7.解体

 逆さに吊られた男の首から、血が滴り落ちている。足首に嵌められた枷から続く鎖は微動だにせず、その男が絶命していることは下半身を見ただけでも明らかだった。切断された頸動脈から溢れた血飛沫は遠くの方から順に乾き始めている。傷口のまわりの鮮血が変色するのも時間の問題だろう。窓のない地下室、空調で払えない程に充満した濃い鉄臭さを、死体を至近距離で観察する安楽は気に留める様子すら見せない。人は悪臭に対し本能的に嫌悪感を抱くものだが、安楽はそれが殆ど麻痺している。酷い夏風邪に倒れた時のこと、一週間、それも空調が故障した真夏に死体を放置したことがあった。そのときは乾いた血が腐り、死体からは虫が湧き、地獄のような様相を呈して、常人なら気を失うような状態にまで陥った。しかしそれでも安楽は淡々と、多少虫の動きに悩まされながらも作業をこなすことが出来た。
 血抜きはほぼ完了している。安楽は味わって食べることは無かったが、習慣として血抜きを欠かしたことはなかった。血抜きを怠ると肉が不味くなるのだ。適切な処理は肉の味を劇的に変える。
 安楽は一人頷き、死体から離れてテーブルに向かった。テーブルには大小様々な道具があり、手前には十数本のナイフを広げて置いていた。用途にあったものの中でも特に切れ味のいいものを取り上げる。今朝砥石にかけた数本の内でもっとも上手くいった一本だった。曇りのない澄んだ刃に安楽の顔が映る。整った傷のない色白の顔。そこに高揚は見られない。微笑んでいるような形で固まってしまった表情筋はぴくりとも動かず、実際には一切の感情を含んでいなかった。
 使い捨てのラテックス手袋をはめ、一本のナイフ、それに棚から取り出したバケツを手にして、安楽は死体の元に戻った。持ち主が息耐えても僅かずつ伸びている血に濡れた髪は重力に従い、頭頂部分は床と接している。作業にちょうどいい高さだった。
 まず初めに、腰のあたりで両手を縛っていたロープを切り落とし、バケツに入れ、それから皮を剥ぎ始めた。吊るす前の段階で服を脱がしていたため裸の状態にある死体に切れ目を入れ、皮と肉の間に手を差し込み、ずるずると脱がすように皮を剥がしていく。皮といっても全身となると大きめのバケツを十分に満たし、それもかなりの重量になった。
 バケツを脇に置き、血と脂に塗れた皮剥ぎ用のナイフを持って、安楽はテーブルに戻った。役目を終えたナイフを置き、替わりに小振りのナイフを手に取り、新しいバケツを持って、人の形をした赤黒い塊へと姿を変えた死体の方へ向かう。
 死体の真正面に立つと、安楽は慎重にナイフを腹に押し当て、浅く肉を切った。中の臓器を覆う網目状の膜が見えた。切り裂いて半透明のそれを左右に押し広げ、片手で内臓を抑えながら、もう片方の手で内容物が肉を汚染しないように腸の端を縛り、それから臓器を取り出す作業に移った。ずるずると引き摺りだす手つきに迷いは無く、数をこなしてきたことを思わせる熟練の気配があった。臓器は床に落とさずバケツに受ける。バケツがいっぱいになってしまうと、安楽は死体の虚ろな腹を撫でて嘆息した。
 ゴムの長靴と青緑の手袋を濃い赤がじっとりと濡らし、細身の体は服の下で汗に塗れている。安楽はあまり発汗しない方ではあるが、人一人を解体する作業は楽ではない。体力を消耗する仕事だった。ここまで男を運ぶのには台車で行ったといっても、それ以外はほぼ自力でこなさなければならなかった。安楽が初めて自分の手で罪を犯したとき、あまりの疲労から何も喉を通らなかった。あれから長い時が経ち、服の上からでは窺えないが、今では作業に必要な分の筋肉とスタミナ、そして十分な経験を身につけている。
 安楽は小休憩の後、内臓の処理に取りかかった。痛みやすい臓器は早めに冷蔵の方へ回さなければならない。流し場で軽く洗いながら各部位ごとに分けてビニール袋に入れ、バケツには腸と処分するものだけを残した。腸はナイフで切り開き、内容物をバケツの中に戻し、食用に適さない部分を取り除いて綺麗に洗浄した。それもビニール袋に入れ、他の部位と共に氷を詰めたクーラーボックスの中へと仕舞い込んだ。
 新しいナイフとバケツを持ち、皮と臓器を失った死体の方に戻る。解体作業は大詰めだ。肉を骨から引き剥がし、それから小分けにする。安楽は時折死体の高さを調節しながら、少しずつ小さな肉の塊に変えていく。ナイフを何度か変え、バケツを肉で埋めて床に骨を散らせて三十分ほど経った頃、安楽は一作業を終えた。また一息つき、それから肉を洗浄してビニール袋に入れ、もう一つのクーラーボックスに全て移動させた。
 本格的な調理と食事を除けば、あとは不要なものの廃棄と、部屋の掃除だけが残った仕事だった。この二つは犯罪の痕跡をどの程度残してもよいかという問いに答えるものだ。ここから判断すれば、安楽には楽天家といってもいい不用心さがあった。洗浄も廃棄も初めに決めた基準を満たすように手を抜かず行うが、それは罪の発覚を恐れる者のものではなく、衛生面を考えてもの、そして最低限の体裁を整えただけのものだった。科学捜査が行われれば何の意味もなさないであろう処理である。
 だが安楽は楽天家ではなかった。ただ、自身の運命について抱くものが空虚であるというだけだった。

 清潔さと無機質さを取り戻した部屋に、安楽は佇んでいた。汚した服を着替え軽く体も洗ったため、さっぱりとした姿だった。空調をフル稼働させていたおかげか、部屋に充満していた洗浄剤の強い臭いも薄れつつある。ほんの数時間前まで血の海だった床に触れる靴は室内用にしたもので、それは信治がここで暮らしていたときに衛生的な問題を考えて買ったものだった。外履きの靴では信治の居住空間を汚染する可能性があったからだった。スリッパや裸足のままでも良かったのだが、初めのうち靴で過ごしていたせいか、そうすればいいと思いつくのは大分経ってからだった。
 今では何も気にかけることはない。信治がここで過ごすことは二度とないということを、安楽は承知していた。後悔はなかった。罪悪感もなかった。ただこの部屋と同じように、虚ろな心だけがあった。
 その心のかわりに、テーブルの上のクーラーボックスはこの先長いあいだ安楽の胃を満たすことになる肉塊が、いっぱいに詰まっている。安楽はふと、一つの疑問を抱いた――信治くんはどこに行ってしまったんだろう。彼と一緒に食べるのなら料理の腕を振う甲斐もあっただろうに。そこまで考えたところで、疑問はすぐに解けてしまった。そして信治があのクーラーボックスの中の物を食べる事など有り得ない、ということにも安楽は気付いた。

 信治はもういない。安楽は一人だった。自分がどうしてそうなってしまったのか、安楽は数日前までの出来事をぼんやりと思い起こし始めた。

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