18.悪霊

「どうせ嘘なんだろ」
 僕の上で震えていた藤崎は、ふいに顔を上げて僕をきつく睨んだ。
「嘘吐くな。そんなこと言って俺に復讐するつもりなんだろ。俺は違う。俺はお前なんか好きじゃない。お前がどう思ってようが関係ない」
 荒い息を吐き出し、藤崎は上体を起こして僕の胸ぐらを荒く掴む。
「あれだけ嘘吐くなって言ったのに。嘘吐くなって言っただろ!」
「嘘じゃない」
「じゃあ何だよ。殴って犯されて泣いてた癖に、お前が俺のこと好きになるなんて有り得るわけない。有り得るわけないだろ! は、何お前、もしかして頭おかしくなった? じゃなきゃこんなこと言い出さないよな?」
「藤崎」
「ああそうか頭打って熱出して脳味噌が溶けたんだ。だからおかしいんだ。お前気持ち悪いよ。マジで気持ち悪い。クソ、このホモ野郎! おかしいのはお前だ。嘘吐き。嘘吐き。嘘吐き死ね!」
 どん、といきなり強く胸を押されて一瞬息が止まる。
「嘘吐き嘘吐き嘘吐き嘘吐き、俺じゃない、俺はおかしくない。何もおかしくない。俺はホモじゃない。お前のことなんか好きじゃない。俺はおかしくない。俺は変じゃない。俺は何もおかしくない」
 藤崎は滅茶苦茶な言葉を紡ぎ続ける。呼吸と呼吸の間隔がどんどん短くなる。早口で不安定な声は正気を失ったような軋みを孕んでいく。僕は藤崎の肩に手を添えて落ち着かせようとしたが、触れる前に藤崎は僕から飛び退いた。テーブルに藤崎の脚が当たり、派手な音が聞こえた。
「俺はおかしくない、おかしくない、おかしくない」
「藤さ――」
「あああ、あああうるさいうるさい黙れ! うるせーんだよ! 死ね死ね皆死ね! 俺に近付くな! うるさいうるさい、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ死ね死ねっ!!」
 藤崎は頭を抱え、首を振りながら叫ぶ。
「ああああああああああああ」
 なおも後退って、部屋の出入り口のドアに背中をぶつける。藤崎の顔にはっきりと恐怖が浮かぶ。
「あああ、あああ、ああああ……」
 怒りに満ちた唸り声は胸を引き裂くような痛ましい響きに変わる。
「嫌だ、嫌だ出して、出して出して嫌だ嫌だ」
 鍵なんて掛かっていない。そもそも鍵穴がない。入った時と同じようにドアノブを捻るだけで簡単に外に出られる筈だ。だが膝を突いた藤崎は振り返ってドアを叩き、引っ掻き、縋り付いて誰かに請う。ドアノブを握ることすらしない。
 ドアの向こうにその誰かがいるのだろうか。瀬川? それともこの建物の持ち主だろうか? 僕は数秒ドアを凝視し本気でそのどちらかの可能性を疑い、そしてどちらも違うことに気付いた。そう、違う。藤崎がおかしくなったのは僕と話していたからだ。だが今藤崎が話し掛けているのは――どう見ても僕じゃない。
「藤崎」
 小さく掠れた声は、藤崎の耳には届かなかった。藤崎は僕の存在など忘れてしまったかのように、同じ内容の言葉を何度も何度も繰り返し口にし続けている。出して、出して、出して、ここから出して。
「あああああああああああああああ」
 藤崎は大きく叫び、額をドアに打ち付け始めた。自身の頭蓋骨を砕く為にそうしているのかと思う程強く、激しい勢いで。
 異様な光景に殆ど麻痺して固まっていた頭と体が、さぁっと冷える。
「藤崎!」
 僕は立ち上がって藤崎の元に走った。恐ろしく危険な行為をやめさせようと肩を掴む。だが異常な力を帯びた藤崎の体は鋼のように硬い。びくともしなかった。
「藤崎、藤崎ってば! 駄目だよ! 藤崎!」
 至近距離で名前を呼んでも叫び声に掻き消されてしまう。肩や腕を掴んだ手を何度か振り払われた後、僕は意を決して藤崎に飛び掛かった。力の限り抱き締め、勢いを付けて後ろに倒れ込む。冷たい床が背中を打つ。腕の中の藤崎はなおも叫び続け、手足を振り回して暴れている。
「藤崎! 聞いて、聞いてって言ってるだろ! 藤崎、大丈夫だから、藤崎、外には誰もいない、藤崎……、藤崎!」
 手足の長さも力も藤崎の方が上だ。簡単に動きは止められない。それでも僕は必死に暴れる体にしがみついていたが、錯乱した藤崎は信じがたい力で僕を振り切り、腕の中から飛び出した。
 『ここから出たい』――それが藤崎の望みだ。僕はドアに向かって突進するように走り、ドアノブを掴んで素早くドアを開いた。廊下の冷たい空気と雲のような埃が部屋の中に入り込む。
 果たして、ドアの外には誰もいなかった。いた気配もなかった。内側から胸を強く叩く心臓を無視し、藤崎の顔を見る。
「ほら、藤崎。出られるよ、いつでも。誰もいない。誰も藤崎を閉じ込めてなんかない……」
 藤崎は肩を上下させ、呆然とドアの向こうの廊下と壁を見ていた。ドアを叩こうとしていた拳はゆっくりと開いて震える。いつの間にか眼帯が外れた目、見開かれた両の目は、いまだ狂気じみた光を帯びていた。薄暗がりの中、一瞬だけ白目の部分がぬめりと光って見えたのは気のせいだろうか。
「藤崎……」
 そっと近付いて、肩に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、藤崎は弾かれたように僕に目を向けた。はっ、はっ、と荒い息を吐き出す口は、僕を罵ることも誰かに助けを求めることもなく、息苦しげに大きく開かれているだけだった。少し迷った後、藤崎に身を寄せて背中に腕を回した。今度は振り払われなかった。腕の中の体はずるずると力を失って崩れ、僕はそれに引き摺られて、二人は一緒に座り込んだ。
 藤崎は僕に体重を預け、黙り込んで、呼吸を整えているようだった。俯いた顔、その表情を覗き込むことは出来ない。
「……外に、出ようか?」
 答えはない。藤崎は全身を細かく震わせていた。寒いのだろうか。コートを脱いで渡そうかと思い始めたとき、藤崎は吐息と共に掠れた声で何か言葉を発した。上手く聞き取れなかったその言葉を僕が尋ねるその前に、藤崎は同じ言葉を繰り返した。
「悪霊」
「……藤崎?」
「悪霊、が」
 アクリョウ。悪霊。
 嫌な響きだった。
「そんなの……いないよ。どこにもいない。僕には見えない。大丈夫だよ。そんなのいないから。大丈夫……」
 震える背中を撫でながら言い聞かせている内に藤崎の呼吸は落ち着いていった。やがて震えも止まり、藤崎はゆっくりと顔を上げた。
 濡れた頬。一瞬言葉を失った僕の後頭部に藤崎の手が伸びて、息が互いの唇に触れる程近くにまで引き寄せられた。僕は息を止め、それから鼻で空気を吸い込んだ。汗のにおい。藤崎のにおいがする。
 藤崎の唇が僕のものに触れ、強く押し付けられた。ぬるりと生温かい何か――藤崎の舌を感じて思わず身を引きそうになる。だが藤崎は僕の顔を両手で挟んで逃すまいとし、舌先で唇を開こうとしていた。尖らせた舌を受け入れるべきか迷っている内に舌と唇は離れていき、解放されるのかと気を抜いた一瞬の隙を狙ってまた口付けられ、今度は一気に舌を咥内に差し込まれた。舌と舌が触れ合う感覚。下腹部にずくりと強い衝動を感じる。
 藤崎の肩を押し、無理やり顔を離した。今ここでこんなことをすべきじゃない――そう思うより先に、僕は藤崎を遠ざけていた。
 明確な拒絶と取れる行為を取り繕おうと口を開く前に藤崎は僕から身を引いた。そして手の甲で頬を拭ってよろよろと立ち上がり、ソファに腰を下ろす。
「……頭、痛くない?」
 尋ねながらそっと横に座った。藤崎は自身の額を指で触り、小さく首を横に振った。
「赤くなってるよ」
 藤崎は横目で僕を見る。
「お前、本当はそんなことが言いたいわけじゃないだろ」
 その眼差しに非難の色は見えない。
「……そうだね」
「俺のこと、おかしいと思ったろ?」
「そんな――」
「嘘吐くな」
「…………」
 反射的に否定しようとしたことを、平気な顔で肯定に変えることは出来なかった。口ごもった僕に藤崎は鼻を鳴らす。
「言っとくけど、お前の方が普通じゃないから」
「……どんなところが?」
「俺を好きだとか言い出すところとか」
「それは、……嘘じゃないよ」
「お前はそう思ってれば? 俺はさっきので分かったけど?」
「さっきの?」
「さっきのキス」
 藤崎は僕の肩を抱き、顔を近付けて言う。
「俺みたいになりたかったんだよな?」
 頷くと、藤崎はにこりと笑った。
「つまり、俺みたいに誰かを殴ったり、犯したりする方になりたかったってことだろ?」
「違う」
 心臓が跳ねる。そんなわけがなかった。そんなつもりで告白したわけじゃなかった。驚きに目を見開いた僕の肩に、藤崎はぐっと力を入れる。
「優しくしたいとか俺のこと好きだとか言い出したのは、自分を正当化したいからだ。お前は自分のことを良い人間だって思いたいから、俺を好きだって思い込んだんだよ」
「違う」
「お前のそういうところ、見てて心底イラつく。本当は俺のこと嫌いで嫌いで仕方ないくせに、俺のこと殺したくて仕方ないくせに、自分を誤魔化して卑屈に笑ったり、嘘吐いたりするところ。今も俺のこと憎んでるくせに」
「違う、藤崎」
「なら、さっきキスしてるとき、俺のこと殺しそうな目つきで見てたのは? 金曜日に俺を殴って犯そうとしたのは? 本当は俺のこと滅茶苦茶にして、復讐したいんだろ? 恋人ごっこより、俺がお前にやってたようなことを自分もやってみたいと思って――」
「違うって!」
 藤崎は言葉を発するのをやめた。それは僕の言い分を聞こうとしたからでも、僕の剣幕に驚いたからでもない。僕の手の平が藤崎の口を物理的に塞いだからだ。力は入れなかった。振り払おうとすれば簡単に振り払える筈だった。だが藤崎は黙って僕の目を見つめるだけだ。一週間前なら間違いなく僕を突き飛ばし、暴行を加え辱めを受けさせていただろう。
「……ごめん」
 手を離せば藤崎はすぐに続きを喋り出すだろうか。抵抗しない藤崎の口を塞ぎ続けることに罪悪感を覚えたが、僕は迷った末にそのまま話すことにした。
「僕は自分のことを良い人間だとか思ってない。優しくもないし、もしかしたら……心のどこかで、藤崎のことを滅茶苦茶にしたいって思ってるのかもしれない。金曜の夜に……そうしようとしたみたいに」
 藤崎とキスをしていたとき、本当に僕はあのときと同じ目をしていたのかもしれない。
 衝動を抑え込まなかったら、藤崎を押し倒して無理矢理犯すところだったのかもしれない。そう考えると、心臓を針で突き刺されたような痛みを感じた。
「でも僕は……、藤崎のことが好きだし、今は憎んでもない。嫌いなのは藤崎じゃなくて僕自身だよ。僕はずっと自分のことが嫌いなんだよ。藤崎がイラついても仕方ない人間だと思う。僕が藤崎みたいになりたかったって言ったのは……藤崎が僕と正反対だったから。誰とでも仲良くなれて、頭が良くて、格好よくて、一人でも堂々としてて、僕と全然違ったから」
 話しながら、僕はそれが『今』の話ではないことにやっと気付いた。今僕の前にいる藤崎は、他人を拒絶し、滅茶苦茶なことを言っては自分や周りを傷付け、僕をがちがちに縛り付けても安心出来ず、不安定な心を怒りに変える子どもだ。僕が憧れたのは藤崎が被っていた仮面、作りモノの人格だ。
 仮面を剥ぎ取った藤崎の顔は、悪魔のように醜いこともあれば、人形のように空虚なことも、ガラスのように脆く繊細なものに見えることもある。手を差し伸べて抱き締めたくなるような無防備な幼さを露わにしていることもあった。藤崎はこれまで会った誰よりも複雑で理解が難しく、絶望的なほどに壊れている。
 その藤崎を好きだと思う僕は――多分、藤崎の言う通り、何かがおかしいんだろう。
「僕は藤崎のことが好きだよ。今の藤崎のことも。優しくしたいと思う。恋人同士が普通にするように話したり、キスしたり、抱き合ったりしたいと思う。喧嘩はしてもいいけど今みたいに酷いことを言ったりやったりはしたくない。僕の中のどこかに藤崎を痛めつけようとする衝動があったとしても、僕は……僕は、そういうことはしたくない。辛い思いはして欲しくない。何て言ったら分かってもらえるか分からないけど……本当に好きなんだよ」
 言葉を並べ立てる僕を藤崎は瞬きもせずに見つめていた。いつものように僕を否定する材料を探しているのか、それとも理解しようとしてくれているのか、自分自身を理解出来なくなっている僕には分からなかった。
 手を離すと藤崎は静かに瞬きをし、息を吸い込んだ。
「何も知らないくせに」
 小さな声。震えてはいなかった。
「……僕は藤崎の何を知らないの?」
 藤崎は野性の獣のような目でこちらを窺う。僕が信用に値する人物なのか、まだ確信出来ないでいる。
「お前、俺のことおかしいと思ってるだろ?」
「……藤崎の言うおかしいって、どういう意味?」
 肯定でも否定でも、藤崎が不機嫌になってしまうことは何となく分かっていた。だからどちらでもない方を選んだ。誤魔化すな、逃げるなと罵られてもおかしくはなかったが、そうはならなかった。
「悪霊が……」
 藤崎は僕の目をじっと見つめながら言う。
「――取り憑いてるとか」
 渇いた喉を唾液で潤し、僕は首を横に振った。
「思わないよ。悪霊って……そんなのいるわけない」
「いない? 本当に?」
「いないよ」
 間髪入れずに答えると、藤崎は僕の肩に爪を立てた。痛みを感じるほどではなかった。
「言い切れるのかよ」
「……絶対に、いない」
 そう答えながら、僕はずっと昔のことを思い出していた。



 雨の日の夕方、妹の柚花と家で二人きりになったときのことだ。外は夜のように暗く、土砂降りの雨が屋根や窓を叩いていた。湿った家は何となく薄気味悪く、何か悪いことが起こりそうな雰囲気に包まれていた。二人ともテレビが点いた居間で過ごしていたが、僕と小学三年生の柚花は当時あまり仲が良いとは言えない関係にあり、僕は将棋のルールブックを開いてそれを眺め、柚花はカラフルな手帳を開いてシールを貼ったりペンで書き込みをしたりしていた。
 午後六時過ぎだっただろうか。窓の外が一瞬光った。遅れて雷鳴がとどろき、テレビの電源と照明が消えた。薄暗がりの中、無言の内に柚花と目が合った。
「……ブレーカーが落ちたんだと思う。戻してくるよ」
 僕が立ち上がる動作を完了する前に、柚花は素早く僕の元へと駆け寄ってきた。腕を掴まれる。近くで見ると、柚花の顔は明らかに強張っていた。
「お兄ちゃん、待って」
 柚花は小声で囁くように言った。
「どうした?」
 つられて声を潜める。からかわれているのかもしれないとは思わなかった。柚花には見栄を張りたがる癖があり、こういう場ではむしろ大声を出したり笑ったりして、何も怖がっていないと周りに思わせようとした。特に僕の前では、たとえ振りでも恐怖している様子など見せないのが常だったのだ。
「さっき。見えた?」
「見えたって、何が? 雷?」
「違う。そっち。入口の方」
 言われた方を見る。暗くてよく見えなかったが、そこには何もないように見えた。
「なに?」
「……女の人が」
「お母さん?」
「違うってば」
「知らない人?」
「そう。立ってた。お兄ちゃんには見えなかった?」
「見えなかった。……見間違いだよ。だってドアが開く音なんか全然しなかったし」
 柚花は首を横に振った。
「でも、絶対にいた」
 もう一度出入り口の方を見る。暗がりに慣れ始めた目でも、人の姿らしきものを捉えることは叶わなかった。
「……どんな感じの人だった?」
「分かんないよ。一瞬だったし……もしかしたら」
「もしかしたら?」
「人間じゃなかったのかも」
 僕達二人は黙り込んだ。雨の音と、暗闇の中に潜んだ『何か』の息遣いを聞いたような気がした。
「そんなの」
 口を開いたのは僕だ。
「いるわけない」
 柚花は入口の方向を見つめたまま口を僅かに開き、おそらく反論の言葉を口にしようとした。『人間じゃない何か』を確かに目にしたのだと、僕に言おうとした。だがそれを僕が遮った。
「ブレーカーを戻してくるついでに、僕が見てくるよ。ここで待ってて」
「やだ。行かないで」
「……電気、点けないと」
 僕の腕を掴む柚花の手に力が入る。怯える目が僕を見上げた。今にも悲鳴か嗚咽を漏らしてしまいそうな口は、震える息と共に一つの問いを僕に投げ掛けた。
「だけどもし……本当にいたとしたら?」



「けどもし、本当にいたとしたら?」
 藤崎はあの時の柚花と同じ問いを口にする。
 僕は柚花にどう答えたのだろう。よく思い出せなかった。聞きかじりの知識で非科学的な存在の不在証明を試みたような気もするし、見間違いだ思い過ごしだと言い聞かせようとした気もする。覚えているのは、そういった言葉は柚花にとってあまり役に立たなかったということだけだ。
 さぞかし歯痒かっただろう。恐ろしかっただろう。確かに見たと思っているものを否定された上に、兄は自分を一人取り残そうとしていたのだから。
 藤崎の片腕は僕の肩に回されている。もう一方の手は藤崎の膝の上に投げ出されていた。僕はそれを取り、しっかりと握った。
「なら、一緒にいるよ」
「……いつまで?」
「いないって分かるまで……分かった後も」
 誤解を招かないように付け加える。藤崎は口を薄く開き、息を吸い込んで、それを吐き出すことなく唇を噛んだ。胸の内の葛藤が、その目から見て取れた。
 握ったばかりの手を離し、藤崎の細い体を抱き締めた。暫く無言でそうしていると、腕の中の体からは少しずつ力が抜けていった。
「聞いてもいい?」
 藤崎は小さく頷いた。
「藤崎が言う悪霊って……何?」
「知るわけないだろ」
 話したくないと言わんばかりの口調だった。今ここで無理に聞き出すこともないだろう、そう思い「そっか」と気にしていない風に軽く返し、そのまま藤崎を抱き締めていた。
 そろそろ離れようか、それとも藤崎が離れろというまでこうしていようかと迷い始めたとき、藤崎は唐突に口を開いた。
「悪霊は――」
 薄暗い部屋の中の、しんと冷えた空気が震える。
「人に取り憑き、心を侵し、脳を侵し、正常な思考や感情を奪い、破壊的な衝動を植え付け、取り憑かれた人間も、その周りにいる人間も、皆不幸にする……」
「……そう、誰かが言ってたの?」
 答えはなかった。藤崎の顔を見る。
「お前にも取り憑いてるのかも」
 藤崎は真顔で言いながら、僕の目の中に見えない何かを見ているようだった。
「……藤崎に酷いことしたから?」
「変なこと言うし、不幸になったから」
「藤崎が?」
「お前が」
「別に、不幸じゃないよ」
 不幸。藤崎に殴られ、犯されて、反対に藤崎を殴り犯そうとする人間になってしまったことだろうか。それとも僕が――『ホモ野郎』になってしまったことだろうか?
「藤崎は……男が男を好きになるのはおかしいって思ってるのかもしれないけど、普通のことだよ。異常なことじゃない」
 藤崎はあからさまに顔を歪ませた。
「普通のことじゃない」
「何で?」
「おかしいから」
 理由になっていない。ただ言葉を変えただけだ。
「じゃあ、藤崎は僕と……付き合うのも本当は嫌だってこと?」
「そんなこと言ってないだろ」
「言ってるよ」
「言ってない」
「……僕には、そういう風に聞こえた」
「なに。お前怒ってんの?」
「怒ってない」
「嘘吐くなよ」
 怒っているのは、むしろ藤崎の方だった。
「僕は……本当に怒ってない。ただ、何でこんなに上手くいかないんだろうって思ってるだけ」
「ほら。不幸じゃん」
 藤崎は鬼の首を取ったように言った。



 僕は藤崎から体を離してソファを降りた。僕を見上げる藤崎の腕を掴み、ぐっと引き上げる。バランスを崩しながら立ち上がった藤崎の体を、入口の方へ向かって強く突き飛ばした。
「僕は女の子のことが好きだったんだよ」
 開いたドアの前の床に倒れた藤崎の体に圧し掛かる。強かに体を打ちつけたらしい藤崎は呻き声を上げていたが、そんなことはどうでもよかった。
「今でもそうだよ。藤崎以外の男とかどう考えても無理だし。藤崎のことだって好きになろうとして好きになったわけじゃない。だから……だから僕だって余裕なんかないんだよ。異常とか、不幸とか、簡単に言わないで」
 藤崎の体を仰向けにし、顔を近付ける。目も合わせず、乱暴に唇と唇とを重ね合わせた。両手首を抑え込みながら僅かに開いた唇の間に舌を差し込む。舌と舌が触れた瞬間、体がカッと熱くなった。強い衝動。今度はその衝動に逆らわなかった。舌を咥内に押し込む。藤崎はすぐに応え始めた。唾液で濡れた舌を互いに絡め合わせ、激しく貪り、与え合う。粘膜と粘膜を触れ合わせるのはとても気持ちが良かった。柔らかく温かい感触。今自分は藤崎という人間と繋がっているのだという感覚が体を熱くする。
 藤崎は僕の下で不思議な動きをしていたが、それは酸欠を覚えて僕を押し返そうとしているのか、それとも盛り上がった股間を僕の体に擦り付けようとしているのか、どちらともつかない動きだった。きっと両方だろう。僕が顔を離すと、藤崎は泣き出す寸前のような息遣いで呼吸しながら汗の滲んだ真っ赤な頬を震わせ、潤んだ目で僕を見上げた。
「さと、さとる……」
「うん」
 手首を解放しても、殴り掛かられたり押し退けられたりすることはなかった。むしろ藤崎は僕を引き寄せて体を密着させようとした。それを手で制して服を脱がし始めると、ぼんやりと僕を見上げていた藤崎は顔をあからさまに強張らせ、手足をばたつかせて本気で僕から逃れようとした。
「やめっ……、やめろっ! やめろって言ってんだろ! 悟!」
 藤崎の細い手足が見た目以上の力を有していることを僕は知っていた。躊躇すれば目的を果たせなくなるのは明白で――目的が何なのか自分でもよく分かっていなかったが、無我夢中で藤崎を抑え込み、全力で服を引っ張り、その体から引き剥がしていく。シャツのボタンが飛び、藤崎の手足が僕の顔や胸や腹を打つ。強い痛みは感じなかった。興奮しているせいだろうか。黒のアンダーシャツに手を掛けるところまでいくと抵抗は更に激しくなり、辺りに積もる埃が舞い上がって僕たちの頭や体に降り注いだ。咳き込みそうになるのを堪え、藤崎の体にしがみつきながら黒のシャツをぐっと胸まで引き上げる。素肌が見えた。裸の胸と腹が見えた。そこで藤崎はぴたりと動きを止めた。
 体育の授業のとき、身体測定のとき、藤崎はいつも色の濃いシャツかタンクトップを身に着けていた。水泳の授業はいつも見学で、身体測定や修学旅行の日は休みだった。肌が弱いからだと誰かに言うのを聞いたことがある。
 決して晒そうとしなかった肌。絶望しきった顔で僕を見上げる藤崎の体には――。
「藤崎、これ……」
 平べったい胸から臍の下まで、ぎっしりと文字のようなものが描かれていた。赤褐色で、漢字に似ているが僕が読める字は一つもない。外国語だろうか。いや、僕はこれをどこかで見たことがあった。そうだ。あの不気味な宗教団体のサイトに、これに似た文字が記された神器の写真が載っていた。藤崎の家の引き出しの中にもこの文字を見た。
「……藤崎?」
 小さな笑い声を耳が捉えた。それまで文字に気を取られていた僕は視線を上に動かした。
「おかしいだろ。あの女にやられたんだよ」
 藤崎はにやにやと笑いながら言う。ついさっきまで見せていた態度が嘘か演技かに思えてくるような、妙に余裕のある表情だった。
「あの女って」
「俺の母親。俺が悪霊に取り憑かれてるから、お祓いの為にだってさ。刺青なんか入れたところで効くわけねーのに。馬鹿だし頭おかしいよ、あいつ」
 戸惑う僕の下で藤崎はずり上がったシャツを自ら脱ぎ捨てた。裸の上半身。いつの間にか暗くなった部屋でその体は魚の腹のように輝き、胸と腹に刻まれた文字はその上で不気味に蠢く小さな虫の群れのように見えた。
「そっちじゃなくて俺を見ろよ」
 藤崎は僕の頬に手を伸ばし、僕の視線を自分の顔の方に向かせた。
「悟」
 首の後ろに手を回され、引き寄せられる。文字のことが気になっていた僕は反対の方向に力を入れたが、今回は藤崎の力の方が強かった。唇が合わさり、藤崎の舌が僕の咥内に潜り込んでくる。藤崎の体に刻まれた呪文、刺青のことはすぐに気にならなくなった。
 快楽を追うことに夢中になって呼吸を忘れてしまう。息苦しさに耐えられなくなって顔を離しても、お互い興奮した犬のように激しく喘ぎながらまた唇を合わせ、舌を絡ませ合った。藤崎は硬くなった股間を僕に押し付け、僕も同じようにした。
「悟、なぁ、ヤりたい……入れろよ」
 何度目かのキスが途切れたとき、藤崎は掠れた声で僕を誘った。
「入れ、入れるって……だって、土曜に」
「そんな約束……どうでもいいだろ。やれよ。お前だって……、入れたいくせに」
 藤崎は僕の下から足を引き抜き、それを僕の腰に巻きつけた。
「そん……そんなこと」
「悟」
 藤崎はいやらしく腰を動かし、僕の上着を脱がせ、キスをして、熱っぽく見つめる。発情した瞳。
 ごくりと唾を呑んだ。
「……いきなり、とか。無理だよ」
「いきなり? 俺、初めてじゃないんだけど」
「でも、それは……」
 数年前の、瀬川との出来事を指しているのだと思った僕を藤崎は笑う。
「別に、あいつ以外ともヤッてるし。じゃなきゃお前なんか誘うわけないだろ」
「……え?」
「お前本当に頭悪いよな。全部演技だし嘘だよ。弱みを見せたのも、お前のこと好きな振りしたのも、悪霊だのなんだのっていう話も」
「な……」
 何で、そんなことを。声にならない僕の問いに、藤崎は笑いながら答える。
「だって面白いじゃん。俺に犯されて泣いてたお前が、俺とキスしてチンコ硬くして、ホモになってってさ。悲惨過ぎて笑える」
 笑い声は大きくなる。藤崎は胸を震わせ、涙まで流しながら笑っている。
 頭が真っ白になりそうだった。藤崎が口にした言葉が僕の中で暴れ回り、あちこちを傷付けながらバラバラに砕けていく。藤崎が何を言っているのか分からない。理解出来ない。演技だ嘘だというのが演技で嘘で冗談だ。目の前がぐらぐらと揺れて、藤崎の顔が見えなくなる。それでも笑い声だけが聞こえていた。心底おかしそうな、馬鹿にしたような声だけが聞こえる。息が出来ない――息が出来ない! 
 ――気付くと体がふわりと軽くなって、僕は無感覚に陥っていた。声が聞こえる。笑い声ではなかった。呻き声。藤崎の声だ。
「うっ、うっ、さと、悟……、さとるっ……」
 下を向くと背中が見えた。小さな火傷の痕、煙草を押し付けたような傷がびっしりと残る背中。肉付きの薄いその背中は揺れていた。いや、藤崎の体が全体が揺れていた。何故なのか一瞬不思議に思った後、僕の手が藤崎の腰をしっかりと握っていることに気付いた。そしてその腰より下、制服のスラックスや下着を身に着けていない裸の尻が見えた。  
 藤崎が揺れている理由。藤崎の中を乱暴に行き来し、中から体を揺さぶっているものの正体を僕は目にした。
「悟、悟、悟っ」
 ぐじゅぐじゅと音がする。藤崎の体から流れ出す血の音だ。真っ赤な血。ああ。血だ。
「ああ、悟、いい、気持ち良い、ううううう、もっと、もっとしろよっ」
 僕は藤崎を犯していた。勃起した性器を藤崎の肛門に押し込んで、直腸を嬲り抉っていた。
「いく、あああ、いくっ、いくっ、悟、悟、ああ、あああっ」
 頭が、心が、体が、理解することを拒んでいた。目の前に広がる光景を――僕がしでかしている恐ろしい行為を、僕自身がやっていることなのだと受け入れることが出来なかった。快楽も、苦痛も、僕の中にはなかった。血を流す藤崎の体で自分のペニスを擦っているのに、何も感じていなかった。藤崎の中はまるで大きな空洞で、僕の体は見知らぬ誰かからの借り物のようだった。
「ああ、ああああ、ああっ、あ……」
 藤崎の背中が大きくしなる。その背中で、いつか煙草から燃え移った小さな灯りがチカチカと光る。
 ペニスを引き抜くと、血と精液と汗がどろどろに混じり合った液体が藤崎の太腿へと流れて床を汚した。急に眩暈がする。視界が歪む。藤崎の輪郭がぼやけていく。背中の炎で白い体が溶け、肉が燃え落ち、鉛色の骨が見えた。それもとろりと融解し、藤崎は藤崎の形を完全に失ってしまう。
 残った鉛色の水溜りに、ちらりと何かが映った。黒い塊。目を凝らしてみる。濁った黄土色の瞳がこちらを見返してきた。そいつはどす黒く染まった体を揺らし、汚れた鋭い歯を見せて笑った。聞き覚えのある声。そうだ、この声は。この声の持ち主は――
 僕だ。
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