15.病

 ふっと目覚めた。
 手探りでリモコンを掴み、明かりを点ける。よろよろと体を起こしてベッドに腰掛け、暫くぼうっとしてから、ここが自室であること、今が真夜中であることに気付いた。
 自分の体に目をやってみる。着ているのは学校の制服、母さんと話しているときに脱いだコートとマフラーは隣で眠っていて、ハンガーに掛かってすらいない。
 喉に違和感があった。嫌な感じだ。体が重い。頭痛もする。
 コートとマフラーをハンガーに掛け、クローゼットの中に仕舞った後、トイレで用を足し、一階に下りた。キッチンの照明だけ点けて、その明かりを頼りに居間にあるテレビ台の引き出しを開け、初期の風邪に効くという漢方薬を探り当てた。妙な味と臭いのするそれを水と一緒に飲み、携帯に藤崎からの連絡が無いか確認しながら一息ついて、二階の自室に戻った。

 二度目の目覚めは最悪だった。息苦しさと酷い頭痛、おそらくはそれらに起因する悪夢の後味の三つを感じながら瞼を開けた。窓の外からは太陽の光が差し込み、雀の鳴き声が聞こえる。朝だった。
 軽く咳き込み、体を起こそうとしたとき、ノックの音がした。
「悟?」
 母さんの声だった。
「なに?」
 ドアが開いた。化粧を施していない母さんの顔が隙間から覗いた。
「ああ、起きてたの。遅かったから寝坊してるんじゃないかと思って」
「え」
 慌てて壁時計を見る。もう八時近い。普段ならとっくに電車に乗っている頃だ。
「車で送っていこうか? お母さん今日十一時からだから」
 頷いて立ち上がろうとした。すぐに眩暈がして、ぐらりと体勢を崩しかける。寸でのところで堪えたものの、またベッドに腰を下ろしてしまった。
 慌てて近寄ってきた母さんは、驚いた顔で「どうしたの」と問い掛けてきた。
「具合悪い? 顔赤いけど、風邪引いたんじゃないの」
「大丈夫」
「体温計持ってくるから」
「大丈夫だって。持ってこなくていいよ」
 母さんは僕の制止を無視して部屋を出て行った。取り残された僕はもう一度咳をし、鼻をかんで、携帯を取った。マナーモードのままだ。藤崎からの連絡が三件。
『約束の場所にいる。お前から言い出しといて遅刻かよ』
『バス乗った』
『もう学校着いたんだけど』
 さあっと血の気が引く。僕は『ごめん、寝坊した』と返信し、大急ぎで学校へ行く準備を始めた。
 時間割に合わせて鞄の中身を変え、着替えを出して寝間着のボタンに手を掛けたとき、母さんは部屋に戻ってきた。
「ほら、熱を測りなさい」
 有無を言わせぬ勢いで差し出された体温計を受け取り、脇に挟む。結果が出るまでの間に準備を終わらせてしまいたかったが、母さんがドアに背を凭れて待っていたので、大人しくベッドに座って待つことにした。
「週末のことだけど」
 母さんはすぐにそう切り出した。
「なに?」
「危ない目に遭ったんでしょ。電話でお父さんとも話したんだけど、警察に相談した方がいいんじゃないの」
「……変な奴に絡まれたけど、殴られたりお金取られたりとかはしてないよ。警察に行っても無駄だと思う」
「お友達は? 向こうの親御さんは知ってるの?」
「友達は事を大きくしたくないって。向こうの親のことは知らない。また何かあったらその時は警察に行くから」
「何かあってからじゃ遅いでしょ」
「じゃあ逆恨みされて何かあったらどうするんだよ」
「そんなに危ない人だったの? 防犯ブザーまで買ってきて……」
「知らない。そんなに長い間絡まれてたわけじゃないから。ブザーは無いよりあった方がいいから買ってきただけ」
 反論しながらも、段々と母さんの言い分の方が正しいように思えてきて落ち着かない気持ちになる。居心地の悪い空気の中に沈黙が下りたところで、ピピピと体温計の音が鳴った。
「何度? 見せて」
 表示は三十七度二分になっていた。僕が差し出した体温計を見ると母さんは溜息を吐いた。
「今日は休みなさい。学校には連絡しとくから」
「休むほどじゃないって」
「もうすぐテストでしょ、他の子にうつしたらどうするの。お母さんも仕事に行けなくなったら困るよ。早めに治しときなさい」
「でも」
「学校に電話かけとくからね。仕事行く前に病院に連れてくから」
 病院。
 僕は病院が嫌いだ。体の傷や痣を見られてしまったらという不安で神経をすり減らし、帰る頃には行きより具合が悪くなっている。
「風邪で病院に行くのは意味ないってテレビで言ってたよ。寝て治すしかないって。インフルエンザっぽくもないし、ちゃんと寝てるから。熱がもう少し高くなったら自分で病院に行く」
 徒歩圏内には内科病院があった。母さんは逡巡の後、「そうね」と答え、
「保険証を置いてる棚にお金置いとくから、行くときに使いなさい」
 そう言って部屋を出て行った。
 ドアが閉まり、階段を下りる足音が聞こえなくなると、僕は掛け布団の下に潜り込んで携帯を取った。藤崎から返信はない。
 不可抗力とはいえ学校を休むことになってしまった。だが熱が出ている今の状態で藤崎の送り迎えなどこなせるわけがなく、無理をして学校に行ってもただ邪魔になるだけなのは間違いなかった。昨夜ベッドに倒れ込む前にきちんと着替えて布団の中で眠ればよかった。そう後悔しながら藤崎にメールを送る。
『ごめん。風邪引いて熱が出たから、今日は休むことになった』
 暫く待ってみたが返事は来なかった。



 色々なことが絶え間なく頭の中に浮かんでは絡み合い、もつれた糸の塊のように膨らんでいく。
 藤崎のこと、週末のこと、それ以前のこと、これからのこと。色んなことがあった。藤崎は別人のようになり、また藤崎に戻って、何者なのか分からなくなった。ひどく優しくなったと思った次の瞬間には攻撃性を取り戻して僕を罵り、その無神経な言葉や表情の中に傷付いた心を垣間見せ、それからまた僕の内側を踏み荒して、最後には僕を拒絶する。
 金曜の夜はまるで遠い昔のことのようで、もしかすると何もかもが僕の見ていた幻影なのかもしれないとまで思った。だが僕が藤崎を殴り、押し倒し、犯そうとしたことは事実であり、あの残酷なテレビゲームの画面から手繰ってみれば、頭痛と吐き気を誘う光景と、僕自身の本性を思い出すことが出来た。僕は決して良い人間じゃない。僕は間違いを犯した。
 目を閉じると、待ってましたと言わんばかりに無意識が動き出し、それ自身の中から拾い上げたもので像を成していく。瀬川、藤崎の両親、藤崎の叔母さん、僕の家族、僕と藤崎の関係を知ってしまった仲野さん、雨の中で声を掛けてくれた老婦人、あの車を出てからすれ違った瀬川に似た瀬川でない人々、ゲームの中で果てた異形の大男、そして藤崎の顔が、熱と頭痛で歪む視界の中に次々と現れる。想像と記憶で構成された顔達はどれも最後には藤崎の顔に変わってしまう。藤崎は見捨てられた子どものような顔で僕を見つめ、意地の悪い顔で僕を嘲笑し、怒りに満ちた顔で僕を糾弾する。藤崎、僕は藤崎の為に何をするべきなんだろう。藤崎の為に出来ること、約束を果たす為にやらなければならないこと、藤崎を守る為に出来ること。ああ、だけど、僕は僕から藤崎を守らなければならないんだった。僕は自分自身を見失う。途方に暮れる。僕を裁く目をした藤崎の顔がぼやけ、辺りが暗くなる。
 ナイフが肌に突きつけられる感触。うなじに噛みついた獣の息遣い。瀬川は僕ではなく藤崎の名前を呼んでいる。『翔太』ああ、そんな声で藤崎の名前を呼ぶな、幻影を追い払おうとして必死に手を振っても、瀬川は下卑た笑みをにやりとその顔に浮かべて唇を動かす――『翔太』!

 汗だくで布団から抜け出し、一階に下りた。
「母さん」
 居間を、キッチンを、廊下を、母さんたちの寝室を歩き回り、母さんの姿を探す。警察に行くことにしたと告げる為だ。
 家には誰もいなかった。呆然と立ち尽くした僕は、暫くして、よろよろと自室に戻った。ベッドに腰を下ろすと、勉強机に何か見覚えのないものが置いてあることに気付いた。
 弁当、総菜の小パック、オレンジジュースのパック、緑茶のボトル、風邪薬に解熱剤。そしてメモが一枚。
『仕事に行ってきます。冷蔵庫の中のものは何でも食べていいよ。一人でどうにもならなくなったら携帯に連絡入れてください』
 ああ、と僕は一時間ほど前のことを思い出して声を上げた。そういえば横になっているとき、母さんが一度部屋に入ってきた。
「悟。お母さん仕事に行ってくるから。大丈夫そう?」
 そう声を掛けてきた母さんに、現実と妄想の間にいた僕は「うん」と確かに答えたのだった。そのやり取りをすっかり忘れて母さんを探し回っていたわけだ。随分と頭が回らなくなっている。もしかすると熱が上がったのかもしれない。そう思って体温計を取り出してみたが、一度目とさほど変わらない数字が出てきただけだった。
 湿った服を脱ぎ捨てて新しいTシャツとズボンを身に着け、水分を補給し、布団の中にまた潜り込む。頭蓋骨をぎりぎりと締め付けられているような痛みがあるのは金曜に頭を打ったせいだろ うか。それとも風邪のせいか。視界がぐるぐると回る。『警察に相談する』ことで一色になっていた思考は、またばらばらになってしまった。
 息苦しさと痛み。そして泥に汚れた水溜りのように濁った意識だけがあった。

 昼過ぎになって携帯がメールの着信を告げた。母さんからだった。
『大丈夫?』
 大丈夫、と三文字で返し、体温計をまた脇に挟んだ。熱は微妙に上がっていたものの、体感としては良くも悪くもなっていない。眩暈に耐えつつ立ち上がり、机に近付く。弁当を見つめてみても食欲が全く湧かない。若鶏のから揚げも、エビフライも、きんぴらも、ナポリタンも、今の僕には重たすぎる。
 ふらふらと一階に下りて冷蔵庫の中を覗いた。数分迷ってフルーツゼリーを選び、スプーンを取って上に戻ろうとしたとき、小さな物音が玄関の方から聞こえたような気がした。キッチンの入り口付近で立ち止まり、耳を澄ませる。金属と金属が触れるような音――鍵を開けるときの音だ。
 居間の方に視線を向ける。カーテン越しに薄く見える駐車場は空だ。母さんはいつも車で出勤する――母さんじゃない。時間的に妹の柚花でもない。電車通勤の父さんが出張から帰ってくるのは明日火曜の午後の筈だ。早めに戻ってきたんだろうか。
 心臓がどくどくと早鐘を打つ。
 ガチャ、と玄関のドアが開く音がした。僕は一瞬凍りつき、それから無意識に水切りかごに目をやった。いつものように、そこには包丁があった。持っていたものをキッチン台に置き、代わりに包丁を手に取った。
 キッチンの出入り口から顔を出せば玄関を覗くことが出来る。だが距離はさほどない。顔を出してしまえば見つかってしまう。僕は出入り口横の壁近く、玄関からは完全に死角になっている場所、居間からも食器棚で隠れる場所に立ち、包丁を両手に握って爆発しそうな心臓を必死に宥めた。
 侵入者は靴を脱いで廊下を歩き出した。すぐに、ぎし、と大きな音が鳴った。雨漏りで傷んだ場所だ。母さんから気をつけるようにときつく言われている家族は、絶対にそこを踏まないようにしている。そう、つまり侵入者は家族以外の誰かだ。だがたとえ親戚でも、ベルを鳴らさず、許可もなく入ってくるような者はいない。

 瀬川だ。
 瀬川の他に誰がいる?
 
 足音は躊躇いもなく進み、居間とその向かいの和室の間辺りで止まった。居間と和室の出入り口は普段から開け放たれている。中を覗いているのか数秒間があった。そしてまた足音は僕に近付き始める。一歩、また一歩。息が上がる。震えながら鈍く光る包丁を見つめ、これで僕は何が出来るのだろうと思う。固定電話は居間にあり、携帯は部屋に置いてきてしまった。これだけで瀬川を追い帰さなければならない――でも、どうやって? 瀬川はナイフを持っている。
 侵入者はキッチンの前を通らず、和室の先にある階段を上り始めた。二階に行こうとしているらしい。二階にあるのは僕の部屋、妹の部屋、父さんと母さんの寝室、それにトイレだ。どれもドアは閉まっている。もしドアが開く音がしたら、侵入者は確実に二階に上がりきっているということだ。そして階段の距離は丸々、僕が玄関に向かって逃げる為の時間になる。もし追いつかれたとしても、包丁を突きつければ迂闊に近付けない筈だ。

 やるしかない。やるしかない。やるしかない。大丈夫、逃げられる。

 自分に言い聞かせて、遠ざかる足音を注意深く拾う。もうすぐ階段を上がり切る――二階に到達した。僅かな間。ドアが開く音が微かに聞こえる。今だ。今しかない。
「――」
 動き出す寸前、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。驚いて包丁を落としてしまう。手を離れた包丁は、ごつんと音を立てて足元の床にぶつかった。
 侵入者が階段を下りてくる音。彼はまっすぐキッチンにやってきた。目が合う。
「何してんの?」
「藤崎……」
 僕はへなへなとその場に座り込んだ。侵入者――藤崎は目の前でしゃがみ、僕の額に手を当てた。藤崎は「ふーん」と言って手を離し、ふと気付いたように落ちていた包丁を取った。
「お前、何やってんの?」
 それは僕の台詞だった。制服姿の藤崎が今ここにいる理由が全く分からない。熱が上がってしまったのか、それともいきなり緊張から解放されたせいか、包丁を持った藤崎に恐怖すら覚えなかった。ただあるのは、どうして藤崎がここに、という疑問だけだ。
「何で、何で……」
「何が」
「藤崎は……、……学校は……?」
「早退」
 藤崎は立ち上がり、包丁を台の上に置いてから僕の腕を掴んだ。ぐっと引っ張り上げられる。
「お前の部屋、二階?」
 眩暈がした。ゆっくり頷くと藤崎は腕から手を離し、僕の後ろに回って軽く背中を押してきた。
「案内しろよ」
 言われるがまま歩き出した。足元はふらつき、視界はぐらぐらと揺れている。手すりを使って階段を上るときも藤崎は僕の背中を後ろから押していたが、それは単に急かすためだったのか、それとも支えているつもりだったのか、意識が朦朧として分からなかった。
 部屋に入ってすぐ、僕はベッドに上った。横になると少し具合が良かった。暫く深呼吸をして気持ちを落ち着け、藤崎を見る。藤崎は勉強するときに使う回転椅子に早速腰を下ろし、くるくると回りながら部屋を眺めていた。ふと目が合う。
「そんなに具合悪い?」
 僕は頷いた。それから十数秒して、あることに思い至った。
「藤崎、ここにいると、風邪がうつるよ……」
 力が入らず不明瞭な発音ではあったものの間違いなく藤崎の耳にも聞こえた筈の忠告は、完全に無視されてしまった。藤崎は椅子の高さを調節している。
「熱あるから……、インフルエンザかも、しれないし……」
「この飯は?」
 机の上の弁当のことを言っているのだろう。そういえば食べようと思っていたゼリーを下に置いてきてしまった。
「……母さんが。買ってきてくれた。食欲ないから……食べられない」
「ふーん」
 案の定、藤崎は勝手に弁当を開け始めた。昼休みが始まってすぐに学校を出て、そのまま昼食を取らずに空腹のままやってきたのかもしれない。どうせ自分では消費し切れないのだから、藤崎の胃に収まったところで問題はなかった。ただ少しはエネルギーを摂取しなければならないだろう。ゆっくり体を起こし、ゼリーを取りに一階に下りようとしたとき、ドアの前で藤崎に捕まった。藤崎は椅子に腰掛けたまま手を伸ばして僕の手首を掴んでいる。
「どこ行くんだよ」
「どこって……、一階」
「何で」
「ゼリーを……取りに行こうと思って」
「俺が行く」
 藤崎は僕の手をぱっと解放し、もう片方の手に持っていた箸を置いて立ち上がると、止める暇も与えずに部屋を出て行った。
 取り残された僕は唖然として立ち尽くし、暫くしてベッドに腰掛けた。藤崎は本当に僕の代わりにゼリーを取りに行ってくれたのだろうか。まさかそんなことが、と思ったが、週末の藤崎はたまにそういう利他的な行動を見せていたことを思い出した。
 ぼんやり座っていると、藤崎はすぐに戻ってきた。手には僕が出していたゼリーとプラスチックのスプーン、それにソーダの500ミリリットルボトルだった。後者は近くのスーパーのプライベートブランド製品で、好みの銘柄がある藤崎がわざわざ買ってくるものだとは思えず、経過時間から考えても明らかにうちの冷蔵庫の中で冷えていたものだ。藤崎はゼリーとスプーンだけを僕に差し出した。
「ほら」
「……ありがとう」
 手渡されたゼリーを開封し、のそのそと口に運ぶ。藤崎はソーダの蓋を開けて一口飲み、また弁当を食べ始めた。
 その様子を眺めながらゼリーに包まれた桃をスプーンに掬ったとき、僕はそれまで考えなかったことが信じられないほど重大な問題の存在に気付いた。
「藤崎……」
「あ?」
「玄関のドアは……、どうやって……?」
「は? 鍵で。決まってんじゃん」
 僕は昨日帰宅したときのことを思い出そうとした。あのとき玄関のドアは開いていただろうか。鍵を使ったかどうか数秒間必死に考えてみたが、思い出せなかった。
「……その、返して欲しい」
「お前に? 俺のだけど?」
「……あげてない」
「お前自分の持ってんだろ」
「え……え? どういうこと……」
「俺のはコピー」
「コピー? 何で……?」
「あー、うざい。うざいうざいうざい。やればいいんだろ、やれば」
 藤崎は綺麗に野菜だけ残した弁当を机に投げるように置き、ポケットに手を入れ、取り出した何かを僕に向かって投げた。
「これでいいんだろ」
「……うん」
「仲野が」
「え?」
「『日曜はごめんね』だってさ」
「あ、うん……」
「ていうかお前さっさと寝れば? いつまでそうしてんの?」
「……ごめん」
 残っていたゼリーを胃に流し込み、ティッシュで埋まりつつあるごみ箱にカップとスプーンを捨てる。枕元に置いていた緑茶のボトルから水分を摂取し、横になった。
 藤崎は勉強机の引き出しを開け、中を漁り始めた。もう何年も入れっぱなしだった将棋の本を取ってぱらぱらと捲ってみたり、ファイルに入れてまとめた成績表を机に広げてみたり、軟膏や包帯、消毒液、鏡を入れた箱を不思議そうに眺めてみたりと好き放題やった後、今度は立ち上がってクローゼットの中を探り始めた。
 別に見られて困るようなものは何もない。何を暴かれても構わなかった。どうせこれまでも勝手に携帯や鞄の中を見られてきたし、散々嘲笑われてきた。気にならないと言ったら嘘になる。だが藤崎の機嫌を更に損ねてまで止めるほどではなく、体調不良を押してまで抵抗する気力もなかった。
 ハンガー掛けの上にある狭い棚から、藤崎は古い漫画の全巻セットが入ったケースを取り出した。何年か前に五つ上の従兄から半ば無理矢理押し付けられたものだ。血みどろのアクション漫画。藤崎は表紙を見て読んでみる気になったらしく、ケースから三冊取ってベッドにどんと腰を下ろした。僕の左足の付け根すぐ横が藤崎の体重で沈む。
「あんまり近くに寄ると……、風邪が……、うつるってば……」
 無視。
「……、この部屋以外は、開けちゃ駄目だよ」
 そう釘を刺すと、藤崎はやっと僕に目を向けた。
「なに。お前、俺のこと疑ってんの」
「……玄関のドア、は……勝手に開けた」
「別にお前以外に用とか無いし」
「……用って?」
 藤崎は左側の目元をぴくりと動かした。
「つーかさ、そんなに俺が何かやるって思うんなら、逃げられないようにでもしけば」
 あからさまに話題を逸らされ、冗談かと思う。だが藤崎は揶揄するようでもなく、漫画に意識を戻そうとするでもなく、こちらを見つめ、僕の行動を待っているとしか思えない間を置いている。
「…………」
 ブレザーのジャケットの裾を握ると、藤崎はその場所を一瞥してふっと鼻を鳴らし、また漫画を読み始めた。
 放せとも言われず、物理的に振り払われることもなかった。手を離そうにも離せず、僕は藤崎を『逃げられないように』したまま、暫く藤崎の様子を窺っていた。
 加湿器と弱めに設定した暖房器具が立てる微かな音、本のページが捲られる音、僕の荒く不安定な息遣い以外には、何も聞こえない時間が続いた。
 そして僕はまた短い眠りに落ちた。



 目を開けたとき、藤崎がいなくなったと思った。そしてすぐにそれは間違いだということに気付いた。
 藤崎はベッドの傍のフローリングに座って組んだ両腕を僕の枕元に置き、その上に頭を載せて眠っていた。
 きつい眼差しが隠れ、短い前髪の下の額や肉の薄い頬、口元から緊張が消えて表情が和らいでいる。僕の傍で眠る藤崎は少しだけ幼く、頼りなく見えた。
 起きているときは確かにあった筈の眼帯は取り払われている。腫れは完全に引いていたものの、そこにはまだ生々しい紫色の痣が残っていた。肺の中の空気が凍って、僕は泣き出しそうになる。無意識に藤崎の目元へと手を伸ばし、触れる前にはっと我に返って動きを止めた。
 手を引くと、藤崎の瞼と長い睫毛が小さく震えるのが見えた。やや間があって瞼がぱっと開く。目が合った。
「……目のところ……、まだ痛む?」
「別に。最初から痛くない」
 本当だろうか。きっと嘘なのだろう。
「藤崎、……」
 何か言おうとして、言葉が見つからずに口ごもった。藤崎は少しの間待ってくれていたが、僕が口を閉じると、頭を上げて僕を見下ろした。
「お前さ、絶対俺から逃げんなよ。もし逃げたらこの家、燃やしてやるからな」
 逃げる。どうして今そんなことを言い出すのだろう。僕は呆気に取られ、それから一つの可能性に気付いた。
 今朝僕が待ち合わせ場所に現れなかったとき、藤崎は僕が逃げ出したと思ったのだ。まだ誰もいない歯医者の前に立ち、校門を通る小学生の姿を見ながら藤崎は僕を待っていた。強い不安を覚え、疑いを抱き、怒りを感じ、学校に辿り着いても僕が自分の元から逃げるつもりなのだという思いを捨てられず、確かめる為に家にまでやってきた。鍵を使って無断で入ってきたのは、逃げられる前に見つける為だ。
「……そんな風に脅さなくても……、逃げないよ。今朝は……、ごめん」
 藤崎の目は明らかに僕を信じていなかった。
 いつもそうだ。藤崎は僕を信用していない。脅しや暴力で縛り付けておかなければ裏切り隙を見て逃げ出すと思っている。きっと僕だけじゃない――藤崎の友人達、藤崎を気に掛けている叔母さんでさえも、いつかは自分を裏切るものだと思っている。
 だがどうして、僕はこんな風に何度も何度も試されているのだろう。僕の知る範囲では、藤崎が他に執着している人間はいない。どうして僕なんだ。どうして僕が。初めて藤崎に殴られたあの時から、何度も自問したことだ。何故僕が殴られなきゃならない? どうして僕が犯されなきゃならないんだ?
 ――どうして藤崎は、僕とずっと一緒にいたいと思う? どうして僕に『ヤッて』欲しがる?
「藤崎は……どうして」
 僕は藤崎の手を握った。逃げられないように。藤崎は簡単に捕まり、逃げ出そうとはしなかった。
「どうして、僕と……、したいと……、他の人じゃなく、僕としたいと思うのは、どうして?」
 単に性欲処理という理由だけなら僕に拘る必要はない。藤崎のような人間なら、同性でも異性でも喜んで体を許す相手は見つかる筈だ。
「……は? 他の奴見つけろって言ってんの?」
「違う、そうじゃなくて……」
「ならどうでもいいだろ、そんなの。ていうか俺がお前にそんなこと答える必要あんの?」
「だって」
「だって、なに」
「僕達……付き合って――」
 そこまで口にして、僕は強い咳の発作に襲われた。空いた右手で口元を抑え、少し上体を起こし、壁の方に向かって何度か咳き込む。十回ほど体を揺らしてから元の体勢に戻ると、あばらの辺りがずきりと痛んだ。
「金曜からテストなのに風邪とか。有り得ねー」
 藤崎は顔を歪めて言う。笑ってはいなかった。歪んだ顔はすぐに元に戻った。
 もう一度、咳き込む前に口にしようとしたことを繰り返そうとしたが、息が整わない。呼吸に余裕が出来るのを待っていると、藤崎は小さく何かを呟いた。至近距離でも聞き取れない声。もしかしたら唇を動かしただけなのかもしれない。悟、と僕の名前を呼んだように見えた。
「お前が俺を抱いて俺の中に入れば、全部無かったことになる。全部。お前がそうなんだろ」
「……え?」
 藤崎が何を言っているのか理解出来ず、思わず聞き返してしまう。だが藤崎の口が同じ言葉を繰り返すことはなかった。
「さっさと治せよ。テストが始まる前に」
 そう言って藤崎は立ち上がり、床に放ってそのままだった鞄を取った。
「藤崎……、待っ――」
 僕が体を起こす前にドアが閉まる。その先に消えた藤崎が飛ばし飛ばしに階段を下りていく音が聞こえた。後を追い掛けたが、僕がよろよろと階段を下り切った時には既に藤崎は家の外で、閉じていく玄関のドアの向こうにちらりと見えた後ろ姿も、すぐに僕の視界から消えてしまった。
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