、僕の上着を貸せと言っているのだと一拍置いて理解した。慌てて脱いで渡し、背負っていたバッグは横に置いた。
「ありがとう……あの、藤崎」
 二人分の上着をハンガーに掛け、それを壁のフックにぶら下げながら藤崎は振り返る。
「エアコン……エアコン使えるようになったんだね」
「直した」
「そっか」
「テーブルの上のやつは好きにしていいから。テレビも。外出るなよ」
 藤崎はドアノブに手を掛けた。
「ちょっ……、ちょっと待って」
「は? なに」
 僕は藤崎に近寄って手を取った。
「どこ行くの?」
「風呂」
「ああ……、えっと、あの、その前に色々話したいことが」
「色々?」
 気を害した、と見上げる顔に書いてある。それでも引き下がるわけにはいかなかった。
「とりあえず座って……、やめるとか言わないから」
 お願い、と言いながら軽く手を引くと、藤崎は不機嫌そうにしながらも黙ってベッドの方まで付いてきてくれた。二人並んで腰を下ろす。
「で?」
「うん……その、これからする、ことなんだけど……ゆっくりするから」
「意味分かんねーんだけど」
「だから……、えっと……色々道具持ってきた」
 横に置いていた鞄を取って、中から袋を取り出した。うっかり鞄から飛び出たとき困らないよう袋は二重にし、上の袋は口をホッチキスで止め、下の袋はガムテープでしっかりと補強をしている。藤崎の視線を感じながらガムテープを剥ぎ取り、中からバスタオルにくるんだ『道具』――いわゆるラブグッズを膝の上に開けた。中に入れていたのは、コンドーム、ローション、拡張用のプラグを各二種類ずつに、殺菌効果のあるウェットティッシュと普通のポケットティッシュ。それに、小さな黒の包みが一つ。
「藤崎はいらないって言ってたけど、最低限は必要だと思って……」
 僕達は今日まで、実際どうやるかということについては殆ど話をしていなかった。僕は何とか話し合おうとしていたが、藤崎が拒んだ。決まっていたことといえば、デートの後に藤崎の家ですること、僕が藤崎に挿入するということだけだ。藤崎は『お前は何も考えなくていいし何も用意しなくていい』『ちゃんと綺麗にしてくるから文句を言うな』『逃げたら犯して殺す』と繰り返すばかりで僕が何を言おうとしても一緒だった。
 藤崎は無言で黒の包みを取った。しつこいくらいに封をしていたガムテープを剥がして開ける。中に入っていたのは――手錠だ。さすがに驚いたのか、藤崎は一瞬固まった。
「それは藤崎に使うんじゃなくて、僕が、じゃなくて僕に、もし藤崎に酷いことしようとしたら、それで……その」
 舌が絡まる。汗が噴き出る。確かに自分で購入したものだったが、藤崎の手にあるのを見ると、やけに異様で場違いな、存在そのものが暴力的な物体に見えた。藤崎は鼻を鳴らし、手錠とその鍵を暫し指先で弄んだあと、二つある枕のうち窓に近い方の下に差し込んだ。そしてまた僕の膝の上に広がる道具に手を伸ばす。
「これは?」
 細い球根の根元に土台が付いたような形の、シリコン製拡張プラグ。一つは親指より一回り大きいくらいで、もう一つはそれより幾らか太めで長さもある。前者はクリアカラーの青、後者は普通のピンクだ。
「後ろを……広げるのに便利だって書いてあった」
「どこに?」
「サイトに」
「何の」
「……アナルセックス……のやり方を説明してあるサイトに」
「こんなの無くても入るだろ」
「……使いたくない?」
「気色悪い」
 藤崎は汚物を見るような目で手に持っていた二つを睨んだかと思うと、止める暇もなくごみ箱に投げ込んだ。
「それも。あと全部いらない」
「え」
「だから。それ全部必要ない」
「…………」
 『それ』が指しているのは、膝の上に残ったコンドームとローションのことに違いなかった。
「藤崎も……用意してた?」
「してない。必要ねーから」
「必要あるよ。……あると思う」
 藤崎は苛立ったような溜息を吐き、テディベアに背を預け、ペンギンのぬいぐるみを胸に抱いた。そして指で小さな尻尾を弄び始める。僕と藤崎の視線は揺れる尻尾の先に集中した。
「あのさ」
「うん」
「俺、中に出して欲しいんだけど」
「何を?」
「精液」
「せ」
 セイエキ。精液。意味が分からなかった。
「……何で?」
「は? 別に何ででもいいだろ」
「後で垂れてくるし、お腹が痛くなることもあるし……何も良いことなんてないよ。気持ち良くもない」
「お前、俺が病気持ってるか心配してんの?」
「そんなこと言ってな――」
「あいつとヤッた後に三回検査した。それからはお前としかしてないし俺は病気じゃない」
 あいつ――瀬川。急に落ち着かない気持ちになる。胃がぐっと強く締め付けられるような感覚。
「……そういう、話じゃなくて」
「何で? 俺が汚いから?」
 藤崎は真顔でペンギンの尻尾に爪を立てている。
『汚い』――衛生的に、という意味以外の何かを含んだ言葉だと直観的に感じ取った。
「そんなこと言ってない」
「言ってたじゃん。前」
 いつそんなことを口にしたんだろう。思い出そうとしたが、出来なかった。
「……言ってたとしても、『藤崎が』汚いって意味じゃなくて……僕がもし藤崎の中に……その、出したとしても、藤崎にとって良いことなんて一つも」
「それはお前じゃなくて俺が決めることだろ」
 その軋んだ声に、強張った顔に、僕は見覚えがあった。ひゅっと胸が冷たくなる。僕はまた間違えてしまった。
「藤崎」
 膝の上の道具を脇に置き、ペンギンを苛んでいた手を上から握る。
「ごめん」
 藤崎の手も、顔も、緊張したまま動かない。僕はそっと身を寄せ、藤崎の体に腕を回した。泣き出しそうな藤崎を抱いて、何を言えば気持ちを静められるのか必死に考えているうちに、藤崎は肺に長く留めていた息を吐き出し、力を抜いた。僕は少し間を置いてから体をゆっくりと離して、目を合わせた。
「藤さ――」
「シャワー浴びてくる」
 そう言って僕の胸にペンギンを押し付け、藤崎は立ち上がった。
「時間掛かるから。逃げるなよ」
「……逃げないよ。待ってる」
 藤崎はクローゼットから取り出して床に置いていた黒のバッグを拾い、部屋を出て行った。そのすぐ後に聞こえてきたガチャガチャという音は、部屋に鍵を掛ける音だろうか。驚きはしなかった。何となくそうするだろうと思っていた。
 ベッドに足を上げ、膝を抱えてそのまま横に倒れた。部屋全体に漂う藤崎の香水が、薄いピンクに色付いた柔らかな敷パッドから濃く香った。その香りを深く胸に吸い込みながら不安や焦燥に飲まれそうになる心を何とか落ち着かせようとしたが、その試みは上手く行かなかった。現実的で生産的な思考に自らを導こうとしても暗い失敗のイメージが頭から離れない。次から次へと絶望的なイメージが現れては重なって隙間を埋めていく。僕は絶対に失敗する、何も上手く行かない、全部駄目になる、僕は藤崎をまた泣かせてしまう、完全に失望される、藤崎が僕を笑う、罵倒する、お前を犯してやると脅す。藤崎は僕に見向きもしなくなる。耐えられない。僕は我を失い、藤崎をこの手で殴り、打ちのめし、滅茶苦茶に犯して、殺してしまう――妄想の中で溢れ出る血が胸を満たして、溺れそうになる。息苦しい。頭痛がする。冷たい汗で背中が濡れる。瀬川の声が聞こえる――そうしたかったんだろ? お前と俺は同じだよな、吉田くん。瀬川が笑う。あいつを犯してやりたかったんだろ? 復讐してやりたかったんだよな?
「違う、違う、違う、違う……、違う!」
 妄想の中で僕は瀬川の手からナイフを奪い取る。銀色が鈍く光っている。息苦しい。心臓が痛い。滅茶苦茶に振り回したナイフが瀬川の胸に突き刺さる。叫び声。生温かい血が噴き出る。亡霊が消える……。

 汗ばんだ手で胸を押さえ、体を起こした。自分が今正気を保てているのか、それとも既に失ってしまっているのか回らない頭で考える。僕はおかしいのかもしれない。そうでなかったとしたらおかしくなり始めている途中だ。いいやもしかしたらずっと前から――藤崎に出会った時かその前には、もう既におかしかったのかもしれない。分からなかった。
 テーブルの上に目をやった。藤崎が並べた物で溢れ返っている。『テーブルの上のやつは好きにしていい』と言われたことを思い出し、少し悩んでから緑茶のボトルを取った。蓋を開け、何となくベッドの上のコンドームやローションをタオルで包み直して、口を付けた。中身はひんやりと冷たい。水分を取ると幾分冷静になり、何か食べようという気になった。食欲は感じなかったが、胃に何かを入れた方が不安も和らぐような気がした。ベッドを降り、積み上げられたお菓子や携帯食の中からバータイプのバランス栄養食を取って口に運ぶ。無心に噛んでいると徐々に肩の力が抜けて、狭まっていた視界が広がった。
 二本目を齧りながら、改めて部屋の中を見回す。
 見れば見るほど不思議な空間だった。男子高校生の部屋にはとても見えない。妹の部屋よりも女の子の部屋のイメージに近く、藤崎のイメージからは遠く離れている。前回来たときの状態の方が藤崎らしかった。変貌を遂げた理由は何なんだろう。前回は僕の目から隠していただけなのか――それとも。
 服装も何となくフェミニンな雰囲気だったことと関係はあるのだろうか。そういえば香水もだ。急に趣味が変わった気がする。藤崎の冷たく尖ったイメージに、女の子のような丸みや柔らかさが気まずさを覚えるほど唐突に付け加えられている。
 舌の上に残ったドライフルーツ味の破片をお茶で流し込み、ベッドに戻ってペンギンのぬいぐるみを抱き上げた。黒い目が僕を見上げる。僕はペンギンを抱いて左を下に横たわり、ペンギンの頭に鼻を埋めた。藤崎の匂い。これを抱いて眠っている藤崎の姿が頭に浮かんだ。どんなに深く爪を立てられ、殴られ、締め付けられても穏やかなままの瞳は、藤崎の下瞼に落ちる睫毛の影を見つめている。滑らかな毛が藤崎の白い頬を撫で、丸みを持った大きな手が抱き返すように藤崎の体に触れている。ペンギンの額に藤崎の吐息が吹きかかり、抱き締める腕から、押し付けられた胸から、一晩の間にゆっくりと温もりが移る。
 僕はペンギンをぎゅっと抱き締め、目を閉じた。

 そして体に移った人の温もりを自身のものと勘違いしたペンギンが命を持って動き出した。彼は僕の頬を撫で、髪に触れ、唇に口付けてくる。くすぐったかった。僕は身を捩って彼から逃れようとするが、ペンギンは気ままな子犬のように僕に触れ続ける。
「駄目だよ……」
「何で?」
「だって、ぬいぐるみだから……」
 急にペンギンが僕の体から離れる。離れて行ったら離れて行ったで寂しく思い手を伸ばすと、滑らかで温かい何かが僕を抱き締めた。そしてまた僕の唇に唇を重ね、顎を舐め、首に鼻を擦り付け、下から服に手を差し込み、腹を撫で、ベルトを引っ張って――
 僕は目を開けた。
「藤さ――」
 途中で唇を塞がれた。藤崎の手はするりとベルトを引き抜く。
「藤崎」
 顎を引いて唇を離し、僕に圧し掛かる藤崎の肩を控えめに押した。
「……俺、ぬいぐるみじゃないけど?」
 そう真顔で言うので、どう反応していいか分からず、無言のまま暫く見つめ合ってしまった。
「……ごめん、寝惚けてた……藤崎はもう、シャワー終わったんだ……?」
「見れば分かるだろ」
 確かにそうだった。藤崎の髪は微かに湿り気を帯び、洗い立ての清潔な香りと香水が入り混じった匂いを漂わせている。服は部屋着に変わっていて、ふんわりとした白の生地がペンギンと同じような柔らかさで僕に触れていた。服は少しサイズが大きいのか、ゆったりとした線で藤崎の上半身を包んでいる。そして下半身は――視線をやって、ぎょっとした。上の服が途切れる足の付け根のすぐ下辺りから裸の足が伸びていたからだ。
「は」
 いてないの、と尋ねようとした瞬間、視界から光が消えた。照明が落ち、部屋が暗闇に包まれる。
「え、えっ……な、なに」
「電気消した」
「な、な何で……ちょっと待って、僕、シャワー浴びてない、歯も磨いてないし」
「別にいい」
「だ、駄目だって、ていうかちょっと待って、何も見えない」
 股間を弄る手は藤崎の手だろうか。部屋からは一切の光が失せていた。電子時計の画面の光も、エアコンの運転を知らせる小さなランプも、カーテンの隙間から漏れる筈の光も、全く見えなかった。
 服が僕の体から剥ぎ取られる。あっという間にボクサーパンツ一枚になって、藤崎の手が僕の胸に、首に、頬に触れるのを感じた。探し当てられた唇に唇が重なったかと思うと、僕の足に藤崎の裸の足が絡められた――滑らかな肌の感触。
「藤崎」
「何だよ」
「……本当に待って、お願いだから」
「何で」
「怖い」
 怯えている自分の声を聞いて恐怖が膨張する。息が出来ない。苦しい。心臓が物凄い勢いで動いていた。まるで体の内側から外へと飛び出そうとしているかのようだった。
 藤崎の手の動きが止まり、沈黙の後に照明が元に戻った。
「俺が怖い?」
「…………」
 首を横に振った。
「見えなかったら……、見えなかったら、酷いことになってても分からないから」
「何が」
「藤崎が……」
「意味不明なんだけど」
 暗闇で蠢く悪霊の姿を、藤崎は見なかったのだろうか。
 藤崎の裸の体に圧し掛かり、殴りつけ、骨を圧し折って、血の滴る穴に欲望を捻じ込み、藤崎がヒトから肉の塊に変貌するまで犯し尽くす悪霊の姿を。
 いや、見ている筈が無かった。あれは僕の頭の中で起こったことだ。
「お前、酒弱い?」
「え?」
 藤崎はテーブルから僕が缶ジュースだと思っていた物を取った。よく見ればアルコール分六パーセントと書いてある。
「……酎ハイ?」
「酒っていうより、ほぼジュースみたいなもん」
 そう言ってプルタブに指を掛けた藤崎の手を、慌てて押さえる。
「僕達未成年だよ」
「だから?」
「だからって……藤崎はよく飲んでるの……?」
「気分が少しましになる」
「体に悪いよ」
「別にどうなろうがどうでもいいし。で、お前は? 弱い? 一口でぶっ倒れるレベル?」
「……昔、親戚の家で水と間違えて日本酒か焼酎を飲んだことがあって」
「結果は?」
「あやうく病院行きになりかけた」
「は、雑魚じゃん」
 藤崎はあっさりと酎ハイの缶をテーブルに戻した。そして照明のリモコンを取り、薄暗いが真っ暗ではない常夜灯に切り替えた。
「これで満足?」
 頷くと、藤崎はまた僕の体に手を伸ばした。
「藤崎、シャワー浴びたい」
 無視されて、性急に唇を塞がれた。藤崎の手が僕の太腿を撫でる。僕はその手に自らの手を重ね、もう一方を藤崎の背中に回し――思い切って、藤崎の体を倒した。驚いたのか藤崎は僕を見上げて口を開け、固まった。
「……本当に僕でいいの?」
「……は? いいも何も、お前じゃないと意味ねーんだけど」
「うん……」
「で?」
「……もし痛かったり、苦しかったり、やめたくなったりしたら、すぐ言って」
「それでお前がやめるって言い出しても俺は続けるから。……どうでもいいから早くやれよ」
 深呼吸をして、散々頭の中でこうやろうと思い描いていた流れを思い出す。
 密着していた体を少し離し、藤崎の顔の横に手を置いた。
「目、閉じて……」
 すぐに瞳を瞼で覆い隠した藤崎の唇に顔を近付ける。薄くて柔らかい唇を、静かに唇で覆う。少し顔を離して目を開けると藤崎もちょうど目を開けるところだった。見つめ合って、またキスをした。藤崎の手が僕の首の後ろに回る。体の芯に火が点く。息が上がる。
「お前の舌、舐めたい」
 藤崎はそう囁いた。唇に触れた熱い息とその声で、僕の太腿の間にある熱が高まり、嵐のような衝動が沸き起こった。
「悟」
 ねだる声に体が痺れる。僕は平静を取り戻す為に拳を作り、指先を手の平に突き立てた。短く切り揃えた爪が食い込むほど強く握り、ゆっくりと藤崎の唇に唇を重ね、目をきつく閉じてから舌をゆっくりと差し出した。藤崎は口を開けて僕を迎え、すぐに舌で舌を舐めてきた。ぬるりとして温かい――それ自体が意思を持った生き物のようだった。その生き物からは甘酸っぱくて爽やかな、カシスミントの味がした。
 僕はこれ以上ないほど緊張し全身に力を入れていたが、藤崎の舌はいきなり僕を翻弄することはなく、初めて僕のペニスに絡んだときのようにたどたどしい動きで僕の舌を舐めるだけだった。それでも僕の心臓の鼓動は加速を続け、やがて藤崎がごくりと唾液を飲み込む音が耳に入ると、耐えられないほど強く僕の胸を内側から打った。制御を失ってしまう――僕は思わず舌を引き上げ、顔を離した。
 どうして。明らかに藤崎の目はそう僕に尋ねていた。
「あ……あ……えっと……服、脱がしてもいい……?」
「……下のTシャツ以外は」
「下の……これ?」
 部屋着の襟元からそれらしきものが覗いていた。藤崎は頷いた。
「それ。脱がしたら殺す」
「……分かった」
 何が隠されているのか、気にならないと言ったら嘘になる。
 想像の中で、夢の中で、僕は幾度となく藤崎の体を暴いた。だが僕の頭の理性的な部分は、無理矢理そうするべきではないと告げていた。それに――そうするのは怖かった。もし想像以上のものがあったとしたら、それを目にしたときの僕の表情や態度で藤崎を酷く傷付けてしまうかもしれない。
 ふんわりとした部屋着の前に付いた、大きな茶色のボタンに手を掛ける。四つのボタンを外す指ではなく、僕の顔に向けられた藤崎の目に緊張を強くしながら、何とかやり遂げる。そっと前を開くと、藤崎の言った通り、下には黒のTシャツがあった。
「……上から触るのは?」
「前だけなら」
 僕は頷き、藤崎の肩にそっと手で触れた。Tシャツの生地は薄くもなく厚くもなく、滑らかで着心地が良さそうだった。肩に触れた手を少し浮かせ、今度はかなり勇気を出して左胸の上にその手を置いた。見た目通り、柔らかい脂肪も隆起する筋肉の厚みも殆どない薄っぺらな胸。だからだろうか。力強い心臓の動きが、手の平にじんと伝わってきた。
 驚いたことに藤崎の鼓動は僕と同じくらい速かった。それは激しく、強く、藤崎の肌を内側から打ち叩き、Tシャツ越しに僕の手の平へとその高まりを伝えていた。
 藤崎の顔を見る。目が合った。
「緊張、してる?」
「……別に」
 目を逸らされた。肯定したようなものだった。
 僕は自分の中に、相反する感情が生まれるのを感じた。
 一方は、藤崎にとって暴力や苦痛と深く繋がっているだろうこの行為の中で藤崎を身構えさせ、緊張させてしまっていることへの恐怖と、自身への失望。
 そしてもう一方は、藤崎も僕と同じなのだという、強い安堵だった。
「僕は……緊張してる」
 藤崎は傍らのペンギンから僕の方へと視線を戻し、僕の顔をじっと見上げたかと思うと、ふいに口角を上げた。
「顔見れば分かる。お前、汗かき過ぎ」
 僕の額に藤崎の手が伸ばされ、汗ばんだ肌に触れる。数秒置いて指先が瞼に下りたので、僕は反射的に目を閉じ、触れた感触が頬にまで下がったときにそっと目を開いた。その頃には藤崎の顔に浮かんでいた笑みはすっかり消えてしまっていたが、僕は自分の胸にじわりと温かいものが広がるのを感じた。
「……下、脱がすね」
 藤崎は頷き、手を下ろした。
 部屋着の前を開ける前はすっかりそれに隠れていた青のボクサーパンツが、下から押し上げられて膨らんでいた。両手を掛け、ゆっくりと藤崎の足から引き抜いていく。薄暗い光の中で長く細い足を辿っていくのは何だか妙に喉が渇く行為で、何も言わず足を上げて僕に協力する藤崎の顔を、僕はまともに見ることが出来なかった。
 脱がした下着をどこに落ち着かせるかで悩み、藤崎が剥ぎ取って放置したままの、僕の服の上に置いた。そしてまた藤崎に向き直ったときに、あることに気付いた。
「あ……、え?」
 ある筈のものがない。確かに存在していた筈のものが、完全に消失していた。
「なに」
「あ……そ、剃ったんだ……?」
 白い太腿と太腿の間で存在を主張する性器の周りには、何度見ても――全く何も生えていなかった。
「何か文句あんの?」
「ないよ、……ないけど」
「なら早く入れろよ」
「……入れる前に準備するから、下、触ってもいい?」
「駄目」
「え、え……何で?」
「駄目だから。いいから入れろよ」
「だから、入れる為の準備……」
「入るだろ。初めてでもねーんだし」
「初めてだよ、だって」
「あいつとヤッたって言ったよな。まさか意味分かんねーって?」
「分かってるよ。分かってるよ、でも、あれとこれとは……違うから」
「何が?」
「何がって……僕達、付き合ってる……」
「だから?」
「暴力と……普通のセックスは違う。同じにしないで」
「……何でお前、泣きそうになってんの? うざい」
「だって僕……酷いことはしたくない」
「でも俺はそっちの方がいい」
「……痛いのが、好きだから?」
 ペニスに歯を立てたり、過度な力を入れて擦ったりして快感を得ていたのと同じなのだろうかと思う。僕は未だに、痛みが快楽に変わり得るということを理解出来ないでいた。
 藤崎は僕をじっと見上げ、不安になるほどの沈黙の後に答えた。
「痛い方が後に残るから。どうせ一回だけなら、出来るだけ長く残る方がいい」
「一回?」
「お前は女がいいんだろ」
 その言葉を聞いて、僕はやっと――本当にやっと気付いた。
 どうして藤崎は唐突に身に着けるものや部屋の内装を劇的に変え、香水や服を選ぶとき執拗に僕の意見を聞きたがり、そしてそれを無抵抗に受け入れたのか。
 甘い香水も、女の子が着ていてもおかしくないデザインの服も、可愛らしいぬいぐるみも、変わり果てた部屋も、全部――僕が藤崎に、男より女の子の方が好きだと言ったからだ。
「僕、僕は……」
 藤崎は上体を起こし、僕の下着の中に手を差し込む。指が僕のペニスにするりと絡んだ。
「ちゃんと硬くなってんじゃん」
「僕は藤崎が好きだよ」
「ああ、そう」
「本当に」
「なら入れろよ。俺のこと好きだって思うなら、俺の言う通りにしろよ」
 藤崎は僕に顔を近付け、ペニスを揉みながら囁き、その唇で僕の頬や顎や唇に触れた。
「ちゃんと上から下まで綺麗にしてきた。文句ねーだろ? それとも本気で女の格好してやろうか? 化粧品も服もクローゼットの中に――」
 途中で言葉が切れたのは、僕が下着の中に入った手を掴んで止めたからだ。
「は。なに」
 僕は掴んだ手を下着の中から抜き取り、藤崎を強く抱き締めた。
「……何だよ」
 言葉が出ない。どう伝えたらいいのか分からなかった。沈黙する僕が口を開くのを、藤崎は振り払いもせずに待っていた。
「……女の子の格好なんて、しなくていい。ごめん」
 やっと出てきた言葉は、不完全で、僕の思いをほんの僅かに反映したものに過ぎなかった。
「『ごめん』? 何が」
「藤崎に……無理させたり、悩ませたりしたこと」
「ああ。申し訳なく思ってるなら、言葉じゃなくて態度で――」
「僕は藤崎が好きなんだよ。他の女の子じゃなくて藤崎のことが……藤崎が好きなんだ。だからずっと一緒にいたいし、優しくして、傷付けないようにして、藤崎とずっと一緒にいられるようにしたいんだよ。死んだらそれで終わりになるのに、傷付けたら元に戻らないかもしれないのに、乱暴になんてしたくない。僕は藤崎が……、藤崎が好きだから、これで終わりにしたくない」
 口が動くままに喋って、息苦しさを感じ、大きく息を吸い込んだ。細く吐き出して、少しだけ冷静になった。
「……それ、また次があるってこと?」
「藤崎が……したいなら」
「本当に?」
「うん」
「嘘なら絶対に許さない」
「うん」
「約束しろよ」
「約束する」
 そう僕が答えてから暫く藤崎は沈黙していたが、ふいに僕の肩に両手を置き、僕の太腿の上に乗り上がった。
 そして僕を見つめながら、その細い腰に僕の右手を導いた。
「……いいの?」
「好きにすれば」
「うん」
 腰に触れた手をそっと後ろに動かした。腰の下の、少しだけ盛り上がった場所に触れる。綺麗に整った滑らかな肌は撫でると手の平が痺れるようだった。そのままもっと下に手を伸ばそうとしたが、その前にやるべきことを思い出し、ウェットティッシュで手を拭いてからローションのボトルを取った。キャップを開けて右の手の平に出す。冷たかった。そういえばシャワーを浴びる間に温めるつもりだったのだ。ぬるぬるとした液体を体温でどうにかしようと手の平で揉むと、濡れた音が響いて、何だかいやらしかった。
 僕の首の後ろに手を回し、肩に顎を置いて静かに息をしていた藤崎は、濡れた指先が尻に触れた瞬間、息を止めた。
「……冷たい?」
 藤崎が首を横に振ったので、僕は興奮と緊張と恐怖と不安を深呼吸で押し殺しながら指を移動させ、窄まった小さな穴に触れた。そこは接触した途端きゅっと締まったが、少し待ってから穴や穴の周辺を指の腹で宥めるように撫で、左手を藤崎の背中に宛がうと、徐々に力が抜けていった。
 今自分が触れているのは人の消化器官の末端で、傷付きやすく、そして僕が傷付けようとした場所だった。今日までに入手した情報を目まぐるしく頭の中に浮かび上がらせ、慎重に力を加減し、指先に神経を集中しながら暫くそのまま撫で続けた後、ローションを足して人差し指の腹をじわりとめり込ませた。藤崎の息が震える。そこはあっけなく僕の指を飲み込み、そして締め付けた。
「痛い?」
 藤崎はまた首を横に振り、ふっと息を吐いて締め付けを緩めた。僕は藤崎の背中を撫で、少し待って、指を第一関節までゆっくりと進めた。中は温かく、狭い。そして粘膜の柔らかい感触がした。
 ここは――藤崎の体の中だ。
「指……動かしても平気?」
 今度は首を縦に振って、藤崎は僕の体にしがみつく。怖いのだろうか。顔を見たかったし、指を入れている場所も確認したかったが、藤崎が選んだこの体勢を変えるのは躊躇われた。迷った挙句、結局暫くはこのままでいることにした。
 中で円を描くように指先を小さく動かし、じわじわと中を進んでいく。狭苦しかった穴は少しずつ広がり、緩み、やがて僕が滑り込ませた二本目の指を飲み込んだ。異物の感触が藤崎の興奮を削ぐことはなかったようで、僕の腹部に触れたペニスは硬く勃起したままだった。肩や首に吹き掛かる濡れた吐息から意識を逸らしつつ、徐々に徐々に、時間を掛けて準備を進める。
 入れた指がふやけ始める頃、ふと気付くと藤崎の呼吸は不安になるほど速く、荒れたものに変わっていた。
「藤崎……? 苦しい? 抜こうか?」
 返事はなかった。短い間隔で獣じみた息を吐く藤崎の体は、汗ばんで熱い。そして気のせいでなければ、僕の腹部は、藤崎のペニスから漏れた先走りで濡れていた。
「……もしかして、いきそう?」
 僕の問い掛けに藤崎は小さく唸り声を上げる。イエスなのかノーなのかよく分からない返答ではあったが、余裕がないことは分かった。
 一旦指を抜き、それから手でペニスを刺激しようかと考えてゆっくりと指を後退させると、藤崎の体がぶるぶると震えた。僕にしがみつく手足の力が強まり、そのまま体重を掛けられて、僕はバランスを崩した。
「藤さ――」
 なすすべもなく押し倒されて、指が抜けた。僕にしがみついたまま一緒に倒れた藤崎は、僕の耳元で声にならない叫び声を上げ、その体を硬直させ――やがて、脱力した。
「う……あ……」
「…………大丈夫?」
 そう尋ねてからきっかり二十回息を吸って吐いた後、藤崎は唐突に顔を上げた。その拍子に藤崎の赤く染まった頬を汗が涙のように流れ落ちた。
 何か言おうとしたのか藤崎は小さく口を開いたが、ただ僕を見つめるだけで、その口から言葉が出てくることはなかった。藤崎は無言のまま呼吸を整え、上体を起こし、自身の股間に目をやった。僕も視線を追う。殆ど萎えてない藤崎のペニスの先端から、とろりと精液が零れ落ちる。黒のTシャツと僕の腹は汗と先走りで濡れてはいたものの、精液らしきものが付着した形跡はなく、藤崎が出した精液はその一滴だけらしかった。
「……さっき、風呂で」
 藤崎がぽつりと言う。
「……してきた?」
 藤崎は額の汗を手の甲で拭いながら頷く。
 だが浴室で自慰をしてきたにしても、量が少な過ぎるような気がした。
「朝も」
「朝も?」
「八回くらい……」
「は……八回?」
「俺、おかしい?」
 僕に問う目が涙で濡れている。泣いているわけじゃない。興奮の名残だ。そう分かってはいても、いつになく不安げな藤崎を見ると心が痛んだ。
「……痛みは?」
「擦り過ぎてヒリヒリする」
「いつもそんなに?」
「たまに」
「たまになら……、おかしくないんじゃないかな」
 多分、と小さく付け加えて、藤崎の手を握った。藤崎はその手を見つめ、それから僕に視線を戻して逆に僕の手を掴んだ。ぐっと引き上げられる。藤崎は僕を抱き締め、そのまま後ろに倒れた。
「…………」
 無言で見つめ合う。何となくそうした方がいいような気がして、僕は藤崎に唇を近付けた。藤崎は顎を持ち上げ、それに応える。唇は少しの間だけ重なっていた。
 息が触れ合う距離。僕は唾液をごくりと飲み込んだ。
「さっきはあんまり意識して触ってなかったんだけど……その……、前立腺って知ってる?」
 藤崎は何も答えない。
「……お尻の中にあって、そこを刺激したら、前を触らなくても気持ち良くなる、かもしれないところなんだって。いきなりそうなることは少なくて、大分時間は掛かるみたいだけど、可能性があるなら、少しは痛みを和らげられるかなと思って……ちょっと調べたんだ。……試してみる?」
「……いい」
「分かった」
「もういいから、早く入れろよ」
 藤崎は僕の腰に足を巻き付け、自身の方に引き寄せながら言う。まるで挿入しているような体勢に、一瞬固まってしまった。
「……もう少し、広げてから」
 腰をがっちりと挟んでいた足が下りる。藤崎は溜息を吐いた。
「お前しつこい」
「うん……」
「勝手にやれよ」
「うん」
 体を起こしてローションを手に取ってから、ふとバスタオルの存在を思い出した。下を濡らさないように藤崎の尻の下に敷く。藤崎は途中で僕の意図を読み、やりやすいように腰を上げてくれた。
 ついでに枕を藤崎の頭の下に置き、顔を見つめ、視線を徐々に下にやって、陰嚢の下に視線を落とした。そこは剃ったのかそれとも初めから無かったのか無毛で、汗ばんだ肌は他の場所と同じように色素が薄く、広げた筈の穴は完全に閉じていた。
 じっと見つめても、僕の中に嫌悪感は一切湧いてこなかった。
 深呼吸し、十分にぬるつかせた指を一本そこに押し当て、ゆっくりと挿入した。藤崎は吐息を漏らし、体をぶるりと震わせ、自身の足の間にいる僕を膝と膝とで挟み込んだ。
「う……」
「痛い?」
 角度が悪かったのだろうか。それともローションが足りなかったのだろうかと不安になったが、藤崎は首を横に振り、足の力を抜いて目を閉じた。
 僕は暫く待ち、様子を窺ってから二本目を差し込んだ。きゅっと締め付けられる。二本の指を飲み込んだ藤崎のそこはローションで濡れ、薄暗い光の中でもぬるりとした光沢があり、肛門というよりは何かを挿入し愛撫する為の場所のように見え、ちらりと覗いた内部の肉の色は妙に淫猥に思えた。
「お前の、指……」
 緩やかに指を動かしていると、藤崎は目を閉じたままで言葉を発した。
「僕の指?」
「…………」
 藤崎は目を開けて自身の腹部に手をやり、湿ったTシャツを掴んで、黙り込んでしまった。
「爪、痛い? ……コンドーム被せようか? もっとゆっくりした方がいい?」
 藤崎は首を横に振り、Tシャツを掴んでいない方の腕で自身の目を覆い隠し、「前立腺」と小さく呟いた。
「……当たってる? やめた方がいい? ……それとも、やっぱり……試してみる?」
 最後の問い掛けに、藤崎は頷いた。
「……じゃあ、……もし嫌な気分になったり、止まって欲しいと思ったりしたら言って――」
 Tシャツを掴んだままの手に、僕は左手を重ねた。
「もしくは……手で合図して」
 被せた手の平の下で藤崎の指が動く。爪が僕の親指を軽く引っ掻いた。やっぱりやめて欲しい、の意味なのかと思ったが、すぐに藤崎が「分かったから」と余裕のない声で呟いたので、早くしろと僕を急かしただけなのだと理解した。
 挿入した指を一本ゆっくりと引き抜き、残した人差し指を、何となくそれらしい位置にまで進め、中で指先を軽く曲げる。他と少しだけ感触の違うその場所を指の腹で撫でた瞬間、挿入した指が締め付けられ、同時に藤崎の足がびくりと跳ねた。反応はそれだけだった。
 十秒ほどじっと待ち、合図がないことを確認して、また指を動かす。今度はそれほど大きな反応はなかった。僕が指で刺激を与え続けても、藤崎は足をもぞもぞと動かし、僕の指を軽く締めるだけで、やめろと声を上げることも、手で合図を送ってくることもなかった。
 変化は徐々に起こり、藤崎はやがて体全体を緩やかにくねらせ始めた。
「う……う……」
 呻き声が藤崎の口から漏れる。目を隠していた手は口元に下りていた。藤崎は自身の指を半分咥えていたが、その指に立てようとした歯に力が入らないらしかった。ペニスは殆ど萎えてしまっている。今藤崎が感じているのは快感なのだろうか――それとも苦痛か、違和感か? 僕には分からなかった。こんなことしない方が良かったのかもしれない。
「さと、悟……」
「どうしたの?」
 指の動きを止めて尋ねる。
「…………」
「……指、抜くね」
 言葉通り中から指を引き抜いた瞬間、重なった手の方の指に爪を立てられた。かといってまた挿入するのも躊躇われて、僕は藤崎に顔を近付けた。
「……大丈夫、そう?」
 声を掛けると、藤崎は閉じていた目を開いた。
「何で……抜いたんだよ」
「だって……苦しそうだったから……、一回休憩する?」
 藤崎は言葉で答える代わりに、僕の腰に足を巻き付け、もういいだろとでも言いたげな目を僕に向けた。
「……もう、入れる?」
 尋ねる前に結果は分かっていた。だが藤崎が頷いたとき、僕は抑え込んでいた不安や恐怖が息苦しい程に自分の中で膨れ上がるのを感じた。それでも何とかそれに飲み込まれずにいられたのは、時間を掛けて藤崎の体を準備することが、どこか儀式的に僕の中で働いたからなのかもしれない。これは合意の上の行為で僕は藤崎を傷付けようとはしていないし、藤崎は僕を受け入れようとしているのだと――そう自分自身に言い聞かせ、納得させるには、きっとこうするしかなかったのだ。
 震える手でコンドームの箱に手を伸ばすと、藤崎にその手を掴まれてしまった。
「藤さ――」
「俺が……、俺がやる」
「……藤崎が?」
 使うなと文句を言われるのかと思った。意外に思って目を瞬く。
 藤崎は僕の胸を押してゆっくり体を起こし、万が一の為に二種類用意した箱のうち、一つを迷いなく選び取った。中から一つ取り出し、僕を見る。
「脱げよ」
「あ……、うん」
 言う通りに下着を脱ぎ、向かい合う。藤崎はそっと僕のペニスに手を伸ばした。少し下を向いていたそれは、手の平の温かさを感じた途端に硬くなった。
「……見るなよ。見られたらやりづらい」
「あ、ご……分かった」
 反射的に口から出そうになった謝罪の言葉を飲み込み、目を逸らす。天井の隅を見つめていると包装が破れる音が聞こえてきた。少し間を置いてペニスに手が添えられ、先端にコンドームらしきものが触れる。心臓の音が一気にうるさくなった。目と口を閉じ、深呼吸をする。
 藤崎の手つきはいつになく慎重で、そこには想像していたような性急さや、荒っぽさはなかった。
「――終わった」
 目を開け、股間に視線を落とす。綺麗に装着されていた。
「……ありがとう」
 藤崎の目を見る。じっと見つめ返された。どちらからともなくキスをして、藤崎は唇を合わせたまま、自分から後ろに倒れた。
 唇を離して藤崎を見下ろす。
「藤崎、もし、もしやめたくなったらいつでも言って。あと、痛かったり、苦しくなったりしたら、すぐに教えて欲しい。……もしそうしても、僕は藤崎のこと投げ出したりしないから……お願い」
 僕は藤崎の口から「分かった」という一言が出るまで待った。実際に引き出した言葉にはいい加減しつこいと鬱陶しがっている響きがないでもなかったが、その言葉が出るまでの間は、僕の言葉が藤崎の中で意味のあるものとして受け取られた印なのだと好意的に解釈出来そうだった。
 コンドームにローションを塗り付ける間、藤崎は僕のそれを瞬きもせずに見つめていた。準備が済み、僕が膝に触れると、藤崎は思い出したように両足を開いた。
 藤崎の膝の裏に片手を入れ、挿入しやすいように藤崎の尻を少し上向きにさせた。後ろから入れる方が容易であることは分かっていたが、顔をいつでも見られるようにしていたかったし、藤崎がいつでも僕を押し退けられるような体勢でやりたかった。それに――後ろから圧し掛かった瞬間に、藤崎を無理矢理犯そうとしたときの衝動や、悪夢の中で僕を支配した醜い欲望が蘇ってきてそうで恐ろしかった。
 深く息を吐いて、ペニスを持ち、そっと藤崎のそこに先端を押し当てた。散々弄ったおかげで緩んだそこは唇のように柔らかく僕に触れる。だが僕がぐっと先端を挿入させようとすると同じ力で押し返し、ぬるりと滑らせた。焦る心を抑え、暴走しそうな心臓を宥めて深呼吸する。
「藤崎、力、抜いて……」
 もう一度正しい場所にペニスの先端を当て、囁くように言う。顔を見ると目が合い、無言で見つめている内に、藤崎が息を止めていることに気付いた。
「……息、吐ける?」
 藤崎は僕の言葉に従って短く息を吐き、息を止めていた分の酸素を胸に吸い込んで、ゆっくりと、途切れ途切れに吐き出した。最後の一息で力が少し抜け、押し当てていたペニスが中にめり込んだ。左手で押えていた膝裏の皮膚が突っ張ったが、ほんの一瞬のことだった。そのすぐ後、それほど強く押し当てていたわけではなかったペニスの先端がぬるりと中に飲み込まれて、藤崎が僕を受け入れる為に意識してそこを開いてくれたのが分かった。
「…………」
 それでも中はきつく、深く挿入すれば傷付けてしまいそうだった。腰が引けそうになるのを堪えて静かに息を吐き、ちらりと藤崎の顔を見る。苦痛に歪んではいなかった。僕の目を見つめ返したその瞳にはいくらかの緊張と、そして――興奮が見えた。
 ごくりと生唾を飲み込む。僕はまた下に目を落とし、じわりじわりと腰を進め始めた。括約筋の締め付けは痛いほどの快感を僕に与えたが、ペニスの一番太いところを通り過ぎると、熱く熟れた内壁がふわりと柔らかく僕を包み込んだ。
 ――一瞬呼吸を忘れるほど、気持ちが良かった。少しでも気を抜けば一息に押し込んで、そこで熱を吐き出してしまいそうだった。
「藤崎……、痛く……ない?」
 与えられる刺激から意識を逸らし、藤崎に尋ねる。藤崎は口を開いたが、そこから漏れるのは言葉にもならない吐息だけだった。その苦しげな呼吸が少し落ち着くまで待つと、
「……全部?」
 やっと聞き取れるくらいの小さな声で、藤崎は僕に尋ねた。
 全部。全部入ったのか、という意味だろう。
「ううん、半分いかないくらい、かな……」
 藤崎は暫く無言で僕を見つめた後、ふいに押さえていなかった左足を僕の腰に軽く引っ掛け、もの言いたげな目で僕を見上げた。
「……全部、入れる?」
 ん、と呻くような声で藤崎は答えた。
 背中を汗が伝う。僕の体も、藤崎の体も、その中も、燃えるように熱かった。
「あ……、う……あ、あ」
 少しずつ少しずつ、焦れる程ゆっくりと中を進んでいく。指が届かなかった場所まで行くと藤崎の口からは途切れ途切れの声が漏れた。快感や苦痛からというより、腹部を内側から圧迫されることによって吐き出す息が勝手に有声になった、という風な声だった。藤崎は戸惑ったような表情を浮かべ、目を瞬いた。
「藤崎、あともう少し……」
「う、うう……あ、さ、さと、悟」
「……全部、……、全部、入ったよ」
 藤崎の手が僕に伸びる。背を曲げて、藤崎が抱き着きやすいように体を近付けた。藤崎は僕にしがみつき、両足を僕の腰に絡み付けて、僕を強く引き寄せた。
「悟……悟……」
「……うん」
 頭を浮かせて顔を近付けようとする藤崎に、僕も出来る限り体を伸ばして唇を寄せる。顎に、右頬に、左頬に、唇にそっと口付けて、藤崎の目を見つめた。潤んだ瞳からは今にも涙が溢れそうで、荒い呼吸は溺れる寸前のもののようだった。
「大丈夫、まだ動かないから……、藤崎、ゆっくり息をして……」
 喋る僕の口元に藤崎の視線が移る。息を吸って、吐いて――藤崎の呼吸が徐々に僕のものと同調していく。お互い平時の呼吸には戻りそうになかったが、動かずじっと呼吸に集中すれば少しは落ち着いた。
「…………」
 無言で見つめ合って、唇を重ね合わせた。大抵は目を開けたままでいる藤崎が瞼を下ろしたのにつられて僕も目を閉じる。鼻と鼻を擦り合わせ、藤崎の薄く柔らかな唇を唇で愛撫し、時折浅く舌を触れ合わせながら香水と汗と性と藤崎の匂いを吸い込む。唇が、舌が、肌が、性器が、繋がった場所が互いに馴染んでいく。僕は藤崎という一つの存在を、かつてないほどに強く感じていた。僕を求め、受け入れ、感じている藤崎を、五感の全てで味わい、意識していた。
 射精への衝動は高まっていたし、余裕は全く無かったが、ずっとこうしていたいという気持ちも同時にあった。首の後ろに回って僕を引き寄せる藤崎の腕の重みを、柔らかくペニスを包み込んでいる熱く濡れた肉壁を、ずっと感じていたかった。
「あ」
 藤崎が小さく喘いだ。はっと目を開く。
「あ、悟、……」
「どうしたの?」
 答えはすぐには返ってなかった。藤崎は眉根を寄せ、大きく息を吸い込み、僕の肩を押した。
「……お前……う……、うご……」
「……動……、もう、動いた方がいい?」
 僕の問い掛けに藤崎はこくこくと頷いた。
「分かった。じゃあ、ちょっと待って……少し、抜くね」
 ゆっくりと僅かに腰を引いた。ずる、とペニスが中で擦れ、緩んだ括約筋が締まる。久々に強い刺激を受けて、快感の波が背筋をぶるりと震わせた。
 ――瞬きをし、腹筋に力を入れて息を吐く。うっかり射精してしまわないように一拍置いて、ローションを手に取った。暖房で温まったそれをペニスにとろりと垂らし、それから藤崎が僕を飲み込んでいる場所にも滑りを足した。藤崎はぬるついた液体の感触に反応して僕を締め付ける。
「う、あ……あ……」
「藤崎、……いい?」
「……いい、いいから……」
「うん」
 深呼吸をした。そしてじわりじわりとペニスを抜いていく。ただそれだけの動作で僕の体を挟む二本の足はびくびくと震え、藤崎の口からは呻き声が漏れた。体の内側、繊細な内臓を勃起したペニスで擦られる感覚には、きっとすぐには慣れることが出来ないだろう。だが藤崎のペニスからは透明な液体がだらだらと溢れ出していて、藤崎が今感じているのが苦痛にしろ気持ちの悪さにしろ、それに打ち消されないだけの快楽も感じているのだということは救いだった。
 藤崎の太腿を宥めるように撫で、また挿入を深め始めた。ローションをたっぷりかけたせいで結合部からはぐじゅ、ぐじゅと濡れた音が漏れ、藤崎の声と重なって部屋に響いた。
「ああ、あ、あっ……ううう、うあ……、あ、あっ」
 頬を紅潮させ、手足を落ち着きなく動かして、藤崎は喘ぐ。その視線は四方を彷徨い、僕を捉えたかと思えば瞼や腕の下に隠れた。それがもどかしくて、枕に押し付けられた横顔に「藤崎」と呼び掛けた。
「……こっち、向いて」
 目を覆い隠していた腕がゆっくりと下り、藤崎はしゃくりあげるように息をしながら、正面から僕を見返した。視線が噛み合う――藤崎は僕に両手を伸ばした。
「き、キス、したい、悟、キス……」
「うん」
 泣き出しそうな目で乞われて顔を近付ける。唇を重ねるだけのキスをして、息継ぎを挟み、引き寄せられ、藤崎も頭を浮かせて深く口付け合う。僕の首の後ろに回った乱暴な腕は重たく、その指は肩に爪を立てていたが、それすらも心地よいものに思えてくるほど気持ちが良かった。酸素が薄い。脳がじんじんと痺れて快楽の波に溶けてしまう。藤崎の唾液の味、歯の形、唇の柔らかさ、舌の濡れた感触、鼻腔に侵入する匂い、息苦しさに唇が離れたその瞬間、空気を肺に取り込む音――僕はふいに藤崎のことを、今僕と体を繋げている一人の人間のことを、今までの人生で他の誰にも感じたことのない強さで、泣きたくなるほど愛おしく思った。
 ゆるく腰を動かしながら藤崎を見つめる。好きだと言いたかった。僕は藤崎のことが本当に好きなんだと、藤崎に分かって欲しかった。
「ふじさ、藤崎、……」
 その言葉を口にする寸前に、藤崎の顔が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
「あ、さ、悟、悟、さとる……っ、怖い、怖い、たっ、助け、助けて、死ぬ、おかしくなる、おかしくなる、悟!」
 藤崎はそう叫びながら僕の体に四肢を巻き付け、強くしがみついた。僕の顔は藤崎の肩に押し付けられ、口と鼻が塞がって、息が出来なくなる。
「悟、悟、悟、悟、……ああっ、ああああ!」
 僕を抱き締めていた体が硬直する。同時にペニスを包み込んでいた直腸がぎゅっと収縮した。数秒の後、藤崎の中はまるでそれ自体が一つの生き物のようにうねり、熱く僕を愛撫し始めた。
 息苦しさと快感で頭が漂白され、時間が静止し、一瞬何も聞こえなくなった。
 途方もなく大きな波が、僕の中を通り過ぎていった。その波が残した霧の中で僕は瞬きをし、息を吸い、止まっていた思考回路がまた動き出すまで呆然としていた。
 思考と感覚がやっと元に戻り始める頃、僕は自分が射精に至ったことを理解し、自分に密着している体が自分自身のものではないことを思い出した。そしてすぐ近くから聞こえてくる荒い呼吸の音が自分の体内から聞こえてくるものではないことに気付いた。
 顔を上げる。藤崎は――泣いていた。まだ体を震わせながら、その大きな目からぼろぼろと涙を零していた。まだ射精の余韻から抜けきらず、どこかぼやけていた頭が、一気に氷点下まで冷える。
「ふじ、藤崎……、痛かった? 今も痛い? 苦しい? ぬ、抜こうか、……動かしても大丈夫?」
 動転する僕に藤崎は涙を零し続ける目を向け、はっ、はっ、としゃくり上げながら首を横に振った。そして僕の後ろに回したままの腕に力を入れ、僕の顔を自身の肩に押し付けた。
「わ」
 抜くな、とでも言いたげに藤崎の太腿が僕の腰を締め付ける。無理に引き剥がすわけにもいかず、僕はただ、藤崎に体重を掛けないよう体に力を入れることくらいしか出来なかった。
 上下する肩と胸、震える四肢の動きが落ち着き、早鐘を打つ心臓と乱れた呼吸の音が平時のものに近付いて、舌に微かに残った藤崎の唾液の味が薄れて消えるまで、僕は自分が我を失った瞬間に藤崎を強く傷付けるようなことをしてしまったのではないか、あるいは傷付けはしていないものの藤崎の期待に沿うことは出来ず、この試みは失敗に終わってしまったのではないかと思い悩んでいた。だが藤崎が手で僕の顔を上げさせ、泣き止んだ目で僕の目を見つめ、それから唇に視線を落とすと、強張っていた肩の力が一気に抜けた。
 お互い目を開けたまま顔を近付けてキスをした。離して目を閉じ、もう一度。
 そして見つめ合った。
「……藤崎」
「……ん」
「体、大丈夫?」
「…………」
「……もう、抜いてもいい? その……、中に漏れるから」
 藤崎は答えなかったが、僕の体に巻きつけていた腕と足を下ろした。
 解放された僕はそっと上体を起こし、結合部に目を落としながら、徐々に腰を引き始めた。藤崎は甘い吐息を漏らして僕を締め付ける。僕は興奮が蘇らないように意識を逸らしつつ、ゆっくりと時間を掛けてペニスを引き抜いた。
 血は出ていないようだった。傷も見えなかった。少なくとも取返しがつかないほど酷く傷付けてはいないということだ。そう考えて、ほっと一息吐こうとしたところだった。
「あ」
 思わず声を上げてしまった。藤崎がぼんやりとした目で僕の視線を追う。
「……藤崎、ごめん、破れ――」
「俺が」
「え」
「穴、開けた」
 先端から漏れる精液の滴をとりあえず手の平で受け止め、ティッシュに手を伸ばした。
「……いつ?」
「お前が……うたた寝、してたとき」
 ああ、と合点がいった。だから藤崎は自ら動いて僕に着けてくれたのだ。
 僕は自分の家でコンドームの外箱を開封していて、練習の為に何個か使いもした。僕が眠っている間に藤崎が中のものを取り出して細工することは容易だった筈だ。
 そう考えながら用をなさなかったコンドームを厳重にティッシュで包み、ごみ箱に捨てた。
「怒った?」
「怒ってないよ」
 残っていた量から中に漏れた量を推測する。おそらくそれ程の量ではないだろう。
 ティッシュとウェットティッシュを使って二人の体液やローションで濡れた部分をざっと清め、藤崎の下に敷いたバスタオルを丸めて回収し、とりあえず元入れていた袋に戻して、やっと藤崎の隣に体を横たえる。
「怒ったんだろ?」
 藤崎はころんと僕の方に体を向け、もう一度尋ねた。
「……怒ってないよ。でも、もしかしたら後でお腹が痛くなるかも……お風呂、入りに行く?」
「無理」
「じゃあ、後で……もし体がきついんだったら、一緒に入る? 僕が藤崎を洗うから……その、体は出来るだけ見ないようにして――」
 言葉が途切れたのは藤崎に抱き着かれたからだ。藤崎は僕の頭に顔を埋め、暫くの間僕の体を抱いて、何も喋らずにいた。何か声を掛けるべきかと考え始めた頃、藤崎は唐突に僕を解放し、それから足元に畳んで置かれていた毛布と掛け布団を引き上げてまた僕を抱き締め、足に足を絡ませて目を閉じた。
 疲れたんだろう。僕ですら相当体が怠いのだから、体を弄り回された藤崎はそれ以上に疲弊して体を動かす気力すら無くしていてもおかしくなかった。今から無理矢理体を起こさせるのはどう考えても得策とは言えないし、一人シャワーを浴びに藤崎を置いて行くのは嫌だった。
 それなら、選択肢は一つだけだ。
「藤崎、おやすみ」
「……おやすみ」
 小さな声で返事が返ってきた。
 藤崎の体に腕を回して目を閉じる。強い眠気が襲い掛かってきた。それでも藤崎が寝息を漏らし始めるまでは堪えていたが、藤崎が眠りに就いたのを確認した瞬間、圧倒的な欲求に逆らっていた理性がついに陥落した。
 意識を保っていた最後の数秒、僕は殆ど無意識に藤崎の背中を撫でていた。そうしている間、僕の頭には、Tシャツの下の素肌を撫でられたら良かったのに、という思いだけがあった。
「好きだよ」
 そう呟いて、僕は意識を手放した。



 次に目を開けたとき、世界は眩しかった。
 もう朝なのか――いや、窓もカーテンも開いていない。瞼の下に潜り込んで僕の目を覚まさせたのは照明の光だった。掛け布団も毛布も腹の辺りまで下げられていて、腕の中に藤崎はいなかった。だが僕を置いてどこかに行ってしまったわけではないことはすぐに分かった。
 ベッドの端に、こちらに背を向けて座っていた藤崎の姿を目にした瞬間、僕はまだ夢を見ているのではないかと思った。
「……藤崎?」
 声を掛けると、藤崎はゆっくりと振り返って僕を見下ろした。形容し難い目つき――分かるのは、藤崎がはっきりと覚醒しているということだけだ。
「藤崎、服は……」
「俺は生まれ変わった」
「……え?」
「悪霊が消えたんだよ」
 いつの間にかベッドのすぐ傍まで引き寄せられていた鏡に、藤崎は目をやる。そこに映った藤崎の背中には――裸の背中には、僕が今まで想像していたような虐待の痕跡は何一つ見当たらなかった。白く肉の薄い、滑らかな肌。腹側も同じだった。あれだけ頑なに服の下の肌を隠そうしていた理由はどこにも見つけることが出来ない。
「俺は生まれ変わったんだ」
 藤崎はそう言ってまた僕を見た。そして身を寄せ、僕に抱き着いて、胸に顔を伏せた。
「悟……」
 その声と肩が震えていなくても僕の体に零れ落ちる温かい涙の感触だけで、藤崎が泣いていることに気付いただろう。
 『悪霊が消えた』『生まれ変わった』――藤崎の言葉は殆ど理解出来ないものだったが、藤崎にとって何か好ましい変化が起きたこと、そしてそれが藤崎の泣いている理由だということは何となく分かった。
 僕は藤崎を抱き返した。そして腕の中の少年が泣き止むまで、その背中をそっと撫で続けていた。
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