3.奇妙な殺意

 信治は床に置かれたコップをじっと見つめていた。膝を抱え、整髪料を付けた黒い髪を乱したまま。中の水は殆ど透明に見える。微かに白く濁りがあるが、時間の経過と共に沈澱していった。
 男が部屋を出て、数時間は経過している。男は信治がパニックに陥ったあと暫く考え込んでいたが、やがてあっさりと立ち去って行った。致死性の毒が注入されたコップ一杯の水を残して。信治は今、その水を見つめていた。
 男の言葉が本当ならば、これは恐ろしいものだ。毒の効果は時間と共に薄れていくのだろうか?それとも増すのだろうか?少しずつ蒸発して空気に混ざった水は有害だろうか? 排水溝の方へ投げてしまおうか? 男がまた現れたら、顔に引っ掛けてやろうか? ――思考は止めどなく動いている。だが、コップには一度も触れていない。触れれば動揺のあまり溢してしまいそうだった。もし男が自分を生きたまま解体しようとしたときは、これを飲もうと思っていた。死ぬよりも辛い目に遭うよりは、諦めて死んだ方がいい。実際に口に出来るかどうかは分からなかった。決意はなく、ただ可能性を残しているだけに過ぎなかった。
「死にたくない……」
 ぽつりと信治の口から漏れた声は、小さく掠れて、弱弱しかった。死にたくない、死にたくはないが、どうすればいいのか分からない。武器はなく、役に立ちそうな道具もなく、出口は一つきり。ここがどこかも分からなかった。信治は『どこか狭い暗がりに寝かせられた』ところで完全に記憶を失っていた。そこで意識を失ったのだろう。状況を繋ぎ合わせると、車で監禁場所まで連れ去られたのは間違いないように思えた。どれくらい車にいたのかは思い出せない。眠らされていたため大体の移動距離も分からない。目安として使えそうなのは、空腹感と尿意だった。胃の空きにはかなり余裕があり、尿意は我慢できないほどではないが気のせいだとは誤魔化せないレベルに達していた。日付は変わっていないはずだ、と信治はかなりの程度の確信を持って考えた。だとすれば移動したのは県内だろう。この数時間の間、思い切って何度か叫んで助けを呼び、床や壁を叩いて大きな音を立ててみたが、何の応答も得られなかった。アパートやマンションの一室ならば近隣の部屋にも聞こえただろう。もっとも、こんな異様な部屋がある集合住宅は日本にそうあるとは思えない。何にしろ、信治が今閉じ込められているのは、外界と隔絶された場所であることは間違いなかった。
 体重をかけて激しく揺らしても、鎖は外れなかった。体力の大半を費やして鎖を上り、鎖が巻きついている器具を弄り(限界まで伸ばすと、信治の移動可能範囲は半径十五cmほど広がった)、棒や鎖の付け根の部分を叩いてみても、ただ信治の手が痛んだだけだった。
 抱えた膝の上に顎を載せて、信治は次第に自分の思考が一つの方向に向かっていくのを感じていた。袋小路にじりじりと追い詰められたネズミのように、残った手段は一つしかないという思いに支配されていた。
 ――反撃しなければ。
 コップを信治に差し出したとき、男は驚くほど無防備だった。ナイフや、警棒や、その他武器を持っていたようには見えなかった。本気で飛びかかれば、簡単に捕まえられそうだった。
 もし、相手の自由を奪う事が出来たなら。信治は恐怖を抑えながらゆっくりと考えていく。近付いてきた男を抑え込んで、自由を奪えたなら、その後は? 手枷の鍵だ。それを男の体から探りだし、抑えつけたまま外すことは出来るだろうか。出来るかもしれない。出来るかもしれないが、もし鍵が別の場所にあった場合、悲惨な結末が待っている。
 半殺しにして、助けを呼んでほしいなら鍵を開けろと言えばいいのかもしれない。服を使って、鎖を利用してあるいは素手で窒息寸前にまで追いやる、殴りつける、目を攻撃する。こちらを攻撃するだけの余力を残さないほど痛めつけてから、自由を要求する。もし男が拒否しても、男の体から役に立ちそうなものが見つかるかもしれない。見つからなかったとしても、助けが来るまでの時間を稼ぐことが出来る。
 そこまで考えた所で、また微かな物音が信治の耳を掠めた。ハッとして顔を上げる。数秒後、遥か遠くのドアが開いた。
「やはり飲んでいませんね」
 男はまたトレイを片手に現れた。今度はコップの他に小さなバスケットが載っている。信治は全身の筋肉が緊張するのを感じた。近付いてきたら間合いを見極め、素早く動かなければならない。
 男はテーブルにトレイを置き、そのまま手ぶらで信治の元へと向かった。そして落ち着いた足取りで信治の間合いに入り、コップを拾うと、またテーブルの方へと戻った。信治は自分がチャンスを一つふいにしたことにショックを受けたが、男は拾ったコップを流しへと置き、テーブルの上のトレイを持つとまた信治の側へと近寄ってきた。心臓が激しく脈打っている――信治は瞬きをやめてチャンスを窺った。
「食事を持ってきました。サンドイッチはお好きですか?」
 男が屈みこみ、トレイを床に置こうとしたそのとき信治は動いた。素早く起き上がって、繋がれていない方の手で男の腕を勢いよく掴み、そして――
 そして何もしなかった。男は自分の腕を掴んでいる手に目を落とし、それからその手の持ち主の顔へと視線を動かした。
「どうしました?」
 信治は自分が何をしているのか分からなかった。硬直している、計画したはずの行動を起こせない。男は信治の手を振りほどこうとはしなかった。強く力を込められているというのに、自分が今危機的な状況に置かれているという自覚がないようだった。
「信治くん?」
 殆ど真っ白になった頭で信治は自分に言い聞かせた、今すぐにやれ、今すぐこいつを殴れ、押し倒して首を絞めろ!
 だが、体は動かなかった。
「……あ……、あの、お兄さん」
「はい」
「……、トイレに」
「トイレ?」
「トイレに行きたいんです。連れてってもらえませんか……絶対に逃げたりしないので」
 無意識に口走った要求は、数十分前から抑え込んでいた生理的欲求だった。心臓は恐ろしい早さで動いている。もはや計画も何もなかった。
「そうですね。すみません、考えていませんでした。もう限界ですか?」
 少し考えた様子を見せたあと、男は尋ねた。
「え、いや、も、もう少しなら我慢出来ます」
「分かりました。少し待っていてください。すぐに戻ります」
 男はちらりと手元を見た。信治が男の腕を掴んだとき、コップはトレイの中で倒れてしまった。男はバスケットだけ取り上げて床に置き、トレイを持って立ち上がった。
「よかったら召し上がってください」
 親切そうな声でそう言い、にこりと笑んで男は部屋を出て行った。
 部屋が施錠される微かな音が聞こえ、信治は脱力して蹲った。失敗した。そしてある重要な事実に気付かされてしまった――自分はあの男を殴ることすらできない。考えてみれば、半殺しにするまで拳を振ることが可能であると一瞬でも思ったこと自体が浅はかだった。十九年間の人生、これまでに取った暴力的な行動と言えば、通っていた保育園で最も幅をきかせていた問題児に殴りかかられ、恐怖で泣きながら顔を引っ掻いたことぐらいである。
 男が、分かりやすい暴力を振るってくる、あるいは恐ろしい武器を見せつけて嗜虐心を露わにするタイプの人間だったなら話は違ったかもしれない。せめて血の気の通ってなさそうな顔だったら。男はあまりに無害そうに見えた。整った優しげな顔立ちに穏やかな空気を纏った男。言葉づかいは丁寧で、親切そうだった。不気味に感じる部分もあるが、もし彼が自分を助けに来た警官たちに撃ち殺されでもしたら罪悪感すら抱いてしまいそうだ、と信治は思う。
 本当に彼は、人を攫い、殺してその肉を食べようとする悪魔のような人間なのだろうか?これまで思いつきもしなかったが、共犯者が、それも全ての行動を指示している本物の悪党がいるのかもしれない。信治はそう考え始めた。

 信治の曖昧な感覚で一時間か二時間ほど経った頃、男は荷物を抱えて戻ってきた。
「外で組み立ててきました。中の替えは横に置いておきます」
 男は腕に抱えた、ほぼ正方形の物体を信治の側に置いた。プラスチック製の簡易ポータブルトイレだった。上部に便座らしきものがあり、中にはビニールと水の代わりの凝固剤が入っている。
 トイレに連れて行ってくれと頼んで、こんなものが用意されると想像もしていなかった信治は絶句した。
「食べなかったんですね」
 男は信治の前に置かれたバスケットを見て言った。中には男が言った通りサンドイッチが入っている。空腹だったが、手をつけるほど警戒心は薄れていなかった。
「……毒が、入ってるかもしれないと思って」
「ええ、ツナと卵に入れました」
 あっさりと男は認め、バスケットを取り上げた。信治は困惑した。男の殺意はあまりに奇妙な形を取っている。怒りや憎しみは見えない。興奮している様子はない。何かの中毒者だと思わせるようなものもない。犯罪性の高さに自覚がなく、状況の異常性にも気付いていないようだった。
「もう遅いので、食事は明日にしましょう。おやすみなさい」
 そう言って去っていく男の背中を、そして男が出て行ったあとのドアを見つめながら、信治は自分がおかしな悪夢を見ているような気がしてならなかった。

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