1.秘密の関係

 ひどく荒い息が、悪臭に満ちた冷たい空気の中で揺れている。古い和式トイレの個室は狭苦しく、剥がれたタイルや床に落ちたトイレットペーパーの切れ端、卑猥な落書きの数々は嫌悪感を催させるに十分だ。掃除は一応されているようだが、利用者の善意が望めるような場所ではない。寂れた公園、今にも不審者が物陰から飛び出してきそうな夕方の薄暗いトイレ。
 僕はそこできつく唇を噛みしめながら、体の内側を襲う激しい痛みに耐えていた。奥の壁に手をつき、後ろから突き上げてくる肉の塊に嬲られて、気を抜けば悲鳴を上げてしまいそうだった。
「あ、いく、いくっ……」
 直腸の中を行き来しているのは、熱く滾った男の性器だ。いや、『男』というのは正しくない表現かもしれない。相手は僕と同じ高校二年生、十六歳の少年なのだから。
「悟、悟っ……、もっと締めろよっ……!」
 僕の背後で息を荒げていた少年――藤崎翔太は、余裕のない声で僕に命じる。僕は口答え一つせずに従った。筋肉に意識して力を入れれば、藤崎は僕の腰をがしりと掴み、限界が近いのであろうそれを更に激しく出し入れし始める。藤崎の興奮とは裏腹に、僕の体は制服の下の脂汗と共に冷えていく。堪えていた涙が滲み始め、息が出来なくなる。救いは、もうまもなく解放されるということだけだ。昼休みに鍵の壊れた視聴覚室に連れ込まれ、口で二回させられたから、今日はこれで三回目だ。四回目は経験から判断するに、可能性はかなり小さい。
 永遠と思えるような時が過ぎ去って、僕を貫いていたものがゆっくりと僕の中から出ていく。たらりと穴から零れ落ちたのは深くに注ぎ込まれた精液ではなく、切れたところから漏れ出した血液だろう。生暖かい感触が気持ち悪かった。
 藤崎が自身のペニスをトイレットペーパーで拭き始めると、僕は息を整えるために深呼吸を一つし、同じようにトイレットペーパーを取ってそっと肛門を拭いた。予想通り鮮血が付着したそれにあまり目をやらないようにして便器の中に落とす。藤崎はレバーを踏んで水を流した。
「はー、疲れた」
 疲れた。疲れただって。お前は僕を犯していただけだろうが。そう叫ぶ気力もなく、僕は黙って制服のスラックスを上げ、のろのろとベルトを締めた。
 個室を出て手を洗う。一つきりの曇った鏡越しに藤崎の顔を窺うと、やる気のなさそうな目が僕を見た。
「なに」
「……別に、何でもない」
「は?」
 冷たい声。反射的に体をびくつかせてしまった。藤崎は嗜虐的な笑みを整った顔に浮かべる。短めの前髪の下で形のいい眉が不機嫌そうに吊り上がった。
「あのさあ、俺に嘘吐いたり何か誤魔化そうとしたりすんなって何度言ったっけ?」
「……ごめん」
「で?」
「もう、帰っていいのかなって……気になって」
「ダメに決まってんじゃん。何だよ、お前はさっさと家に帰りたいって? 俺を置いて?」
 答えは勿論、イエスだった。早く家に帰って体を洗いたい。疲労感とずきずきとした痛みを抱えてここに留まりたくなかった。気を抜けば汚いトイレの床に座り込んでしまいそうな程辛いのだ。だが肯定すれば藤崎の怒りを買ってしまうことは間違いなく、かといって嘘を吐くわけにもいかない。僕はただ黙っていた。
 藤崎はふんと鼻を鳴らし、鏡の前の小さな出っ張りに置いていた鞄の一つを僕に投げた。
「コンビニ。俺から揚げ食いたい」
 自身の鞄を持ってすぐに歩き出した藤崎に気付かれないように、小さく溜息を吐いた。直接的な指示はなかったが、藤崎の中で僕の同行が決定事項になっていることは言われずとも分かった。僕に拒否権はなく、自由な発言権も与えられていなかった。
「歩くの遅いんだけど」
 トイレを出てすぐに文句を言われる。遅いのは犯されたばかりだからで、僕の責任ではない。あまりに理不尽だった。
「これ以上は無理だよ」
「お前のせいだろ。自業自得」
 藤崎が言っているのは、僕が普段持ち歩いているハンドクリームを家に忘れてきてしまったことだ。犯されるようになったのは昨日今日の話ではなく、僕は不本意ながら自身の身を守る為に潤滑剤を用意するようになった。でなければ今日のように無理に突っ込まれ、流血沙汰になるのは目に見えていたからだ。
「やっぱコンビニいいわ。面倒になった」
 結局公園を出たところで藤崎はそう言い、返事も待たずに一人去っていった。僕を気遣ってのことではない。青い顔をした僕といると怪しまれる、間違いなくそれが一番の理由だ。僕はついっさき個室で起こったようなことを人に知られたくないと思っていたが、それは藤崎もそうだった。僕は被害者として、藤崎は加害者として、この関係を周囲の目から隠そうとしていた。



 この悪魔に出会ったのは、中学一年生のときだった。
 藤崎は入学して間もなくその容姿や振る舞いで目立つ存在になっていたが、僕は当時から大人しい方だった。平凡で、少しばかり勉強が出来るだけの目立たない奴。僕が目をつけられてしまったのには、大した理由なんてなかったんだろう。真新しい制服に身を包んだあどけない顔の同級生たちの中、藤崎だけがその目に鈍い光を宿していたこと、物怖じせず人と話す顔に浮かんだ笑みが作りものであったことを、その時点で知っていた者は、僕を含めて一人もいなかったと思う。
「なあ、吉田。……吉田、であってたよな? そっか、よかった。社会科の先生が資料運ぶの吉田に手伝ってもらえって。もう一人の日直、女子だからさ。悪いけど一緒に準備室に行ってもらっていいか?」
 そう話し掛けてきた藤崎に、僕は警戒心を抱くことなく頷いた。六月、あれは確か梅雨入りした後のことだったと思う。昼休みを十五分ほど過ぎた頃、それまで殆ど言葉を交わしたことの無かった僕と藤崎は、社会科の資料室に二人きりで向かった。社会科の教師は僕が入っていた将棋部の顧問で、そういう風に使われるのは初めてのことではなかった。だから不審に思わなかったのだ――実際、教師が日直だった藤崎に鍵を渡し、資料を運ぶよう指示したのは嘘ではなかった。
 いつも人気が少ない旧校舎にある社会科の準備室に入った瞬間、僕は後ろから突き飛ばされた。何が起こったのか分からないまま体を起こそうとした僕の腹に、藤崎は容赦なく蹴りを入れた。ほんの数分前に胃の中に収めたものを吐き出してしまいそうになり、口を押えながら顔を上げた。僕を見下ろしていた藤崎の目はぞっとするほど冷たい怒りに満ちていて、僕は彼に対し、意識しない内に何かとんでもない非礼をしでかしてしまったのかと思ったほどだった。
「藤崎く――」
 名前を呼び終わる前に、髪を掴まれた。ぐっと引っ張られて、思わず呻き声を上げてしまった。藤崎はしゃがみ、涙目になった僕をまっすぐ見て笑った。
「お前さあ、何かムカつくんだよね」
「な、なに……何言って……痛い!」
「大声出すなよ。それとも髪、全部抜いてやろうか?」
 藤崎は冗談とも思えない声音で僕を脅した。答えられなかったせいか、藤崎は僕の髪を何本かぶちぶちと乱暴に引き抜いて床に落とし、恐怖と苦痛で固まった僕の腕を掴んだ。制服越しとはいえ、爪を突き立てられ骨を折る勢いで力を加えられれば痛い。体育の授業で藤崎を見ていると、その運動神経の良さは密かに羨望の念を抱いてしまうくらいだったが、帰宅部でそれほど筋肉があるとも思えない体つきをしていた藤崎が、どうしてこれ程の力を持っていたのか――僕は不思議でならなかった。
「お前、今日から俺のサンドバッグな」
「何で……い、嫌だ……」
 藤崎は腕を掴む手に更なる力を加え、ぐっと締め上げた。
「はぁ? お前に拒否権あると思ってんの?」
 その残酷な声に恐怖心を煽られ、ついに泣き出してしまった僕から藤崎は手を離した。一瞬許してもらえたのかと思ったが、それは甘い考えだった。
「このことを誰かに喋ったら殺す。バレるようなことをしても殺す。俺の命令に逆らっても殺す。もっかい言うけど、お前は俺のサンドバッグに決定したから。分かったか? おい、返事は?」
 暴力とは無縁の生活をしてきた僕には、ただ頷くことしか出来なかった。



 公園からやっとのことで家に帰りつき、ぐったりと居間のソファに身を横たえた。家には僕一人、こんな状態でもこそこそする必要はなかった。父さんは出張中、母さんはパート、高校受験を控えた妹は塾で帰りが遅い。体は重いが嬲られた場所は未だに痛むため、うっかり眠りに落ちてしまうこともない。
 暫く休んだ後、気力を振り絞って体を起こした。浴室まで亡霊のように歩き、服を脱ぐ。下着にはそれ程汚れは付いていなかった。シャワーのお湯を温める間にさっと血液を洗い流し、他の汚れ物の中に隠すようにして洗濯機の奥に押し込んだ。
 直腸の中の精液を出来る限り指で掻き出し、シャワーで臭いごと流して浴室を出た。裸のまま自室に入る。用心のため鍵を掛け、手鏡に尻を映した。肛門のところが少し切れて赤くなっている。血は止まっていた。引き出しの奥に隠した軟膏を取り出し、傍から見ればさぞ間抜けな姿だろうな、と思いながら傷口に塗り込む。
 ウェットティッシュで手を拭き、鏡と軟膏を仕舞い、部屋着に身を包んで、やっとベッドに寝転んだ。天井を見つめて溜息を吐き、照明が眩しくなってリモコンで常夜灯に切り替える。ぼんやりとした光の中で無感覚に陥っていた。怒りも、憎悪も、悲しみも、絶望もなく、僕はただ息をして心臓を動かしているだけの存在になっていた。
 今日は運の悪い日だったが、これ以上悪い日は数えきれないほどあった。明日はそうではないかもしれないし、一年後は今日の倍ひどい目に遭わされているのかもしれない。普段はそういうことについて眠りに就くまで考えては深く思い悩む。今日は違った。頭に浮かんでくる悲惨な思い出の数々は、僕の中に何の感情も呼び起こしはしなかった。



 親や先生、他の友達に相談しようと思ったことがないと言ったら嘘になる。実際何度か、直前まではいった。藤崎くんにいじめられています、脅されて酷いことをされました、そう訴えようと彼らの前で試みた。だが失敗した。殺すぞと言ったときの藤崎の目が僕を縛り付けていた。挙動のおかしくなった僕を心配して声を掛けてくれた何人かの大人にも、進路のことで悩んでいるのだと誤魔化した。
 藤崎は僕と違って巧妙だった。クラスではそれまで通り明るくて気のいい奴として振る舞っていたし、勉強の方はむらがあるものの概ね好成績を出していた。僕に対する人前での振る舞いは他の誰に対するものとも変わらず、二人きりのとき毎日のように振るわれる暴力はといえば、日を追うごとに痣や傷痕が体に残りづらいように計算されたものになっていった。
 そのうち、藤崎は分かりやすい肉体的暴力より、精神的苦痛を与える方に比重を置くようになった。例えば、脅迫のネタを増やすことも兼ねた万引きや野外での露出の強要。今となっては発覚しなかったことが奇跡――もしかすると発覚した方が良かったのかもしれないが――なほど、大胆で恐ろしいことをやらされた。何度も逃げようとしたし、今までのことは忘れるから思い直してくれと頼み込みもした。だが藤崎はそのたびに僕の心を打ち砕いた。写真や動画として残された僕の苦痛は、間違いなく今も藤崎の元で保管されている。逃げ場は失われ、僕は殆ど藤崎のいいなりになっていった。
 それでも志望校を決める時期になると、僕は静かに抵抗を試みた。違う高校に行けばさすがに追ってはこないだろうと思ったのだ。藤崎の進路希望調査票を盗み見し、さりげなくを装って先生に探りを入れた。そして僕は、藤崎とは絶対に被らないと確信出来る高校に進学を決めた。
 しかしささやかな希望は、他でもない藤崎の手で握り潰されてしまった。僕の考えなど最初からお見通しだったのだ。藤崎はわざと僕に情報が漏れるようにし、その裏では本命も滑り止めも僕と同じ高校に決めていた。そしてめでたく、僕は中学に続いて高校三年間も藤崎のサンドバッグ、あるいは性欲処理係として生きることになったのだ。
 ――性欲。性欲と言えば、藤崎が僕に初めてそれをぶつけるようになったのは、中二の秋くらいだった。その頃陰惨ないじめはエスカレートしていく一方で、その日の放課後、人気のなくなった頃を見計らってトイレに連れ込まれた僕は、窓付近に巣を張っていた蜘蛛と巣に掛かっていた小虫を食べるように命じられた。いくら何でもそれは勘弁して欲しいと懇願しても、藤崎は僕を解放してはくれなかった。
「虫を食べる以外なら何でもするから」
 口から滑ったその言葉を、後に僕は酷く悔やむこととなった。
「ああ、そう。じゃあ俺の舐めろよ。何でもするんだろ?」
 藤崎はそう言って僕を個室に連れ込み、蓋を下ろしたままの便器に腰を下ろして僕を躓かせた。そして、嫌ならそれでもいい、その場合は最初の命令に従えと選択を迫った。
 僕は涙ながらに選択した。人としての矜持を僅かながらでも保てる方を選んだのだ。
 一度その方向に行ってしまうと、後はそればかりになってしまった。後ろを犯されるようになったのは中三のときで、初めてペニスを直腸に捻じ込まれたときは胃が空になるまで嘔吐した。それでも藤崎は好き勝手に犯してくるのでしまいには一瞬気絶してしまい、自分の吐瀉物の中に倒れ込んでしまった。藤崎は僕が汚れた制服からジャージに着替えるまで傍にいたが、意識が朦朧としている間に僕の中で二度も射精していた。



 そして現在に至るわけだ。
 僕は我に返って段々と心を取り戻し、枕に顔を埋め少し泣いて、明日は口だけで済みますように、と信じてもいない神に祈った。
次の話へ→ topページに戻る