21.土曜日【08:20-12:30】

 雲一つない透き通った青空の下。十二月の朝の空気を大きく吸い込んだ。その冷たさに肺が震える。微風が顔を撫で、マフラーの隙間に入り込もうとする。
『今日は寒いね』
 メールを送る。だから何だ、と詰まらなさそうに画面を見る藤崎の姿を思い浮かべた。もう家を出ただろうか。まだベッドの中かもしれない。
 僕はといえば、一睡も出来なかった。藤崎のことを考え、今日行く場所や行くかもしれない場所のことを考え、二人ですると決めたことや、もしかしたらするかもしれないことを考え、遭遇するかもしれない知人や瀬川や家族のことを考え、落ち込んだり陽気になったり思い詰めたりした。ベッドの中をもぞもぞと動きながら携帯の画面を見つめていたかと思うと、立ち上がって部屋を歩き回り、机の上に用意した服や鞄や持ち物が気になってクローゼットの中のものと何度も入れ替え、またベッドに戻って藤崎とのやり取りを見返し、電車の時間を調べたり行くことになっている施設のサイトを隅々まで眺めたり、履歴を残さないようにしているいくつかのサイトを覗いたり、一晩中あれこれ心配し続けた。
 良かったことが一つだけある。全く眠らなかったおかげで嫌な夢を見なかったことだ。昨日の朝から保ったままの意識に悪夢が侵食する隙などなく、現実と現実が一続きのままある。かえって頭が冴えているような気さえした。
《♪~》
 家を出てからずっと手を入れているポケットの中で小さく音が鳴った。右手には携帯、左手には防犯ブザーを握っていた。鳴ったのは前者だ。立ち止まってポケットから携帯を取り出した。
『また風邪引いたなんて言うなよ』
 藤崎のメールの文章は、普段僕の前で発している言葉に比べるとかなり柔らかい。加害の証拠を残さない為に殆ど単語だけでやり取りしていた時の名残なのかもしれない。死ね、殺す、犯す、殴る、といった暴力的な言葉が出てくることはごく稀で、全体的にも一枚二枚オブラートで包まれたような印象がある。このメールも直接話すときの言葉に変換するなら『あ? また風邪引いたなんて言ったら殺す』くらいにはなるだろう。
 『引いてないよ、藤崎の方は体調どう?』と返してまた歩き出した。肺には冷たい空気が出入りし続けていたが、一歩進むごとに心臓の鼓動が高まり全身の血が燃えて、寒さを感じるところか汗ばむほど暑かった。
 それは今日という日が、この十六年の人生で初めて経験する『恋人』とのデートの日だからだということは、疑いようもなかった。



 待ち合わせ場所に着いたのは約束の時間の三十分近く前だった。学校への登下校でいつも使っている駅の改札前。本当は藤崎の家へ迎えに行きたかったが、例のごとく断られてここに決まった。
 あまりにも早く着き過ぎたことは分かっていたので、改札の周りを少しの間うろうろした後は駅の中にあるトイレに入った。二年ほど前に改築されたばかりの、清潔感とそこそこの広さがあるトイレだ。尿意はなかった。ただ会う前にもう一度済ませておこうと思っただけだった。
 手洗い場と小便器の間の通路を通り過ぎて個室に入ろうとしたとき、僕は小さな違和感を覚えて振り返った。
「……藤崎?」
 トイレには一人だけ先客がいた。後ろを通ったときは手洗い場の鏡を見つめていた彼は、僕が振り返るより先にこちらを向いていた。
 ふわふわとしたファーが付いた、クリーム色のロングニットカーディガン。厚みがあるせいかシルエットが優しい。丸く大きな茶色のボタンは全て開けられていて、太腿の付け根までの丈の、柔らかそうなグレーのTシャツが見えている。その下からは細身のジーンズが伸び、折り返しのボアが覗くブラウンのムートンブーツで終わっていた。
 ブラウン――髪の色と同じだ。
「か……」
「か?」
「……髪、染めたんだ」
 藤崎は鏡にちらりと目を向け、自身の短い髪の中に手を差し込んで軽く指で梳いた。パーマもかけたのかワックスでセットしただけなのか、くるりとした毛先が揺れる。
「ちょっと明るくした」
 藤崎はそう答え、僕の方に近付いてきた。普段とはかなり印象の違う装いをしていても歩き方は変わらない。目も逸らさずにまっすぐ堂々と歩いてきた藤崎は、目の前で立ち止まった。水曜に嗅いだ香水の匂いがする。
「それで? 服は?」
「いい、と思う」
「いい?」
 正直に言え、と僕を見下ろす目が問い質してくる。
「何か……」
「はっきり言えよ」
「……か、かわいいと思う……」
 一度誤魔化して飲み込んだ言葉を躊躇いつつ口にする。いくら強要されたと言っても、かわいい、なんて形容詞を使っていい相手だとは思わなかった。
 だが藤崎は「ふーん」とよく分からない声を鼻から漏らしただけで不機嫌そうな素振りは見せず、個室の方へと目をやった。四つある個室はどれも空いている。
「お前、今日抜いた?」
「え?」
 聞き間違いだろうか。
「だから。オナニーした?」
 汗が吹き出る。息苦しい。首を横に振った。
「昨日は?」
 藤崎は個室のドアを開けて中を覗き始めた。
「……した」
「朝? 夕方? 夜?」
「夜、だけど」
「何回?」
「……一回」
 藤崎は振り返り、ドアとドアの間に手を突いて僕を見つめ、それから僕の元へと戻ってきた。僕の手首を掴み、奥の個室へと引っ張っていく。ろくな抵抗も出来ずに中まで連れ込まれて、閉めたドアに押し付けられた。
「藤さ――」
 口を塞がれる。藤崎は僕が来る前に何かを塗っていたのか、その唇は潤って柔らかく、頬に触れる手の平からは微かに甘い香りがした。胸を押し返すと意外なほどあっさり藤崎は顔を離した。
「は? 何でそんな目してんの。別にお前のこと今ここで犯そうとか思ってないから」
 僕はどんな目をしているんだろう。
「そういう、ことじゃなくて……」
「いいから。黙ってろよ、悟」
 もう一度唇で口を塞がれた。今度は胸を押し返しても、藤崎は僕を解放してはくれなかった。



 それからほんの十数分後――僕達は、ガタン、ゴトン、と心地よい音を立てて進む電車に揺られながら窓の外に流れる景色を眺めていた。都市から遠ざかる早朝の電車の中に人は少なく、僕達の他には三人で楽しげに会話をしている年配のご婦人たちと、未就学児と思しき子どもを連れた家族が一組いるだけだった。
 前方左手の席に座る一家の母親は、隣に座る小さな男の子に海洋図鑑を開いて見せている。男の子は行儀よく振る舞おうとしながらも逸る心を抑えきれないようで、図鑑を指差しながら時折声を上げていた。父親の方は眠たげに目を瞬かせつつも息子の声に相槌を打ち、宥めるように肩を撫でて欠伸を噛み殺している。
 きっとあの家族は僕達と同じ場所に向かっているんだろう。
「飯は?」
 唐突に藤崎が声を発した。
「食べてきた……藤崎は?」
「腹空いてない」
 そう答える藤崎の口はたった十数分前まで僕のものを銜え込んでいて――その腹の中には、藤崎が当たり前の顔をして飲み込んだ僕の精液が入っている。僕はペニスに絡みついた舌の感触を、柔らかい咥内の感触を覚えていた。そして藤崎がごくりと喉を動かしたときその喉を流れた白濁の動きが、まるで本当に目にしたことがあるような鮮明さで僕の頭の中に流れていた。
 平和でのどかな風景と楽しげな声の中に浮かぶ非日常的で俗悪なイメージが、僕の顔を赤く火照らせた。
 藤崎に気付かれないように深呼吸し、この状況に相応しくないイメージを何とか頭から追い出した。
「昼御飯は水族館で食べる?」
「不味そう」
「確かに」
「もうすぐ着くね」
「この後バスだろ」
「そうだけど……気分的には」
「は? 意味不明」
 電車がホームに入る。僕達はあまり噛み合っているとは言えない会話をたまに交わしながら、駅前のバス停でバスに乗り換えた。
 バスの席は半分埋まっていて、僕達と同じくらいの年齢の子の姿もあった。知らない顔だ。高校の同級生と遭遇する確率はそう高くはない筈だ。僕達の住む町から水族館まではそれなりの交通費が掛かるし、家族と車で遠出するなら県内にはもっと規模の大きな水族館がある。
 もしばったり会ったとしても、仲野さんにしたようなことは繰り返さないと互いに約束していた。今日は二人きりで過ごす。知り合いにあっても挨拶だけで終わらせる。酷い喧嘩はしない。途中で帰ったり勝手に相手から離れたりはしない。それが絶対に守る約束で、他にも争いを避けるために幾つか決めごとをしていた。例えば、費用は割り勘だということ(初め藤崎は面倒だからと全て出す気でいた)。気分や体調が悪くなったら休むこと。他にも色々と話してはいたが、実際はどうなるか分からなかった。
 上手くいくだろうか。上手くいってほしい。上手くいくように頑張りたい。期待と不安と高揚が同時に胸の中にあった。それでも家を出たときと比べれば逸る気持ちがいくらか落ち着いているように思えるのは、もしかすると――藤崎がトイレでしてくれたことが理由なのかもしれなかった。
「海が見える」
 僕が言うと、藤崎は小さく頷いた。
「もうすぐ着くね」
 面倒だったのか返事はなかったが、藤崎の目も遠くに見える海と水族館をじっと追っているのが、何だか妙に好ましく感じられた。



 開館から一時間も経っていない水族館の客入りはまばらで、ゆっくり見て回ることが出来そうだった。意外にも藤崎は泳ぐ魚たちにそれなりの興味を抱いたらしく、他の人達と同じくらいの速度で順路に従って歩き、時折水槽近くの説明文にも目を通していた。
「アシカショーがあるんだって」
「アシカ?」
「……見る?」
「興味ない」
 一際大きな水槽の前で、藤崎は小魚たちに混ざって泳ぐサメを見上げていた。その目はサメの堂々として優雅な動きを追っている。青く仄かに光る水がガラス越しに藤崎の顔を染めていた。
 サメを追って随分遠くに向けられていた視線が、いきなり僕の方に向いた。心臓が止まりそうになる。
「お前は?」
「え?」
「お前は見に行きたいのかって聞いてんだけど」
「僕も……そんなに興味ないかな」
「ふーん」
 藤崎はどうでもよさげに声を発し、水槽に再度目を向けることはせずに歩き出した。僕はその横を歩きながら、もし行きたいと答えたら付き合ってくれたのだろうかと考えていた。

 サメが泳いでいた水槽から少し歩くと、それまでの水槽の前には無かった小さな人だかりが目に入った。よく見れば電車で見掛けた家族連れの姿もある。どうやらペンギンの水槽らしい。人だかりといっても観賞に支障が出るほどではなく、僕達は人々の少し後ろに立って頭と頭の間からペンギン達の姿を眺めた。
 陸地で彫像のように立ったまま動かないペンギンもいれば、よたよたと体を振りながら歩き回っているペンギンや、水の中に飛び込んでどこかに泳いでいくペンギンもいた。確かに足を止めたくなるような愛らしさだ。
 藤崎は少しの間ペンギンを見ていたが、どうも人が多いのが気にいらなかったのか、ペンギンの側で影が薄い、地味な色の魚がぼんやり泳いでいる小さな水槽の方へと歩いて行った。その水槽の前で藤崎は急に呟いた。
「お前に似てる」
 ペンギンの餌として飼っているのだと言われても納得してしまいそうな魚が、僕を見つめ返してくる。確かに似ているかもしれない。
「そうだね」
「こいつじゃなくてあっちの方」
「あっち?」
「ペンギン」
「……と、この魚が似てるの?」
「は? どこが。お前とだよ」
 藤崎は水槽から僕へと視線を移してじっとこちらを見つめ――僕の顔に手を伸ばした。その指は僕の鼻を軽く摘み、
「そっくり」
 ぱっと離れて、僕の手からパンフレットを抜き取っていった。
「あと熱帯魚のコーナーで終わりだろ」
「あ、うん……」
「その後カフェに入るから」
「分かった」
 用が済んだパンフレットを僕に押し付けて、藤崎はまた順路を辿っていく。すぐ近くには触れ合い体験型のコーナーがありナマコや小魚に触れることが出来たが、藤崎はそれを完全に無視して角を曲がった。
 熱帯魚のコーナーまでは緩い坂になった通路を少し歩いていかなければならなかった。水槽もパネルもない、圧迫感のある暗い色の壁に囲まれた、何となく薄暗い通路。数メートル先に男女のカップルが一組歩いているだけで、あとは僕と藤崎だけだ。
 藤崎は坂の手前で立ち止まり、後ろをちらりと見て、それからまた歩き出した。数歩先に進んだところで僕の手に何かが触れた。その感触の正体に気付いた瞬間、触れた手の平から火が点いたように体が熱くなった。藤崎の指先は僕の手の平を滑って指を絡め取った。力は入っていない――僕は息を止め、藤崎の手を握った。
 坂は十秒足らずで下り終わってしまった。こじんまりとした熱帯魚のコーナーに入る前に、僕達はどちらからともなく手を離した。藤崎は何事もなかったかのような顔をして水槽を覗き込んでいる。クマノミの水槽だった。藤崎が関心を失うより早く、一匹が藤崎の顔に鼻先を寄せた。ふわふわと尻尾を動かしながら泳ぐ彼――あるいは彼女は、藤崎と暫し見つめ合った後、イソギンチャクの絨毯にその身を寄せた。すっかり人間の存在を忘れてしまった彼あるいは彼女の水槽から藤崎も顔を離した。
「可愛いね」
「こいつもお前に似てる」
「……どの辺りが?」
 藤崎は考え込むような間を置いて、
「小さいところが」
 そう答えた。
「……じゃあ、ペンギンは?」
「全体的にお前じゃん。特にガキの奴とか」
 パンフレットに載せられたペンギンの写真を見る。侮蔑的な意味合いがあるにしても、ペンギンの子どもなんて可愛らしい生き物に例えられるのは不思議な気分だった。
 そういえば防犯ブザーもペンギンの形のものを選んだのは藤崎だったな、と思い出す。僕がしつこく持ち歩くように言っている上に最近は会うたびに確認するので、藤崎はいつもそれを身に着けている。鞄を持っていない今日は、Tシャツとカーディガンで二重に覆い隠された位置のベルトループにペンギンがぶら下がっていた。
 いつも藤崎の傍に寄り添い見守るペンギン。それと僕が似ている、というのは何となく嬉しかった。
「俺は?」
 藤崎はクマノミの横の水槽に目をやりながら問う。
「サメ、とか」
「何で?」
 水槽から僕へと視線が移る。嘘は吐けない。もっと考えて答えるべきだった。
「かっこいいけど……凶暴なところとか」
 藤崎の唇の両端が微かに持ち上がった。俺はお前に優しくしているのにどこが凶暴なのかと問い詰められるかと思ったが、どうやら気に入ってくれたらしい。
 熱帯魚のコーナーから抜けるとトイレがあり、その先を行くと売店やカフェや巨大生物の模型などが並ぶ明るく賑やかな場所に出る。順路の開始地点はその近くだった。
 カフェの横にはジンベイザメの模型があった。藤崎はそれに近寄り、口元を覗き込んだ。
「お前なんか一口で喰い殺せるな」
「でも、ペンギンは泳ぐの速いよ」
「しつこく追い回して、疲れたところを襲えばいいだけだろ」
 入場口から大声を上げる小学生の群れが現れ、サメに走り寄ってきた。僕達は小さな怪物達から避難するようにカフェの中に入った。

「この後、散歩する? それとも公園は飛ばして別の所に行く?」
 僕が尋ねると藤崎は外に目をやった。ガラス越しに見える広場は寒々として、その先にある公園の木々の枝に緑はあまり見えない。そこまで気温は低くないとはいえ、特に何があるわけでもないだだっ広いだけの公園をわざわざ歩いて回る必要性はなかった。
「予定通りでいい」
「そっか」
 テーブルの上にはクラブハウスサンドとフライドポテトのプレート、それに二人分のドリンクがある。プレートは一人分で、それを僕と藤崎は二人でシェアしていた。といっても藤崎は烏龍茶を飲みながらたまにポテトをつまむぐらいでサンドには手を付けなかったし、そもそも注文時にポテトを少しだけでいいと宣言していた。藤崎の食欲は他の欲求と同じように気まぐれで波がある。
「水族館、楽しかった?」
「まあまあ。普通」
「途中で飽きたって言い始めるかと思ってたから、それでも意外だった」
「行くの初めてで飽きるも何もないだろ」
「……藤崎は水族館、初めてだったんだ」
「そうだけど。お前は?」
「最近はなかったけど、ここも何度か来たことあるよ」
 そう答えながら藤崎の家族のことを考えた。彼らは藤崎に何を与え何を与えず、何を奪ったのだろう。普通の家族のようにどこかに出掛けたり、笑い合ったりしたことはあるのだろうか。
「お前は? 楽しかった?」
「――え、あ、うん、楽しかった」
「嘘吐くなよ」
「嘘じゃないよ。本当に……藤崎と来られて良かった」
 藤崎は烏龍茶をストローで飲み干し、テーブルに片肘を突いて、僕の目を見た。
「お前、魚じゃなくて俺の顔ばっか見てたよな」
 疑問形じゃない。藤崎は気付いていたのだ。僕は喉まで出掛かった謝罪の言葉を飲み込んだ。いちいち謝るなって言ってんだろ、と不機嫌そうに返されるのがオチだ。
「見てた」
「俺の顔、何かおかしい?」
「おかしくないよ」
「じゃあ髪とか服装がおかしいって言いたいんだろ?」
「おかしくないよ。似合ってる。最初見たときは……びっくりしたけど」
「なら顔を見てた理由は?」
「それは……楽しんでるかな、とか気になって」
「それだけ?」
「いや……その、気付いたら見てた」
「何で」
「何でって、それは藤崎が」
「もういい」
 藤崎はそう言って携帯を取り出し、それにイヤホンを繋いで音楽を聴き始めた。それから僕がプレートの上の食べ物を全て平らげるまで一言も言葉を発さず、僕の言葉に反応を示すことさえしなかった。



 水族館を出てからも藤崎は殆ど口を開かなかった。売店で買ったガムを不機嫌そうな顔で噛み続け、僕が話し掛けても三回に一回「聞きたくない」「どうでもいい」「ああそう」「だから?」と返すだけで、まともな会話をする気すらないようだった。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。僕はどこで間違えてしまったんだろう。折角上手く行き始めていたのに急に風向きが変わってしまった。台無しにしてしまった。後悔でいっぱいになった頭に、僕達の間に流れる空気をあの会話の前へと引き戻す案は浮かばない。
 ああ、本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 公園は広場よりも人が少なかった。水族館の駐車場や最寄りの交通機関が水族館を挟んで反対側にあるからか水族館へ向かっている途中と思しき家族連れやカップルの姿はなく、ジャージで黙々と歩いたり走ったりしている人々と、縄跳びやボールで遊んでいる子どもたちの姿を稀に見掛けるだけで、聞こえてくるのは枝と葉がしなり揺れる音ばかりだった。
 歩くうちに藤崎の機嫌はより酷くなって、僕が何かを言い掛けると攻撃的な言葉が被さってくるようになった。僕は段々と口を開くことも怖くなり、やがて僕達の間には沈黙が下りた。
 大分歩いたところで、藤崎は口に入れていたガムを包み紙に出して近くにあったゴミ箱に投げ入れた。そしてまた新しいガムを取り出そうとして、丸ごと下に落としてしまった。
 拾おうと屈み込んだのは僕だけだった。藤崎はその場に立ったまま動かない。僕は顔を上げず、遊歩道に散らばったガムを拾った。いくら銀紙に包まれているからと言っても、一度下に落ちたものだ。捨てられてしまうかもしれないが、捨てるにしても道の真ん中に放置しておくわけにはいかなかったし――黙って歩き続けるより何か別のことをして、落ち込み塞ぎ続けていくだけの気分を変えたかった。
「これ、どうしようか、藤崎――」
 拾い終わって恐る恐る頭を上げる。そして暫く目を逸ら続けていた藤崎の顔をまともに見た。
「藤、崎……」
 その表情を僕は知っていた。
 息を止めて目を見開き、口元を強張らせ、眉根を微かに寄せて何かを堪えているその表情を。心臓に杭を打ち込まれたような痛みが胸を襲って、僕は打ちのめされた。その衝撃から立ち直るまでの一瞬のうちに、藤崎の瞳に厚く張った膜が決壊した。僕が立ち上がって藤崎の体に触れる前に藤崎はその薄い唇を噛み締め、ついには泣き出してしまった。
「……藤崎」
 両腕に触れると、藤崎は僕の目を見返して顔を歪めた。
「あ、ご、ごめん」
 ぱっと腕から手を離したが、藤崎は泣き止むどころか絶望し切った顔でしゃくり上げ始めた。僕は固まり、それから離したまま宙に浮かんでいた手でもう一度藤崎の腕に触れ、嫌がっているような素振りが見えないことを確認して震える体を抱き締めた。藤崎は僕に縋り付き、肩にその顔を埋めて泣き続ける。悲痛な声は僕の心を揺らし、藤崎は獰猛で残忍な心の無い怪物なのではなく、まだ自由とは程遠い場所で息苦しさと不安と恐怖に喘ぎながら、何とか現実と自身の世界のバランスを取ろうとしている、僕と同じ高校生二年生の子どもだということを、胸が痛くなるほど感じさせた。
「大丈夫だから、藤崎、大丈夫……」
 泣き声が啜り泣きに変わるまでの間、僕は藤崎の体を支え続け、背中を撫でながら、そんなことをずっと口にし続けていた。腕を振りながら歩いている中年女性二人と、音楽を聴きながら走っている三十代くらいの男性が僕達の側を通り過ぎ、視線を向けてきたが、ただそれだけだった。彼らは立ち止まることも僕達に話し掛けようとする素振りを見せることもなく、道の先へと消えて行った。だから藤崎が顔を上げたとき、周りには誰もいなかった。
 藤崎は僕の肩を押して体を離した。泣き疲れた顔、濡れた目元を、手の甲の半ばまで伸ばした長い袖で拭う。幼げな仕草だった。
「どこかに座ろう、藤崎」
 何も答えずに立ち竦んでいる藤崎の手を取ろうとして、右手に拾ったガムを握り締めたままでいたことに気付いた。迷った末に差し出すと、藤崎は無言で受け取った。僕はガムを持っていない方の手を取り、泣き疲れた目を見つめた後、歩き出した。
「映画」
 唐突に、藤崎は声を発した。
「映画?」
「観に行くんだろ?」
「まだ時間あるし……行かなくてもいいよ」
 この公園に来たのは初めてだったが、事前に調べておいたおかげで、少し歩いたところに公園の管理事務所と併設の小さな休憩所があることを知っていた。あるのは自販機と簡素なテーブルと椅子だけで、暖房設備も何も設置されていない。それでも外のベンチで休むよりはずっといい筈だ。
 何の抵抗もなく僕に引かれるままの藤崎の顔に、一度だけ目をやった。藤崎は葉が落ちた裸の木々の方に表情が抜け落ちた顔を向けていて目は合わなかったが、僕の視線に気付いて意識したことは分かった。掴んだ手に力が入ったからだ。僕はすぐに前を向き、視界に入った小さな建物に向かって歩き続けた。
 休憩室には先客が二人いた。それはついさっき僕達の側を通り過ぎて行った女性二人で、二つあるテーブルのうち奥にある一つを使って談笑していた。僕達がガラス扉を開けて中に入っていくと彼女達は一瞬こちらの方に目をやり、すぐに視線を元の場所に戻した。
「そろそろ行きましょうか」
「そうねぇ、お昼は何にする?」
 二人はそんな会話をしながら立ち上がり、僕達が手前のテーブルに就く前に持っていた缶をリサイクルボックスに捨てて休憩室を出て行った。
 横を通るとき二人は軽く会釈を返してくれた。その表情から判断するに、どうやら気を遣ってくれたらしかった。最初から最後まで彼女達のことを完全に無視していた藤崎にも二人は気を害した様子などちらりとも見せず、これから一緒に取るらしい昼食について大声で話をしながら遠ざかっていた。
 手前のテーブルには椅子が三脚ある。藤崎の手を離し、出入り口から一番遠い方にある椅子を引いた。
「藤崎、座って」
 口に出してしまってから、命令しているように聞こえただろうかと不安になった。藤崎の神経をいたずらに刺激する言葉遣いは出来る限り避けた方が懸命に違いなかった。
 藤崎は椅子を見つめたまま動かない。暫く待ってみても変わらなかった。僕はとりあえず自販機の方へ行き、二人分の飲み物を持って藤崎の側に戻った。
「お茶とミルクティー……どっちがいい? どっちでもいいよ。好きな方で」
 それまで無表情だった藤崎はいきなり顔を歪ませ、差し出した飲み物を無視して椅子に腰を下ろした。片膝を立て座面に靴を上げる行儀の悪さで、いかにも不機嫌そうな顔を壁に向けている。
 僕は藤崎の顔から遠い方の椅子に腰を下ろし、ミルクティーを藤崎の近くに置いて、緑茶のボトルを両手で包むように持った。
「あの、藤崎」
「昨日寝てなかった」
「え?」
「寝不足だった」
「……そっ、か」
 取り乱した理由の一つがそれだというなら、少し納得がいった。
「じゃあ予定早めて、もう家に帰ろうか?」
「は? 帰らないけど。だから寝不足だったって言ってんじゃん」
「でも、体調が悪いなら、無理は――」
 藤崎は片手で弄んでいたガムを、外装ごとぐしゃりと潰した。
「帰らねーから」
「……うん、分かった」
 『家に帰る』は別れを意味する言葉ではなかった。今日二人が帰るのは同じ家――藤崎の家で、それはずっと前から二人で決めていたことだった。この『デート』が失敗に終わっても今日一日一緒にいることは確定していて、何があっても、文字通り何があっても絶対に変更はない。だから藤崎が僕の為に無理をする必要などないのだ。
 それでも藤崎は、この真似ごとのようにぎこちない『デート』を続けようとしている。
 不機嫌そうに歪んだ藤崎の横顔を見た。肉の薄い、鋭角的な輪郭。白く整った肌。不満げに少し突き出された薄い唇。高くすっきりとした鼻梁。完璧な眉と、くっきりとした二重の線の下、長く濃い睫毛に縁取られた大きな目。
 その目を見ると、僕はいつも落ち着かない気分になった。以前はそこに悪魔の証拠を見つけたように感じて――藤崎の目は邪悪の象徴であり、その空虚で残虐で無慈悲な心を覗かせる窓のようだと思っていた。僕は出来る限りその目に宿る悪意から逃れたいと思いながらも、感情の機微や怒りの度合いを測る為にぞっとするほど深い黒を覗き込まなければならなかった。
 今の僕は、藤崎の目の中に悪魔を見ることが出来ない。怒りや悪意で歪んだ光を湛えていても、それは藤崎という一人の人間の情動、感情の一部に過ぎず、その奥底にいるのは怪物ではなく、僕の腕の中で涙を流していた小さな子どもなのだと知ってしまったからだ。
 変わらないのは、その目に僕の弱さや感情や思考や――全てを見透かされてしまうと感じることだった。その目に映る僕という脆弱で矮小な存在を意識すると僕は今でも逃げ出したくなる。だが同時に、そんな気持ちや自己投影、自己嫌悪に向かう思考を捨て去り、藤崎という人間をもっと深く知って理解したいと思う気持ちもあった。
 それに――単純に藤崎の目は、目を逸らし続けたり自己嫌悪の感情に縛られ続けたりするには、あまりにも美しかった。
「藤崎」
 僕はお茶のボトルを置き、椅子を動かして藤崎の方に寄せ、意を決して、ガムを原型を留めないほど酷く握り潰し続けていた手に触れた。藤崎の視線は、壁の掲示板に張られた少年サッカーチームのメンバー募集ポスターから、僕の手が触れた場所に移動する。
「なに」
「僕、藤崎の顔は凄く綺麗…………というか整ってて、かっこいいと思う」
 『綺麗』は男の容姿に対する表現には相応しくないだろうか。口に出してしまった後でそのことに気付き、内心酷く動揺しながら言い直した。
 藤崎はゆっくりと視線を動かし、僕を見つめ返した。
「さっきは、だから見てたんだと思う……ごめん、嫌な思いさせるつもりじゃなかった」
「……綺麗?」
 否定するには遅過ぎた。顔が熱い。急に汗をかいた手を藤崎の手から離し、またお茶のボトルを両手で包んで、一旦視線を下げ、もう一度藤崎の顔を見る。
「うん、その、目が……綺麗だと思う。その、女の子みたいだって言ってるわけじゃなくて、な、何ていうか」
「お前、俺の顔嫌いなんだろ?」
「そんな……そんなわけない。……好きだよ」
 藤崎は暫くの間僕を見つめたまま沈黙していた。その視線の強さに、浮いた汗がだらだらと背中を伝った。
 静寂を破ったのは休憩室の中に入ろうと近付いてくる声だった。思わず出入り口の方に顔を向けると、ガラス戸が開き、小学校低学年くらいの女の子が顔を覗かせた。藤崎は彼女に背を向けていて振り返ろうともしなかったが、椅子に上げていた足を下ろし、ミルクティーのボトルとガムの残骸を手に取って立ち上がった。僕もそれに続く形で腰を上げる。
 女の子のすぐ後には、三人の小学生と彼らの母親らしき二人の女性が中に入ってきた。計六人。ちょうど休憩室にある椅子の数と同じだ。藤崎はガムの残骸をごみ箱に捨て、最後の一人が入室した後、扉が閉まり切る前に外に出た。
 休憩室から数歩。ミルクティを飲み始めた藤崎の横に並んだ。
「お前さ」
「うん」
「俺の顔が好きって言ったけど、どこが?」
「全部」
「は?」
「……特に目が」
 また黙り込んでしまった藤崎の様子に神経を尖らせながら、余計なことを言わなければ良かったと後悔し始めた。藤崎が泣いたのは僕が藤崎の顔をおかしいと思ったと勘違いしたからだと思っていたが、もしかすると纏わりつく僕の視線が嫌で堪らなかったからなのかもしれない。僕の中にある正しくない衝動や思考、夢の中で繰り返し繰り返し浮かび上がっては僕を蝕む暗い欲望が、視線を通して伝わってしまったのだろうか。
 ――それまで黙々と歩き続けていた藤崎が、唐突に足を止めた。どうしてだろう、と思ったのは一瞬だけのことだった。
 二、三メートル前方に小さな池が見える。その前にはフェンスが張られ、僕達の左右には殆ど隙間なく木々が立ち並んでいた。完全に行き止まりだ。後ろは少し高さのある石階段で、そう言えばその階段の一番上には腰の位置にロープが張られていた覚えがある。それをくぐり、ここまで下ってきたらしい。らしい、というのは僕の意識はそれ以外のことに向けられていて、体は藤崎の誘導に全く疑問を抱くことなく従っていたからだ。
「悟」
 藤崎は僕の腕を掴み、引いて、フェンスの前に僕を立たせた。胸を軽く押され、ビニールで覆われた立ち入り禁止の張り紙を背中に感じる。しっかりとしたフェンスはこんなことでは倒れそうにもなかったが、金網が揺れて擦れる小さな音が聞こえた。
 目を合わせることを恐れて、顔を上げなかった。それでも藤崎の強い視線が僕に注がれていることは分かっていた。
「俺の顔見ろよ。さっき言ってたことが嘘じゃないなら」
 藤崎の左手がフェンスを掴む。迷いつつも顔を上げると、藤崎は唇が触れる直前まで顔を近付けてきた。そのままじっと至近距離で目を見つめられる。
 ――息が出来ない。
 限界が近付いたとき、藤崎は唐突に僕から顔を離した。解放されて、自分が呼吸だけでなく瞬きもやめていたことに気付いた。目を閉じ、息を吐いた瞬間、きつく体を抱き締められた。胸に吸い込んだ空気いっぱいに藤崎の香水を感じる。体の奥底で火が灯って、体が燃えるように熱くなった。
 骨を軋ませるほど強く巻きついていた腕の力はすぐに弱まった。藤崎は僕に口付け、目を閉じ、唇を離して、開いた大きな目で僕を見つめた。
「お前、やっぱりあいつに似てる」
 ふいに右手から緑茶のボトルが抜き取られた。代わりにミルクティーのボトルを押し付けられる。あいつ。あいつって誰だ。誰と比べられたのだろう。瀬川? 藤崎の両親? それともそれ以外の誰かだろうか? 脳内のハードディスクを必死に検索している間に、藤崎はさっさと歩き出してしまった。慌てて横に並び、問い掛ける。
「あ、あいつって?」
 藤崎は緑茶を一口飲んで答えた。
「ペンギン」
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