17.恐怖

 木曜日、テストの前日。やっと学校に復帰することになった。昨夕にその旨を伝えていた藤崎と週末に約束した場所で落ち合うため自転車に乗り、家の敷地から前輪だけ出して左右を確認しようとした瞬間。息が止まった。
「…………、藤崎」
 僕のすぐ左、うちの家を囲う塀に背を預けて立っていた藤崎は僕の顔を眼帯がない方の目で一瞥し、それから自転車に目をやった。
「それ。置いてこいよ」
「あ……そう、だね」
 言われた通りに自転車を元の場所に戻し、藤崎の元に戻った。すぐに歩き出した藤崎の横に並んで歩く。
「どうして?」
「何が」
「だって……、藤崎、うちに来るって言ってなかった」
「別にどうでもいいだろ」
「……よくないよ。そんな、ここまで一人で来たら……、待ち合わせの意味がない」
 瀬川の一番の標的は藤崎だ。わざわざ徒歩でここまで来て一緒に登校するより、家からそのままバスに乗って学校に向かってくれた方がまだ幾らかましだ。あまりに無防備で考え無し過ぎる。月曜もそうだったが、あれは例外だと思っていた。
「お前さ、あいつのことそんな気にしてどうすんの?」
「どう、するって」
「動画見せたし、手とか出しようがないと思うんだけど」
「動画?」
「あいつが俺に乗っかってるところの」
 あまりに何でもない口調で言うので、一瞬意味を理解出来なかった。
「乗っかってる、ところのって……」
「俺に突っ込んで腰振ってる動画」
 ベビーカーを押して向かいを歩いていた女性がぎょっとしたように僕たちを見た。藤崎は隣をすれ違った彼女に一瞥を加えることもしなかった。
 僕は動揺のあまり数秒言葉を失った後、胸の中で心臓がばくばくと跳ね上がるのを感じながら尋ねた。
「……見せたって、いつ?」
「昨日」
「あ、あいつとは会わないって言ったのに」
「は。あいつが家に来たんだよ」
「藤崎」
 藤崎の手首を掴んだ。二人で立ち止まると、後ろにいたらしいサラリーマンがあからさまに顔を顰めながら僕達の横を無理矢理通っていった。だから僕は近くにあった飲食店の駐車場まで藤崎を引っ張っていった。駐車場は空で、店はまだシャッターが閉まっている。
「なに」
「あいつに何か……されたりとか……」
「別に何も」
「でも、藤崎に用があって」
「俺じゃねーよ。親の方。だから帰り際に一瞬話しただけ。つか説明だるいんだけど。お前にいちいち報告する必要あんの?」
「……あるよ」
「何で」
「だって」
「付き合ってるから?」
「……付き合ってるし、藤崎のことが……心配だから」
 そう答えている間、藤崎の表情は少しも変わらなかった。だから何だ、とでも言いたげな顔で僕を見下ろすだけだ。
「もし何かあったら」
「ない」
「次は……違うかもしれない。何かあってからじゃ遅いのに」
「のに?」
「藤崎は何で……無茶なことばっかりするんだよ。何で」
「なに、怒ってんの?」
 馬鹿にしたような声で言われて、僕は自分の声が少し荒くなっていたことに気付いた。
「……ごめん。だけど――」
「俺のこと、好きでも何でもないくせに」
 続きを言い掛けた口を開けたまま、固まってしまった。
 ふいに薄く鋭いナイフが、肋骨の隙間を通って心臓に突き刺さったような感覚。肺が震える。僕の胸を抉る言葉を放った藤崎はその手を握りから離し、僕をぽんと遠くに突き離した。
「ほらな」
 答えない僕にそう言って、藤崎は元の道に向かって歩き出した。少し遅れてその後に続きながら、僕は自分の手足が冷えていくのを感じていた。
 裂けた傷口から流れる血。胸の中で鮮血が溢れている。
『好きでも何でもないくせに』
 藤崎は知らない。だが僕は知っている。覚えている。今この瞬間、惨めに思い起こしている。藤崎が最初に僕を憎悪に満ちた目で見たあの瞬間、期待を裏切られ、憧れを踏みにじられたあの瞬間まで――いや、本当はその後でさえも、僕が藤崎に惹かれていたことを。
 期待していた。夢想していた。僕が味わっている苦痛は全部嘘で、明日になれば僕は人に蔑まれ哀れに思われるような人間ではなくなっていて、藤崎からあれは冗談だったのだと、本当はお前と友達になりたいのだと言われ、僕はそれを受け入れるのだと。
 そう思い続けることを許さなかったのは藤崎だ。僕じゃない。藤崎が僕をこんな風にした。藤崎が僕の思いをずたずたに傷付けた。他でもない藤崎が、僕の思いを断ち切ったのだ。
 だがそれはずっと前のことだ。それなのにどうして僕は今こんなにも打ちのめされ、傷付いているんだろう。


 学校に近付くと藤崎は自然に僕から離れた。視界の先で藤崎が藤崎の友人に手を上げるのを目にしながら校舎に入る。ここまで歩いてくる間に僕の強張った顔は学校用に繕ったものに切り替わり、思考は藤崎の言葉を強引に頭から締め出した。
「おはよう。風邪、治った?」
 教室に入って席に着き、隣の席のクラスメイトからも全く同じ言葉を聞いてから二分後、仲野さんがそう話し掛けてきた。藤崎はちょうど教室を出て行ったところだった。
「おはよう。治ったよ」
「よかった。あ、テスト前だからノート取っといたよ。復習ばっかりだったからそんなに無いけど、もし良かったら」
「え……ありがとう」
 仲野さんが差し出してきた透明のファイルを受け取る。中にはルーズリーフが数枚挟まれていた。
「どういたしまして。私は自分の分があるから返さなくていいよ。ファイルも。余ってたのだから」
「……いいの?」
「うん」
「本当にありがとう」
「いいえ」
 仲野さんは微笑み、自分の席に戻っていった。
 ファイルからルーズリーフを取り出してみる。三枚入っていた。ほっそりとした綺麗な字で授業の内容が丁寧に書き留められている。有難く思いながら二枚目を捲ったとき、裏に二つ折りのポストイットが貼られていることに気付いた。開いてみるとこんなメッセージが書かれていた。
『もし昼休み暇だったら日曜のことで話したいので、第二視聴覚室の前に来てください』
 日曜のことは無かったことになったわけではなかったらしい。きっと藤崎が伝えてきたようなことが用件だろうと容易に予想出来た。仲野さんが謝らなければならないことなど、何一つ無いというのに。
 断るかどうか昼休み直前まで決められなかった。チャイムが鳴ってすぐに藤崎が仲のいい男子に声を掛けられ、共に食堂の方へと向かうのを見て、どうするかを決めた。

 階段を上り第二視聴覚室に続く廊下に出る。しんと静まり返っていた。普段はあまり人が来ない場所だ。先に教室を出ていた仲野さんは廊下に座り、窓際の壁に背中を預けていた。膝に厚めのブランケットを掛けている。横には弁当箱と水筒が置かれていた。
「ここでご飯食べながら話す?」
 そう尋ねてきたのは、僕の手に昼食が入ったビニール袋が下がっていたからだろう。
「でも、寒いかな」
 僕の体調を気遣ってか、仲野さんはそう続けた。
「大丈夫だよ。二つカイロ持ってるし、中に七枚着込んでるから。逆に暑いくらい」
「七枚?」
「うん」
「それなら大丈夫そうだね」
 仲野さんは少し笑いながら言い、僕に座るように促した。数秒迷って、仲野さんから八十センチほど離れたところに腰を下ろした。すぐに仲野さんが弁当箱を開け始めたので、僕も袋からサンドイッチを取り出して食事を始めた。
「仲野さん」
「うん?」
「日曜はごめん」
「えっ、何で?」
「その……藤崎とのことに巻き込んだから」
「ううん。……こっちこそ日曜はごめんね。急に帰ったりして」
「仲野さんが謝ることじゃないよ。……それに、元々一緒にご飯を食べる予定も無かったんだし」
 藤崎が提案しなければきっと数分の立ち話で終わっていた筈だ。
 仲野さんは曖昧に頷き、おかずの煮物を齧って咀嚼した後、思い切ったように口を開いた。
「吉田くんと藤崎くんって……仲いいの?」
 婉曲的な表現だったが、ニュアンスは明らかに僕と藤崎が『そういう』関係であるのかどうかを尋ねるものだった。
「多分。……付き合ってるから」
「そっ、か。そうだったんだ」
「うん」
「……私。反対だと思ってた」
「え?」
 思わず仲野さんの方に顔を向けた。視線が合う。気まずい顔で、どちらからともなく目を逸らした。
「吉田くんと藤崎くんは、仲が、悪いんじゃないかって。思ってた」
「……何で?」
「うん……、一か月くらい前、古典の先生が休んで、本当は自習だったのに進行が遅れてるからって数学の授業やった日があったよね? 土曜日だったんだけど、覚えてる?」
「……覚えてる」
 月に一度の土曜授業があった日だ。その日に何があったのか僕ははっきりと覚えていた。
 半分の大きさになったサンドイッチが、ふいに力が入った手の中でぐしゃりと潰れる。
「放課後、部室に行って暫くして教室に忘れ物したことに気付いたから、取りに戻って……ついでにお手洗いに行ったんだけど……そのときに、男子トイレの方から、声が聞こえてきて。掃除の後で、窓が、開いてたから」  
 歯切れ悪く話す仲野さんの声に、僕を馬鹿にする藤崎の意地の悪い声が重なった――『お前なんかこれぐらいしか利用価値ねーんだから』。
 その後の呻き声も、仲野さんの耳に届いてしまったんだろうか。
「……それが、それがずっと気になってて……もっと前に話し掛けようと思ってたんだけど――」
 名前もろくに憶えていなかった男子に声を掛けるため、仲野さんはきっと何度もタイミングを窺い、勇気を振り絞ったに違いなかった。
 だが僕の胸はその優しさを有難く思う気持ちよりも、今すぐにここから逃げ出したいという衝動で支配されていた。仲野さんに秘密を知られていたという事実に打ちのめされただけでなく、仲野さんがその事実を明かしている状況の中に今自分が置かれているということが、耐え難いほど恥ずかしく惨めで、苦しかった。
 知られたくなかった。僕と藤崎の秘密を、こんな風に暴かれたくなかった。
「――くん。吉田くん。大丈夫? 保健室の先生呼んでこようか?」
 不安げな、心配そうな声が聞こえる。はっと我に返った。僕はいつの間にか両手で頭を抱え込み、俯いて荒く息を吐き出していた。
 顔を上げる。仲野さんは僕の目の前に膝をついて座り、僕の肩に手を伸ばしながらこちらを窺っていた。
 大きな目。睫毛と同じ茶色っぽい色の瞳。垂れ目気味の優しそうな眼差し。やわらかそうな頬、ふっくらした唇、いい匂いのする髪。カーディガンを押し上げる大きな胸。
 そのとき、自分の中で何か大きなものが動くのを感じた。暴力的なほど強い衝動が、体を突き動かしそうになるのを感じた。目の前にいる優しく魅力的な女の子――仲野さんにこの手を伸ばし、縋り付きたいと思った。
 きっと僕は、仲野さんのような女の子を好きになっていた。ごく自然に恋をして、彼女を誰より可愛いと思い、守りたいと思い、彼女にとって最も特別な存在になりたいと心から願っていた筈だ。
 だがそうはならなかった。ぱっと燃え上った仲野さんへの衝動は一瞬で燃え尽きてしまった。恋になる前に、僕の外へと飛び出す前に、跡形もなく消え去ってしまった。
 残った灰の中に真実を見る。
 僕は仲野さんに恋をしない。仲野さんは僕の『特別』にはならない。
 それはもう他の人間に明け渡してしまっている。
「藤崎とは」
「え?」
「うまくいってなかったんだ。ずっと」
「…………」
 肩に触れそうになっていた手がそっと下りる。仲野さんはその手を自身の膝に置いた。
「今もそんなにうまくいってないけど、……多分、これから」
「……よくなる?」
「そうなったらいいなと思う」
 仲野さんは小首を傾げて僕を見つめ、少し黙って、口を開いた。
「今、吉田くんは……辛い目には遭ってないの?」
「遭ってないよ。あと藤崎だけじゃなくて……僕も藤崎に、酷いことしたり、言ったりしてた」
「吉田くんが?」
「そう。だけど、藤崎とはお互いに優しくするって決めたから……、大丈夫」
「……そっ、か。それなら、よかった」
 言葉通りとは言えない表情を、仲野さんは何とか笑顔の形にした。それで会話を終わらせ、もっと踏み込んでくることをしなかったのは、僕がそうして欲しくないと思っていることを察してくれたからだろう。
「ご飯、食べよう」
 僕がそう言うと仲野さんは頷いて元の場所に戻り、箸と弁当箱を手に取った。僕は膝の間に落ちていたサンドイッチを拾ってビニール袋に戻し、代わりにから揚げのパックを取った。
「……仲野さんは?」
「ん?」
「うまくいってる?」
 友達と、とは口にしなかったが、伝わることは分かっていた。
「わりと。多分、うまくいってる。うん、何とか」
「複雑な感じ、だね」
「はは。私、人の地雷踏んじゃうことがよくあって……それも自分に関係ない、余計なことに口出しちゃったりとか」
「そうなんだ?」
「そうなんです」
「でも僕は仲野さんが気に掛けてくれたこと、嬉しかったよ。……ちょっとショックでもあったけど」
「ちょっと?」
「……かなり」
「ごめんね」
「いや。だけど本当に……声を掛けてもらえてよかった。ありがとう」
 本心からそう言うと、仲野さんは箸を止めて僕の目を見つめ、少しだけ微笑んだ。



 テスト範囲の総復習とテストの為の自習に終始した午後の授業を終え、『各自体調を整え、提出物やテスト範囲の最終確認などを行い、明日に備えること』という、言われずとも分かり切った内容の忠告を担任からじっくり十分ほどかけて言い聞かされた後、僕達はやっと今日の務めから解放された。
 正確に言うと、数名に関しては幾らかやるべき事が残っていた。放課後の掃除当番。今日は僕の班の番だ。藤崎にはメールでその旨を伝えていたので、教室か昇降口で待ってくれるだろうと思っていたが――割り振られた掃除場所に着いて一分も経たない内に、僕のところへとやってきた。そして言葉を交わす前に屋上へと続く階段の下から三番目に腰を下ろし、その長い足が投げ出された踊り場を掃く僕を見上げる。
「まだ?」
「……もう少し」
「早くしろよ」
「うん」
 屋上に用がある生徒など皆無とはいえ、放課後になって間もない。階段を下りればすぐ横は僕達の教室で、その隣のクラスはまだホームルームが終わっていない。二人でいるところを目撃される可能性は低いとは言えなかった。今朝の様子から学校では今まで通りに振る舞うつもりなのかと思っていたが、どうも違うらしい。

 踊り場の下の階段を掃き終わり、ちり取りで埃を集め終わったとき、教室を掃除していた同じ班の男子が声を掛けにきた。
「吉田、終わった?」
「終わったよ」
「ああ、じゃあ道具戻しとく、ってあれ?」
 彼は踊り場の右上の階段を覗き込んだ。下から見ると足先だけがはみ出していたのが気になったらしい。
「おー、藤崎、何してんの?」
「そいつ待ち」
 藤崎は階段を下りながら僕の方に顎をしゃくった。
「なに、仲良かったっけ?」
「中学のときから」
「学校一緒だったとか?」
「そう」
「へー。そういや中学時代の藤崎とか謎過ぎんだけど、前からこんな感じ?」
 話を向けられたので、逡巡の後、「大体は」と曖昧に頷いた。
「そうかー。高校デビューだったら面白かったのに。中学のときは坊主で背も低くて体重が今の三倍だったとかさ」
「ねーよ」
 藤崎はふざけた例え話を鼻で笑って返し、廊下の端に置いていた僕の鞄を取った。
「帰るぞ、悟」
「あ、うん」
 鞄を受け取り、肩に掛ける。
「おーっと、怪しいな。なぁ吉田、もしかして今のどれか正解だった?」
「だったとしても、こいつ親友の秘密をバラすような奴じゃないから」
 僕が質問に答える一瞬の隙も与えずに藤崎が言う。
「あー……、うーん、確かに口堅そうだなぁ。よし諦めた。二人とも帰ってよし。全員解散」
「お前が許可出すのかよ。ていうか俺ら今から一緒に帰るし」
「そういや吉田待ちだったな。じゃあまた明日。あ、吉田、それ俺が教室持ってく」
 さっと自然に僕の手からちり取りと箒を取り、そのまま教室に戻ろうとする彼に「あ、ありがとう」と慌てて礼を言った。手を振られたので振り返して、それから藤崎を見る。
「なに」
「いや」
「何って聞いてんだけど」
「うん……」
 歩き出した藤崎の横に並ぶ。ちょうどどこかのクラスのドアが開く音がして、間もなく騒がしい声が聞こえ始めた。藤崎は僕から離れることもなく平然とした顔でいる。
「……学校では『親友』になったんだ、と思って」
 藤崎は靴箱から取ったローファーを乱暴に下へ放り、それに履き替えながら僕をちらりと見る。だから何だよ、とでも言いたげな目。
 昇降口に向かって下りてくる人の群れが視界に入ったので僕は口を閉じ、靴に踵を押し込んだ。



 帰り道。藤崎は本来通る道を逸れて人気のない小道を進み、廃墟と化した小さな動物病院の敷地内へと足を踏み入れた。大きな看板に描かれた犬と猫の顔は酷く汚れていて、狭い駐車場のひび割れたコンクリートの隙間からは雑草が顔を出している。
「藤崎、もうこういうところに入るのは」
 やめよう、と言い終わる前に手首を強く掴まれ、有無を言わさぬ勢いで病院の裏手に引き摺られる。裏口の鍵は壊れていた。そして藤崎は明らかにそのことを知っていた。
 藤崎は建物に入ってすぐ右手の部屋の中に僕を突き飛ばし、自身は出口の前に立ちはだかった。部屋は事務室らしく、殆ど空になった棚、足の低いテーブル、所々破れた革のソファがあり、床には丸まって縮んだ書類がばらばらに落ちていた。
「昼休み、仲野といただろ」
 答える前に、藤崎は僕の表情を読んだ。
「バレないとでも思ったのかよ。二人でこそこそ何してた?」
「話をしてただけだよ」
「は。何を?」
「僕達……、僕と藤崎の話」
「ふーん?」
 藤崎は不機嫌そうな声で言い、鞄を埃だらけのテーブルの上に置いた。それから僕の胸を押してソファに倒し、その上に馬乗りになった。藤崎の手は僕の股間に伸び、遠慮や躊躇いは微塵も感じさせないやり方で触れる。
「こういうことしてるって?」
「それは、……もっと前に知ってたって」
「は?」
「……けど、仲野さんは誰にも言わないって約束してくれたから」
 昼食後、別れ際に仲野さんは言葉で約束してくれた。もしそれがなかったとしても、仲野さんは誰彼かまわず僕達の秘密を話すような子じゃない。確信があった。
「ああ、そう。他には?」
「え?」
「何を話してたんだって聞いてんだけど」
「……世間話」
 藤崎の手を股間から引き離し、そのまま放す代わりに握りながら言った。繋がった手と手に藤崎の視線が下りる。
「心配しなくても、僕と仲野さんが……どうにかなることなんてないよ。仲野さんが僕をそういう意味で好きになることなんてないと思う」
「じゃあお前は?」
 鋭い眼差し。繋いだ手はきつく握り返された。
「……前にも言ったけど、僕もそうだよ」
「証拠は」
 証拠、証拠、証拠。藤崎はそれを欲しがる。だが僕が何を言おうと、何を示そうと、結局のところ藤崎が僕を心の底から信じることはない。何度も試し、疑い、揺さ振り続けて言葉や行動を引き出しても、次の一瞬には僕が裏切るのだと思っている。
 藤崎は昔誰かに酷く裏切られたことがあるのだと、何故か強く直観した。好意を抱いていた人、あるいは信用していた人に。そのとき味わったことを、藤崎はもう二度と味わいたくないのだ。
「僕は……」
 天井を仰ぐと埃が細いつららのように固まっているのが見えた。隅に張った蜘蛛の巣の中で大きな蜘蛛が一匹餓死している。
「藤崎と友達になりたかった」
「……は?」
「中学のとき。藤崎みたいな奴と、友達になれたらって思ってた。藤崎みたいな人になりたいって思ってた。かっこよくて、誰ともで話せて、勉強も運動も出来て、凄いと思ってた。憧れてたんだよ」
 藤崎は何も言わない。
「藤崎が殴ってきた後も、暫くは、これは夢なんだって自分に言い聞かせてた。そうじゃないと分かった後は、あれは全部冗談だったって、機嫌が悪かっただけなんだって言ってくれたらって思ってた。そしたら僕は許して、藤崎と友達になれるって……考えてた。だけど段々、自分がどうしようもなく惨めになってきた。自分を殴って蹴って罵ってくる奴に、何で僕は未だにそんなこと思ってるんだろうって。……だから、やめたんだよ。藤崎と仲良くなりたいって思うのを」
「……友達とか。なってどうするんだよ」
「分からない。でも……、友達になってから、もし藤崎が……僕と付き合いたいって嘘でも言ってたら、多分僕は暫く悩んで、それから……、僕も付き合いたいって答えてたと思う。藤崎の特別になって、好きだって言ってもらって、僕も好きだよって答えたくなったと思う」
 今僕の口から溢れている言葉は、あの時の、中学一年生のときの僕が思っていたことじゃない。一か月前の、一週間前の、昨日までの僕が思っていたことでもない。
 仲野さんの目を間近に見たとき、今朝自分が何故あんなにも藤崎の言葉に傷付いてしまったのか、その理由を知った。
 僕の中にあった藤崎への憧れは完全に消え去ったわけではなく、ずっと見えない場所に隠れ、静かに僕の奥深くで根を張り、蔦を伸ばし、奇妙に形を変え、その実は殻の中で息を潜めて、外に出るときを待ち続けていたのだ。
 本当に、心の底から藤崎のことを嫌いになっていれば、こんなに苦しむことはなかった。藤崎を憎み、同時に憧れも後生大事に抱え続けながら、たとえそれが暴力という形であっても執着を受ける自分は藤崎の特別であると、密かに自惚れてさえいなければ。
 『好きなわけじゃない』なら、その気持ちを何度も踏みにじられることはない。
 心臓の鼓動が頭の中にまで響いている。よりにもよって藤崎に向かって、長い間自分自身にも隠し通していた秘密を、胸の奥底に残していた柔らかい場所を開いてみせた。藤崎は僕を嘲笑い、もう一度強く傷付けることも、何も見なかったことにして突き離すことも出来る。
 僕は天井から藤崎の顔に視線を移し、目を合わせた。
 いつか見た、途方に暮れた子ども、親とはぐれ迷子になって今にも泣き出しそうな子どもの顔が、そこにはあった。
「もう遅いってことかよ」
「……そういう、意味じゃないよ」
「じゃあ何だよ。俺にどうしろって言うんだよ。俺はお前なんか」
「……嫌い?」
 藤崎は口を小さく開き、大きく息を吸い込み、唇を噛んだ。そして軋んだ、消え入りそうな声で「お前なんか」と繰り返したきり黙ってしまった。
 僕は藤崎の手を離し、代わりに腕を持って自分の方に藤崎を引き寄せた。抵抗はなく、藤崎は僕の肩に顔を埋めた。その身長にしては軽過ぎる重み、痩せた胸の鼓動を感じる。背中を撫でると藤崎は徐々に力を抜いて、僕に体を預けた。
 破れたソファの黴臭さも、廃墟の冷たい空気も、今はもう気にならなかった。
「藤崎、もし……好きだって嘘でも言ってくれたら、僕は藤崎のことを好きになる」
「……嘘吐くなって言ったくせに」
「……そうだね」
「俺が好きだって言わなきゃ好きにならないとか、本当は俺のこと好きじゃないからだろ」
 くぐもった声で、藤崎は僕を責める。
「そうかもしれない」
「ほらな」
「だけど、そうじゃないかもしれない。僕は……、多分、きっかけが欲しいんだよ」
 たった一歩を、引き返せない最後の一歩を進める為の。
「藤崎がもし神様を信じていたとしても――」
 藤崎は僕の腕に爪を立てた。
「カミサマとか。そんなのいたら、とっくにぶっ殺してる」
「……そっか。そうなんだ。藤崎は……、信じてるんだと思ってた。信じてるから、僕の部屋であんなこと言ったんだと思ってた。そっか……」
 それが藤崎の精神に影響を及ぼし、僕を求める理由になったのだと思っていた。
「なら藤崎はどうして……」
「お前が」
「……うん」
「お前がそうだって分かったから」
「『そう』って?」
「俺の、……俺のことを」
「うん」
「変えてくれる奴だって分かったから。……上書きしてくれる奴だって思ったから。全部。なあ、悟、そうだろ?」
 藤崎は顔を上げ、不安げにそう訊ねた。
「僕は……」
「悟」
 藤崎の手が僕の顔に伸びる。冷たく骨ばった長い指が、下瞼を、頬骨を、黒子を、唇の横を辿る。
 僕を見つめる瞳の奥には、底知れぬ怒りと暴力の衝動が未だ燻っているのだと思った。きっと藤崎は僕の一挙手一投足に誰かや何かを重ね、憎しみを抱き、苦しみ、失望しながら、僕がその誰かや何かではないという証明を、決して自分を裏切らず自分を満たしてくれるのだという確証を求め、僕に自分の『特別』であって欲しいと願っている。
 長い睫毛が震え、瞳が揺れた。そのとき僕はその前の瞬間にその瞳から読み取ったもの全てがただの幻想、思い違いなのかもしれないと思った。藤崎は得体のしれないカミサマを信じていて、僕は幻想の中で藤崎の望みを果たす為の単なる触媒、身代わりに過ぎず、ただちょうどいいときに出会ったという理由で選ばれただけなのかもしれない。僕に見せた無防備な顔や不安げな声は、どれも演技なのかもしれない。僕は藤崎の特別でも、特別になるかもしれないものでもなく、数秒後にはこの廃墟の中で粉々に打ち砕かれて、二度と立ち上がることが出来なくなるだけなのかもしれない。
 恐怖が肺を満たして、息が止まり、聴覚が麻痺する。
 ああ。僕が欲しかったのはきっかけじゃない。自分が傷付かずに済む為の、僕の責任じゃないと言い訳にする為の予防線だ。
「藤崎」
 引き返せない最後の一歩は、自分で踏み出さなければならないと思った。
「好きだよ」
 その言葉を口に出した瞬間、その思いが息苦しい殻の中から抜け出すのを感じた。開けた視界、肺になだれ込む酸素、びりびりと皮膚の表層が震える。そして体に、思考に浸み込んでいた恐怖――藤崎から取り込み妄想を織り交ぜて肥大した怪物、長い間無意識の中で僕を拒絶し、否定し、嘲笑ってきた黒い霧が、堰を切ったように外へと流れ出した。
 内側から胸を叩いて破裂しそうだった心臓はその動きを徐々に緩め、緊張のあまり動かなくなっていた手足に感覚が戻っていく。
 呆けたような表情をしている藤崎の真っ黒な瞳、薄く開いた唇、僕の腰や胸に掛かる重み、頬に触れている藤崎の手を、今は何の抵抗もなく、自分自身に言い訳をすることもなく、純粋に好ましいものだと感じることが出来た。
「僕は藤崎が好きだ」
 はっきりと、もう一度繰り返す。
 藤崎は何も言わなかった。僕と同じ言葉を返すこともなく、僕を拒み、否定し、嘲笑う言葉を口にすることもなかった。僕が抱いていた拒絶への恐怖、妄想が、実際に起こることはなかった。
 どうしたらいいのか分からない顔をした藤崎の手が、頬を下り、顎を過ぎて、首に巻いたマフラーを指先で掴む。だがその指は首を締め付ける為にそうしたのではなく、ただ何かに縋りたかっただけのようだった。
 薄い背中にもう一度手を伸ばすと、藤崎はゆっくりと崩れ落ちるように僕の胸へと顔を埋めた。
「俺も」
 酷く掠れた消え入りそうな声で、藤崎はそう言った。
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