6.暗闇の中で

 監禁生活が三週間を過ぎた頃、信治は自由のない小規模な暮らしに適応し始めていた。部屋には随分物が増え、今では日付表示が付いた電波時計、電池式のデスクライト、毛布、歯ブラシセット、電池式の髭そり、顔を洗う洗面器と使用済みの水を流すためのバケツ、ゴミ箱、暇つぶしの本が数冊、タオル、ティッシュ、二リットルのミネラルウォーターが数本、菓子類、缶詰、缶切りが信治のまわりにある。男は信治が望めば大抵の物を与えた。携帯電話や通信機器の類い、手枷の鍵、ライター、筆記用具などはさすがに却下されたが、他のものなら嫌な顔ひとつせずに了承した。たまに思い出したように毒入りの水(聞けば、ネットで入手した錠剤を粉々に砕いて溶かしたものらしい)を差し出してくるが、信治が手をつけずに返しても怒ることはない。「そうですか。駄目なんですね」と言うくらいだった。
 日に日に男への警戒心は薄くなっていった。平和的で、親切で、やたらと正直な男には攻撃性というものが見当たらない。本当に殺人鬼なのか、人を食べるなど恐ろしい真似をした事があるのかと疑いを抱くほどだった。しかし男の話ではこの部屋を人の解体に使ったことがあるという。初めて会った日の手慣れた感じを思い出せば、確かに初めて人を捕まえたようには思えない。それでも、極限まで張り詰めていた緊張の糸は一度切れるとなかなか元には戻らなかった。

「お兄さんの名前って、何て言うんですか」
 恒例となった早朝のゴミの回収に現れた男に、信治は尋ねた。元来信治は話し好きだ。外界と隔絶された状態で、いつまでも一人の世界に籠っていると気が狂ってしまいそうだった。男が差し迫った脅威でなくなった今、最小限の接触だけでは満足できなくなっていた。食人鬼とはいえ男はこの部屋で唯一コミュニケーションを取ることの出来る相手なのだ。
「……僕の名前、ですか?」
 想定外の質問だったらしく、男は少し驚いたように訊き返した。信治は失敗した、と思った。駄目だったらいいんです忘れてください、と慌てて付け加える。どこからが越えてはいけないラインなのかまだ上手く判断が出来ない。
 男はゴミ箱に新しい袋を取りつけながら答えた。
「そういえば名乗っていませんでしたね。申し遅れました、僕は安楽優人といいます」
「アンラクユウト、さん」
 信治はほっとしながら繰り返した。
「……下はどんな字を書くんですか?」
「『優しい』に『ひと』と書いてユウトです」
 名は体を表す、という言葉を信治は思い出した。男は――安楽は使用済みのゴミ袋を持って立ち上がった。その中には、信治が簡易トイレから引き出し縛っておいた黒いゴミ袋と、菓子類の包装がみっしりと詰まっている。
「今日も体を洗いますか?」
「あっ、はい」
「昼ごろにまた来ますね」
「はい」
 背中を見送り一人になると、信治は毛布の上にだらしなく寝転がった。新品の状態で渡された毛布には自らの体臭が染みつき始めていて、触れていると心が落ち着くようになっていた。
 電波時計の表示を信じれば、監禁された日から数えて三週間と二日目だ。警察は動いているのだろうか、と信治は思う。大学は二週間ほど前から長期休みに入っているし、一人暮らしの家の家賃は口座引き落とし、近所づきあいは少なく(右隣の女性は同年代だったが信治と活動時間が逆で、左隣は人嫌いで挨拶すら返さない中年男性だった)、実家とはまめに連絡を取っていない。入学当初に始めた派遣の仕事をやめ、次に決めたバイト先の飲食店はここに来る一週間前に入ったばかり、研修期間内の音信不通は日常茶飯事であろうことは容易に想像できた。アパートからは二駅離れている。わざわざ店長が直接出向いて呼び出しにくることはないだろう。
 友人は、少ない方ではなかった。初対面の人間にも愛想よく出来たし、その場の雰囲気に合わせることは苦ではなかったから、大学に入って両手で数えられないくらいの人数とアドレスを交換したし、飲み会に誘われれば断ることは滅多にないので呼ばれることは多かった。だが、休み中に連絡が取れなくなったことを真剣に心配してくれるほど親しかったと自信をもって挙げられる人物は――一人もいない。
 もしかすると、まだ誰も失踪に気付いていないのかもしれない、と信治は半分考え始めていた。警察どころか、誰ひとりとして信治の置かれている状態を把握していないのかもしれない。有り得る話だ。
 たとえ警察が既に動いていたとしても、その様子はまったく窺えなかった。

 正午、安楽は計ったようにして現れた。ハンドタオルを五枚、バスタオルを二枚、着替えを一式、見慣れた青のバケツを携えている。湯を沸かしてバケツに入れ、全て抱えて信治の前に並べた。
「今日もお手伝いはしない方がいいですか?」
「はい、大丈夫です。自分でやります」
 お手伝い、というのは安楽自ら信治の体を清めるという意味だった。毎回断っているが、安楽は毎回訊ねてきた。
「分かりました。では、何か調達しておくものはありますか?」
「……えっと、じゃあ本を、今あるの読み終わったんで、お願いしてもいいですか?」
「分かりました。先日と同じように適当に用意してもいいですか?」
「はい。大丈夫です」
「では六時頃にまた来ます」
「はい」
 一人に戻ると信治は作業を始めた。片手を重たい鎖に繋がれた状態で体を拭き、髪を洗うのにも随分慣れた。湯が冷めないうちに済ませてしまう。湯船に浸かることができないのは残念だったが、無駄な抵抗をやめ、安楽が襲ってくるのではないかと常に怯えて過ごすことがなくなった今、汗をかくようなことは少ないし、この監禁部屋の空気は乾き気味だった。元々シャワーばかりの生活だったせいか、この程度の不便は我慢出来ない程ではない。
 作業が終わると信治は下着と部屋着の下を身につけ、上半身にはフリースを纏った。片手の部分が通らないため上着は諦めていた。安楽に相談したところ、部屋自体を暖めるという方法で問題は解決した。今では見た目を考慮しなければ裸でもいられそうな程あたたかい。

 使い終わったバケツとタオル、汚れた服を遠くへ押しやると、信治は食事を始めた。種類が豊富な缶詰の中から適当に二つ選び、開封する。鯖の味噌煮込みは単品で食べるには辛く、急に白米が欲しくなった。味を舌の上に残したまま、成分としては一番米に近そうな炭水化物の塊である乾パンを口の中に入れる。想像よりかなり微妙な味だったが耐えられないほどではなかった。
 そろそろ温かい料理が食べたい。信治は缶詰の中身を消費しながら思う。揚げたての唐揚げに、湯気の立つ白米。野菜が溶けた熱いスープ。そういうものが無性に恋しかった。頼めば用意してもらえることは経験から間違いない。安心したところで毒を盛られて死ぬ想像は何度もしたが、そろそろ限界が来そうだった。
 結局午後六時に安楽が戻るまで、信治は温かい食事を頼むか頼まないかという生死のかかった選択に悩み続けていた。
「食料品と、頼まれていた本です」
 安楽は信治の前に大量の缶詰と袋菓子、ミネラルウォーター、三冊の本を置いた。
「ありがとうございます」
 信治は浅く頭を下げて受け取った。不便を強いているのは安楽だが、何となくそうしてしまう。安楽はいいえ、と相変わらずの頬笑みを浮かべたまま答えた。
 安楽は信治が脇に避けていたものを持って部屋を出て行った。

 午後九時、信治は目を閉じて毛布にくるまり、菓子をつまみながら考え事に耽っていた。最初に頭に浮かんだのは、殆ど日課のようになった脱出に至るまでの計画だった――まず安楽の手が塞がっている状態のとき、その頭を中身の入った缶で叩いて(ここで信治はいつも痛みを堪えるように目を顰めた)、気絶させる。その間に手枷の鍵を探す。見つからなかったら服で手首より上をぎゅっと締めたあと、缶詰の蓋の鋭利な部分で手先の肉を削ぐ。何日か前にその工程を試したことがあったが僅かに血を滲ませるだけで断念してしまった。現実的ではないが、いざとなれば出来るかもしれないという可能性だけは残してあった。手枷が外れれば後は急いで部屋を出て、助けを呼ぶか走って逃げ出し、監禁生活に終止符を打つ。ただしこの一連の計画は単なる想像であって、具体的に行動に移す気はなかったし、移せる気もなかった。
 次に頭に浮かんだのは、安楽とのこれから先の付き合い方だった。警察が奇跡的にこの場所を見つけるまでこのまま奇妙な距離感を保ちつつ何も起こらないことを祈るか、積極的に話しかけ、誰にも話さず内緒にすると信じてもらえる程度に仲良くなり、出してくれと頼んでみるか。信治の心は後者に傾き始めていたが、実際に仲良くなれる可能性があるのか自信はなかった。安楽は優しげで親切そうに見えるものの、正常な感情の持ち主ではないことは間違いない。何しろ信治を殺して食べようと言っている男なのだ。会話が増えても仲良くなることは難しいかもしれない。
 その次に考え始めたのは、偶然の事故の可能性だった。唯一接触を持つことの出来る安楽が、ふいの事故で身動きが取れなくなってしまったら。信治はぞっとした。残された信治が辿るのは飢えで死ぬ可能性が一番高い。餓死。字面からして恐ろしかった。食料を出来るだけ溜めておけるように頼んでみよう、という結論に達して何とか不安を抑えた。
 最後に信治の頭に浮かんだのは、差し迫った肉体的欲求の対処方法だった。治まるのを待つか、それともさっと処理してしまうか。体が重い。照明はまだ明るく部屋全体を照らし出している。
「はぁ……」
 どんな状態でも、溜まるものは溜まるものなのだということを、信治はこの部屋に閉じ込められてから知った。性欲は強い方ではないが、それなりにはある。この三週間、いつまでという期限もなしに我慢し続けることは出来ず、居心地の悪い思いをしながら三回ほど自慰をした。午後十時の消灯後(点けっぱなしだとおかしくなりそうだったので、安楽に頼んで毎晩電気を消してもらうことにしていた)、闇の中で息をひそめて、した。
 時計を見ると消灯二十分前だった。それくらいなら我慢できる。それほど強い衝動ではなかった。信治は気を逸らすために本を開いた。

 二十分後、安楽は照明を落としていった。だが信治は当初の予定を変えて、デスクライトの光の中、本に夢中になっていた。安楽が用意したのは今月新刊として出たばかりのライトノベルで、読書の習慣のない信治にも読み易く、それでいてなかなか序盤の引き込み方が巧みだった。挿絵もなかなか可愛らしく、ちょっとした肉体的な問題を忘れてしまう程のめり込んで読み進めた。
 読み終える頃には午前二時を過ぎていた。本は面白かったが気になるところで終わっていて、手元にはない二巻を読みたくてたまらなかった。
 安楽から今日渡された残りの二冊は、全くタイプの違う小説とノンフィクションもので、前回までの本もジャンルはバラバラだった。それを考えると、話題の本の中から適当に選んで買ったものなのかもしれない。本はどれも開いた形跡がなかった。共通点と言えば――「俺でも読めそうな、軽い本を」と頼んだ信治の言葉を安楽なりに解釈したのか――どれも薄い、というところだけだった。
 信治はライトを消し、目を閉じた。なおざりにしていた下半身にそろりと手を伸ばす。下着ごと軽くズボンを下ろして性器を露出させ、自由な左手で全体を掴んで、ゆるゆると動かすとすぐに反応し始めた。最後に見たアダルトビデオの映像を出来る限り鮮明に思い出し、興奮を高める。
 細い体に男を受け入れて快楽に歪む整った顔、薄いモザイクの下の結合部、掠れた控えめな喘ぎ声、セックスの為だけに用意されたベッドの上に、ぐちゃぐちゃと濡れた卑猥な音が響く。男優の姿はあまり映っていない、犯す視点で視聴者が見ることが出来るように編集されていた。信治は汗ばんだ白い肌を撫でる手に、狭く濡れた穴を犯す欲望に、きれいな顔を見下ろす男に、自分を重ねた。指で作った輪で性器を擦り、深く自らを投影していく。犯している、きつく締め付ける中を擦り上げ、何度も何度も奥を突いて犯している。
 想像の中のセックスに夢中になる内に、信治の手の動きは速まり、呼吸が乱れていく。見下ろした顔は汗ばんでいる、栗色の前髪が額に張り付いて、長い睫毛が震えていた。安心させるように頬に手を当てると、きつく閉じた瞼がふいに開き、濡れた瞳が信治を捉えた。どこか靄のかかった曖昧な記憶の中で、その顔の輪郭がくっきりと映し出される。見覚えのある瞳、そしてそこに浮かんだ頬笑みは、
「――信治くん」
 はっと目を開いた。
「え、え……な、なに」
「信治くん」
 暗闇の中に、ぼんやりと人の姿が見えた。その顔は立った今想像の中で犯していた人物のものだった。いや、違う。ビデオの中で喘いでいたのは似てはいるが別人だった。途中ですり替えてしまった。よりにもよって、安楽の顔に。
 慌てて体を起こし、先走りに濡れた手をズボンの内側で拭く。
「あ、あ、安楽さん、何で、何で……」
 動揺が直で現れた声に、信治は内心自分を罵った。安楽はライトを点けて、信治の顔をじっと見た。
「呼吸が荒いですが、大丈夫ですか? 汗もかいていますね」
 安楽の手のひらが、信治の額に当てられた。思わず身を引いて、その手から離れる。
「いや、何でもないんで、本当に、全然大丈夫です」
 暗闇の中で息を荒げ汗をかきながらやることと言えば、想像はつくのではないか。同じ男ならば尚更だ。
 毛布にくるまってはいたが、臭いがしないか気になった。まだ収まらない勃起が憎かった。
「信治くん」
「あの、安楽さんは何でここに」
 気まずさに話の矛先を相手に向ける。
「ああ、僕は……」
 安楽は目を落とした。その視線を追うと、額に触れた方とは逆の手に、小さな箱が握られていた。
「……それ、な、何ですか」
 聞いてはいけないと本能が告げていたが、問わずにはいられなかった。安楽は信治の目をぼんやりとした目で見る。
「注射器です」
 ちゅうしゃき。信治は口の中で繰り返した。一気に下半身の熱が引き、背筋が冷えた。
「何の為に、そんなものを……」
 安楽は信治の目を見つめたまま、口を開いた。
 
「信治くんを殺すために持って来ました」

←前の話へ 次の話へ→ topページに戻る