13.時計の前で

 唇を離した藤崎は、何を考えているのかよく分からない目で僕を見つめた。ただぼうっと口付けを受けるだけだった僕を非難しているようにも見えたし、何かを求めているようにも、拒絶しているようにも見えた。怒り、興奮、苦痛、諦念。色んなものが瞳をよぎったような気がしたが、どれが本当に藤崎の胸の内にあるものなのか、僕には見分けがつかなかった。
 ふっと目を逸らして体を離そうとした藤崎の腕を、反射的に掴む。
「何だよ」
「……藤崎は?」
「何が」
 心臓がどくどくと早鐘を打っている。手のひらには汗をかいていた。
「藤崎は本当に相手が僕でもいいの?」
「は? お前以外に誰がいるんだよ」
「そうじゃなくて――」
 胸元に軽い衝撃が走って、倒れた僕の体に藤崎が圧し掛かる。
「なに。他の奴に相手してもらえって言ってんの?」
「そうじゃない」
「じゃあどういう意味だよ」
「……僕は藤崎を無理矢理……しようとした」
「だからその責任取って、お前は俺のものになったんだろ」
 僕の胸を突いた手が、ぎりぎりと服に爪を立てる。
「藤崎のもの?」
「そうだよ。俺のもの。自分のものをどう扱って何を要求したって、俺の勝手だろ? あんま煩いと前みたいに殴って犯すけど」
 藤崎は唇の両端を釣り上げた。
「それでお前が俺を殺すって言うんならお前も道連れにしてやる。もし一人で勝手に死んだら、ここでお前が俺の前でやったこと全部ネットにばらまくから。俺の上に乗っかったことも、約束したことも、全部バラしてお前の家族にも送り付けて、『ずっと悟くんに苛められてました』って遺書残して、お前の家の前で自殺してやる」
 ほんのひと時の間、鳴りを潜めていた虐待者としての顔が今の藤崎の顔に張り付いていた。恫喝によって己の欲望を遂げ、僕を弄び、虐げて笑っていた昨日までの藤崎。それがふいに蘇り、冷たい声で恐ろしい言葉を紡いでいる。
 『藤崎のことをナイフで刺し殺すかも』『明日学校の屋上から飛び降りるかもしれない』――もし今までのようなことを続けるならそうするかもしれないと、僕が藤崎の前で口走ったその言葉が、この冷酷で残忍な声を抑え込んでいたのだ。
「全部撮ってるからな。お前、馬鹿だから俺が携帯を持ってるとき以外は撮られてないと思ってただろ。万引きさせたときも、便所の床を舐めさせたときも、女子の机の上でオナニーさせたときも、お前に見えるようにカメラ向けてたもんな」
「……今も撮ってるの?」
 藤崎は頭上に手を伸ばし、ヘッドボードからデジタル時計を取った。時刻は17:46と表示されている。千円札を数枚出せば買えそうな何の変哲もない置時計だ。藤崎は僕の上で液晶とボタンを操作し、時刻が表示されていた筈の画面を僕に向けた。

『……誰にも触らせない。約束する』
『嘘は?」
『嘘は吐かない』

 僕と藤崎の声。画質の悪い映像の中で向かい合っているのも僕達二人だ。数分前にここで起こったことが小さな画面の中で繰り返されている。手を伸ばすと、藤崎はあっさりと僕に時計型のビデオカメラを渡した。
「壊したいならやってみれば。別にこれだけじゃねーし、昨日のはもうパソコンにもフラッシュメモリにも保存してる」
 液晶に表示されたメニューボタンを押す。ぱっと元の時刻表示に戻った。今ここで無機質な数字を見つめている顔も、この時計のどこかにあるメモリーカードの中に記録されているのだろうか。
 僕は元の場所に時計を置いた。もしカメラが今も起動しているのなら、僕達二人の姿が映るだろう。
「……あいつのことも、撮ってた? 瀬川のことも?」
 藤崎は左目の下の筋肉を引き攣らせ、不機嫌そうに口元を歪ませた。
「撮ってたよ。俺を犯したときも、初めから終わりまで」
「他には?」
「あ?」
「他にも、脅した人はいる?」
「いるけど? 中三のときの担任。俺らのことで説教してきたから、あいつが教室で教育実習生の女とヤってる動画、見せてやった。いつも使ってる公民館の館長も、あいつが痴漢やってるときの動画で脅して、俺が使うときに警報装置を解除させてる。あぁ言っとくけど実際バラして破滅させてやった奴もいるから」
 そう、だからただの脅しではないのだと表情で語る藤崎は、かつて僕が悪魔だと思ったときと同じ顔をしている。
「その人達には、一生一緒にいろって言った?」
「はあ? 言うわけねーだろ」
「じゃあ、その人達以外には?」
「言ってない」
「どうして?」
「……お前、自分の立場分かってんの?」
 答えるのに、少し間を置いた。口にするのには勇気が必要だった。
「分かってるよ。僕は藤崎と付き合ってる。奴隷じゃなくて彼氏だ」
「は? なに……」
「藤崎」
 藤崎の両腕を掴んで、体勢を逆転させた。虚を衝かれて目を見開いている藤崎を見下ろし、ゆっくりと顔を近付ける。失敗しないように祈りながらそっと唇を合わせ、すぐに離した。
「こういうことがしたいならいつでもする。準備する時間をくれたらセックスもする。藤崎が望むなら、望まれる限り側にいる。脅されなくてもそうする。もし藤崎がビデオに撮ったことを全部ネットに流して、僕の家族にも見せて、僕を破滅させたとしても、そうする」
「……お前、意味わかんねーんだけど……」
「僕は藤崎と約束したし、責任を取るって言った」
 ただの強がりに聞こえないように、目を見て、はっきりと口にした。藤崎は訝しげに眉を顰め、僕の態度をどう受け取るべきか決めかねているようだった。
「さっきの、嫌だった?」
「……何が」
「キスしたこと」
 その響きは僕の胸に強い羞恥を誘った。僕のように手馴れていない人間が声に出すような言葉ではないと思った。頬が赤くなる前に、僕は「キスしたことだよ」と繰り返した。二度目は一度よりも滑稽に聞こえたが、恥ずかしさは頂点に達したあと、丘を下って小さくなった。
 藤崎はふっと目を逸らして答えた。
「嫌じゃない」
「そっか……よかった」
「時間は?」
「時間?」
「準備する時間」
 ――セックスをする為の。
「再来週の土曜日……それでもいい?」
 期末試験の最終日が再来週の水曜だ。慌ただしさが落ち着き、必要な道具や知識を入手するまでに最低かかる時間を計算した結果が、二週間後の今日だった。
「絶対に嘘吐くなよ」
「うん」
「反故にしたら殺す」
「うん」
「……お前が俺をヤるんだからな。出来なかったら殴り倒してから滅茶苦茶に犯してやる」
「うん」
 僕は藤崎の頬に手を当てた。気持ちが少しでも伝わればいいと思ったからだ。脅しの言葉も、暴力も必要ないと、ただそうして欲しいと言ってくれるだけでいいのだと、分かってくれたなら。
「もう一回しろよ、さっきの。それで、俺がいいって言うまでやめるな」
「分かった」
 目を閉じて口付けながら、僕は思った。

 藤崎は僕を必要としている。失ったら生けていけないほど強く、手段を選ばずに求めるほど熱烈に欲している。どこまでも追って、縛り付けて、それでも足りないような顔をして。
 その執着の対象が他の誰かではない理由が、どうしても分からなかった。



 冷蔵庫に入っていた食材と、ユリコさんのくれたものを適当に温めて夕食を取ってから、瀬川について話し合った。
 僕と瀬川の件を警察に通報するという選択肢は、藤崎によって強い抵抗を受け、却下された。しかし、僕と瀬川の接点が藤崎であり、藤崎が瀬川から金銭を受け取っていたという事実が明らかになること、そして藤崎と瀬川の間に起こった事件までが公になること、それらは反対の直接の要因ではないらしかった。
「ほっとけばいずれ自滅する」
「自滅?」
「そう。あいつ、頭悪いから」
 藤崎は僕を見て、「お前よりも」と付け加えた。
「それに、あいつ本当は俺に興味ないから。俺が呼び出すから俺のことを考えてるだけで、実際はどうでもいいんだよ。お前のことなんて三日もすれば忘れてる」
「……そんなことってあるの? だってあんなに……」
 だがもしかしたら、藤崎の言う通りなのかもしれなかった。僕は結局犯されず、簡単に解放されて、あいつは追ってもこなかった。
「あいつはそういう奴なんだよ」
 冷たい目をした藤崎の手の中に瀬川の名刺がある。どこからか取り出されたライターがそれに火を点けた。湿った紙片は燃え尽きるまでに時間が掛かり、角を一つ残して炭になるまで、黒い目に赤々と光を差し続けた。
「……もし、自滅しなかったら?」
「誰かが地獄に突き落とすだろ」
 俺が、と言わなかったのは僕との約束を意識したからだろうか。藤崎はもしかしたら自分でカタをつける気なのかもしれない。
「……誰かに相談しよう」
「誰かって誰だよ。相談してどうにかなるって?」
 それは僕が胸の中で何度も繰り返した問いだ。
「僕達二人だけの問題にしておくよりは、多分……他の誰かも知ってる方がいいと思う。相談っていうか、事情を話しておくだけでも」
「『僕は彼氏の叔父に犯されそうになりました』って?」
「……街でいきなり絡まれて、何か起こる前に逃げたけど、もしかしたら逆恨みして襲ってくるかもしれない、っていうのは?」
「ふーん。好きにすれば?」
 手の中で弄んでいた燃え滓を、藤崎はごみ箱へと落とした。
「……藤崎は?」
「何が」
「相談出来る人に、心当たりは?」
「いない。それに俺はお前みたいに心配なんかしてない」
 本当に瀬川が襲ってこないと思っているのか、それとも襲われることを何とも思っていないのか。強がっているだけなのかもしれない。
「じゃあ僕が藤崎の分もする」
「は?」
「朝ここに来た、ユリコさんって人は?」
「……何であの人?」
「何となく……優しそうな人だったから。……ごめん、あのとき話聞いてた」
 謝罪を受け入れるような言葉は返ってこなかったが、怒りに満ちた眼差しが向けられることもなかった。藤崎はコートから携帯を取ってベッドに寝転び、画面を操作し始めた。
「藤崎」
「あの人、俺の父親の妹。だから信用出来ない」
「……ご両親も?」
 携帯のスピーカーから音楽が流れ始める。一瞬身を引いてしまったのは、ボーカルも楽器も何もかも騒々しい歌だったからだ。
「あいつの話。虐待してたってのは本当」
「え」
「でも今は馬鹿みたいに俺のこと怖がってるだけ。金出すくらいしか役に立たないから、瀬川の話なんかしても無意味」
「……そっか」
 藤崎はベッドの傍から地理の参考書を拾い上げた。パラパラと開いて、枕の上に載せる。
「けどもし……瀬川が僕たちのどっちかと接触してきて、襲ってきそうになったり脅したりしてきたら、その時は一緒に誰か、信用出来る人を探そう」
「面倒。やらなくていい」
「じゃあ僕が勝手に探す」
「あのさあ、お前さっきからうざいんだけど」
 それでも僕は自分の発言を取り消さなかった。藤崎は暫く僕を睨んでいたが、心底鬱陶しげに息を吐いて「お前の好きにすれば」と言った。
「そうする」
「……お前も勉強しろよ。追試になっても予定は変えないからな」
「うん」
 言われた通り、僕は鞄から勉強道具を取り出した。騒音の中で暗記は難しいと思い、数学の問題集を解くことに決め、藤崎の横で膝の上にノートを広げる。問題を三問解いたところで、藤崎は「悟」と声を掛けてきた。
「なに?」
「月曜から一緒に登下校するから」
 僕も、藤崎の機嫌が直った頃に提案しようと密かに考えていたことだ。
「分かった。僕が藤崎の家に行く」
「反対だろ」
「藤崎の家の方がバス停にも駅にも近いし……ここまで自転車で来るから、途中で何か起こることもないと思う」
「『思う』?」
「……起こらない。起こらないようにする」
 藤崎の指が携帯に伸びて、音楽が止まった。
「却下」
「どうして」
「駄目だから」
 僕は頭の中で素早く地図を展開した。
「じゃあ、小学校の前にある歯医者で落ち合うのは?」
 小学校はちょうど僕達の家の中間辺りにある。どちらかと言えば藤崎の家に近く、そしてこの家の近くのコンビニから小学校までの道には、朝夕、小学生の登下校を見守る大人たちが一定の間隔で立っていた筈だ。
「……それならいい。けど、勝手に家に来たら殺すからな」
「何で?」
「何ででも。約束しろよ」
 今こうしてここにいるのに訪問を嫌がるのは、両親と会わせたくないからだろうか。
 その人達は本当に今は藤崎に危害を加えていないのか、この先危害を加える可能性はないのか、藤崎との間にどんなことがあったのか、色んなことを藤崎に尋ねたかった。だが僕は言葉を飲み込み、頷いた。
「分かった。勝手に家には来ない」
 そう答えると、また音楽が鳴り始めた。
 僕は今決まったことを少しの間考えた後、藤崎と同じように勉強を再開した。



 時折休憩を挟みながら遅くまで試験勉強を続け、最終的に照明を消したのは日付が変わる寸前の時間だった。毛布と布団を被ると、藤崎は僕に抱き着いてきた。僕も藤崎の後ろに腕を回し、何となくその背中を撫でる。
「藤崎」
「ん」
「目の痣のところ、痛む? 頭のところ、変な感じとかしない?」
「全く」
「そっか」
「悟」
 強いミントの香りが鼻を掠める。藤崎が使っていた歯磨き粉の香りだ。唇が触れ合い、すぐに離れて、デジタル時計が放つ僅かな光の中、藤崎は何かを待つように僕を見つめた。
 軽く口付けを返すと、藤崎は「おやすみ」と呟いて目を閉じ、僕の胸に顔を埋めた。
「おやすみ」
 そう返した数分後に安らかな寝息が聞こえ始めても、僕は目を開けたままでいた。
 雨が止んだ静かな夜、想像の中で二人分の心臓の音に誰かの足音が重なる。階段を上る足音と共に恐怖を思い出し、瞬きをする度に視界の中で男の影を探してしまう。見つからなければいいものを見つけようとして、僕の精神は摩耗する。藤崎が起きていたときは気が紛れていたのかもしれない。
 今すぐに胸の中の温もりを揺り動かして、眠りを妨げられた藤崎の不機嫌そうな声を聞き、こちらを睨む目を見ながら何かを尋ね、頷き、首を横に振り、謝罪し、求められたならキスをして、何かを約束したかった。

 もし眠りに就くことが出来たなら、今日はきっと悪夢を見るだろう。
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