11.優しくしたい

「せめて傘を持って行って」
「いえ、大丈夫です……本当にありがとうございます」
 そんな会話を交わして、親切な老婦人と別れた。走り出して数分後に見つけたコンビニでフェイスタオルと傘を買い、ついでに近くのバス停の場所を店員に訊ねる。幸いそれは徒歩圏内にあり、途中で一度乗り換えれば藤崎の家の近くまで行けそうだった。バスを待つ間、買ったばかりのタオルで体を拭いた。まだ芯まで冷えてはいない。ずぶ濡れのコートを脱げばバスへの乗車もそれほど迷惑にはならないだろう。
 十数分後に現れたバスの中は暖房が入っていて暖かかった。逡巡の後、コンビニの袋をシートに敷いて腰を下ろす。コートは畳んで膝の上に置いた。水濡れの危険を思い出して右側のポケットから携帯を取り出そうとしたとき、指先が異物の存在に気付いた。
 ――濡れてふやけた一枚の名刺。

『株式会社XXX 営業 瀬川大和』

 メールアドレス、携帯の電話番号まで記載されている。こんなもの、携帯をポケットに入れたときには無かった筈だ。いつ入れられたのかは分からない。だが忍び込ませたのが誰なのか、僕には分かった。
 セガワヤマト。偽名か、誰か別の誰かの名刺を借用したのでなければ、それがあの男の名前だ。瀬川は僕が警察に通報するとは思わなかったのだろうか。
 そう、確かにその気なんてなかった。今僕は、部外者に瀬川とのことを話しに行こうとはしていなかった。バスに乗って向かっているのは藤崎のところで、無事に落ち合ってからその足で警察署に行くつもりもなかった。
 保護を求めても、相手にされなかったら。話したことがバレて逆恨みでもされたら? 親? 担任? 何が出来る? もしあの男が罪に問われたとして、一体どれくらいの間刑務所に入っているんだろう? 誰かに話すとしたら僕はどこからどこまで話すべきなのか? 色んな考えが僕の頭の中に浮かんでは消え、あとには恐怖が残った。
 あの男にもう一度襲われることが怖いのか、藤崎が僕の知らない内に酷い目に遭わされるかもしれないことが怖いのか、聞かされたことの中に幾らかは真実があるのかもしれないと受け入れることが怖いのか、恐怖の元は数限りなくあった。一体どれが今の僕を強く蝕んでいるものなのか特定することは出来ず、周りを取り巻く得体のしれない黒い霧の中で、僕はそれを深く吸い込まないように俯いて息をしていた。
 二本目のバスを降りると、藤崎は僕が信号待ちをしている間にコンビニから出てきた。右手に大きな買い物袋を下げている。着衣に乱れはなく、別れたときと同じ格好で、目元の痣を抜きにすれば誰かに傷付けられた様子はない。ああよかった、と僕は心の中で呟いた。
 近付いてきた藤崎が何か罵倒を並べ出す前に手を取り、周囲にあの男の車が見えないことを確認して、足早に藤崎の家へと向かい始めた。
「悟」
 戸惑いながらも黙って手を引かれていた藤崎は、暫くして足を止め、不機嫌そうな声で僕の名前を呼んだ。立ち止まって振り返る。繋がった手が傘と傘の間で濡れていた。手を離そうとすると、藤崎は逆に僕の手首を掴み、乱暴に引き寄せた。
「お前ふざけんなよ。勝手にいなくなって、知らない番号から電話掛けてきて、挙句説明もなしかよ」
「……ごめん」
「ごめんで済むわけ――」
「後で説明するから」
 藤崎は僕を睨みつけたまま鼻を鳴らし、手を解放した。それから傘を持つ手にぶら下げていた袋を僕に押し付けた。
「重いんだけど」
 持て、という意味だろう。黙って受け取る。僕たちがいた店のロゴが印刷された袋は、膨らんだ見掛けよりもずっと軽かった。先を歩き出した藤崎の後に続く。傘がぶつかるかぶつからないかの距離を保ち、周囲を見回しながら、僕は自分の中で増殖し続ける不安と恐怖から意識を逸らし続けていた。

 あの男のものと似た車の姿を見掛けることもなく、無事に家に辿り着いた。僕は中に入ってすぐに荷物を置いた。
「藤崎」
「あ?」
「今日、ご両親は帰ってくるの?」
「明日の夜まで帰ってこない」
「じゃあ、チェーン掛けてもいい?」
「……好きにすれば?」
 だが、その銀色の鎖を取ろうとした僕の手は震えていた。上手く指先が動かない。いつから震えていたのだろう。家に入ってからだろうか? 
 背後からすっと伸びてきた手が無言でチェーンを掛け、下にある鍵も閉めてくれた。
「早く靴脱げよ」
 頷こうとして、自分が雨と泥水で濡れていたことを思い出した。靴下は湿っていて、服もまだ乾いていない。脱いでから上がるか、タオルを借りて拭いてから上がった方がいいのか、それとも別の方法を取るべきか。おかしなことに、僕の思考はそんな些末な問いで絡み縺れて、身動きが取れなくなってしまった。
「おい」
 藤崎が肩を掴む。その顔には苛立ちが浮かんでいた。僕は謝罪の言葉を口にしようとしたが、声が出なかった。藤崎は舌打ちをし、肩を掴んでいた手を腕まで下ろすと、僕をぐっと引っ張った。
「靴、脱げって言ってんだろ」
 有無を言わせぬ声だった。僕は藤崎の言う通りにした。藤崎も靴を脱ぎ捨て、僕の腕を掴んだまま土間から上がった。もう一方の手で買い物袋を掴み、階段を上がっていく。
 途中、近くに雷が落ちる音がした。足を動かしながら、僕は自分の体が天から一直線に貫かれたような錯覚に陥っていた。もし藤崎が腕を掴んでいなかったら、また無様に階段から転げ落ちていたかもしれない。
 部屋に辿り着くと、藤崎は僕の腕を解放した。それから荷物を綺麗になった床の上に投げ出し、コートや帽子を脱いでから僕の方を向いた。マフラーが乱暴に引き抜かれ、コートを剥ぎ取られる。ずしりと重い衣擦れの音。
「あ……」
 戻ってきた声は、藤崎の眉をぴくりと動かした。何か文句でもあるのかと言いたげな動きだ。
「ごめん、藤崎のなのに、濡らして……」
「は? 今そんなどーでもいいようなこと謝る意味あんの? つーかお前、さっき自分で言ったこと忘れてないよな」
 藤崎は低い声で尋ねながら僕の制服を脱がせていく。だがその手はシャツを脱がせたところで唐突に止まった。
「何だよ、これ」
 凍りついた声。僕は藤崎の指先が触れているところ、裸にされた上半身に視線を下ろした。変色した腹部の痣周辺に、赤く細い線が幾本も浮かんでいる。それを見て、僕は男がナイフで何をしていたのかを思い出した。
「誰がやった?」
 指先は何かを恐れたように離れ、それからもう一度触れて、傷跡をなぞり始めた。ぴりぴりとした痛みを感じて後ろへ下がろうとしたが、藤崎はもう一方の手で僕の腰をがっしりと掴んだ。
「……藤崎がコンビニで会ってた男の人」
「瀬川?」
 ああ、やはりあの男は瀬川という名前なのか。そう思いながら小さく頷いた。藤崎は大きな目を更に見開き、そして口を開けたまま黙っていたかと思うと、「悟」と威圧感のある声で僕の名前を呼んだ。
「他に何をやられた?」
 何も、と反射的に答えようとした口を一旦閉じ、考えてから開いた。
「少し……触られて、首を噛まれただけ」
「首?」
「後ろのところ」
 そう言うと、藤崎は僕の腕を掴んで後ろを向かせた。息を呑むような気配。
「……お前、まさかヤられてないよな。突っ込まれたとか言うなよ」
 僕は首を横に振り、「されてない」と答えた。
「本当に?」
「うん」
「口にも?」
 はっきりと頷いた。藤崎は暫く沈黙し、それからいきなり僕の腕を強引に引っ張って、部屋の外へと連れ出した。
「ふじ、藤崎……どこに」
「風呂」
「何で」
「汚されたから」
 ついさっき通ったばかりの廊下を大股で歩いて戻り、上がったばかりの階段を下りて、浴室に向かう。そこに辿り着くと、藤崎はすぐにシャワーを出し始めた。水がお湯に変わる間に僕のベルトに手を掛け、下半身も裸にする。鳥肌が立って、酷い寒気を感じた。上下の歯が微かにぶつかり合って音を立てている。
 今朝とは違い、藤崎はその手で僕の体を洗い始めた。シャワーのお湯を強く出して頭から足までを流しつつ、念入りに傷跡を確かめる。藤崎の手は僕の頭のてっぺんから爪先まで余すところなく触れた。何重ものチェックの後、藤崎は目の粗いボディタオルを取り、それにボディソープを大量に出して肌をごしごしと擦り出した。その間も出しっ放しのお湯が床を流れ、浴室を暖めていたが、藤崎があまりに執拗で容赦のないやり方で擦ってくるので、僕は何度もその手から逃れ寒々しい脱衣所に出ようと試みた。
「い、痛い、痛いってば、藤崎」
「うるさい」
「自分で、自分でやるから」
 藤崎は僕の申し出を無視して手を動かし続ける。痛いと言っても殴られ犯されるよりは随分ましで、我慢出来ないほどでもない。僕はやがて抵抗をやめた。大人しくしてみれば、むしろ自分よりも藤崎の姿の方が痛ましく感じられた。強張った顔、ずぶ濡れになった服、何度も何度も繰り返し同じ場所を行き来しながら僕を清める手。
 随分時間が経ってから、藤崎はやっと泡をお湯で流し始めた。最初と同じように全身をくまなく探りつつ、しつこく手で体を擦っていく。やっとお湯が止まったとき僕の肌は摩擦で赤く染まっていて、傷口には塩を擦り込まれたかのような感覚があった。
「悟」
 藤崎は瞬きもせず、座り込んだ僕をきつく睨みつけている。
「二度とあいつに体を触らせるな」
「……うん」
「あいつだけじゃなくて、他の誰にも触らせるな」
 返事をしようと口を開くのが少しだけ遅れた。藤崎は顔を大きく歪め、座り込んでいた僕の腕を取って勢いよく引き上げた。
「悟」
 至近距離でこちらを睨みつける目には激しい怒りと焦燥が表れている。その大きな目の虹彩は殆ど真っ黒に見えた。あの男と一緒だ。瀬川もこちらを不安にさせる真っ黒で大きな目をしていた。ほんの一瞬藤崎と瀬川の顔が重なって目の前が真っ暗になり、息が出来なくなる。
 だが次の瞬間が訪れて、辺りに立ち込めていた濃い霧が晴れるようにして視界がざっと開けた。憤怒に燃える藤崎の目が僕を見つめている。その目は微かに揺れて、内心の強い不安をも映し出していた。
「……藤崎」
 名前を呼んだのも、その頬に手を伸ばしたのも、殆ど無意識の行動だった。手のひらに触れる濡れた肌はあたたかく、形容し難い感情が胸の奥から込み上げる。僕は強い確信と共に理解していた。藤崎と瀬川が全く別の人間であり、本質的に別種の生き物であることを。
 あいつと藤崎は違う。藤崎には、あの男にないものがある。
「藤崎がそうして欲しいなら、いいよ」
 藤崎は僕に酷いことをした。だから悪魔だと、人間じゃないと思った。ときに冷たく虚ろに陰る目、怒りと欲望に任せて僕を傷付けるその手を憎んでいた。だが僕は藤崎の涙を、心臓の音を、肌のあたたかさを知ってしまった。
 瀬川の話にどれだけ真実があったのか、今の僕には分からない。もしかしたら全てが作り話だったのかもしれない。それでもあの男が僕に見せた強烈な悪意、グロテスクに歪んで捻じれた感情と言葉を、藤崎は――このあたたかい体は、知っているに違いないと思った。
「だけど藤崎も、もうあいつと……瀬川と会わないで」
 頬から手を離した。そして僕の腕を掴んでいない方の手、藤崎の左手を取った。
「お願いだから」
 何かを言い掛けた藤崎の口は、何も言わずに閉じた。そして小さく頷く。
「藤崎、僕たちって、付き合ってるんだよね」
 戸惑ったような顔をしながら、藤崎はもう一度頷いた。
「僕は藤崎に優しくする」
「……何で」
「そうしたいから」
 そしてそうしたい理由は、僕自身がそれを必要としているからだった。
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