22.土曜日【12:30-18:10】

 ネットカフェかどこかで仮眠を取ってから映画に行こう、という提案は却下されてしまった。僕達は藤崎の要求通りに――元々立てていた予定通りに公園を出てバスに乗り、大型ショッピングモールの前で降りてモール内の映画館に直行した。
 午後一時、第二スクリーン、中央部最後列。予告編が流れている今の段階で、入りは五分の一程度といったところだった。海外のホラーゲームが原作というこの作品は公開からかなり時間が経っていたし、今週は全米での興行収入が数億ドルに達したという話題作が公開された週だ。映画の公式サイトを見た限りファミリー向けでもカップル向けでもなさそうだったことを考慮すると、これでも多い方なのかもしれない。
 最後列に座っているのは僕達二人だけだ。照明が最終的な暗さまで落とされると藤崎は隣に座る僕の方へ顔を向け、手を出すようジェスチャーで指示してきた。言われた通りに出した右手は右隣に座る藤崎の左手に捕らえられ、肘掛けに置かれた。藤崎の指は僕の指に絡み、しっかりと僕の手を握り締めて動かない。藤崎の顔を見る。視線は既にスクリーンの方へ向けられていて、その横顔は平静そのものだった。
 僕は藤崎の視線を辿り、スクリーンに目をやった。
 雨が降っている。暗く険しい森の中を二十代後半くらいの男が彷徨い歩いていた。均整の取れた体はふらつき、フードに半分隠れた顔には疲労が色濃く表れていた。激しく降る夜の雨が彼の体を凍えさせ、木の幹に触れる手を滑らせる。
 殆ど倒れ込む寸前に、鬱蒼とした森が開けた。見るからに古い屋敷が土砂降りの雨の中に鎮座していた。男はフードを取って屋敷を見つめる。そして意を決したように錆び付いた門を開き、中に入っていく。
 広々とした庭には手入れの跡があり、屋敷の二階の窓からは微かに光が漏れていて、人が住んでいる様子はあるものの、どこか廃墟のような不気味さがあった。ふと一匹、雨に濡れて貧相な黒猫が男の前を横切る。
 男は不吉な予感を無視して玄関に立った。森の中を散々に歩き回り、雨に打たれて疲弊していた。声を上げ玄関扉を叩いてもみたが反応は全くない。仕方なく両手で扉を押してみると、鍵が掛かっていなかったのか重たげな音と共に扉が開いた。埃だらけの薄汚れた暗い広間が覗き――人の形をした無数の黒い影がぶわりと浮かび上がった。
 僕は恐怖に息を止め――同時に、藤崎の指先が微かに揺れたことに気付いた。思わずスクリーンから藤崎の方へ視線を移したが、横目で見た藤崎の顔には恐怖や動揺の色はなかった。もう一度スクリーンに目を戻し、ストーリーに集中しようと試みてはみたものの、スクリーンに投影される光の連続は、藤崎という強烈な存在を忘れさせるにはあまりに淡過ぎた。
 藤崎。藤崎のことで頭がいっぱいになる。思考を占領される。藤崎、藤崎、藤崎。藤崎の『悪霊』はどんな形をしているのだろう。どれほど恐ろしくどれほど邪悪で不快なものが、藤崎の心に影を落としているのだろう。藤崎。藤崎。藤崎。影の中に現れた白く美しい少女の叫び声が藤崎のものと重なる。少女の涙が藤崎の涙に変わる。僕の腕の中で泣いていた藤崎を思い出す。僕は繋いだ手に無意識に力を入れて、しっかりと握り返していた。
 少女は悪霊の群れから飛び出して螺旋階段を駆け上がり、追いすがる黒い手と手から逃れようとする。男は少女を引き留めようとするが彼女に男の声は届かない。少女の白いスカートが屋敷の奥へと消えていく。すると悪霊達の姿はぼんやり薄れ、古ぼけた絵画に、雨水がしたたり落ちる絨毯の染みに、壊れたシャンデリアに、砕けた手すりに変わった。男は戸惑い、怯えながらも屋敷の中に足を踏み入れ、哀れな少女を追い掛ける為に酷く軋む階段を上っていく――。
 手の平から、指先から、藤崎の鼓動が伝わってくるような気がした。もしかすると僕自身の鼓動なのかもしれない。脈拍は微かに乱れている。
 屋敷は外観から予想されるものより広く、深い。そして壁に掛けられたランプの光は頼りなくぼやけていた。男は少女を完全に見失ってしまう。疲れて手を突いた壁に黒い影が浮かび、男の手を掴む。男は叫び声を上げて壁から手を離そうとするが、影は男の腕まで包み込んでいく。男はランプに手を伸ばし、影に向かってそれを投げつける。男の腕に炎が上がる。激しい痛み。藤崎の鼓動が速まる。影が霧散する。のたうち回るうちに男は近くの部屋に転がり込んでいる。雨漏りした水で炎を消し、大きな化粧台に背を凭れて目を閉じる。曇った鏡に少女の顔が映った。男は目を開け、辺りを見回し、鏡を覗く。何も映らない。少女の声が聞こえる――その引き出しを開けて。
 びっしりと錆に覆われた赤黒いナイフ。男はそれに手を伸ばす。画面が揺れる。古いビデオのような荒れたビジョンが見える。深い皺と醜いしみと覆われた老人の血走った目がスクリーンいっぱいに映し出される。その濁った瞳にあの少女によく似た美しい女性の姿が映る。裂けたドレスをかろうじて身に纏った彼女はナイフを手にしている。老人は彼女に何かを囁く。彼女はナイフを自身の喉に当てる。噴き出した血で辺りが真っ赤に染まる。その血は腐り、錆びてナイフを覆う。幻影が消える。男は気付く。今自分が手にしているのは彼女の命を絶ったナイフだ――。
 少女の叫び声が聞こえる。男はナイフを手にしたまま声の方へと走り出す。黒い影が闇の中で蠢く。少女のスカートがちらりと覗く。その白と少女の金髪を追い掛けるが、影と揉み合っているうちに少女をまた見失ってしまう。声がする――そのドアを開けて。男は屋敷の中を彷徨い、悪霊達に飲まれまいと足掻きながら、屋敷に住んでいた一族の秘密に少しずつ触れていく。
 藤崎の冷たい手に僕の熱が移って温かくなっていくのを感じた。だが男の濡れた体を温めるのは少女の声と光のように白いその姿だけだ。彼女は生きているのだろうか? 少女の声が、姿が、男の意識と正気を保たせる。少女に導かれるように男は屋敷を動き回る。その先で見つけた腐った本、壊れた椅子、止まった時計や煤けた肖像画に触れると、現実を侵食するように遠い昔のビジョンが現れた。影の悪霊達が生きた人間だった頃の顔、表情、息遣い、思考、感情、目を背けたくなるような最期、一族の惨憺たる歴史が男の中に浸み込んでいく。パズルのピースが一つ一つ嵌って、屋敷で起こった全ての悲劇が繋がっていく。
 少女の顔が、手足が、気付かないうちに少しずつ年を取っている。もはや少女とは言えないだろう。輝く金髪の、思わず息を呑むほど美しい妙齢の女性。その顔は男が手にしたままのナイフで遥か昔に命を絶った女性に酷似している。僕は彼女を追い掛ける男に自身を重ね、彼女に藤崎を重ねていた。明らかになっていく一族の歴史に吐き気を催しながらも、彼女の苦悩と長い間味わってきた痛みを理解したいと思っていた。心の底から彼女を救いたいと願っていた。
 金色の光を追って、男は屋敷の裏庭に出る。朽ちかけた墓石の群れ。その先には井戸があった。ビジョンの中であの美しい女性の死体が投げ込まれた井戸だ。男は雨に打たれながら井戸を覗き込む。暗闇が覗き返す。男の手を白い手が掴む。画面が真っ暗になる。
 ――ふと一匹、雨に濡れて貧相な黒猫が男の前を横切る。男は不吉な予感を無視して玄関に立った。森の中を散々に歩き回り、雨に打たれて疲弊していた。声を上げ玄関扉を叩いてもみたが反応は全くない。仕方なく両手で扉を押してみると、鍵が掛かっていなかったのか重たげな音と共に扉が開いた。誰もいない。叫び声がする。灯りの点いていた二階の方からだった。男は螺旋階段を駆け上がる。目に付いた扉を開ける。深い皺と醜いしみに覆われた老人――屋敷の主人の血走った目が男を睨む。老人の末娘が男を怯えた目で見る。その手にナイフは握られていない。老人は下卑た笑みを浮かべ、その女は俺の妻になるのだと言う。だからお前が出る幕などないのだと。男は手の中にナイフを握り締めていたことに気付く。
 それで殺して。老人の末娘が、美しい金髪の女が言った。男はその声に突き動かされた。彼女を救わなければならなかった。ナイフが老人の胸に突き刺さる。喉を裂く。腹を突き破る。噴き出した血で辺りが真っ赤に染まる。鮮やかな赤が視界を支配する。やがて老人の呻き声が消え、女のすすり泣く声が消え、男の荒い息遣いすら聞こえなくなる。
 赤の中に花の輪郭が浮かび上がる。薔薇だ。指輪が嵌った白い指が薔薇の花弁を撫でている。庭で女が薔薇の手入れをしているところだった。晴れた空の下で金髪が輝き、心地よく吹く風で毛先が揺れていた。女の口が動いた。誰かを呼んだらしい。男が女の後ろの方から歩いてくる。無精ひげが取り去られたその顔には笑みが浮かんでいた。彼は女を――妻を抱き上げ、くるりと一回転した。女は笑い声を上げ、男の首の後ろに手を回した。二人は唇と唇を重ね合う。美しく手入れされた木々と花々が二人を祝福している。屋敷は生気を取り戻し、活気に満ち溢れて輝いている。
 幸せな夫婦の背景に黒い影が映る。不穏な影。悪霊だろうか――いや、違う。黒猫だ。首には赤いリボンが巻き付いている。彼、あるいは彼女は美しい毛皮をその舌でゆっくりと整えているところだった。ふいに黒猫の耳がぴくりと動いた。物音が聞こえたらしい。注意深く音の方向へと近寄っていくと、蛙が飛び跳ねた。慌てて逃げ去ろうとする蛙を追い掛けて猫は裏庭の方へと走っていく。墓地を越えたところで蛙の姿が消え、黒猫は化かされたような顔で辺りを見回した。誰もいない。何もいない。ふと井戸が猫の視界に入る。彼女は井戸を形作る古びた煉瓦に飛び乗り、中を覗き込んだ。深い闇が猫を覗き返す。ぽつりと一滴落ちた雨粒が水面を揺らし、何かがちらりと見えた。水の中を覗き込もうとした猫の首から赤いリボンが滑り落ちる。もう一度落ちた雨粒がリボンに触れ、鮮血のような赤をどす黒く染めて、井戸の中の闇と同化させる。井戸を覗き込む猫の瞳に何かが映り込んだ。水の中で揺れる髪、見開いた目、青ざめた肌と唇――井戸の底に沈む男の側には、白いドレスを纏った骸骨が横たわっていた。

 井戸を覗き込む黒猫を背景にエンドロールが流れ出すと、僕の手の中から藤崎の手がするりと抜け出ていった。藤崎の顔を見る。藤崎も僕の顔を見ていた。僕達は少しの間見つめ合い、またスクリーンの方へと顔を向けた。すぐに立ち上がる人達もいたが、僕達は無数の名前が柔らかなピアノの音と共に流れていくのを静かに眺めていた。
 やがてスクリーンを流れる文字が消える。それまで微動だにしなかった黒猫が井戸の煉瓦から飛び降り、俄かに強まった雨から逃れる為に屋敷の方へと走って行った。
 いつの間にか屋敷はすっかり朽ち果て廃墟と化していたが、黒猫を裏口から迎える夫婦は微笑を浮かべ、美しい姿のまま寄り添っていた。彼らが屋敷の中に消えると画面に翻訳者の名前が表示され、照明が点けられて周りが明るくなった。
 藤崎は小さく息を吐いて立ち上がり、お前も早くしろよとでも言いたげな顔でちらりと僕を見た。僕は腰を上げ、藤崎の後に続いて出口に向かった。



「服、見に行くから」
 映画館内にあるトイレから出るなり、藤崎はそう言い出した。映画の余韻を味わおうという気はまるでなさそうな声だった。僕はまだどこかぼんやりとした頭のまま頷き、迷いなく進み始めた藤崎の横に並んだ。
 少し前を歩く藤崎のクリーム色の服が映画と重なって見えた。ほっそりとした体の少女が僕の前を歩き、導いている。こっちに来て。私を助けて。瀬川が僕達の前に立っている。下卑た笑みを浮かべ、こいつは俺の物なのだと言う。甥を見るその目つきに怖気が走る。なあ、お前だってこいつを犯したいんだろ。瀬川は僕に囁く。こいつに復讐してやりたいんだろ? 僕は手にナイフを握り締めていることを思い出した。そして藤崎は僕に言う――それで殺して。
「悟。おい、悟」
「……あ、え、なに?」
「これ。似合うかって聞いてんだけど」
 オレンジと白のボーダーのセーター。丈は少し長めで、ニットの生地はしっかりとしている。藤崎はそれを自身の上半身に重ね、椅子に座った僕を見ている。
「えっと……似合うと思う」
「色は?」
「色? うん」
「こっちは?」
 藤崎は近くに掛けられていたセーターを体に当てる。先程のものとは色違いらしく、オレンジの部分がくすんだピンクに変わっている。
「そっちも似合うよ」
「じゃあこれは?」
 今度はかなり明るめの黄色だ。一瞬違和感を覚えたが、似合わないというほどでもないような気がした。
「うん」
「『うん』?」
「……僕センスとか全然無いし、店員さんに聞いた方が」
「お前に聞いてんだけど。言いたいことあるならはっきり言えって散々言ったよな」
 どうして僕に聞くんだろう。不適任だと自分でも思う。今日のコーディネート――ネイビーのPコート、チェックシャツの上に薄いグレーのセーター、ダークブラウンのボトム、という所持している服の中では一番気に入っている組み合わせも、家族に『可もなく不可もなく普通に地味』と評されたくらいだ。
 僕はかなり悩んでから答えた。
「ピンクの方が似合ってた……、と思う」
 藤崎は暫く疑うように僕を見つめた後、ピンク以外の二枚を棚に戻して会計の方へと歩いて行った。会計に立っていた店員が顔を上げる。どことなく背格好や顔つきが瀬川に似た男だった。思わず体がびくつく。僕は手に持っていた携帯を握り締めた。
 ――それで殺して。
「悟。喉渇いた」
 気付けば目の前に藤崎が立っている。その手にはショップバックが下がっていた。
「あ、うん、じゃあどこかに入る?」
「自販機でいい」
 店を出るときに会計に立っていた店員が見送りに来たが、よく見れば瀬川にはあまり似ていなかった。

 輸入雑貨の店とコンタクト販売店の真ん中にちょうど空いているソファが見つかった。藤崎は炭酸飲料を、僕はカフェラテを手に持って隣同士に腰を下ろす。飲み物は藤崎の奢りだった。公園で僕が出したことが気に入らなかったらしい。約束を破るのかと言われれば強く反対する気は起きなかった。
「お前さぁ」
 藤崎は飲み物を二口飲んでから切り出した。
「映画、そんな怖かった?」
「え……」
「ぼーっとしてんじゃん。いつもそうだけど、いつもよりも」
 映画館を出た後も引き摺るほど怖かったか、と問われると、答えは否だ。年齢制限がかかるような過度にグロテスクな表現も、邦画によくある底冷えのする恐怖の演出もなかった。
「そんなに怖くはなかった。……ただ、色々考えてただけだよ」
「色々?」
「色々……藤崎は何であの映画を観ようって言い出したんだろう、とか」
「ラブストーリーだったから」
「…………」
 ラブストーリー。藤崎の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。確かに最終的に男女が恋愛関係にはなったが、予告編の動画や公式サイトはいかにもホラー映画然としていて、恋愛を匂わせるような雰囲気はまるで無かった。どこかで作品のレビューでも見ていたのだろうか。
「ゲームやったことあったし」
「ストーリー、一緒だったんだ?」
「大体は。映画はバッドエンドルート」
「ハッピーエンドだったらどうなってたの?」
「主人公が無事に井戸から骨を取り出して墓を作ったら、急に雨が上がって朝になる。男は屋敷から出て何とか森を抜けて、出た道を通りがかった車に乗せてもらって終わり」
「そっか……何でバッドエンドの方を映画化したんだろ」
「決まってんじゃん。そっちの方が受けるから」
 そうなんだろうか。僕には分からなかった。
「……藤崎は、どっちのエンディングが好き?」
「どっちもどうでもいい。他人の恋愛事とか生き死にとかに興味ねーし」
 ならどうしてあの映画を選んだんだろう。藤崎は僕の表情と沈黙から心を読んだのか、炭酸を呷りながらこう言った。
「けどラブストーリーって、デートっぽいだろ」



 一階にある広場で大道芸と民族楽器演奏のライブを鑑賞した後、モールを一回りしてから外に出た。電車に乗り込んだときにはすっかり夕方で、僕達の体がいつもの町に戻る頃には窓の外は夜のように暗くなっているだろうと思った。
 行きより帰りの乗車率の方が高く、僕と藤崎は間に隙間を全く置かずに腰を下ろした。ガタンゴトンと揺られ続けているうちに、僕はいつの間にか藤崎の肩に頭を凭れていた。藤崎の柔らかく触り心地が良い服に触れていると、俄かに強い眠気が襲ってくる。そうだ、一睡もしていないんだったと今更思い出す。眠ってしまう前に姿勢を正さなければ。そんなことを考えている僕の膝に、藤崎が手を伸ばしてきた。膝の上に置いていた鞄を勝手に開けて携帯を取り出した藤崎は、まるでそれが自分の物でもあるかのように堂々と中を見始めた。設定しているパスワードは当然藤崎も知っているので意味はない。だが無断で誰かにメールを送信したり電話をしたりデータを削除したり、といった行為はやめて欲しいと駄目元で頼んでみたところあっさり了承を得られたので、最近は一体何をしているのかと気になることもなくなった。
「また履歴消しただろ」
「消してない」
「嘘吐くなよ」
「……消すっていうか、最初から記録されない機能を使ってるから」
 藤崎はブラウザの設定を開き、僕の言葉が本当か確認している。嘘ではないことを確かめても機嫌は直らないようだった。
「お前、俺に何か隠したいことでもあんの?」
 三か月前に携帯を変えて以来そういう機能を多用するようになったのは、藤崎に揶揄の種を渡したくないという気持ちがあったからだ。家でくつろいでいるとき、ほんの息抜きとして楽しんだことを侮辱されると、楽しかった時間まで泥色に塗り固められてしまうような気がした。藤崎という悪魔に自分の生活全てを支配されてしまうと思った。非があるとしたら藤崎の方だ。僕は何も悪いことはしていない。ただ自分を守りたかっただけだ。
 だが、本当にそれだけだっただろうか?
 僕の中に一つの感情が強く蘇る。一瞬で眠気が吹き飛ぶほどの――後ろめたさ。
「藤崎の……」
「俺の?」
「家で、見たんだ。一階の……キッチンの裏にある引き出しの中。フォークを探してたときに。それを思い出して、色々検索して、その……団体のサイトを見た。ごめん」
 電車が停まる。何人かが出て行って、それより少し多い人数が入ってくる。僕は姿勢を正し、隣に座る藤崎の反応を待った。
 藤崎は電車が動き出してから口を開いた。
「何で?」
 その声音は僕を責めているように思えたが、それは罪悪感から来る妄想かもしれなかった。
「藤崎のこと……知りたかったから」
「知ってどうすんの? 意味とかないだろ」
 僕は藤崎を傷付けたものを知ってどうしたかったんだろう。ただ好奇心を満たす為にそうしたわけじゃない――僕は、間違えたくなかったのだ。
 公園で目にした藤崎の涙を思い出す。僕は未だに完全には理解出来ずにいた。どうしていきなり泣き出したんだろう。あの公園で藤崎は一体何に耐えられなくなったんだろう。僕が不用意に発した言葉や見せた表情、態度に、藤崎は何を感じたのだろう。藤崎の中の何と僕の行いが繋がったのか、僕は知らなかった。
「藤崎のことが分かれば……藤崎をこれ以上傷付けなくて済むようになるかもしれない」
 頭の隅で白い服の少女が僕を導いている。その扉を、その本を開いて。私のことを知って欲しいの。どうか私を救って。彼女の苦悩に、痛みに、叶わなかった望みに触れるたび、僕の中で彼女の存在が大きくなる。彼女を守ってやりたかったと思う。彼女に安らぎを与えたかったと思う。寄り添い、愛し合って、幸せにしてあげたかったと。
 やがて僕はその術を知る。それは決して手遅れではなく、今ここでなすべきことだと分かる。彼女を――藤崎を守る為にすべきことを、手の中に握り締めたナイフに見出すのだ。
「その為に僕は、藤崎のことを理解出来るようになりたいんだ」
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