9.食事(二)

 安楽はベッドに体を横たえていた。細身ではあるが筋肉質の、見た目より少し重たい体を厚いマットレスが支え、真っ白なシーツが安楽の頬に触れている。マットレスの下にある木製の土台は深みのある色合いをしていて、安楽の前はその父が使用していたものだった。受け継いだ後マットレスとシーツは買い換えたが、時折父親の発していたにおいをどこからか、大抵は床の下から這い上がってくるように安楽は感じることがあった――まさに今がそうだ。臭いの粒子がたった今鼻腔に侵入したかのような生々しさで安楽の感覚を刺激していた。血塗れの死体を前にしても動揺しない精神が、今はぼんやりとした瞳の奥でゆらゆらと揺らいでいる。常のような微笑みはその顔に浮かんでいない。生前父親の前で安楽が笑顔でいたことは殆どなかったし、死後父親のことを思い出すときもそうだった。代わりにそこにあるのは、ぽっかりと表情の抜け落ちた顔、人形のような顔だ。
 暫くして電子音が部屋に響き、安楽ははっとしたように体を起こした。そろそろ夕食の時間だ。スリッパを履いて立ち上がる。ベッドが一つ置いてあるだけの小部屋を出て、短い廊下を歩き、居間に入って奥のキッチンに向かう。埃一つない清潔な居住空間には生活感も殆どなかったが、安楽はここで毎日暮らしていて、まるで展示品のように綺麗に片付いている流しも毎日使用しているものだった。安楽は鍋に火を点け、棚を開け、大きめのトレイとバスケットを取り出し、トレイの方に二人分の食器を載せて台に置いた。食器棚の隣には食料品を貯蔵している棚が続いている。そこから缶詰めを二缶、スナック菓子を一袋取り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを二本取って全てバスケットの中に入れた。
 それから安楽はミトンを取り、先程の電子音の主――電気式オーブンを開け、中からグラタンを取り出した。チーズはいい具合に薄く焦げ目が付いている。マカロニグラタンだった。それを皿に載せ、オーブン横にあるパン焼き機を開けた。グラタンの十数分前に焼けたパンは触れる程度には冷えていて、素晴らしい香りをキッチン中に放っている。安楽はパンを取って適当に切り分け、それも皿に載せた。それから鍋の火を止め、温めたスープをカップに注ぎ、パセリを少し散らした。料理はそれで全てだった。
 安楽はバスケットを左手に掛け、その手でトレイも持ってキッチンを出た。居間を通り、出口近くの背の低い棚の上から地下室の鍵を取る。廊下を出て、ベッドのある小部屋の向かいの部屋に入った。そこは物置だった。背の高い棚がいくつも並んでいる。安楽は端の小さなテーブルの上に荷物を置き、奥に進んで存在感のある大きな棚の前に立ち、棚の側面に手を置いて横に動かし始めた。棚には様々なものが収まっており、それだけでも相当の重量があったが、棚には隠しキャスターが備え付けられている為さほどの労苦もなく動かせるようになっていた。棚を移動させた後、安楽はその下に敷いていた絨毯を捲った。木材の床の中に、縦横九十センチほどの鉄板が嵌っていて、そこには暗証キー付きの取っ手が付いていた。それが地下室へと続く扉だった。安楽はコードを入力して扉を開け、それから一度トレイとバスケットを取りに戻り、そして地下室へと降り始めた。入り口付近で照明を付けてコンクリートの階段を下る。それほど長くはない階段だ。すぐに辿りついた扉を先程の鍵で開け、スリッパを脱ぎ、近くに揃えて置いている靴へと履き替えて中に入った。


 信治は漫画に向けていた顔を安楽の方へと向けた。そこには微かな喜びと期待が浮かんでいる。
「安楽さん」
「夕食を持って来ました」
 安楽が辿りつく前に、信治は周りを慌てて片付け始めた。漫画を置き、腰を下ろすためのクッションを二つ用意し、テーブルの上にあるものを下に落とす。テーブルは元々この部屋にあったものではなく少し前に安楽が購入したもので、足が折りたたみ式になった小さく背の低いものだった。
「お腹減りました。……ん、何か香ばしい匂いがする」
 安楽が近付いていくと、信治は鼻をひくひくと動かした。
「パンです」
「焼きたて?」
「ええ」
 トレイの上のものをからテーブルへと移しながら安楽は答える。信治は興味津々といった様子で並んでいく料理を眺め、ごくりと喉を鳴らした。
 信治が安楽の料理を口にするようになって五日が立つ。温かい食べものが欲しいと言い出したのは信治の方だった。ただやはり安楽の作る肉料理には抵抗があるらしい。初日、ベーコン入りのパスタを出した昼とハンバーグを出した夜の二回に信治の激しい嘔吐発作を誘った後、肉は二人の食事に姿を現していなかった。
「いただきます」
「はい、どうぞ召し上がってください」
 テーブル越しに向かい合って二人は食事を始めた。ここで死ぬまで暮らすのだと確認し合ったあの日以来、昼食と夕食は共に取っている。初めのうち信治は『食人鬼の食事』シーンを前にして食欲を減退させている様子だったが、今では安楽の手料理を旺盛に求めるまでになっていた。
「うまい! やっぱり安楽さんって料理上手いですね」
「そうですか?」
「お店で出されるやつみたいです。何か見た目もきれいだし……何リクエストしても作ってくれるし」
「レシピ通りに作るだけなので簡単ですよ」
 だからそれが難しいんです、と言いながら信治は笑った。近頃信治はよく笑顔を見せるようになった。それを見るたび安楽は微かな息苦しさを覚えたが、顔には出さなかったし、それについて深く考えることもしなかった。
「明日は何を食べますか?」
「うーん……魚系? とか……あとチョコレート食べたいです」
「分かりました」
「思ったんですけど、安楽さんっていつから料理し始めたんですか? 一人暮らし始めてから?」
「いえ、父と一緒にいた時もやっていました。十六の頃からですね」
「じゅうろく」
 信治は不思議そうな顔で繰り返した。
「お母さんのお手伝いとかですか?」
「いえ、母はずっと前に亡くなりました」
「あっ……ごめんなさい」
「いいえ、気にしないでください」
 実際安楽は誰にそのことを触れられても不快に感じなかったし、心を痛ませることもなかった。遠い昔に過ぎ去った出来事の一つに過ぎない。たった今舌の上を通って喉を下りたスープのように、安楽にとっては特に何の感情も喚起しない思い出だった。何も感じない。
 信治は気まずげにパンを齧っていたが、暫くしてまた口を開いた。
「安楽さんは……俺のことはどれくらい知ってるんですか」
「信治くんのことですか?」
「っていうか、あの日声を掛けてくるまでに、俺のこと尾行したりとかはあったんですか?」
「ええ。二週間、信治くんがすることを眺めていました」
 二週間も、と信治は目を見開いて言った。
「えっと……家の中に入って監視カメラとか仕掛けたり?」
「いえ、家の中には入っていません」
「何だ、良かった。ずっと気になってたんです。変なとこ見られてたらどうしようって」
 ほっと溜息を吐いた信治を見ながら、安楽はその二週間を思い出していた。信治を見つけた日から二週間、安楽は他の何人かの標的たちにそうしたように信治の家を突きとめ、通っている大学と職場を知り、気付かれないように尾行して行動パターンを学習した。そして声を掛けたのだ。用意していた会話――安楽は台詞を知人やフィクションの中の登場人物たちから盗んだ――をし、いつもそうするように優しく微笑んで油断させ、あらかじめ睡眠薬を仕込んでいた菓子を勧め、そして信治を捕獲した。計画的な犯行、パターン化した犯行だった。ただしそれは信治をこの地下室に運んだところまでで、その後は全てが予定外のこと、安楽が経験したことのない日々の始まりだった。
 食事を済ませると二人はテーブルの上を片付け、菓子の袋を開け、並んでDVDを見始めた。それを映すテレビは地下室に一つきりのコンセント、入り口付近にあるコンセントから伸びたコードの長い電源タップに繋がっている。電源タップには他にDVDプレイヤーとTVゲーム機が繋がっている。それらは全て信治のために安楽が買い与えたものだった。地下室には順調に物が増え続け、信治がかつて暮らしていた一人暮らしの部屋とさほど変わらない環境が整いつつあった。未だ信治の右手首に嵌った手錠と、そこから天井に伸びる重たげな鎖を除けば、ではあるが。
 信治は右手にスナック菓子の袋を持ち、左手でチップスを口に運びながら笑い声を上げている。DVDは発売されたばかりのコメディ映画だった。安楽自身はどんな映画もドラマもアニメも面白いと感じなかったし、感想を聞かれて正直に答えたために信治もそれを知っていたが、それでもこうやって共に時を過ごすことをやめようと言い出しはしなかった。だから安楽はいつも請われるまま、信治の隣に座ってじっと画面を見つめるだけの時を過ごす。
「あ」
 小さく声を上げた信治に、安楽は顔を向けた。
「どうかしましたか?」
「これ。美味しいです」
 噛み砕いたチップスを飲み込んでから信治は答えた。袋の中のチップスには数種類の味があり、信治はその中の一つを特に気に入ったらしい。
「安楽さんも食べてくださいよ。これすげーいける」
 信治は袋の中からチップスを一枚探し当てて取り出し、安楽に差し出した。安楽はそれをじっと見つめ――そして口を開けた。チップスを一口で咥内に収めるその瞬間、唇は信治の指に柔らかく触れた。安楽はチップスを十分噛み砕いて飲み込むと顔を上げた。信治は目を見開いたまま固まって、頬を真っ赤に染めている。
「信治くん?」
 声を掛けると、信治はぱちぱちと瞬きをして手を下ろした。
「……あ、えっと……そのまま食べるとは思ってなくて」
「ああ、すみません。不快でしたか」
「いや! そんなことはないです、ただびっくりしただけで」
 だから大丈夫ですと慌てて言う信治に安楽は首を傾げたが、信治がまたテレビに顔を向けて映画を見始めたため同じようにテレビに向き直った。画面の中では先程と同じように、樽のような腹をした男と針金のような体の女のカップルが互いの体を激しく罵り合い派手な身ぶり手ぶりで滑稽な修羅場を演じていた。だが笑い声は聞こえない。
 安楽は暫くして、ふと隣を見遣った。そこにあったのは心ここにあらずといった顔、ぼんやりと画面を映すだけで映画の内容に集中しているようにはとても思えない瞳だった。
 安楽はまた首を傾げた。

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