20.香水

 左手から微かに、カン、カン、と小さな音が聞こえ出した。電灯に虫がぶつかる音だ。さっきの虫が生きていたのかそれとも別の虫か。耳障りな音で我に返った。
「帰ろう、か」
 僕が腕を下ろすと藤崎は体を離した。そして数秒の間口を尖らせて僕を見下ろし、ふっと目を逸らした。
「帰れば」
「藤崎は?」
「お前に関係ないだろ」
「……一緒に帰ろう。送るから」
 拒否されても行けるところまで付いて行くつもりだった。まだ仄かに温かいミルクティーのボトルを取り、蓋を閉めて自転車のハンドルと一緒に持つ。
 意外なことに藤崎は僕がもう一度促す前に歩き出した。横を歩けばさすがに文句を言われるかと暫く身構えていたが、文句を言うどころか嫌がる素振りすら見せず、藤崎は僕が自転車を押して歩く速度に合わせるように歩いた。
 そして僕達は殆ど会話もないまま藤崎の家の前まで辿り着いた。門から玄関まで人感センサー付きの照明が点いているだけで、家の中から漏れる光は全くない。藤崎の両親は不在か既に眠りに就いているということだろう。外の駐車場に車は無かったが、その奥にある車庫はシャッターが閉まっていたので、どちらでも有り得た。どちらが藤崎にとっていいことなのか僕には分からなかった。
 藤崎は門を開けたところで振り返り、僕の肩を掴んだ。目を開けたまま唇を重ね、すぐに離して、僕の手からミルクティーのボトルを取った。
「おやすみ」
 そう言って藤崎はもう一度僕に背を向け、ミルクティーを飲みながら玄関に向かって歩いて行く。
「おやすみ」
 藤崎の部屋の照明が点くまで、僕は一歩もそこを動かなかった。



 試験が終わる水曜まで僕達は殆ど触れ合わなかった。二人で一緒にいたのは登下校の短い時間だけで、土曜と日曜は顔も合わせず声すら聞かなかった。その分言い争いもなく、互いに暴力を振るうこともなかった。
 行き帰りの会話とメールのやり取りから、瀬川があれから一切藤崎の前に現れていないこと、動画を見せたという日もたまたま出くわしてしまっただけで藤崎自身は完全に接触を断つつもりでいたこと、瀬川の方も藤崎に声を掛ける為に家に上がり込んだわけではなく、藤崎の母親、つまり瀬川の姉の方に用があっただけだということを知った。
 表面的にはとても平和な日々だった。以前はよく、藤崎に何日も続けてしつこく犯され続けた後に凪のような日々が訪れることがあったが、それとは何かが違った。足元は湖に薄く張った氷のように頼りなく、僕は時折正体不明の焦燥と息苦しさに襲われて自分がどこにいるのか分からなくなった。外を歩いているとき、部屋で考え事をしているとき、学校や家の窓の外を眺めているとき、僕は瀬川の影をどこにでも幻視した。
 毎夜のように酷い悪夢を見た。朝起きても夜中に目覚めても、何を見て魘されていたのか殆ど忘れてしまうのが逆に不気味で、気持ちが悪かった。

 試験最終日の放課後、藤崎は僕の家にやってきた。家には僕達の他には誰もいなかった。目の下に薄く隈を作った藤崎は試験疲れか、部屋に入るなりベッドに横たわった。
 そして今――僕の前には、無防備に目を閉じて小さく寝息を立てる藤崎の姿があった。
 ジャケットは家に入ってすぐに脱ぎ、ネクタイはいつものように校門を出たところで外していたから、上は白のワイシャツ姿だ。黒のアンダーシャツが薄く透けている。その下に何があるのだろう。僕はベッドから少し離れた椅子に腰掛け、呼吸に合わせて上下する藤崎の胸を息を潜めてじっと見つめ、湯のみに注いだお茶を飲んでいた。最近藤崎の近くにいると喉が渇く。急須は殆ど空だ。藤崎の分まで飲んでしまった。もう一度淹れに行きたかったが、ドアを開けると藤崎が起きてしまいそうな気がして動こうにも動けなかった。
 最後の一口を飲んで藤崎から目を逸らす。机に置いた鞄を開け、午後の通常授業で返された一日目のテスト用紙を二枚取り出した。数学と日本史の二教科分だ。数学は不正解が三問だけ、日本史は平均点ぎりぎりの点数だった。
 テストの点数を見るといつも複雑な気持ちになる。僕はどちらかと言えば数学や化学より歴史や地理の方が好きだった。関心と得点が比例していないのは暗記が苦手なせいだ。正確には『苦手になった』という方が正しいかもしれない。中学の頃、まだ暴力にならされていなかったとき。散々嬲られた後に教科書を開いても言葉は殆ど頭に入らず、写真を見れば遠い昔や行ったこともない国のどこかに意識が飛んで、とても勉強にはならなかった。いくつかの公式を覚えて無心に問題を解く方がまだ点数を取れることに気付いた僕は、遠い過去や遥か彼方の土地に思いを馳せることをやめた。
 これからは自分の好きなように出来るようになるだろうか。藤崎が言ったように瀬川が自滅して問題にならなくなり、僕と藤崎は互いに歩み寄って傷付け合うことをやめ、普通の恋人同士になって――本当にそんな日が来るとは思えなかった。そんな日が来る前に、他でもないこの僕が藤崎に何か取り返しのつかない酷いことをやって、全てが終わりになる日が訪れるような気がしていた。
 テスト用紙を鞄に戻すと、視線はまた藤崎の方に吸い寄せられる。
 藤崎は背中を丸め、さっきよりも体を小さくしていた。寒かったのかもしれない。僕はリモコンで暖房の温度を上げ、そっと立ち上がった。藤崎の足の下敷きになっている毛布をそろそろと引き抜き、藤崎の体に掛ける。肩の辺りまで引き上げたところで鼻がふっと甘い香りを捉えた。
 まただ。藤崎は公園で話し合ったあの日から、放課後になると決まって首の辺りから甘い香りを漂わせていた。放課後までは何の匂いもしない。門を出て横を歩き始めたとき微かに漂ってくるのだ。多分、香水を付けているんだろう。ガムや飴に添加される香料とは明らかに違う。記憶が確かなら、藤崎は制汗剤やシャンプーは無香料か大人しい香りのものを好んで使っていた筈だ。少し前までは香水どころか柔軟剤の香りすらしなかった。
 それなのに、この香りだ。甘くて、ふわりと柔らかな香り。どう考えても女性物で、しかも毎日違う種類のもののような気がする。僕自身は一度もそういうものを付けたことはないし、売り場に近寄ったことすらなかったが、それでも何となく、普通は男が纏う香りではないということは分かった。
 一度目はそう気にならなくても、こう何日も続くと奇異に思えてくる。何故こんな唐突に香水なんて付け始めたのだろう。それとも――これは藤崎の香水ではなく、他の誰かが香水を使っている場に藤崎がいて、それが藤崎の体にも降り掛かったとか、香水を使っている誰かと抱き合ったときに香りが移ったとか――そういうことが起こっているんだろうか? 放課後、バラバラに教室を出て、すぐに昇降口や校門の近くで合流するまでの間に、そんなことが起こる時間的余裕はあるんだろうか? いいや、無かった筈だ……。

 ――気付けば殆ど鼻先を藤崎の首に埋めるところだった。自分の吐き出した息が肌に当たって跳ね返り、慌てて顔を上げる。
 視線を感じた。藤崎ははっきりと目を開け、僕を見ていた。
「……ごめん」
 反射的に謝罪の言葉を口にすると、藤崎は眉根を寄せ片頬をぴくりと動かした。それから唇を尖らせて何かを堪えるようにゆっくりと息を吸って吐き、毛布の下でもぞもぞと動いて、おそらくスラックスのポケットからガムを一枚取り出した。
 ここ数日の変化は香水だけではなかった。藤崎はガムを持ち歩くようになり、かなり頻繁にそれを噛んでいる。
「……お茶注いでくるね」
 藤崎からの反応は何もない。引き留められないということは問題ないという意味だろうと解釈し、急須を持って部屋を出た。
 一歩一歩、ゆっくりと一階に向かって下りていく。早鐘を打つ心臓を宥める為に。しかし踏み慣れた階段を流れる空気は鉛のように重く、粘り気のある泥の中を進んでいるようだった。
 息苦しい。試験から解放されて勉強漬けだった数日間の疲れを感じているだけなのか、それとも緊張から来るものなのか分からなかった。後者かもしれない。暖房を入れた部屋で熱いお茶を飲んだというだけでは説明出来ない汗がシャツを薄らと湿らせている。自分の体が臭くないか急に心配になってきた。
 お茶を入れ、冷蔵庫にあった肉まんを二つレンジの中に突っ込んで脱衣所に駆け込んだ。濡れタオルで体を拭いて部屋着に着替えたところで、ちょうど肉まんの加熱が終わる音がした。

 部屋に戻ったとき、藤崎は仰向けに寝転んで僕の携帯を弄っていた。
「肉まん、持ってきたよ」
 返事はない。そう言えば、と藤崎がガムを噛んでいたことを思い出したが、既に吐き出したのか口元は動いていなかった。
 手持ち無沙汰で肉まんを手に取り、口を開けた瞬間、藤崎はタイミングを見計らっていたかのように「悟」と僕の名前を呼んだ。その視線は携帯の画面に向けられたままだ。
「……なに?」
 顔だけがこちらを向いて、無言で何かを要求してくる。
「……食べる?」
「いらない」
 即答。その後に続く言葉を待つ僕と、僕の動きを待つ藤崎は無言で見つめ合う。敗北したのは勿論僕の方で、もはや気まずいだけの食べ物を皿に戻してそろりと立ち上がり、藤崎の表情を窺いながらベッドに近付いていった。
 腰を下ろす前に手を掴まれて、ぐっと強く引かれた。藤崎の上に倒れ込む寸前で何とか堪えたが、どう見ても藤崎の目がそれを望んでいないようだったので結局体を預けた。藤崎は携帯を枕元に置き、僕の背中に手を回してぐるりと体勢を逆転させ、僕の顔の横に両手を置いて肘を突いた。
「お前、何で着替えてんの?」
「……汗臭い、かと思って」
 藤崎の口からはミントの匂いがする。僕はどうなんだろう。体を拭く前に歯を磨けばよかったと後悔する僕の顔に、藤崎の顔が近付いて――頬をべろりと舐められた。
「う」
 思わず声が出てしまった。硬直する僕の耳に、髪に、顎に藤崎の鼻が移動しながら触れる。やがて鎖骨の辺りに鼻先が埋められて、そこで思い切り息を吸われた。
「……しないけど?」
 体の芯が震えて、顔がかっと熱くなる。パーカーの襟元に指を掛けて引き下げ、なおも臭いを嗅いでいる藤崎の肩を慌てて押した。
「なに」
「か、嗅がないで」
「何で」
「何でって」
 藤崎が口を閉じていると、ミントに押され気味だった香水がふわりと立ち上ってくる。熟れた果物のような甘い香り。
「……藤崎こそ、何で」
「何が」
「香水、の匂いがする」
 ――それも女性物の。
「どれが良かった?」
「えっ……と……どういう意味?」
「は。どれが好みだったかって聞いてんだけど」
「……僕の、好み?」
「そうだよ。どれが気に入った?」
 どういう意図のある質問なのか分からない。単純に香りとしての好みを知りたいのか、それとも『藤崎が』纏う香りとして良いと感じるものを知りたいのか。それ以外の何かが裏に秘められているのかもしれないし、逆に全く意味のないただの気紛れでも不思議はなかった。
「お、一昨日のとか……?」
「月曜の?」
「うん……」
 藤崎が付けていた香水はどれも、こういうものに全く詳しくない僕でも女性物だということが分かるようなものだった。一昨日嗅いだものはその中で最も大人しく、甘みも抑えられていて、藤崎くらい綺麗に整った顔の男が使うのならそう不自然でもない香りだった。どうしていきなり香水を使い出したのかという疑問の方が大きかったが、密かに好ましいと感じたことは覚えていた。
「他のは? 微妙?」
「微妙っていうか……、香水って、藤崎の……?」
「は? 俺のじゃなかったら誰のだよ。それで?」
「……藤崎のイメージとはちょっと合わない……ような感じがした」
「じゃあ一昨日のは?」
「似合う、と思う」
 僕が嘘を吐いていないか確かめる為か、藤崎はじっと僕の目を見つめ続け、唐突に「ふーん」とだけ言って体を起こした。
 藤崎は立ち上がって出入り口近くに放りっぱなしだった自身の鞄を取り、ベッドに戻って中からウェットシートを出した。首元を拭いて、今度は小瓶を取り出した。そして少し顔を上げ、目と口を軽く閉じて白く長い首にそれを近付ける。
 ぱっと香りが華やかに広がった。香水を付けたのだ。藤崎は目を開け、僕を見た。
『俺に似合ってる?』
 そう尋ねているような目だった。わけも分からず頷く僕に、藤崎が手を伸ばす。
「お前は何も付けるなよ」
「……何で?」
「お前、体臭薄いじゃん」
 それは藤崎もそうだし、体臭が薄いことと香水を禁じることの間にどんな関係があるのか分からない。
 藤崎は僕のパーカーを下のシャツごと捲り、腹に鼻を近付けた。また臭いを嗅いで、不満げに唇を尖らせる。
「何か……シャワーでも浴びた?」
「いや、拭いただけ……」
 さりげなくパーカーを下げながら首を横に振る。
「何で」
「だから、汗臭いからだって」
「ふーん……お前って変な臭いするもんな」
「えっ?」
 さぁっと背筋が冷える。変な臭い。どんな臭いだ? パニックに陥りそうだった。
「に、に、臭いって、僕、そんなに臭い……?」
「は? だから体臭薄いって言ってんだけど」
「で、でも、臭いんだよね」
 緊張でだらだらと汗が流れる。そのせいでまた臭いが濃くなったら、と心配になってまた汗をかく。酷い悪循環。
 藤崎の手がまた僕に伸びる。思わず後退って避けると、藤崎は更に手を伸ばしてパーカーを掴んだ。そのままぐっと引き寄せられる。密着した体から離れようともがいたが、藤崎は僕をぎゅっと抱き締めて離さない。やがて僕は抵抗をやめた。
「……藤崎、あんまり嗅がないで」
「今更だろ。しかも今は何も臭いしねーし」
 耳の下辺りに鼻を埋めながら藤崎は答える。息が当たってくすぐったい上に付けたばかりの香水が鼻腔を刺激して、下半身がじんじんと震えた。僕は唇を強く噛み、痛み以外の感覚が遠ざかってくれるように祈った。
「悟」
 なに、と答える声が裏返る。
「お前、今も前と同じようにやってんの」
「……何を?」
「性欲処理」
 は、と口から声が漏れた。声と一緒に心臓が飛び出してきそうだった。
 答えない僕を不審に思ったのか、藤崎は顔を上げて僕と目を合わせてきた。絵の具の黒を垂らしたような漆黒の大きな瞳が僕だけを映している。
「どうしてんの?」
 『前』にも同じことを藤崎に尋ねられたことがある。誰もいない夕暮れの教室で、そのとき僕は裸だった。藤崎は僕の貧相な体を散々貶した後、携帯のカメラをこちらに向けながらそう尋ねたのだ。
 僕は人とあまりそういう話をしたことがなかった。だから自分のそういう部分を人と共有することにはかなりの心理的抵抗があった。急かされ脅されて執拗に求められて、やっと絞り出した答えはしかし、藤崎を満足させることは出来なかった。それで僕は女子の机の上で自慰をさせられることになったのだった。
 藤崎はどうして今になってまた、こんなことを知りたがるのだろう。
「……なに、お前怒ってんの?」
「怒ってないよ」
「怒ってるだろ」
「何で?」
「顔」
 本当に怒ってはいなかった。ただ戸惑って、どうしたらいいか分からなくなっただけだった。強張った顔が怒っている顔に見えたのだろうか。また口論が始まってしまうのかと身構える僕の頬に、藤崎は手を伸ばした。右に三つある薄い黒子の辺りを、指先がそろりと撫でる。
「怒ってる」
「怒ってない」
「じゃあ何でこんな顔するんだよ」
「それは……だって」
 どう説明すればいいか分からなかった。口ごもってしまった僕に向かって藤崎は不快そうな溜息を吐く。
「お前のそういうところ、本当に……心底イラつく」
 藤崎は僕の胸を押して体を離し、仰向けに転がった。来たときと同じように遠慮なく足を伸ばし、ポケットからまたガムを取り出して噛み始める。
「ごめん」
「うざい」
 藤崎が冷たく発した言葉が硬い鉄の塊に変わって、僕のこめかみを打った。頭がぼうっとする。息が上がる。体が震えている。泣きそうだった。
「俺に文句あるならはっきり言えば?」
 そんなことをすれば今以上に藤崎の機嫌を損ねてしまう。
「返事しろよ」
 藤崎は苛立った声を出した後は暫く無言になり、何度かガムを噛んで包み紙の中に吐き出した。丸められた小さな銀色がごみ箱に向かって飛んでいく。コツンと底を叩く音がした。
 必死に深呼吸をしている僕の体に、藤崎の腕が巻きつく。藤崎は身を寄せ、僕の頬に手を当て、顔を自らの方に向かせた。視線が噛み合う。その瞬間に口付けられた。
 目が合ったまま唇が離れて、違う角度からまた唇が重なる。今度は探るような、あるいは躊躇っているような、ゆっくりとした動きだった。
 そこには甘い雰囲気も性的な匂いもなかった。
「……返事しろって」
 何故今こんなことをするのだろう。不思議だった。別れ際や就寝前の挨拶でもなければ、肉体的な欲求を満たす為にやったものだとも思えない。
 もしかして――機嫌を取っているんだろうか。
「あ……」
 じっと藤崎の目を見つめ返しているうちに、僕はあることに気付いた。
「藤崎……今日は、塗ってないんだね」
「は?」
「化粧品……ファンデーション?」
 ここ数日、藤崎の目の周りの痣は何かで覆い隠されていた。そのときにあった僅かな違和感が消え、その下にあった痣が現れていた。今更になって気付くほど薄い跡が。
 藤崎は少しの間奇妙なものでも見る目で僕を見つめ、それから曖昧に頷いた。
「やめた。色々やってたら消えたから」
「そっか……良かった」
 もう痛くないのかと尋ねたかったが、この質問で散々藤崎を不快にさせてきたことは分かっていたので黙っていた。
「お前さ」
「うん」
「言いたいことがあるなら言えよ。誤魔化すなっていつも言ってんだろ」
「うん……」
「溜め込むから頭がおかしくなるんじゃねーの」
「そうだね。ごめん」
「小出しにすれば。あと本気でうざいからいちいち謝んな」
「…………」
「つーかお前が黙っていようが好きに喋ってようが、どっちにしろイラつくしうぜーから」
 好き勝手に言いたいことを言っているのは藤崎で、僕をこんな風にしたのも藤崎だ。だがもしかすると――的を射た意見なのかもしれなかった。
 藤崎は僕が何をやってもやらなくても怒るし不機嫌になる。あるのかも分からない『正解』を引き当てたときだけ、その不機嫌の程度がいくらか他よりましになるだけだった。
「返事は?」
「……うん」
「分かったかって聞いてんだけど」
「分かった」
 そう答えても藤崎は僕をじっと見つめ続けていた。きっと待っているのだと思った。
「藤崎は……」
「俺は?」
「僕が……その、どんな風にするのかって何で気になるの?」
「は? お前、土曜日のこと忘れてないよな」
「忘れてないよ」
 毎日欠かさず約束は守れと念押しされて、忘れられる筈もない。
「でも……何で?」
「途中で出来ないって言い出しそうだから。お前、ヤリたくないんだろ」
 藤崎は立ち上がって椅子に座り、机の上にあったペンを取った。そしてそれを見ながら、無意味にペン先を出したり仕舞ったりといった動作を繰り返し始める。カチカチ。カチカチ。音が鳴る。
「分からない」
「ヤリたいかヤリたくないかの二択で『分からない』? やっぱり俺のこと好きでも何でもないんだろ? ただ良い顔したいからそういう――」
「好きだよ。好きだよ、けど」
「けど?」
 カチカチ。ノックの音が止まる。
「……多分、僕には早過ぎるし……怖い」
「怖い? 俺が?」
「僕が。僕が藤崎に酷いことしないかって」
「別にいい」
「よくないよ」
 前にもこんなやり取りをしたような気がする。僕達は噛み合わない。いつもそうだ。
「ああ。つまり俺の為に約束は反故にするってことかよ。嘘吐き」 
「違う」
「違わないだろ。どうせお前が途中で逃げ出して終わりになる」
 ――酷い音がして、藤崎の手の中でペンが折れた。壊れたプラスチックの破片が床に散らばる。広がった手の平は無傷だったが藤崎はそれが気に入らなかったかのように拳を作り、爪と指でぎりぎりと自身の手の平を圧迫する。それからゆっくりと深呼吸し、手の力を抜いた。
「悟。お前さ、普通の恋人同士みたいなことがしたいって言ってたよな」
「……うん」
「キスして、抱き合って、他には?」
「デート……とか」
「じゃあそれやるから。土曜」
 思わず口がぱかりと開いてしまった。
「……僕と藤崎が?」
 他に誰がいるんだよとでも言いたげな目で睨まれる。
「お前の言うこと聞いてやるから、お前も約束は守れよ。絶対に」
「それって交換条――」
「分かったか?」
「……分かった」
 有無を言わせぬ勢いで凄まれて、僕は頷いた。
 藤崎は無言で僕を見つめ続けていたかと思うと、お茶を一口だけ飲んで椅子から立ち上がり、ベッドに戻ってきた。腰を下ろさず、ベッドの端に座って床に足をつけた僕の前に立って膝だけベッドに乗せ、両手を僕の肩に置いて、顔を近付けてくる。
 唇が合わさる――ことはなかった。微かに濡れた唇が僕の頬に押し付けられ、もう片方の頬にも同じように唇が落とされる。それからやっと唇と唇が触れた。藤崎は目を閉じ、ちゅ、ちゅ、と小さく音を立てて、ゆっくりと何度も唇を重ねる。藤崎はやがて体を密着させ、僕の膝の上に腰を下ろして、唇を離し、鼻に鼻を戯れに擦り付けて、また唇を合わせた。今度は音を立てなかった。深く、長いキスをやめて顔を離したとき、藤崎は唇の片端だけ上げて笑った。
「顔真っ赤じゃん」
 声も出なかった。顔だけじゃなく、体全体が熱かった。
「お前、こういうのがいいんだ」
「ふ、藤……」
「なに」
「……これ、こんなの……」
 どこで覚えてきたんだ、という一言がなかなか喉から出てこない。
「こないだ見た映画でやってた」
 こともなげに言う藤崎の顔は、濡れたその目を除けば平静そのものだ。だが僕の腹には僕と同じように硬く勃起した藤崎のそれが押し付けられていた。
 藤崎は僕を熱っぽく見つめ、また唇を合わせてきた。ちゅ、ちゅ、とまたリップ音を立ててキスを仕掛けてくる。短い息継ぎの間に鼻腔に入り込む柔らかな香りが、みるみる荒くなっていく藤崎の息遣いが、膝に掛かる重みが僕を昂ぶらせる。気付けば僕は藤崎の背中に手を回し、しっかりと抱き締めていた。
「悟」
 囁くような声で呼ばれ、返事をする前に唇をぺろりと舐められた。反射的に唇を引き結ぶと、藤崎は目を開けて動きを止めた。
「悟」
 切なげな目で見つめられてしまえば拒絶は難しくなる。口を開けようとした瞬間、小さな衝撃が背中を襲った――押し倒されたのだ。
「じゃあ舐めさせろよ」
 藤崎は頭を下げ、いきなり僕のズボンを引き下げた。止める暇もなく下着も下ろし、僕の膝の間、ベッドの前に跪いて露出した性器に口を付けた。
「ちょっ、わっ……ああ、ふじ、藤崎! そんなこと……、しなくていいから!」
 上体を起こそうとするが、両手をしっかりとベッドに押さえつけられていて、筋力に乏しい僕は背中を軽く曲げることくらいしか出来ない。
 唇が先端に触れる。ぱくりと口に含まれてしまった。あたたかい咥内で唾液がどろりと僕のペニスに絡み、舌が先走りと唾液を混ぜ合わせる。
「藤崎、藤崎、本当にしなくていいって、藤……藤崎ってば! 駄目、駄目だって! そこは拭いて……ないんだってば!」
 気持ち良すぎてどうにかなりそうだった。必死に足をばたつかせて叫ぶと藤崎は口を離してくれた。だがすぐに舌がべろりと襲い掛かってきて、あちこちを手当り次第に舐め回し始める。舌と唇と吐息でどろどろに溶かされてまともに抵抗が出来なくなった頃、僕はいつの間にか両手が解放されていることに気付いたが、藤崎は僕を口の奥深くに銜え込んでいて、微かに歯が当たる感触が根元にあった。無理に引き剥がすことは出来そうになかった。
「本当に、……出るから、もう、本当に出るって、藤崎……! 出ちゃうから、お願い、お願いだから、藤崎……っ!」
 僕を包み込む粘膜とペニスの間で、舌が蠢く。
 ひっ、と喉の奥から声が漏れ、尿道を熱い粘液が駆け抜けて、僕はあっけなく達した。快感の波の中で脱力する体に、何かが――藤崎が覆い被さる。藤崎は僕の首の付け根に顔を埋めて僕の手を取り、熱く勃起したものに触れさせた。既に先走りに塗れた藤崎のペニスは、僕の手が――正確にはその上に被さった藤崎の手が何度か擦ると、びくびくと震え、精液を吐き出した。
「あっ、あっ……」
 藤崎はそんな声を漏らして僕の上に崩れ落ちた。
 僕達は暫く重なったままでいた。何も喋らず、荒い息を吐き出すほかには何一つせずにただ倒れていた。物凄い速さで動いていた心臓が何とか落ち着き始めた頃、藤崎は顔を上げた。僕を見つめる目はもう平静を取り戻していた。
 無意識に手を伸ばし、その手が藤崎の出したもので汚れていることに途中で気付いて、代わりにもう一方の手で頬に触れた。普段より濃く見える下睫毛は、涙に濡れたせいだろうか。唇が濡れているのは――僕のものを舐めていたせいだということは、分かっていた。それでも近付いてくるそれを嫌だとは思わなかった。唇が重なって、すぐに離れ、藤崎は上体を起こした。
 シャツにはべったりと精液が付いていた。藤崎はそれを数秒見つめた後、ティッシュで拭き取り、その流れで性器も拭いてスラックスを引き上げ、シャツを脱ぎ始めた。
「……服、貸そうか?」
「いい」
「クローゼットの中にあるから、出すよ。シャツ一枚無くなったら絶対寒い」
「いいって言ってんだろ。今から服買いに行くからこれでいいんだよ」
「服? 僕も一緒に――」
「お前は来なくていいから」
「だけど」
「うざい」
 脱いだシャツを裏返して丸め、それと入れ替わりに鞄から取り出したウェットティッシュで手を拭き、ベルトを締めジャケットを着て、あっという間に藤崎は衣服を整えてしまった。そして僕が服を脱ぐ間にお茶を飲み、着替え終わる前に鞄を持った。
「藤崎、バス停まで送るから!」
 部屋を出て階段を下りていく藤崎の背中に声を掛け、慌てて身を整えて後に続いた。



 家からバス停まで無言を通し素っ気ない態度を取っていた藤崎は、バスが目前に近付いてきたとき、すぐ隣にいた僕でさえ聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で何か短く呟いた。
 僕に向けて言ったのだろうか。藤崎の顔を見ると、藤崎は横目で僕を見返した。
「お前の体。甘いにおいがする。甘くてムカつくにおい」
 バスの扉が開いた。手の甲を藤崎の指が掠める。藤崎はそのままバスに乗り、振り返りもせずに去っていった。

 家にはまだ誰も帰っていなかった。自分の部屋のドアを開いた瞬間、むっと籠った性の臭いと香水の残り香が僕を迎えた。暖房は点けっぱなしだった。
 ベッドには脱ぎ捨ててそのままの服が横たわっている。藤崎の精液が付着したままの服が。僕はそれを手に取った。誰かが返ってくる前に洗ってしまわなければならない。換気もして、ごみ箱の中のごみも片付けて――そうしなければならないことは分かっていた。分かっていたのに僕はベッドに腰掛け、汚れた服を開いて膝に載せ、ジーンズのボタンを外していた。既に勃起したペニスが替えたばかりの下着を押し上げている。ゴムの下に手を差し込んだ。
 自分を手で慰めるこの行為が、僕は昔から好きになれなかった。いつも何だか気まずく後ろめたい気分になる。だから週に一度か二度、必要に迫られて仕方なく済ませるだけだ。ずっと前に藤崎に話した通り、日に何度もすることはなかったし心から楽しんでやったこともない。性欲がないわけではないことは知っていた。ただこの行為に気が進まないだけだ。終わった後にじわりと胸に広がる虚しさも好きにはなれなかった。
 藤崎。
 藤崎が残した香水の匂いがする。最後に僕に触れた指先の感触が蘇る。ああ。藤崎は僕の出した精液を飲んだのだろうか。それとも気付かない内に吐き出したのか。僕の首の付け根に鼻を埋め、においを嗅ぐ藤崎の息遣いを今ここにあるように感じる。先走りが指を濡らしていく。滲んだ汗が背中を伝う。藤崎のにおいがする。
「藤、崎」
 吐精の瞬間、名前を呼んだ唇に、藤崎のあの薄い唇の感触を思い出した。
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