19.袋小路

 ぱっと目を開く。息を吸い込んだ。心臓が物凄い勢いで動いている。嫌な汗が背中を伝う。喉が渇いて微かに痛みを感じる。ノートが顔に張り付いていた。
 夢中で顔を、手足を、腹を擦った。何ともない。何も変わっていない。僕の体だ。
 周りを見回してみる。僕の部屋だ。他に誰もいない。僕一人きりだ――藤崎は? 藤崎はどこにいった? 机の端で携帯が光っている。取り上げて確認すると、メッセージが一通。
『まだ起きてるんだろ?』
 藤崎からだった。受信時間は十五分前、午後十時七分。『起きてる』そう返事を打つ指が震えていた。
 一分も経たずに電話が掛かってきた。携帯はマナーモードにしたままで、無音の着信に驚いた体が大きく跳ねた。
『家?』
「……うん」
『……お前泣いてんの?』
 言われて頬に触れる。確かに涙で濡れていた。僕は自分がしゃくりあげていることにやっと気付いた。
『……外。出てこいよ』
「外?」
『家の外』
「何で……」
『いいから。出てこいよ』
 返事をする前に通話が切れた。僕は耳に携帯を当てたままぼうっとしていたが、やがて立ち上がり、顔を拭い、汗で湿った部屋着のシャツだけ着替えてコートを羽織った。それから少し考えてマスクをし、帽子を目深に被った。
 一階に下りると母さんと柚花の話し声が聞こえてきた。
「母さん。ちょっとコンビニに行ってくる」
「えー、じゃあ何か買ってきて」
 テレビの方に目を向けたまま柚花が言う。その横に座っていた母さんは振り向き、眉を顰めた。
「こんな夜中に、危ないんじゃない? 何買いに行くの?」
「自転車で行くから。大丈夫」
「お兄ちゃん、私プリンかシュークリーム食べたい」
「覚えてたらな」
「よろしくー」
「悟、気を付けて行きなさいよ。こないだ話してた男の人の件もあるんだし」
「分かってる」
 浴室の方から音が聞こえた。入浴中の父さんにわざわざ声を掛けていくこともないだろう。まだ落ち着かない心臓の上を押さえながら靴を履き、外に出る。
 そう言えば藤崎がどこにいるのか聞くのを忘れていた。自転車を押し家の敷地から出て、やっとそのことに思い至る。
「遅い」
 藤崎が居場所を告げなかった理由が分かった。今朝と同じ場所にいたからだ。
「……ごめん」
 マスクを外して謝った。ニット帽の下から覗く二つの不機嫌そうな目が僕を睨む。藤崎は私服に着替えていて、手ぶらだった。歩いてここまでやってきたのだろうか。そのことを咎めようとしたとき、僕はあることに気付いた。
「あれ……」
「は? なに」
「痣……痣が」
 眼帯とその下にある筈の痣が完全に消え去っていた。外灯の薄い光だけでも、明らかな変化が見て取れた。
「痣? 消えた」
 藤崎は何でもないような口調で言う。
 まさか。そんな筈あるわけない。無言で目を見つめていると藤崎は鬱陶しそうに溜息を吐いた。
「上に塗って隠してんだよ」
「あ、そうなんだ……ごめん」
「うざい。それ置いてこいよ。自転車」
「……でも、夜だから」
 藤崎は僕の小心を嘲笑うように鼻を鳴らし、それ以上は何も言わずに歩き始めた。
「どこに行くの?」
「別に。どこでもいいだろ」
 自転車を押して横に並ぶ。冷たく乾いた風が頬を撫でた。マフラーを巻いてくればよかった、と後悔する。テスト中に風邪がぶり返しでもしたら笑えない。手袋も忘れてきてしまったし――ああ、携帯もだ。財布も家に置いてきてしまった。取りに戻るかどうか迷っている内に僕達二人は目的地らしい公園に足を踏み入れていた。
 家から一番近い公園だ。あるのは鉄棒と小さな滑り台、砂場、ベンチ、ボールを蹴って遊ぶくらいは出来そうなスペースだけで、決して広くはない。一目で見渡せる公園の中に先客の姿は無かった。
「そこ。座れよ」
 顎をしゃくって言われたのでベンチの傍に自転車を止めた。言われた通り腰を下ろした僕を置いて藤崎はベンチの近くにあった自販機まで歩いて行った。程なくして、ガコン、ガコンと二回音が聞こえてきた。
 それからすぐに戻ってきた藤崎は、ホットミルクティーのミニボトルを僕に無言で差し出した。
「……えっと」
「俺の奢り」
「えっ?」
「熱いんだけど」
「ご、ごめん……ありがとう」
 相変わらず機嫌が悪いときの顔をしている藤崎は、僕の前に立ったまま自分の缶を開けた。ホットコーヒー。つられて僕も蓋を開けてミルクティーを一口飲んだ。甘くて熱い。ボトルを持つ両の手の平が温まっていく。
「……お前を見てると」
 藤崎は僕を見下ろしながら言う。
「すげーイライラする。今も」
 何と返せばいいのか分からず、ただ藤崎を見上げる。
「うざいし、ムカつくし、お前が何してても癇に障る。お前が喋ってるところを見てると殴って黙らせたくなるし、背中を見てると無性に蹴り飛ばしたくなる」
 そう言いながら藤崎は右手にぶら下げた缶を指先でコツコツと叩く。
「けどそれは……、俺が本当に望んでることじゃない。思いたくて思ってるわけじゃない。やりたくてやってるわけじゃない。お前が……違う、俺が……ああクソ。イライラする。意味分かったか?」
 正直に首を横に振ると、藤崎は大きな溜息を吐き、唇を噛んだ。
「何で分かんないんだよ」
 近くの電灯に虫が体当たりしている。耳障りな音。小さな命を死に向かって引き寄せる薄い橙色の光。それに照らされた藤崎の顔は心底苛立たしげに歪んでいた。
「……本当は僕に暴力を振ろうと思ったり……、イライラしたりはしたくないってこと?」
 藤崎はなおも不機嫌そうな顔で首と顎を微かに動かし、頷いた。
「それで……藤崎が本当に望んでることって?」
 暫く無言が続いた。藤崎は僕から目を逸らしてコーヒーを飲み始め、他にやることがない僕もミルクティーを飲んで場を凌ぐ。答えたくないのか、それとも答えられないのか、いくら待っても藤崎の口から答えが出てくることはなかった。
「お前は?」
「僕?」
「そうだよ。お前の望み」
 望み。いつか口にしたことがあったような気がする。土曜か、その後か、それとも今日だっただろうか。よく思い出せない。藤崎は僕がそのときと同じことを口にするかどうか、つまり嘘を吐くのかどうかを確かめたがっているんだろうか。藤崎はじっと僕を見つめて待っている。頭がぐるぐると回って、自分で自分の思考が――望みが、分からなくなってしまう。
「泣くなよ」
 藤崎は居心地悪そうに言った。
「泣いてないよ」
「さっき泣いてたんだろ。夕方も泣いてたし、お前涙腺壊れてんじゃねーの?」
「夕方?」
 夕方。藤崎と廃病院にいたときのことだろうか。
「は? 死にたい死にたいって言いながら泣いてたじゃん、お前」
「そんなこと――」
 否定しかけて、思い出した。
「俺がお前のこと不幸だって言ったら、いきなり泣き出しただろ」
 そうだ。そうだ僕は――藤崎を抱き締めて、もうこんなのは嫌だと、解放されたい、死にたいと泣きじゃくった。大声を上げ、コントロールを失って、泣き喚いた。藤崎の困惑した表情を思い出す。どうして忘れていたんだろう。泣き出したときと同じように唐突に泣き止み、ぼうっとした頭で二人帰路に就いたことを、今の今まで。
「……思い出した」
 家に帰って機械的に参考書とノートを開き、その内にうたた寝をして夢を見た。悪夢だ。詳細までは思い出せなかったが、僕は急に酷い不安と恐怖を覚えた。手の中のボトルが小さく軋む。
「悟」
「あ……え、何?」
「二度と『死にたい』なんて言うな」
「うん……ごめん」
 藤崎はコーヒーを飲み干し、自販機の横にある空き缶入れに向かって投げた。それは穴の近くにぶつかり、落ちて転がっていった。藤崎がそれを拾いに行くことなどあろう筈もない。舌打ちを一つ、藤崎は僕の横に腰を下ろした。
「……俺のこと殴れば?」
 聞き間違いだろうか、と表情を窺う。目が合った。藤崎は真顔だった。
「殴ればいいじゃん」
「……何で?」
「俺のせいなんだろ。全部。好きにすれば」
「好きにって……殴ったりとかしたくないよ」
「じゃあ命令しろよ」
「命令って……」
「出来るだろ。『あいつと会うな』とか『嘘吐くな』とか命令してたんだから」
 命令じゃない。そう言い返そうとしたが、本当にそうなのか分からなくなって息を止める。
「……電話したとき泣いてた理由は? どうせ俺のせいなんだろ? 泣くくらいなら怒れば。『全部お前のせい』だって」
「分からない」
「は?」
「嘘じゃない。分からないんだ。……何か、怖い夢を見たような気がする」
「内容は?」
「覚えてない」
 ミルクティーのボトルを見つめる。開いた口が僕を見つめ返す。
「悪霊」
 顔を上げる。藤崎は『アクリョウ』と言った口のままで僕を見ていた。
「俺がお前にああいうこと言ったから?」
「……本当に、覚えてないんだよ」
「俺が怖いんだろ。異常だから」
「藤崎のことは……もう怖くない」
 首を横に振って答える。
「嘘吐くな」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ何が怖いんだよ」
 もう一度視線を手元に落とそうとすると、藤崎は僕の手からボトルを取り上げた。そのボトルは藤崎の隣、ベンチの端に置かれる。手を伸ばしても届きそうにない位置。取り返そうという気は起こらなかった。
「俺じゃないんだったら何が怖いのか言ってみろよ」
 藤崎は僕の腕を掴む。痛みは感じなかった。手加減しているのだろうか。
「僕は……」
 柚花と二人きりで停電した家の中に立ち尽くしていたとき、兄として妹を宥めていた僕は、本当は心の底から闇を恐れていた。幽霊の気配を感じ、息遣いを聞いたような気がしていた。
 もしかすると本当にあの暗闇の中には、という疑いを抱くのは簡単だった。恐怖は容易に伝染する。兄でありその場で唯一の男であるということだけが弱音を漏らさなかった理由で、本当は殆ど叫び出す寸前だったのだ。
 幽霊など存在しない。そんなことがある筈がないと自分自身に証明するのは、存在することを証明するのと同じかそれ以上に難しいことだった。暴れ出そうとする恐怖心を押さえつけ、震える柚花の手を握って暗闇を進み、灯りを点け、幽霊の姿などどこにもないことを確認した後も、柚花がその時の出来事をすっかり忘れてしまった後も、僕はそこに何かが『いた』のではないかという疑念に縛られ続けていた。
 今もそんな馬鹿げたことを信じ続けているわけじゃない。あの日暗闇に目が慣れる前に柚花が人の姿を見て、しかもそれが女性だと判別出来たとするなら、それは単なる錯覚か思い込みに過ぎず、幽霊など存在するわけがないと今では理解出来ているし感情的にも納得している。
 今僕の中にある恐怖の源は、幽霊でも、悪霊でも、藤崎でも、藤崎に拒絶されることでもなかった。
 うたた寝をしていたとき自分がどんな悪夢を見ていたのかは思い出せない。だが内容は容易に想像することが出来た。
「藤崎に、また何かするんじゃないかって……怖いんだよ」
「何かってなに。俺に何をするって?」
「酷いことを言ったり、殴ったり……襲ったりするかもしれないって」
 悪霊が自分に取り憑いたせいで藤崎を傷付けることになったのかもしれない、とは思わなかった。悪霊なんて存在しない。だが僕の表情、思考、声音、振る舞いの全てがまるで悪霊が取り憑いたように見えているのかもしれないと思った。あの金曜の出来事だけではなく、怒りや苦痛を覚えたとき衝動のまま酷い言葉を放ち、自ら破滅を誘う今の自分自身に、僕は恐怖を覚えていた。
「だから、やれば? 俺がいいって言ってんだから好きにすればいいだろ」
「よくないよ」
「理由は?」
「だって……僕は、僕はそんなことしたくない。優しくしたいんだよ」
「優しくしろなんてお前に頼んでないんだけど」
「そういう問題じゃ……藤崎だって、あのこと……怖かったって言ってたのに」
「言ってない」
「でも、泣いて……」
「は?」
「……覚えてないの?」
 藤崎は答えなかった。本当に覚えていないのか、それとも忘れたいだけなのか。どちらにしても、僕は目の前で泣きながら怖かったと漏らしていた藤崎を覚えている。我を失った僕に殴られ倒れた藤崎の姿を鮮明に思い出すことが出来る。
「僕はあんなこと、もう二度としたくない」
「俺は」
「藤崎だって……藤崎だって、本当は僕を殴ったり酷いことを言ったりしたいわけじゃないんだって、さっき言ってた」
 いつの間にか虫の体当たりの音が聞こえなくなっていた。息絶えてしまったのだろうか。
 藤崎は僕の腕から手を離し、ベンチの背凭れに両手を置いてずり下がり、足を組んだ。
「関係あるのかよ。それと」
「……あるよ。あると思う」
「思う?」
「僕達二人とも、相手に怒鳴ったり、命令したり、酷いことを言ったり、したりはしたくない。普通に……普通にしたいと思ってる。そういうこと、だよね」
 藤崎は何か考えている顔で微かに頷いた。
「じゃあ、そうしよう」
 僕の提案に藤崎は片眉を吊り上げ、口元を歪ませて鼻で笑った。
「どうやって? 無理だろ」
「やってみないと分か――」
「分かる。俺には無理。絶対に」
「だけど」
「だから無理だって言ってんだろ!」
 他に誰もいない静かな夜の公園に、怒鳴り声が響く。
「……ほらな」
 そう吐き捨て、藤崎は立ち上がった。反射的に腕を掴む。振り払われはしなかった。
「なに」
 爆発寸前の怒りを抑え込んだような声。きっと僕が少しでも間違った答えを返せば、藤崎の怒りは僕と藤崎の両方を攻撃し、僕たちの間に残るわだかまりと傷痕を広げるのだろう。
 僕の何がそれほど藤崎の神経を刺激するのか分からなかった。喋り方? 言葉遣い? 顔? 雰囲気? 佇まい? 目つき? 臭い? 動き? 中学の頃に訊ねたことがある。教えてくれたら死ぬ気で直すし、直るまで何でも言うことを聞くから、と。
 泣いて縋って懇願して得た答えはこうだった。『全部だよ。お前の存在そのものが癪に障る』
 掴んでいた腕を離した。何を言って引き留めればいいのか分からなかった。どうやって言い争いや不毛な会話をやめられるのか分からなかった。きっと今でも僕の全てが藤崎の苛立ちや怒りを誘い増幅しているに違いなく、全てを否定された僕の、藤崎を傷付け破滅に導くだけの僕の前にある道は、ほんの数歩先で途切れている。
「泣くなって言ってるだろ」
 藤崎はそう言って僕の腕を掴み返した。
「泣いてないよ」
「お前マジでうざい」
「……ごめん」
 腕をぐっと引かれて、藤崎の前に立たされる。
「勝手に自殺とかしやがったら俺がどうするか、もう言ったよな?」
 まるで心を読んだかのような脅しだった。そんなに酷い顔を、思い詰めた顔をしていたのだろうか。
「死なないよ」
「死にたいって言ってたくせに」
「でも、藤崎と一緒にいるって約束したから」
 藤崎は相変わらず不機嫌そうな顔をして、今にも僕に殴り掛かってきそうな剣幕をしていた。だがその目を見上げている僕の胸に湧き上がってくるのは、自分の身が傷付けられる恐怖ではなかった。不安と怒りに苛まれながら、膨らんでいくそれに飲み込まれてしまいそうになりながら、それでも僕の目の前に立ち続けている藤崎に対する、形容し難いほど様々な感情が複雑に入り混じった途方もなく大きな思いだった。
 掴まれた腕から藤崎の手を取り、放して、体を近付けた。背中に腕を回して厚みのない体を抱き締める。身を硬くしていた藤崎は、やがて苦しげな溜息を吐き、僕に体を預けた。
 風が冷たい。息が白い。藤崎の首からは嗅いだことのない匂いがする。香水の匂いかもしれない。甘い香りだった。どうしてこんな匂いがするんだろう。微かな戸惑いを覚えたが、すぐに気にならなくなった。藤崎の息遣いが聞こえる。
 今腕の中にいる少年を、僕の肩に顔を埋めている少年を、ほんの数日前までこの世の誰より深く強く憎み、恐れていたことが信じられなかった。まだ僕の体には藤崎につけられた傷痕があり、殴られていたときの痛みや犯されていたときの屈辱は生々しい記憶として残っている。それなのに、藤崎はもはや悪魔ではなかった。今の僕にとって藤崎は、怒りっぽく理不尽で、どこか虚ろで、いつも何かを隠しながら得ることのできないものを求め続けている、十六歳の少年だった。僕は彼に手を伸ばし、安堵を与え、彼を傷付けるあらゆるものから守ってあげたかった。
 僕は本当に死にたいのかもしれない。
 もしなりたいものに生まれ変わることが出来るのなら、今すぐ死んで、自分以外の人間に生まれ直して、藤崎の手を取りたかった。
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