10.告白

「もう一ヵ月ですね」
 テレビの画面を見たまま、信治が呟いた。
「一ヵ月?」
「俺がここに来たの、二月一日だったから」
 地下室の床に無造作に置かれた時計には日付も表示されている。今日は三月三日だった。
「ああ、そうですね。もう一ヵ月」
「長いような短いような、変な感じ……」
 信治は手にしていたゲームのコントローラーを置き、ごろりとラグの上に寝転んだ。ラグは毛足が長く柔らかな感触で、二人がくつろぐのにちょうどいい大きさをしていた。ラグのすぐ外には安楽の靴が揃えて置いてある。
 天井に向いていた信治の顔が隣に座る自分の方へと傾けられると、安楽は少し遅れて信治に顔を向けた。
「安楽さんは、俺のことを誰か探してると思いますか」
 その問いには探りを入れるような響きはなかった。単なる好奇心として口にされたものだろう。安楽は暫くの間黙して考え、それから答えた。
「ええ、少なくともご友人やお姉さんは信治くんを探し始めていると思います」
「俺に姉貴がいること知ってたんですか」
 驚いた顔に安楽は頷く。勿論、遥か昔に知っていたことだ。
「もしお姉さんが信治くんの部屋まで訪ねてこられたなら、警察に届けられたかもしれませんね。信治くんが失踪したのは部屋に入れば分かることですから」
「……どうするんですか」
 不安げな顔を見るのは久し振りだった。安楽は信治の目を見つめ返した。
「どうするって、何をですか?」
「警察」
「警察にですか。何もしません」
 何も、と信治は口の中でその言葉の意味を吟味するように繰り返した。
「もし……警察に届けられる前で、俺を探してる友達とか、家族が安楽さんを見つけたら、どうするんですか」
「見つかることはないと思います」
「もし万が一、見つけたら? ここに来たら……」
「来たら?」
「殺したり、とか」
「さあ、分かりません」
 この家に、安楽が拉致した人間を探している誰かが訪ねて来たことはなかった。標的には親しい家族がいない者、突然失踪してもおかしくない者を選んできた。出会い系で知り合った男の家を転々とする女の家出人、ゴミ拾いで生計を立てる無口な浮浪者、天涯孤独の身でその日暮らしをする単純労働者。彼らはニュースで取り上げられることすらなく、ひっそりとこの世から去っていった。
「安楽さんって、先のこと考えてないとこ結構ありますよね」
 信治はからかうような口調で言い、真顔に戻って一度深呼吸をした。
「安楽さん」
「はい」
「もし誰かが俺を探しに来ても、その人に危害を加えないでください」
「何故ですか?」
「なぜって」
 信治は戸惑ったような顔で沈黙し、そしてまた口を開いた。
「俺が……俺が嫌だからです。俺の姉貴とか、友達に酷いことして欲しくないから。……知らない警察官とかでも嫌だけど。誰も傷付けて欲しくない」
「なら僕は、どうすればいいんですか?」
 傍らのコントローラーを無意味にカチャカチャと弄りながら、信治は思案した。
「……俺が話する、っていうのは?」
「信治くんが?」
「そのときだけはこの手枷外してもらって、玄関まで行って、そこで『俺の意思でここにいるんだ』って言って帰ってもらえば何の問題もないと思うんです。その方が、訪ねて来たやつを殺したり俺みたいに監禁するよりはリスクが少なくないですか。だってそいつが他のやつにここに来るって言ってたらアウトだし」
「だけど信治くんは、僕が閉じ込めているからここにいるのでは?」
「それは……そうだけど、でも結構ここ気に入ってるし、もう大分慣れたから」
 信治は明るい口調で言い、笑みを浮かべてみせた。そしてすぐに不安げな感情をそこに滲ませて上体を起こした。
「安楽さんのこと騙したりしないって約束するから、ここに誰かが来ても酷いことしないでください」
 訴えるような目。安楽はその目をまっすぐに見つめ返し、頷いた。
「分かりました」
 信治はほっと溜息を吐いた。
「ありがとう」
 礼を言われる理由が分からない。安楽は常のように微笑を浮かべたまま、小首を傾げた。



 会話の後、またゲームをやり始めた信治の隣でただ画面を見るだけの小一時間を過ごし、安楽は買い出しの為に地下室を出た。地下室は元々家の中で最もあたたかな場所であり、暖房も入れていたため、一階に上がったとき薄着の安楽の腕には軽く鳥肌が立っていた。それで寒いということは分かるが、不都合を感じることはない。気温が低く、体はそれに反応しているというだけのことだ。ただそれを表に出せば――例えば薄着のまま歩きまわるなどすれば――奇異な目で見られるということは学習していたので、軽くジャケットを着、鍵と財布を持って家を出た。
 玄関を出ると見えるのは、広い庭だ。庭の大部分には小石が敷き詰められており、それを踏むとかなり大きな音が鳴るようになっている。四方を固める厚い煉瓦の壁から敷地をみっしりと囲むように生えている木々には葉が生い茂っているため、外側からは中の様子があまり窺えない。もっとも、辺鄙な場所に建てられたこの家を訪ねてくるものなど皆無に近かった。安楽の家から一番近い民家までは車で十数分かかり、妻帯者でもない安楽と、そこに住む、幼児から中学生までの子どもを数人抱える三十代半ばの夫婦との間に付き合いは殆どない。田舎は近所づきあいが密となる傾向があるが、この地域の集まりは世代交代に従って年々減少傾向にある。今では安楽がここに住んでいることを気に留める者など殆ど存在していないと言ってもいいくらいだった。前述の一家の中に、小さな子どもを持つ親の常として小児性愛者を警戒している者はいたが、人当たりがよく、犯罪者らしからぬ善良さを醸し出している安楽は警戒の対象とはならなかった。
 庭の端にある駐車場には車が二台停められている。どちらも安楽が所有し、そして使用しているもので、一方は信治を拉致するのに使った地味なシルバーのワゴンだった。安楽はもう一方、黒のセダンに乗り込んだ。運転席に腰を下ろし、ちらりと家の方を見遣る。二階建ての、ごく平凡な外観をした一軒家。その地下ではかつて殺人が起き、人肉食が行われた。そうは見えない――だが長い間そう機能していた家だった。そして今そこには、人一人が監禁されている。



 町に出ると、安楽はまず書店で信治の為の本を購入し、それから日常の細々したものをホームセンターから仕入れ、スーパーで食料品を補充し、最後にコンビニで宅配物を受け取った。
 家を出発し、用を済ませて帰宅するまで一時間半。荷物を全て抱えて家に入る。町を出る前、そして車を敷地に入れる前にセンサーと連動させている携帯電話で確認していたことだが、家と庭のあちこちに目立たないよう取り付けている自前の警報システムが侵入者を捉えた様子はなかった。地下室のドアが開閉した形跡もない。安楽は仕入れたものを手早く仕舞い、必要なものだけ持って信治の元へと戻った。
 ドアを開けて中に入ると嬉しげな笑顔を向けてくるようになった信治が、今回は顔を曇らせていることに安楽は気付いた。
「お待たせしてすみません。頼まれていた新しい本を買ってきました。DVDとゲームソフト、それからお菓子も」
「ありがとうございます」
 受け取ってそう礼を言った信治は、「いいえ」と答え背を向けて部屋を去ろうとした安楽を控えめな声で呼びとめた。
「どうしたんですか」
「えっと、あの……」
 信治は安楽と目を合わせず、何かを強く悩んでいるような顔で口籠った。安楽は暫く経ったまま言葉の続きを待ち、それから小さな声で「座ってください」と促されて、信治の前に腰を下ろした。
「さっきのことなんですけど」
「さっきのこと?」
「俺が一ヵ月ですねって言った後に、話してたこと」
 ほんの数時間前のことだ。安楽は殆ど完全に会話の内容を思い出すことが出来た。
「あのとき、安楽さんのこと騙したりしないって約束して……でも安楽さんが出て行ってから考えたんです、もしかしたら俺は安楽さんを騙してるのかもって」
 そこまで言って、信治は慌てた様子で「違うんです」と取り繕うように顔を上げた。
「そういうつもりはなくて、でも、もしかしたら結果的にそういうことになってしまっているかもしれないってことで、ああ、何か、何て言ったらいいのか自分でも分からないんですけど」
 緊張していることが明白な言葉遣い。安楽は口を挟まずに耳を傾けた。
「俺はちょっと……つまり、おかしなところがあるんです」
「おかしなところ?」
「はい」
 気まずげな肯定の後、信治は深呼吸を一つした。
「その、安楽さんは俺のこと、どれくらい知ってるんですか。ここに来るまでの俺のこと」
「漠然とした質問ですね」
「はは、確かに」
 安楽は記憶の中から信治についての事柄を容易く引き出した。
「僕が信治くんについて知っているのは、名前、年齢、通っている大学やアルバイト先、家族構成、甘いものが結構好きなこと、行動パターン、他はネットで調べられるようなことです。今挙げたものもネットで調べられますが」
「ネットで?」
「ご友人がブログを本名で書かれていましたから。そこには信治くんの名前も、顔が写った画像も載っていました。そこから色々と辿って――」
「ああ、そうだった。ネットに個人情報上げるの怖いって本当だったんですね」
「そうですね」
「じゃあ、やっぱり知らないかも。ブログとかには載ってないし」
 信治は足を抱え、膝の上に顎を載せた。
「公園で安楽さんに会った日、あのとき、俺、彼女が一年いないって言ったじゃないですか」
「はい。聞きました」
「そう、だけど、俺――」
 信治は鼻孔から大きく息を吸い込んだ。
「もしかしたらずっと前から、女の子より男の方が好きかもしれないんです。多分、ホモってやつなのかも……すみません、騙してて」
 忙しなく手足の先を動かしている信治を見ながら安楽は言葉の意味を考え、そして疑問を抱いた。
「どうしてそれが、信治くんが僕を騙していたということになるんですか?」
「だって彼女がいたって話したら、普通そういう傾向があるって思わないじゃないですか。ここに来てからも、自分が男をそういう目で見るやつだって思われないようにしてきたし」
 今にも泣きだしそうな顔。信治がそんな顔をする意味を、安楽にはよく理解出来なかった。ゲイ、あるいはバイセクシャルと申告していなかったこと。それがそこに繋がる意味が。
「仮に信治くんが自分自身を異性愛者であると偽っていたとして、そこに何か問題があるんですか」
「……気持ち悪くないですか。こんなに近くにいて、襲われないかとか。勿論、俺にはそういうことするつもりなんて本当に、ほんとに全然ないけど、でもそういう可能性が万に一つはあるかもしれないのに黙ってたんですよ」
「いえ。気持ち悪いとは思いません」
「少しも?」
「はい。何も感じません」
 何も、と信治は呆けたような顔で繰り返した。
 言葉通り、安楽は何も感じなかった。人の性的指向について聞かされたとき、安楽がその人物に対して快・不快いずれかに傾いた感情を抱いたことは今だかつてなかった。それどころか、安楽は自身 のものについて深く考えたことすらなかった。信治がどれだけ深い悩みを抱え、自分自身ですら肯定的に受け入れることが出来ない秘密を今ここで打ち明けたの だといっても、安楽は拒絶感や共感を覚えることはなかったし、特段感想を抱くこともなかった。
 信治は瞬きをし、細く息を吐き出した。
「もし俺が……安楽さんを好きになるかもしれないって言っても、何も感じないんですか」
「はい。何も」
「……安楽さんは前に、そう、公園で、彼女さんたちを好きになったことはないって言ってました。あれは本当ですか」
「そうですね。僕は女性に対して愛情を感じたことはありません」
「でも、男が好きなわけじゃないんですよね」
「はい」
「安楽さんは……」
 信治は明らかに戸惑っていた。一度言葉を切り、無意識のように唇を潤してから口を開いた。
「誰かを好きになったことって、あるんですか?」

←前の話へ 次の話へ→ topページに戻る