14.日曜日

 目を開けると、ベッドには大きな影が落ちていた。
「おはよう」
 影の主がそんな言葉を発する。叫び声を上げようとした喉からは全く何の音も出てこない。空気が喉の奥に留まって、頸部から胸部までを強く圧迫している。
 ――瀬川だ。
 僕の横で眠っている藤崎に、瀬川は手を伸ばした。不快で有害な煙の微粒子が僕の鼻腔へと侵入する。スーツに浸み込んだきつい煙草の臭い。悪趣味な香水の臭いと混じり合って吐き気を催させる。
「やっぱりお前ら付き合ってるんだ?」
 笑い声。瀬川は藤崎の体を軽々と抱え上げ、胸の位置からフローリングの床に叩きつけた。最悪な目覚めに呻いた藤崎の体に素早く何度も蹴りを入れ、殆ど動かなくなったところで馬乗りになる。瀬川の大きな手は藤崎の服を乱暴に剥ぎ取って、痩せた背中を露わにした。 
 白い肌に、煙草の火を押し付けたような火傷の痕がいくつも見える。目を背けたくなるグロテスクな虐待の痕跡。藤崎は中学の頃、一度もプールに入らなかった。修学旅行にも来なかった。高校でもそうだ。頑なにその背中を隠していた。理由はこれだったのだ。
「嫌だ、やめろっ……!」
 助けを求めるように藤崎が僕を見る。恐怖に塗り潰された目。瀬川は片腕で藤崎の体を押え、もう片方の手に握ったナイフの刃先を肌に当てながら、痛々しい背中に濡れた舌を這わせ始めた。だが僕の体は動かず、頭は恐怖に支配されていた。
「悟、何でじっとしてんだよ、悟!」
 僕の方に向かって伸ばされた手。ナイフがぎらりと光る。藤崎の細い二の腕から血が流れ出し、その喉からは耳を塞ぎたくなるような叫び声が漏れ、僕の鼓膜をびりびりと揺らす。
「うるっせーなあ。近所迷惑だろ」
 瀬川は悪態を吐き、脱がした服を藤崎の口の中へと無理矢理に詰め込んで、後頭部をナイフの柄で殴りつけた。
「お前の彼氏は俺の味方なんだよ。ほら、こんなことしても黙って見てるだけだろ。つまりお前のこと見捨てたの。迷惑だって思ってんの。なあ吉田くん。俺と一緒に復讐するんだよな?」
 違う、と僕の心は叫んでいた。そんなこと思ってない。硬直したこの腕を伸ばして、藤崎を守ってやりたかった。
 動かない僕を見る藤崎の目は、瀬川の言葉を信じようとしている。
「どうせ初めてでもないんだし、出し惜しみすんなよ」
 瀬川はナイフの柄を咥え、藤崎のスウェットの下を脱がせる。そして昂ぶり盛り上がった股間を裸の尻に押し当てた。死にもの狂いで逃げようとする藤崎を拳で殴り、それでも暴れる両手を背中側でまとめ、自身のベルトできつく縛った。ナイフは床に深く突き立てられる。
「気持ちいいことしようなあ、翔太。俺、お前ともう一回ヤりたくて仕方なかったんだよ」
 ジジ、とファスナーが下りる音がする。瀬川の下着の中からそそり立つペニスが飛び出した。瀬川は片手をそれに添えると、藤崎の穴の中へ先端をめり込ませた。
「――!」
 塞がれた口から、くぐもった悲鳴が漏れる。激しい苦痛に歪んだ声。
 細い腰を瀬川が乱暴に掴み、己の方へと引き寄せて挿入を深くした。切れた肛門から血が流れるのに構いもせず、ぐっと根元まで押し込んでいく。直腸を容赦なく抉る凶器が藤崎を痛めつけ、僕の肺に冷たい水を流す。
 瀬川はジャケットから携帯を取り出した。カメラを起動して挿入部を映し、背中から頭にかけてゆっくりと移動する。俯いた頭に手を伸ばして短い髪を掴み、涙に濡れた顔も動画に収めながら、身も凍るような笑みを浮かべた。
「気持ちいいか? ああ、そうだよなあ、叔父さんにハメられて嬉しくて堪らないよな?」
 藤崎は首を横に振ることも出来ずにただ涙を流している。瀬川は携帯を脇に置き、髪から手を離して、両手で藤崎の腰を掴んだ。
 傷付いた体に圧し掛かる体が、その中を激しく嬲る。瀬川が腰を振るごとに、藤崎のくぐもった悲鳴が聞こえる。助けを求める目が僕を見ている。
「もっと締めろ、ああ、もっと締めろよ!」
 劣情と興奮に吠えて、瀬川は藤崎の首に噛み付いた。煙草のヤニが浸みついた歯が滑らかな肌に突き刺さって、皮膚を抉る。僕は瀬川が達していることに気付いた。このケダモノは今、甥の直腸に汚い精液を吐き散らしている。
 やがて恐ろしいひと時が過ぎ去って、瀬川は藤崎の中から萎えたペニスを引き抜いた。それには血と精液がべったりと付着している。瀬川は着衣を整えながら僕の方に顔を向けた。
「……お前もやるか?」
 それまで死んだように倒れていた藤崎が、ふいに跳ねるように動いた。手を縛っていたベルトを引き千切るようにして解き、口に詰め込まれていた布を吐き出して、床に突き刺さっていたナイフを手にする。それはほんの一瞬の出来事だった。僕に醜い笑みを向けていた顔に驚愕の色が浮かんだその時には、最初の攻撃が完了していた。
 藤崎は瀬川の胸に突き立てたナイフを引き抜き、もう一度同じ場所に刃を潜り込ませる。そして何度も、何度も、何度も、噴き出た血が辺りを真っ赤に染めるまで、執拗にナイフを振り続ける。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。とっくに動かなくなった体を見下ろして、藤崎はナイフを手放した。荒い息遣い。肩が上下している。鉄臭い空気。血に濡れた顔がこちらを見る。感情が抜け落ちた能面のような顔。
 ふらふらと立ち上がった藤崎は、僕に圧し掛かった。べったりと血で染まった手が僕の股間に伸びる。その温かい手が触れた瞬間、僕は自分が勃起していることに気付いた。違う、こんなの違う! そう叫びたいのに、どうしても声が出てこない。
 汚れた頬を流れる涙が血を洗い流して、赤く染まった滴が僕の体に落ちる。藤崎は笑った。
「犯したいならお前も犯せばいい。そうしたかったんだろ、今までずっと」



「――!」
 世にも恐ろしい叫び声が聞こえた。胸の中で心臓が破裂したような衝撃に襲われる。ぱっと明るくなった世界の中心に、こちらを向いた大きな黒目の輪郭がくっきりと見える。見開かれた目。藤崎の目だ。
 手を伸ばして、藤崎の頬に触れた。薄らと濡れている。血じゃない。
「お前、なに……」
 僕に殆ど覆い被さろうとしていた体を抱き締める。血と精液と煙草の臭いはしない。触れた濃いグレーのTシャツは乾いていて、僕が顔を埋めた首の付け根は温かく、清潔な香りがする。
 破裂した心臓の欠片と欠片が滅茶苦茶にくっ付いて好き勝手に動き、息苦しさと痛みで思考を鈍らせていたが、やがて僕は藤崎の体に新しい傷が無いこと、床には瀬川の死体など転がっていないことに気付いた。
 死体。何故そんなものが転がっていると思ったのだろう。呼吸の乱れが収まっていくにつれ、僕は非現実的な世界から意識を取り戻し、瞼の裏に映し出されていた光景から遠ざかっていった。
「……だから、何なんだよ」
 ぽつりと呟く声。僕は抱いたままだった藤崎の体からゆっくりと顔を上げた。
「夢を見てた」
「どんな夢?」
 夢の残り香が鼻腔に、吐き気を催すような後味が喉の奥に引っ掛かっている。不安も、恐怖も、悲しみも、まだ僕を苛んでいる。だが肝心の内容は記憶から抜け落ちてしまった。
「覚えてないけど、酷い夢だった」
「……ふーん、そう。すげー声で叫んでたもんな」
 藤崎は何となく不機嫌そうに言い、僕の胸を押して体を離した。
「ごめん」
 目覚めるときに叫んでいたのは僕だったのだ。
 至近距離でこの世の終わりのような声を出され、いきなり抱き着かれれば、誰だって驚くだろう。それにまだ朝の七時だ。もしかしたら寝直そうとしていたところだったのかもしれない。
「……藤崎、お風呂入ったんだ」
 よく見れば、藤崎が着ているのは昨夜とは違う服だ。髪も濡れている。
 藤崎は肯定とも否定ともつかない気だるげな溜息を吐き、ベッドを離れてクローゼットから黒のジーンズを取り出した。ベッドに戻ってそれに足を通し始める。僕は無意識に藤崎の細い背中を見つめたが、透けて見えるのは肉付きの悪さだけだった。
「お前、服はそれでいいだろ」
「あ……うん。どこかに出掛けるの?」
「市民図書館。十時に開く」
「……何しに?」
「勉強。あいつが早く帰ってきたら面倒だから」
 あいつ。一瞬瀬川のことかと思ったが、留守にしている両親の内のどちらかのことを言っているのだと気付いた。
 藤崎は電気ストーブとテレビの電源を入れ、リモコンを操りながらベッドに寝転がった。
「朝飯は?」
「……あんまり、食欲ない」
「ふーん」
「藤崎は?」
「お前がうんうん魘されてる間に食った」
 テレビはレコーダーとの一体型だったらしく、画面には録画済み番組の一覧が並んでいる。
「……水だけ、貰ってきてもいい?」
「水なら枕元」
 見ると、ペットボトルが転がっている。水というより烏龍茶だったが、喉を潤す目的なのでどちらでも変わらない。既に半分減っているそれを有難く貰って、胃の中に入れる。
 テレビにはどこかで見た覚えがあるアクション映画のタイトルが映し出され、硝煙の中に有名な俳優の横顔が浮かび上がる。銃撃戦の最中らしく、発射音や怒鳴り声が大音量で流れ始めた。
 僕はそれを見ながら、もう一度毛布と布団の下に潜り込んだ。睡眠時間が短く、夢見が悪かったせいか疲労が抜け切れていない。
「なに、二度寝すんの?」
「うん……」
 眠気はあまりない。もう一度夢を見るのも嫌だった。それでも回復の為には目を閉じて横になっていた方がいいだろう。藤崎は特に文句も言わずに暫く放っておいてくれたが、僕が枕に横顔を埋めてじっとしていると、布団の中にもぞもぞと入り込んで体を寄せてきた。
「……藤崎も寝る?」
「映画観る」
「そっか」
 やがて騒音も気にならなくなり、僕は自分で思っていたよりもずっと早く眠りに落ちた。



 九時半になって、乱暴に揺り起こされた。
 二度目の目覚めはそれ程悪いものではなかった。映画丸々一本分の時間、夢も見ずに熟睡出来たからだ。それでも何となく体が重たいような気がしたが、ここ数年そんな朝は珍しくない。急かされるまま身支度をして、二人で家を出た。
 外は昨日までの天気が嘘のような快晴で、澄んだ青が眩しく感じられた。ただ空気は相変わらず冷たい。借りたコートとマフラーに身を包んでいても少し寒気がするくらいだ。
 だが同行者もそう感じたわけではなかったらしい。藤崎は玄関の鍵を掛けながら僕の横で舌打ちをすると、面倒そうな顔でコートを脱ぎ出した。
「……寒くない?」
「は? 暑いだろ」
「え?」
「お前、もう少し筋肉でも付ければ」
 身長に対する体重で考えれば藤崎も同じくらい肉が足りていない筈だ。だというのに藤崎は僕と違って滅多に体調を崩さず、運動部にも引けを取らない敏捷性や力強さをその身に秘めている。僕は辺りを注意深く見回しながら「そうだね」と答えた。瀬川の影は視界のどこにも見当たらなかったが、想像の中であの男と対峙する自分の圧倒的な肉体的不利を強く意識し、確かに藤崎の言う通りだと思った。
「あの、藤崎」
 門扉を閉めていた藤崎に声を掛ける。
「なに」
「途中でホームセンターに寄りたい」
「何で」
「買いたいものがあるから」
「ふーん」
「……いい?」
「三分以内」
「分かった」
 藤崎はニット帽を目深に被った。柔らかな線を持った帽子の下、すっと尖った印象を与える肉付きの悪い輪郭を目でなぞって、外気に晒されたままの長い首を見た。僕は寒気を覚え、自分の首にマフラーをもう一度しっかり巻きつけた。ふいに藤崎から首を絞めつけられたときのことを思い出したが、それはもうずっと昔のことのように思えた。首に巻き付いた指の跡は、今朝にはすっかり薄れて消えてしまっていたからだ。

 ホームセンターは家から徒歩十分の場所にあった。何度か来たことがある店だ。僕は藤崎が自分から離れて行かないように見張りつつ、店員に目的のものの場所を訊ねた。眠たげな顔をした店員は防犯グッズのコーナーまですぐに案内してくれた。
「なに、防犯ブザー?」
「うん」
「お前ホントに気が小さいよな」
「うん」
「これにしたら」
 僕の顔の前に遠慮なく伸ばされた手は、ペンギンの形をした可愛らしい商品を指差した。
「それか、これ」
 デコレーションが施されたドーナツ型の防犯ブザー。藤崎の顔をちらりと覗き見ると、意外なことに、僕を馬鹿にしているときによく見せる歪んだ笑みは浮かんでいなかった。
「……じゃあ、それにする」
 籠に藤崎が指差した二つを入れ、その横にあったシンプルなデザインの商品を四つ入れた。全て合わせると財布の中の札が殆ど消えてしまう計算だ。必要経費と割り切ってレジに向かう。黙って僕の側を歩いていた藤崎は会計の途中でふっと姿を消し、すぐに戻って別のレジに並んでいた。
 店を出ると藤崎は店外にあるトイレに入った。鏡の前に立ち、買ったばかりの商品を取り出して、周りに痣が残る方の目に眼帯を当てた。耳に紐をかけて使う従来のタイプではなく、肌に直接貼って使うものらしかった。変色した皮膚はすっかり覆い隠されて見えなくなる。藤崎は鏡を少しの間見つめ、それから僕に視線を移した。僕は自らの暴力性を片目の白い布に見出し、もう片方の目に呼吸を止めて固まった今の自分自身の姿を見た。
 トイレを出て、藤崎は眼帯と一緒に購入したらしいガムを口の中に入れた。僕は藤崎に続いて歩きながら防犯ブザーの包装を開けた。
「藤崎」
 横に並んで、ペンギンとドーナツを差し出す。
「は?」
「その……、これ、持ってて欲しい」
「いらないんだけど」
「じゃあ、こっちでもいいよ」
 残りの四つを取り出して見せる。
「それ、自分の為に買ったんじゃねーの」
「僕のもあるけど……藤崎の分も買った」
「何で」
「何でって……」
 そんなの言わなくても分かるだろ、とは思っても口にはしなかった。
「……別に邪魔になる大きさじゃないから……、鞄につけてもいい?」
「どうでもいい」
 藤崎は心底どうでもよさそうに答える。気分が変わらない内は好きにしていい、という意味だと受け取った僕は、藤崎の鞄にある金具部分にペンギンをさっと取り付けた。
「紐を引き抜いたら音が鳴るから」
「小学生かよ」
 馬鹿にするように鼻で笑って、藤崎はさっさと歩き出す。
 使う気はないらしい。それでも、いざというときにあるのとないのとでは違う――筈だ。
 兎も角、気休めにはなる。通学鞄の方にも頃合いを見計らって取り付ければ、胸に渦巻いて離れないこの不安も少しは和らぐだろう。



 開館から間もないせいか図書館はまだ人気が少なかった。二部屋ある学習室のうち、一部屋にはセーラー服に身を包んだ中学生の二人組と社会人らしき女性が一人いるだけ、藤崎が選んだもう一部屋の方は完全に僕達の貸切状態だった。
 この図書館の学習室は、周りを気にせずに学習に集中することが出来るよう机に仕切りが設けられている。椅子に座って正面には背の高い板があり、対面に誰が座っていようと立ち上がらなければ目が合うことはない。両隣にある仕切りも同じ高さではあったが、机の端から十センチほど離れたところで終わっているため、隣のブースを覗こうと思えば覗くことも出来るという具合だった。プライバシーはそこそこに守られ、閉塞感はない。
 高校に入ってからは一度も足を運ばなかったものの、受験前は大分お世話になった場所だった。自然と勉強しようという気になる。
 藤崎は奥の席に、僕はその隣の席に腰を下ろした。暖房は控えめに設定されていたので上着とマフラーは脱がなかった。ポケットに入れた自分用の防犯ブザーを何となく撫でた後、無言で勉強を始めた藤崎と同じように参考書を開いた。

「――あれ。吉田くん?」
 勉強を始めて二時間ほど経った頃、一人トイレに立って用を済ませ、足早に学習室へと戻ろうとしていたときだった。声の方に顔を向けると、ゆったりとしたセーターにミニスカートを合わせた女の子が、ちょうど女子トイレから出たところに立っていた。
「……仲野さん」
 市内で一番規模の大きい図書館だ。試験前のこの時期、同級生と鉢合わせるのは不思議なことではないだろう。
「吉田くんも勉強しに?」
「ああ、うん」
「そっかー。一人で?」
「えっと……いや、二人で」
「へー、意外」
 そう思われても仕方ないな、と思っていると、仲野さんは「あ、違う違う、そういう意味じゃなくて」と慌てたように胸の前で手を振った。
「ほら、吉田くん、結構一人狼っぽいところがあるから……、一人が好きな人なのかと思ってた」
「別に、そういうわけじゃないよ」
「あ、……もしかして彼女と?」
「まさか。……仲野さんは友達と?」
 矛先を変えるために訊ねると、仲野さんは一瞬顔を強張らせ、それから笑顔を見せた。
「ううん、ぼっち。最近仲いい子とあんまり上手くいってなくて」
「……そっか、ごめん」
「いや、そんな深刻なやつじゃなくて……ちょっと距離置いてるだけ。まあ色々あるよね」
 仲野さんが僕のことを知らないように、僕も仲野さんのことを知らない。
「……そうだね」
「あのね、もし吉田くんが一人だったら、……あ」
 唐突に声を上げた仲野さんは、僕の背後に視線を向けた。それを追って振り返る。学習室からこちらへ歩いてくる藤崎の顔を目にした瞬間、ざっと背中が冷たくなるのを感じた。
「もしかして吉田くんの連れって藤崎くん?」
「え、っと……」
 どう答えていいものか迷って藤崎の顔色を窺う。藤崎は僕達二人の顔を見て、ふっと悪戯そうな笑みを浮かべた。
「なーにトイレの前でいちゃついてんの、お前ら」
「いちゃついてないよ」
 即座に否定したのは仲野さんだ。と言ってもそこに不愉快そうな響きはなかった。単に事実を口にしただけだ。
「仲野も勉強しに?」
「うん。藤崎くんも?」
「そう。こいつと一緒に」
 藤崎は僕の肩を拳で軽く小突いた。まるで普通の友人同士がするような自然な動作で。
「……二人って仲良かったっけ?」
 仲野さんの視線はこちらに向けられる。僕は「ああ、うん」と小さく答えた。
「悟とは中学一緒で付き合い長いんだよ。学校じゃあんまりつるんでないけど」
「ちょっとタイプ違うしね。……ていうか藤崎くん、目、どうしたの? 大丈夫?」
「ものもらい」
「大変だね」
「まぁ少し痒くて歩き難いくらいだから。……仲野は一人?」
「うん」
「昼飯は?」
「まだ」
「じゃ、俺らと一緒に食う?」
 え、と僕と仲野さんは同時に発声した。戸惑いを浮かべた顔を互いに見合わせる。
「あ、昼飯は誰かと食う予定だった?」
「ううん、どっかで適当に食べようと思ってたけど……え、いいの?」
「勿論。女子がいた方が華やかだし?」
「うーん、でも、吉田くんは? 嫌じゃない?」
 藤崎は仲野さんに気付かれないよう、意味ありげな視線を僕に向ける。ここで僕の口から仲野さんに対する拒絶の言葉を聞きたいのか、それとも別の意図があるのか。喉がきゅっと絞まって、息苦しさを感じる。仲野さんを間に挟むことで、藤崎は数時間前までの藤崎ではなく、あの家に足を踏み入れる前の藤崎に戻ってしまったように思えた。
「……嫌じゃないよ。二人がいいなら」
「じゃ、どこに行く?」
 すぐさま次の段階に移ったところを考えると、どうやら藤崎は本当に三人で食事をする気らしかった。
「私はどこでもいいかな。あ、でもお財布に二千円しか入ってないから、あんまり高くないところで」
「ファミレスとか?」
「いいね。……吉田くんもそれでいい?」
「いいよ」
 それで僕達の行き先は決まってしまった。



 図書館からほど近いファミレスに徒歩で向かった。店にはそれなりに人が入ってはいたものの待ち時間が出る程ではなく、すぐに席へと案内された。ドリンクバーからはかなり離れた角の席。隣は家族連れの客だった。三十代から四十代くらいの両親は難しい顔をして話し込み、どちらも小学生と思しき兄弟は携帯ゲーム機を出して向かい合い、時折大声で相手に文句を言いながら遊んでいる。
 布巾の水跡が薄く残ったテーブル。忙しそうな顔をした店員が「お決まりになりましたらベルでお呼び下さい」と早口に言って慌ただしく去った後、藤崎が奥に、仲野さんがその向かいに腰を下ろしたので、僕は当然藤崎の横に座った。
「何か変な感じ」
 メニュー表を開いて、仲野さんが言った。藤崎は不思議そうな顔をする。
「変って何が?」
「うん、何かこのメンバーでご飯って、考えたことなかったなって。藤崎くんとは食堂で何回か一緒に食べたことあるけど」
 仲野さんの視線が僕に向けられる。そう、異分子は明らかにこの僕だ。
「こいつあんまり人付き合い好きじゃないから。だよな」
「ああ、うん……」
「でも話してみると、何か、雰囲気が優しい感じだよね」
「だってさ。良かったじゃん?」
 藤崎は二つ目のメニュー表を捲りながら言う。僕は曖昧に「はは」と笑うだけだ。嬉しいと感じる余裕はなかった。
「俺、もう決まった。仲野と悟は?」
「えーっと……私も決まった」
 二人の視線が僕に集中する。食欲は正直殆ど感じない。
「……僕も決まった」
 呼び出しボタンを藤崎が押し、現れた店員にそれぞれの注文を告げる。藤崎はステーキ&ウィンナー&ハンバーグの単品、仲野さんがエビドリアの洋食セット、僕が生姜焼き定食。三人ともドリンクバーをつけたので、注文が終わってから各自飲み物を確保した。
「仲野は試験勉強、どんな感じ? 進んでる?」
「まぁまぁかな。うーん、でも数学が心配かも。微妙に授業についていけてないし」
「こないだの小テストで満点取ってたのに?」
「あそこまでは良かったんだけど。先生、今やってるところまでが試験範囲だって言ってたよね? ちょうど苦手なところ丸々入るみたいだから、イヤイヤ問題集やってる……藤崎くんは数学得意だったよね?」
「そこそこは」
「あー、じゃあちょっと教えてもらえないかな。一問、詰まってるところあって」
「俺が? あー悪いけど俺、人に教えるの凄い下手でさ……悟、お前数学出来ただろ?」
 急に話を振られて心臓が止まりそうになる。藤崎が何を考えているのか分からない。
「出来るってほどじゃないよ」
「嘘吐くなよ。テストの点、数学は大体俺よりいいじゃん」
 テーブルの下で藤崎が僕の足を軽く蹴る。
「そうなの? じゃあ吉田くん、もし良かったら一問だけ、教えてくれたら有難いです」
「……うん」
 グラスを脇に避け、広げた参考書を二人して覗き込む。近付いた仲野さんの髪から、ふわりとシャンプーの香りが漂ってきた。
 ――女の子の匂い。
 藤崎はコーラのグラスに差したストローをがじがじと噛みつつ、素知らぬ顔で英単語帳を眺めている。
「ここ。この問題が分からないんだ。解説の意味が理解出来ない」
「ここ?」
「そう。吉田くん、分かる?」
「うん。……じゃあ、前提から説明しようか?」
「お願いします」
 背筋を伝う冷や汗を無視し、問題と仲野さんの理解度を測ることに集中しようとする。頭は想定外の出来事に混乱していたが、口は勝手に動いてくれた。真剣なものだった仲野さんの表情は、ある一点を過ぎたところでぱっと笑顔に変わった。
「ああー、なるほど! 分かった! そっかー、こういうことだったんだね」
「大丈夫そう?」
「うん! ありがとう。吉田くんの説明、凄く分かりやすかった」
「いや……力になれたなら良かった」
 ちょうど皿を両手いっぱいに持った店員が現れ、テーブルは湯気の立つ温かい料理で占拠された。いざ目の前に置かれると、少しは胃も本来の欲求を思い出す。
「吉田くんって、もしかして弟か妹いる?」
 それぞれの料理を二口か三口食べた頃、仲野さんはそんなことを聞いてきた。
「妹が一人。……分かる?」
「うん、何となく。私お兄ちゃんがいるから。……藤崎くんは何か上にお兄ちゃんかお姉ちゃんいそうな感じだよね?」
「いや、俺一人っ子」
 顔色も変えずに即座に否定して、藤崎は大雑把に切り分けたステーキを口の中に放り込む。
「そうなんだ。意外だな」
「いそうに見える?」
「何となくね」
「初めて言われた」
 藤崎は笑い、僕に顔を向ける。
「俺、そんな感じする?」
「……少し」
「ふーん?」
 どんな顔をしていいのか分からない。僕は味噌汁を啜り、気まずさを誤魔化した。

 世間話は食事をする間続いた。湖に張った薄い氷の上を歩くような気持ちでそれに参加していたのは三人の中で僕一人だけだ。仲野さんはきっと良い子なのだろう、さりげなく僕にも話を振ってくれていたが、それがかえって苦しかった。
 何かを企んでいる藤崎と、今どこで何をやっているのか分からない瀬川。問題を抱えたまま普通の高校生のように過ごすのは、噛み合わないピースとピースとを無理矢理に合わせて、どこかにある筈の正しい答えを無視しているのと同じだ。僕はきっと何か藤崎や僕自身の為に何かをするべきで、ここではないどこかにいるべきだった。
「悟、何か取りに行くんだったら俺の分も。カフェラテ」
 いつの間にか空になっていた僕のグラスを見て藤崎が言う。頷いて腰を上げた。仲野さんは食事の途中で一度お代わりしていて、グラスの中にはまだ十分アイスティーが残っていたので、自分のグラスだけ持って行った。
 カフェラテとホットの緑茶を入れたカップを持って戻ろうとしたとき、テーブルでは藤崎と仲野さんが顔を寄せ、何か話し込んでいるところだった。藤崎が視線に気付くまでの短い間だったが、藤崎の言葉に仲野さんが驚き、その顔に戸惑いの表情を浮かべるところが見えた。
 僕が近付くと藤崎は前のめりになっていた体を何事もなかったかのように元に戻した。そしてカフェラテを受け取り、微笑む。
「サンキュ」
「どういたしまして」
 ちらりと仲野さんの方を窺う。何もなかったよ、とでも言いたげな笑顔が返ってきた。
「仲野はこの後どうすんの? 図書館に戻る?」
「え? ううん。今日は家族で出掛ける予定だから……、家に戻るよ」
「そっか。じゃあそろそろ解散する?」
 テーブルからは既に皿が下げられていて、残っているのは飲み物と伝票だけだった。
「うーん……もう少し余裕あるけど、二人は?」
 時計を見て尋ねた仲野さんに、藤崎は何故か答えなかった。片手で弄んでいるコーヒーシュガーを見つめて無視している。
「……藤崎、どうする?」
 不気味な沈黙に耐えかねて僕が尋ねても、藤崎は答えない。一体何が起こったのかと僕と仲野さんがぎこちなく顔を見合わせたとき、藤崎はようやく「仲野」と声を発した。
「さっきの話、嘘だから」
「え? あ……、何だ、信じちゃったよ。藤崎くん、凄く真剣な顔で言うから」
 仲野さんは緊張から解き放たれた顔で笑う。藤崎は笑顔を返さず、代わりに僕の肩に手を回した。
「本当は仲野じゃなく、俺だから」
「えっ」
 声を上げ目を見開いて、仲野さんは藤崎を見つめる。明らかに動揺した顔。今度も嘘か、それとも今度こそは真実なのか見極めようとしているのが、蚊帳の外に置かれた僕にも分かった。
「……今度は、本当?」
「さぁ」
 藤崎は不誠実な答えを返し、僕の肩から手を離した。
 仲野さんは藤崎から僕に視線を移し、口を開いて何か言い掛け、それを飲み込んだ。
「……あの、やっぱり私先に帰るね。ごめん。用意とかしなきゃいけないから。二人はゆっくりしていって」
「そう。ああ、俺奢るよ」
「えっ、ううん、自分で払う」
 首を横に振り、仲野さんは慌てて鞄から財布を取り出した。有無を言わさぬ勢いで代金を伝票の側に置き、コートと鞄を持って立ち上がる。
「じゃあ帰るね、バタバタしてごめんね」
 そう言ってテーブルを離れようとした仲野さんの手を、藤崎が掴んだ。
「ふ、藤崎」
 思わず声を上げた僕を、藤崎は完全に無視した。
「誰にも言うなよ?」
 仲野さんは藤崎が掴んでいる手を、それから藤崎の顔に視線を移した。藤崎は真顔だった。
「うん……分かってる、秘密にする」
 強張った頬。口角を無理に上げて微笑んでみせた後、仲野さんは藤崎の手から自身の手を引き抜いた。それほど強い力で掴まれていたわけではなかったのだろう。
「じゃあね、楽しかった。また学校で。吉田くんも」
 返事を待たず足早に立ち去ろうとする背中に、僕は立ち上がって「仲野さん」と声を掛けた。
 だが彼女は少しも振り返ることなく、一人店を出て行った。



 それからドリンク一杯分の時間を過ごして店を出た僕達は、図書館の学習室に戻った。ファミレスでも道中でも、仲野さんに何を言ったのか、何故あんな態度を取ったのか尋ねたが、藤崎は不機嫌そうな顔で「何も」と答えるだけだった。
 僕以外のクラスメイトの前では猫を被っていた藤崎が、ほんの短時間とはいえ仲野さんにあんな顔を、まるで僕を相手にするときのような顔を見せた。
 三人で食事をする話が出たとき僕はどんな理由を作ってでも迷わず拒むべきだったのだ。そうすれば仲野さんは嫌な思いをすることも、秘密を抱え込まされることもなかった。
 ――秘密。
 藤崎は仲野さんに、一体どんな重荷を背負わせたのだろう。

「悟。おい、悟」
 はっと我に返る。僕の右隣に座っていた藤崎は、鞄に参考書と筆記用具を仕舞い込みながら僕を睨んでいた。
 閉館五分前のアナウンスがゆったりとした音楽に乗って流れている。周りに人の姿はない。もやもやと考え事をしながら問題を解いている間に数時間が過ぎていたらしく、今は僕達二人だけが残っていた。がらんとした部屋が寂しい。
「何ぼーっとしてんだよ」
「……ごめん」
 急いで机の上を片付ける間、藤崎は指先でこつこつと机を叩いていた。それは怒りが爆発するまでのカウントダウンで、数字が何から始まったのか知っているのはいつも本人だけだった。
 九回目で荷物をまとめ、立ち上がる。
「……藤崎?」
 藤崎は椅子に座ったまま動こうとしない。壁を見つめ、不安に思ってしまうほど長く押し黙っていたかと思うと、何の前触れもなく立ち上がった。
「帰るぞ」
「ああ、うん」
 学習室を出て廊下を歩く間、藤崎は一言も喋らなかった。その口が開いたのは、図書館を出て暫く経った頃のことだった。
「仲野には」
「え?」
「悟が仲野のことが好きだって言ってた、って話した」
 思わず足を止める。少し前を歩いていた藤崎も数歩先で立ち止まった。
「……何で、そんな」
 藤崎がもし真実を口にしているのなら、仲野さんは最後に僕の思い人は藤崎なのだと告げられたことになる。あのとき藤崎が肩を組んできたのは、僕の思いを受け入れたのだと示す意図があったのだろう。そして最初の嘘は――おそらく、仲野さん側に脈があるのかどうか探る為だ。
「あんなこと……する必要なかった」
「は。お前が悪いんだろ」
「僕は」
「お前が悪いんだよ。お前が。全部お前のせい」
「だけど、仲野さんには」
「あいつがお前を好きになることなんて一生無いよ。ていうかお前がまともな女に相手してもらえる日なんて来るわけねーから。現実見れば」
 藤崎の口から放たれる言葉は、僕の腹に打ち込まれた拳や地に這い蹲らせた蹴りと同じ、理不尽で虚ろな怒りに満ちた暴力だ。
 結局ここに戻ってしまう。何を言い、何を約束して、何を与えても。
 途方もない無力感に襲われて、思考は薄暗い淀みの中に落ち込んだ。沈黙の後、僕がそこから拾い上げたのは、僕自身全く思いもよらなかった一言だった。

「僕は、お兄さんに似てるの?」

 ふっと世界が静止する。そして次の瞬間には、ざあっと音を立てて何もかもが動き出した。
 氷水を頭から被ったように頭が冷える。自分の口から飛び出した言葉が頭蓋の中で反響し、体中にぶわりと嫌な汗が噴き出す。
「ふじ、藤崎、ごめん、本当にごめん、今のは……」
「は? 全然似てないけど。つか俺に兄貴なんていねーし」
 僕のしどろもどろな謝罪を遮ったその声に、怒りや動揺は感じられない。
「もし俺に兄貴がいたとしても、そいつがお前に似てるわけないだろ」
 藤崎はそれだけ言って先を歩き出した。それにつられて足を動かしながら、僕は呆然と藤崎のほっそりした背中を見つめる。
 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。真実なら心を抉るだろう言葉で藤崎を傷付けようとしたのだろうか――それとも、瀬川の口から藤崎の兄という存在を知らされたときから心の奥底で、自分が誰かの代わりに虐げられ求められているのだと感じていたのだろうか。
 もしかすると僕と藤崎の関係は、何もかも取り返しがつかないくらいに壊れてしまっていたかもしれない。僕の言葉が藤崎本人に、まるで的外れだと、真実を掠めてもいないという態度で否定されなければ。



 今日だけでも家まで送る、という僕の提案は案の定手酷い言葉で却下され、僕と藤崎は途中で別れることになった。
 その後どうやって自分の家まで辿り着いたのか、全く覚えていない。気付けば珍しく早い帰宅をしていた母さんに、無断外泊その他について説教をされていた。頃合いを見て瀬川のことを話し――勿論予定していた通り誤魔化しを入れながら――妹と父さんの分も入れた防犯ブザーを渡した後、眠たいからと言い訳をして自室に戻った。
 懐かしい、嗅ぎ慣れたにおい。ドアを閉めた瞬間に全身の力がどっと抜け、この週末の疲れが一気に圧し掛かってきた。

 服を着替えることも忘れて、僕はベッドに倒れ込んだ。
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