8.転機

 信治くんを殺すために。そう安楽が口にした言葉を、信治は絶望的な目をして繰り返した。ころすため、ころすため、おれをころすため。
「信治くん?」
 安楽が呼びかけると信治は我に返ったように一度だけ瞬きをし、その次の瞬間、掠れた叫び声と共に安楽の手の中から箱を奪い取った。そしてその箱を震える手で開き、中に入っていた注射器を取り上げ、箱を掴む形のまま宙に浮かんでいた安楽の手をもう一方の手で掴む。
「か、鍵を、鍵を出して下さい!」
 安楽の手首を握り締める手に力を込め、裏返った声で信治は要求した。
「何の鍵ですか?」
「……これの、これのです」
 注射器を持つ方の手に、信治は視線をやった。その視線を安楽はゆっくりと追い、手枷を捉え、戻って信治の顔を見た。
「駄目ですよ」
「だ、だめって……」
「だって信治くん――」
「安楽さん、動かないで、動いたら……動いたら、刺します」
 信治は荒い息を吐いて注射器を安楽の首もとに近付けた。危機感を抱いていない安楽にも分かるように血走った眼で睨み付ける。安楽が沈黙すると、信治は安楽の体をまさぐり始めた。薄暗い部屋では直接触れて探すしかない。初めは胸ポケット、それからスラックスの前ポケット、そして後ろに手を入れて目当ての物を見つけようとする。安楽は信治の顔を見つめながら微動だにせず、なされるがままにしていた。二分後、信治の手は一本の鍵を探り当てた。
「あった」
 ほっとした声で信治は呟き、片手で注射器を掴んだまま安楽から出来る限り離れると、デスクライトの光の下で手枷の鍵を外そうと奮闘し始めた。だが、一向に外れる気配がない。異常な発汗の中で鍵を回そうとする信治を安楽はじっと観察していたが、やがて口を開いた。
「信治くん、それはここのドアの鍵です」
「え……」
「それでは開きません。それからその注射器ですが、まだ針を装着していませんし、中も空っぽです。針と瓶は箱の中に入ったままです」
「は……? え、え……」
 信治は床に投げ捨てた箱を見遣った。開けたままの箱には確かに安楽の言う通りのものが入っている。
「信治くん、大丈夫ですか」
 鍵を持ったまま脱力した信治に、安楽は問い掛けた。見返してきた目には力がなく、自分の決死の行動が失敗に終わったことを失望と共に受け入れている様子だった。
「もう動いても構いませんか?」
 信治は頷いた。安楽は許しを得て立ち上がり、信治の元に歩み寄った。途中で箱を拾い上げ、信治の手から注射器を回収する。力は入っていない。指を引き剥がすのは容易だった。だが、離れようとしたその瞬間に強い力で手首を掴まれてしまった。
「安楽さん」
「はい。どうしましたか?」
「何でなんですか」
 暗い目が安楽に向けられていた。か細い声は薄暗い室内に亡霊のもののような冷たさで静かに響いた。
「何でこういうことをするんですか。何で俺に? どうして俺なんですか? 殺したいならどうして、何で俺が寝てるときにやってくれないんですか。何でこんなわけわかんないことして苦しめるんですか? 何で優しくしたり殺そうとしたりするんですか? やっと慣れてきたかと思ったらこんなことするのは何でなんですか? 俺を苦しめるのが目的なんですか、安楽さん、もう嫌だ、もうやだ、出して下さい、俺をここから出して下さい、じゃなきゃさっさと殺してよ……」
 震える声は啜り泣きに変わった。信治は俯き、安楽の手首を掴んでいた手を滑り落とすようにして床に付いた。コンクリートの床を涙がぽつりぽつりと濡らし始める。急激に変化する感情を前に安楽は戸惑いを覚えた。丸まった背中は無防備で、つい数分前まで見せていた攻撃性は後影もない。殺してくれ、と言う声を安楽は頭の中で繰り返した。
 信治を殺す。そのつもりで安楽は注射器を用意し、この部屋を訪れ、信治に近付いた。だがそれを果たせるとは思っていなかったし、今でもそうだった。
「信治くん」
 返事はない。
「僕たちは……困ったことになりましたね」
 信治はゆっくりと頭を上げた。涙に濡れた顔には放心したような虚脱があった。二人は暫し薄暗闇の中で見つめ合った。沈黙を破ったのは信治が噴き出す音だった。
「困ったことって! ……何なんですか、安楽さんより俺の方がよっぽど困ってるよ」
「そうなんですか?」
「そうです」
 笑い声は平時のものとは違う、不穏な響きを帯びた怪しげなものだったが、それでも笑い声には違いなかった。強いストレスに置かれ、不自由を迫られ、僅かな希望を齎され、そしてそれを奪われた人間が示す行動としては不自然ではない程度に奇妙で、それ以上の狂気を感じるには疑いが残る程度に健全さを残したものだった。
「安楽さんは、何に困ってるんですか。殺したいなら殺せばいいじゃないですか。抵抗するの疲れるし、もうしませんよ。痛くも苦しくもないなら死ぬのも別にいいです」
 安楽は信治の顔に手を伸ばした。信治は反射的に体を硬直させたが、頬に落ちた涙を拭う手の優しさに力を抜いた。
「困っているのは……僕がどうしても信治くんを殺せないでいることです」
「……どういうこと?」
「こんな風に、真夜中ここに忍び込んで来るのは初めてではないんです。ナイフを一緒に持ってきたこともありましたし、ここに信治くんを連れてきた日、喉に刃先を当てたこともありました。首を絞めることや、鈍器で殴りつけることも考えました。でもどれも直前の動作までで、実際に信治くんを傷付けるまでに至りませんでした」
 想像したのだろうか。信治は目を彷徨わせた。
「毒を盛るくらいなら出来ました。でもそれは成功しませんでしたし、実際信治くんがあれに口を付けていたとしても、本当に効果が出たかどうかは分かりません」
「……どうしてなんですか」
「インターネットの取引で入手して、本物かどうか試すことも、あの服用方法であっていたのかも確かめていませんでしたから」
 どうして。安楽の手を頬に触れさせたままの信治の顔には強い疑問と戸惑いが浮かんでいた。安楽はその疑問を、自分の内にも感じた。どうして殺せないのだろう。何度もやってきたことなのに。
「安楽さんは……」
「はい」
「今まで、どれくらい……殺してきたんですか。一人、二人……それとも、十人以上?」
「十人以上です」
 信治はひゅっと息を呑んだ。それ程驚くことだろうか、と安楽は思った。一人と十人も、十人と百人もそう変わらないだろうに。
「……その人たちと俺の、違うところは?」
 その問いを、安楽は何度か考えてみたことがあった。それまでの人間と、信治の違い。いくつかのぼんやりとした相違点はある。そして決定的に信治とそれ以外を分ける、一つの事実も。しかしそれが何だというのだろう。
 安楽は信治の頬に当てた手を、少し後ろにずらした。左耳を覆うように、そして髪を撫でるように動かす。指先は小さな窪みを一つ捉えた。耳の上、痛んだ髪の下――。
「安楽、さん」
 名前を呼ばれて安楽は我に返った。気付かぬ内に思考の海に沈んでしまっていた。直前に与えられた問いに答えるべく口を開こうとしたが、
「俺が、特別だってことですか」
 先を越したのは信治だった。特別。その言葉を安楽は小さく繰り返した。
「ああ……そうですね。信治くんは」
「どういう意味の、特別? 死んで欲しくないってだけ……ですか?」
「死んで欲しくない?」
「……そうじゃない?」
 安楽は首を振り、手を下ろした。
「いいえ、それは以前からずっと思っていました」
 指先に残った感覚を味わいながら安楽は言う。指先から脳に伝わった情報は、安楽の頭を微かに痺れさせ、ふわふわとした何かを齎した。常のように頬笑みを浮かべた顔、だがどこか遠くを見るような眼差しが信治の瞳に映る。
「だけど俺は……ここから出しては、貰えないんですよね」
「はい」
「逃げないって約束しても?」
「はい」
「じゃあ俺はずっと、ここに……死ぬまで?」
「……そうなりますね」
 そこまで想像したことはなかった。安楽の思考は遠い未来にまでは及んでいない。だが、状況から考えればそうなるのだろう。あるいは他の可能性もあるのかもしれないが、それらは殆ど安楽の手に及ばないものだった。順調に、何事も無く、淡々と日々が過ぎていくとしたら、信治はここに死ぬまで留まることになる。
 ――奇妙な事に、安楽は安堵した。あたたかな水が胸の中を流れるような感覚。
「安楽さんも?」
「……僕が、どうしたんですか?」
「安楽さんも……ずっとここにいるんですか。ある日突然俺を残して、消えたりしないですよね」
「しません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ俺達は、もっと……仲良くなれますか?」
「仲良く?」
 言葉の意味を理解出来ずに安楽は訊き返した。
「話をしたり……一緒にご飯を、普通のご飯を食べたり、一緒にテレビを見たり、とか……」
「テレビですか。今度買ってきますね」
「じゃあ、いいんですか」
「僕は構いません。信治くんはそれでいいんですか?」
「だって、俺はここから出られないんですよ。安楽さんしかいない」
「そうですね」
「うん」

 信治は笑った。安楽はそれを見て、同じように歯を見せて笑ってみせた。

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