12.約束

「あいつが言ったこと、まさか信じてないよな」
 背後の声に、思わず目を開けそうになった。藤崎はそれを見透かしたかのように「今こっちに顔を向けたら殺すからな」と釘を刺した。
「向いてない。目も閉じてるよ」
 もう少しで開きそうになっていた目をすぐにしっかりと瞑る。力を入れ過ぎたせいか降りた幕が暗闇の中で揺れたように見えた。ベッドの上で抱えた足を体に近付け、藤崎がくれた水色のパーカーの袖に顔を埋めて、そっと力を抜く。
 こちらの様子を窺うためか、背後の藤崎は数秒の間全く物音を立てなかった。だが暫くすると袋をがさがさと漁り始め、何度かタグを引き千切るような音を立てた。濡れた服がどこかにぶつかる音もする。籠に投げ込まれたのだろう。
「つーか、鵜呑みにすんなよ。全部出鱈目だし、あいつは嘘吐くのが趣味みたいなもんだから」
 あの後、藤崎は殆ど脅すような形で僕から話を、瀬川と過ごした時間に起きたこと全てを聞き出していた。
「……鵜呑みにはしてないよ」
「じゃあ何であんなこと言った? 『瀬川と会わないで』? 『優しくする』? 俺のこと可哀想だって思ったんだろ。つまりあいつのことを信じたってわけだよな」
「違う」
 早く目を開けて、向き合って、ちゃんと説明したいと思った。藤崎が着替えている間、後ろを向いて目を閉じているように言われていなければ、間違いなくそうしていただろう。
「藤崎、僕は……」
「俺はあいつに無理矢理ヤられたわけじゃない」
 藤崎は僕の横に腰掛けた。そっと目を開ける。藤崎は真新しい黒のスウェットに身を包み、ベッドの前に置いた電気ストーブの目盛りを捻っていた。そのストーブはここに来る途中、藤崎がどこかの部屋から持ち出してきたものだった。この部屋にはエアコンが設置されているが、藤崎の話によれば夏に壊れてからそのままで、まともに動かない。
「じゃあ、何もされなかったってこと……?」
 電気ストーブが発するオレンジ色の光が増えた。目盛りを最大にまで引き上げた指は、僕のうなじへと伸ばされた。
「俺があいつにさせてやったんだ」
 藤崎は利き手でパーカーのフードを引き下げ、噛まれた部分を露わにする。濡れた服を着ていたせいか触れた指先は冷たく、温まり始めていた手足に鳥肌が立ってしまう。
「させて、やった?」
「そうだよ。別に女でもないし、あいつが発情してたから一回ヤらせてやっただけ。金が欲しかったってのが一番だけど」
 平然とした声で、顔で、藤崎はそう言った。
「俺があいつにさせてやったんだ」
 藤崎は僕に体を近付け、うなじに顔を寄せる。散々擦られたせいで熱を発したようになっているそこを、左の手の平が撫で、指先がなぞる。暫くして鼻先が触れた。においを嗅ぐためか、鼻で深く息を吸い込む音が何度か聞こえる。そしてまた手の平が触れ、指がそこをなぞって、同じことを何度も繰り返す。
 一連の動作には、どこか動物的なところがあった。神経を尖らせ、縄張りに足を踏み入れた他者の気配を見逃すまいとする獣、ストレスに晒されて延々と同じ場所を歩き回る犬のようなところが。
 僕は一切の抵抗を放棄し、藤崎が発した言葉のことを考え続けていた。『させてやった』『俺があいつに』『俺は無理矢理ヤられたわけじゃない』――まるで藤崎自身に言い聞かせるように繰り返された言葉。
 ふいに柔らかい何かが、うなじに触れる。鋭い痛みが走った。一瞬何が起こっているのか分からずパニックに陥りかける。だがすぐに藤崎から噛み付かれたのだと気付いた。藤崎の綺麗に揃った白い歯が、瀬川がしたように僕のうなじへと噛み付いているのだと。
 痛みは徐々に強まりながら長く続き、唐突に弱まった。藤崎が顎の力を弱めたのだ。唾液に濡れたうなじから熱い吐息が離れ、また指が触れた。そして背後から小さく、「殺してやる」と呟く声が聞こえた。
「あいつ、絶対に殺してやる」
 今度は聞き間違えようのない、明瞭な発音だった。僕は思わず振り返った。血走った目。
「……あいつって? あいつって、瀬川のこと? 藤崎、あいつとは会わないって」
「うるさい」
「藤さ……」
「お前のせいだろ。お前がフラフラしてたせいで、あいつに隙を見せたせいで、こんなことになったんだろうが!」
 びりびりと鼓膜を揺らす声。思わず身を後ろに引きそうになったが、それは単に大きな声を出されて驚いた故の反応であって、恐怖からではなかった。自分の中でそれが起こらなかったことに戸惑いながら、僕は睨みつけてくる目を見つめた。そして藤崎の手を取る。その手は振り払われなかった。
「藤崎」
「あ?」
「ごめん。……嫌な思い、させて」
「謝って済む問題かよ」
 僕は首を横に振った。
「けど、僕は本当に、藤崎に……あいつともう会って欲しくない。危ない目には遭って欲しくない」
「危ない目って? 俺があいつに何か隙見せるとか、いいようにさせるとでも思ってんだ? 悟は。お前やっぱあいつの言うこと信じてんじゃん。俺より会ったばっかの男の方を信じるとか、責任取るって言ったくせにもう反故にすんのかよ」
「そうじゃない」
 どうしてそんな風に考えるんだろう、と僕は思った。一度了承したことを反故にしようとしているのは藤崎の方で、僕は瀬川という男のことを何一つ信用していなかった。もし何らかの方法で瀬川の話が全て嘘だったという確証が得られたとしても、僕は藤崎をあいつから遠ざけ続けるだろう。瀬川が語ったことではなく、瀬川という男の存在そのものが僕にそうさせるのだ。
「藤崎は、僕が嘘吐いたり誤魔化したりするの、嫌なんだ」
「あ? そうだって何万回も言っただろ」
「うん。分かってる。けど僕も……僕も藤崎には嘘吐いて欲しくないし、誤魔化されるのは嫌だ」
「ああ、そう。だから?」
 だから、そっちが僕の意思を尊重してくれないというのなら、こっちも約束は守らない。
 そう口にするのは簡単だ。もしかしたら納得もしてくれるかもしれない。だがそうしてしまうと、藤崎に『嘘を吐いた』『誤魔化した』と思われてしまったとき、それが事実でなくとも、僕は藤崎に瀬川と会う口実を与えてしまうことになる。
 どうすればいいか分からなかった。どう答えれば正解なのか、どうやれば藤崎をあの男から遠ざけていられるのか。
「藤崎は……藤崎は、あいつのこと好きなの?」
 答えは知っていた。露骨に嫌悪感を表した顔を見るその前に、藤崎が瀬川を憎悪していると確信していた。
「じゃあ、あいつとセックスしたいと思って、した?」
「は? お前、そんな風に思ってたわけ?」
「思ってないよ」
「嘘吐くな」
「嘘じゃない。……それに、僕が言いたいのはそんなことじゃない」
「じゃあ何だよ」
「僕は……藤崎が、好きでも何でもないやつに体を触られて、酷いことをされるかもしれないって考えるのが、怖くて仕方ないんだ」
「俺はあいつを怖いなんて思ってない」
 それは嘘だと思った。だが否定はしなかった。
「藤崎はそうでも、僕は怖い。……本当に怖い」
「……だからお前の為に、あいつに会うなって?」
「うん……」
 自信なく頷いた僕から目を逸らして、藤崎は「ふーん」と気のなさそうな声を出す。
「まあいいけど」
「え?」
「会わなきゃいいんだろ、あいつと」
 僕は一瞬固まったあと頷き、握ったままの藤崎の手を離し、それから強く握り直した。
「……けど、本当に? 約束してくれる?」
 藤崎は曖昧に頷いたが、今はそれだけで満足することは出来なかった。
「約束するって言って。嘘は吐かないって」
 眉根を寄せて口を噤んだ藤崎をじっと見つめ、居心地の悪い沈黙の中で返答を待つ。藤崎は唇を強く噛み、ぎろりとこちらを睨んだ。
「じゃあお前もちゃんと約束しろよ」
「何を?」
「誰にも触らせないって。言い出したお前から言葉にしろよ」
「……藤崎、これって、体育の時とか、病院に行くときとか、どうしても必要なときは、いい?」
 急に不安になって尋ねると、藤崎の目には明らかに強い怒りが現れた。しかしその感情は爆発する前に抑え込まれて、苛立たしげな溜息として小さく吐き出された。
「どうしても必要なときなら」
「……じゃあ、約束する。誰にも触らせない」
「嘘は?」
「嘘は吐かない」
 そう言って促すように藤崎の目を見てから、結局交換条件になってしまっていることに気付いた。
「なら俺もあいつとは会わない。約束する。嘘は吐かない」
 抑揚のない棒読みの、明らかに『言わされた』誓い。それでも僕は多少安堵し、握ったままだった手をそっと解放した。
「ありがとう」
 藤崎は何も答えず、洗い立ての毛布の下に潜り込んだ。
「悟」
「うん」
「携帯」
 取って来い、という意味だろう。ベッドを下り、入口近くのハンガー掛けに吊るしてあったコートから藤崎の携帯を取り出そうとすると、「それじゃない」と声が上がった。
「お前のだよ」
「僕の?」
「電源切れてんだろ」
 雨に濡らしてしまったコートはハンガー掛けの端にある。ポケットから携帯と財布を取ってベッドに戻り、携帯を渡した。
「あの、藤崎」
「なに」
「この服って、いくらだった?」
 ヘッドボートのコンセントには携帯用の充電器が繋がっている。僕が持っているのと同じ種類のものだ。藤崎はそれに携帯を接続し、電源ボタンを長押しした。
「何でそんなこと聞くわけ?」
「お金、返したいから」
「は? それ俺のだけど」
「でも、僕にサイズぴったりだよ」
 水色のパーカー、同じ色のズボン、柔らかい生地のTシャツ。藤崎と同じサイズなのは下着だけで、あとは僕の体のサイズに合わせてある。身長167cmの僕と180cm近い藤崎では手足の長さが違う。藤崎が着るにしては丈が足りないだろう。
 サイズの問題を抜きにしても、黒やグレーといった暗色を好む藤崎が着るものとしては、この水色は少し明るすぎるように思えた。
「じゃあ、十万」
 藤崎は携帯を見ながら片手を差し出した。
 十万。そんな大金、一般庶民の僕の財布の中に入っているわけがない。
「……あの店、そんなに高い服ないよ」
 藤崎はこの服を昼間行った店の袋から取り出した。値札が千切り取られた後に渡されたので、幾らだったのかは知らない。だが十万があり得ないことくらい分かる。
「利子が付いてんだよ。無いなら体で払えば」
 財布が手の中から抜き取られて、床に投げ捨てられた。拾う間もなく毛布の中に引き摺り込まれ、藤崎の腕が僕の体に巻き付く。
「ちょ、藤崎、待って」
「言っとくけど、この先ずっとだからな」
「え……何が?」
「さっきの約束」
 藤崎の足が僕の足に絡まって、体が密着する。
「……『誰にも触らせない』?」
「男もだけど、女も駄目だから。彼女なんて作ろうと思うなよ」
 その息遣いを肌で感じるほど近くに、藤崎の顔がある。
「ずっとって、死ぬまでってこと?」
「当たり前だろ。お前は一生俺と一緒にいるんだよ。責任取るってそういうことだから。ていうかお前、途中で投げ出す気でいたってことかよ」
「そんなわけない」
「そう。なら俺で我慢するしかないよな」
 下腹部に股間が強く押し付けられて、まだ柔らかい性器の感触が伝わってくる。
「我慢って……」
「彼女なんて作ったら、そいつ殺すから」
 至近距離で凄まれると、さすがに迫力がある。
「……作らないよ。藤崎と付き合ってるし」
「は? 俺と付き合ってなかったら作るつもりだったことかよ」
「そういう意味じゃないよ」
「なら仲野は? お前、仲野のこと好きだろ」
「仲野……えっと、うちのクラスの?」
「そうだよ。仲野絵里奈」
 仲野絵里奈。どうして今ここでその名前が出てくるのか、僕は本気で不思議に思った。
 彼女は一言で表現するなら、美少女だ。色素が薄い肌に長く柔らかそうな髪をした、おっとりとした顔立ちの女の子。ほっそりとした手足に不釣り合いなほど豊かな胸元のせいか、女子がいない男だけの場ではよく話題に上がる。
 だが僕が彼女のことを好きになったことは一度もない。向こうもそうだろう。彼女がもしクラスメイトの誰かと付き合おうと考えるとしたら、相手は藤崎か、藤崎が最近よく話しているバスケ部のエースのどちらかに違いない。
「か、可愛いとは思うけど……好きとか、そういうのは思ったことない」
「じゃあこの間二人で楽しそうに話してたのは?」
「この間って」
「先週の火曜。三限目のバレーの授業のとき。覚えてんだろ」
「あれは……、世間話しただけ」
 それも、話しかけてきたのは向こうだ。
 明らかに退屈を持て余した様子で、第一声は「名前、吉村くんだったっけ」。話の内容は四限目の英語の宿題のこと、近付いてきた期末考査のことだけだ。授業を見学していたのが彼女と僕の二人だけではなかったなら、きっと言葉を交わすこともなかった。
 それでも可愛い女子と二人で話すのは、それなりに心躍る出来事だった。
「ふーん。あいつで抜いた?」
 密着していた体が少しだけ離れて、代わりに手が伸びてくる。下着の中に潜り込んだそれが性器に触れる直前に、僕は藤崎の手首を取った。
「……そういうのはしてない。藤崎、その、したいなら僕がするから」
「へぇ。するって何を?」
「手で……手でもいい?」
 藤崎が口を閉じ、無言のままに頷いたので、僕は左腕を藤崎の背中に回し、右手をスウェットの中に差し込んだ。何となく目を逸らしてから下着を引き下げ、手のひら全体で包むようにする。やわやわと刺激すれば、すぐに勃起して固くなった。ちらりと藤崎の目を覗くと、がっちりと目が合った。長く濃い睫毛を揺らしながら、藤崎は僕を見つめていた。
「悟……、もっと強く、しろよ」
 ふうふうと吐息を漏らし、藤崎は落ち着かない様子で足を擦り付けてくる。
「分かった。……けど、ちょっと待って」
 この体勢では少し、手が動かし辛い。利き手が下になっているせいだ。
 藤崎が頷いたので、一旦離れてから体を跨いで後ろに回り、左を下に横たわって背後から藤崎の股間に手を伸ばした。下になった左手の置き場に迷い、そちらも前に回すと体が密着した。自分でやったことなのに動揺を覚えてしまう。
 思わず息を潜めながら、ペニスの先端に滲む先走りを指で全体に絡め、ゆっくりと手を上下に動かしていく。
「おい……」
 焦れたように声を出した藤崎に「うん」と小さく返事をして、少しだけ手の力を強めた。動きも速くすると藤崎の漏らす吐息が荒っぽく濡れた息遣いに変わり、もぞもぞと動く足が僕の足を撫でた。
「あ、あ、悟……」
「なに?」
「爪、立てろよっ……」
 掠れて、余裕を無くした声。
 僕は考える。いつものパターンだ。興奮が最高潮に達すると、藤崎は決まって苦痛を生む行為を要求する。爪や歯を立てることで藤崎自身が感じるもの、喉の奥を突かれて僕が感じるもの、無理な挿入などで明らかに両方が感じるもののときもある。
 僕の手は藤崎が漏らし続けるもので濡れていて、今、藤崎は単なる手淫で明らかに快楽を得ている。
「藤崎は……痛くないと駄目なの?」
 躊躇いつつ訊ねると、肯定とも否定ともつかない溜息が聞こえてきた。触れていた足がますます絡んできて、僕たちの体の間には殆ど隙間が無くなる。藤崎の体温、肉の感触、息遣い、髪の匂い。逃げ出してしまいたい気持ちになったが、奇妙なことに、それと正反対の衝動も胸の中にあった――藤崎を僕の手で追い詰めたい。
 爪を立てる代わりに、先端を親指の腹でぬるぬると撫でた。
「……これは、気持ちいい?」
「い、いい、あ、あっ」
 手の中で藤崎のものがびくびくと震えて、慌てて被せた手のひらに熱い飛沫が当たった。呆気なく射精に至ったことに驚きながら、それを零さないように受け止める。
 抱いていた体から力が抜けると、僕は藤崎から離れて、上体を起こした。ティッシュペーパーで精液を拭き取り、戻って藤崎の性器やその周辺もそっと拭いた。ゴミを捨て、目を閉じている藤崎に話し掛ける。
「……藤崎、手、洗ってくるよ」
 腰を上げる寸前、閉じていた目がぱちりと開いた。
「……悟」
「うん」
「ここにいろよ」
「けど」
「お前の、硬くなってんじゃん」
 血が上って、ぼっと顔が熱くなる。
「ちょっとだけだよ」
 密着していたときに気付かれたのだろう。僕は逃げるように立ち上がりかけたが、藤崎の手がもう一度僕を毛布の中に引き込んだ。
「俺がやってやる」
「だい、大丈夫だから、ほら、もう収まった」
 そうするために思い出したのは、藤崎の乱暴な手の動きだった。僕にとって痛みは、興奮を減じさせるものだ。
 不満げな顔で僕の股間に触れて確かめた後、藤崎はヘッドボートの引き出しを開け、そこからウェットティッシュを取り出した。
「これでいいだろ」
「うん……」
 手を拭いて、ゴミを捨て、ウェットティッシュの残りを元の場所に戻す。それをじっと見つめていた藤崎は、無言のまま僕を抱き寄せた。
「お前さ」
「うん」
「俺とヤりたくないんだろ」
 額と額が触れた。整い切っていない藤崎の息遣いを肌に感じる。
「それは……」
「お前がどう思ってようと関係ないから」
 藤崎の手が僕の後頭部に伸びて、鼻先と鼻先が擦れ、ぎこちなく唇が触れた。柔らかい感触はすぐに離れ、もう一度重なり、また離れた。
 三度目。こちらを見つめていた目は瞼に覆われて見えなくなる。強く押し付けられた唇はそれまでより少し長く僕の唇に留まり、やがて離れていった。
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